月の歯車

Minoru.S

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一.万年筆と雪

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 一.万年筆と雪

 万年筆のペン先に黒く凝り固まったインクの色は、意外なことに赤かった。水のなかをたゆたう陽炎のように緋色のインクの糸が踊る。
 パソコンサイトに掲載されていた万年筆の手入れ方法に、コップに水を張りそのなかにひと晩浸す、というものがあった。もう一月も前から見つけてはいたが、気乗りせず、ずっと放置をしていたというのに、その日、抽斗を開けた瞬間、軽々しく転がり出てきた黒い万年筆を見て、囚われたように秋夜しゅうやは試してみる気になったのだ。
 昭和四十年代に建てられた家屋の台所は寒く狭く小さい。平均的日本人男性の身長である秋夜が料理をしようものなら腰が痛くなる代物だった。どんなにひっそりと歩いてもぎしぎしと抗議してやまない床も、曇った空のような色をしたステンレスの流し台も、趣味の悪い花柄模様の黄ばんだクリーム色の戸棚も、早くリフォームでもして綺麗にしてしまえばいいのにと思っていたが、いまは執着に近い感情が湧いていて、簡単に新しいものに替えられない気がしていた。
 磨りガラスの小さな窓から不意に日射しが侵入する。埃さえきらきらと輝かせる光が、万年筆から吐きだされる色を美しく見せないわけがなかった。秋夜はコップを目線まで上げ、そのさまを味わうように見つめた。ペン先に滞る深緋は水を黄丹に染めあげる。
「禁色」
 ふっと唇に笑みが浮かぶ。それは下賤には使用を禁じた色だった。奇しくもその二色が目の前で絡み合い、妖しくも融け合っていく。だが奇跡は一瞬でしかない。
 万年筆で神経質にコップの中の水をかき混ぜた。水はみるみるうちに赤みを増し、つまらないものになっていく。いらだちにまかせ、乱暴に水を投げ捨てた。朱色の飛沫がシンクに散る。
 もともと父の遺品と思われる万年筆を手入れするつもりはさらさらなかったのだ。投げ捨ててしまえばいいとさえ思っていた。だが、母が後生大事に持っていたものだから、どうにも処分することもできず困り果てていたのだ。なにげなく万年筆のキャップを取ったのもいけなかった。手入れのされていなかったペン先には、インクがこびりついて変色し、錆びついているようにも見えた。金色のペン先の精密な紋様と刻印に広がるしみのような汚れは、神経質な秋夜にとって我慢のならないものだった。
 静寂は憤りをこの家の隅々まで行き渡らせる気がした。だが、不意にそれは破られる。
 カラカラカラと玄関の引き戸が開く音がする。その軽快な音はどの部屋にいても聞き逃すはずはないように思われた。
 次いでただいま、という声が家に響く。姪の初穂はつほが買い物から帰ってきたのだ。秋夜は万年筆を水を入れたコップに放置して、玄関先に向かった。
「おかえり」
 手袋とマフラーをした初穂は鼻の頭や頬を赤くして、ひどく寒そうだった。野菜やらなんやらが入ったスーパーのビニール袋を廊下に放り出し、靴箱に手をつきブーツを脱ぐことに苦心している。グレーのパーカーに赤いチェックのシャツワンピースという服装だ。レギンスを履いているせいか太ももの線が露わな恥じらいのない格好を平然としている。
「あ、秋夜! いいところに。ちょっと来て!」
 初穂は顔を輝かせて言った。脱ぎかけていたブーツにあたふたともう一度足を入れ、秋夜の手首をつかむ。毛糸の手袋越しなのにその熱い体温を感じた気がして、秋夜は面食らいながら言った。
「仮にも僕は叔父なんだから、呼び捨てはいい加減やめなさいよ」
「いいから!」
 初穂は秋夜の苦言に耳を傾けることなく、手首を力強く引く。秋夜は軽くため息をつき、つっかけに足を通すと身をまかせた。
 特になんの身構えもせずに外に引きずり出されると、一瞬で耳の痛くなる空気が体を包みこんだ。予想以上の寒さに眉をしかめ、身を縮める。
「秋夜、見てよ! ゆきっ!」
 両手を広げ、解き放たれた蝶のように初穂は軽やかだった。弱々しく空から舞い落ちる沫雪に手をかざす。
「寒いはずだよね」
 秋夜を振り返り、初穂は屈託のない笑みを見せた。口から漏れる息が雪より一層白く感じる。
 ああ、と秋夜は嘆息するように頷いて灰色の空を見上げた。重たく澱んだ空から、あんなに繊細で美しいものがなぜ生まれるのだろう。瞼を閉じてその細部まで想像する。宝石の細胞のようにその文様は密やかで揺るぎなく壊れやすい。
「こたつも、ストーブもまだ出していなかったな」
「そういえば、そうだったね。……今年はいろいろ忙しかったから」
 失敗した、と秋夜は思った。初穂の表情に翳りが差した。最近の初穂の笑顔は、塞ぎこんでいるところを見せまいとして、筋肉がひきつりどこかぎこちないものだった。さっきのような無邪気な笑顔を見たのは久々だったのだ。
「じゃあ、さっさとこたつとストーブを出して、おばあちゃんの好きだったこたつでみかんしようよ。ちょうどさっきスーパーで安売りのみかん買ったんだ」
 明るく振る舞おうとしているのが、見え見えの態度だった。だが、それに対してなんと声をかけたらいいか秋夜にはわからなかった。無理するなとも、大丈夫かとも、吐きだしてしまえとも言う権利が秋夜にはないのだ。それを受け止めきる自信がないのだから。もし初穂が葬式のときのように悲しみに呑みこまれたみたいに泣きだしてしまったら、おろおろとうろたえ、ただ側にいることくらいしかできないだろう。
 結局、かける言葉も見つからないまま、秋夜は初穂の頭を軽く二度叩いた。初穂が振り仰いでまた笑う。その困ったような笑顔は、秋夜の弱さや情けなさを炙りだす。
 もう悲しまないでほしい、口をついて出そうになった言葉を秋夜は呑みこんだ。それはあまりに身勝手すぎる。
 秋夜にとっての母、初穂にとっての祖母が亡くなって昨日でやっと四十九日が過ぎたばかりだ。忌中が明けたからといって気持ちまでもが落ち着くわけではない。いまは日常に戻る努力をしている最中なのだ。それに、初穂が悲嘆に暮れるのも無理はなかった。ただの同居人にすぎなかった秋夜と違い、秋夜の母は初穂にとって本物の母のような存在だった。料理をしたり洗濯物を干したりしながら仲良く寄り添うふたつの背中を見るにつれ、絆は秋夜と母よりも、初穂とのそれのほうが強い気さえしていた。
「雪が……」
「え?」
「いや、今日仕事が休みでよかったと思ったんだ。雪が積もったらいろいろ大変だろう」
 雪が降ってよかったと、言おうとして秋夜はやめた。今日あの静かな家でやることができて助かったと思っていた。
 ふたりきりになってしまったこの家は、なんだか不均衡で大きな余白を持てあましているようだ。家の支柱を実はもう失っていて、些細な振動で崩れてもおかしくないと、宣告を受けても不思議はない気がした。
 母を失った悲しみよりも、その不安定の釣り合いに対する恐怖にも似た憂いが秋夜の胸を占めるのだ。
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