昏い日

Minoru.S

文字の大きさ
1 / 1

昏い日

しおりを挟む
 いい子になりたいと思った。
 だれからも愛され好かれ、思わず笑顔を向けてしまうようないい子に。
 母が誇りに思ういい子に。


 母子家庭だったが、物心つくころにはすでに母とふたりだけの生活が当たり前だった。
 だから、寂しいと思ったことはなかった。

 父について母に尋ねたことはない。
 聞いていはいけないのだと幼い頃からなんとなく察していた。
 一度だけ、雑談でクラスメートの父を話題にしたことがあった。
 そのときの母の形相は忘れられないものだった。
 それからわたしは友人の父の話も避けるようになった。

 母は母子家庭であっても恥じることのないようわたしを立派に育てようと厳しくしつけた。
 その期待に応えようとわたしも必死で勉強をしたり、家の手伝いをした。

 うまくいかないことも、もちろんあった。
 友だちと遊びたくてさぼってしまうこともあった。
 そういうとき母はわたしを激しく叱った。
 手を上げることもあった。
 だけど母はわたしが女の子だからと目立つ場所には傷を作らないよう注意してくれた。
 わたしが悪いのだ。
 だからこれは罰だった。
 ごめんなさいを繰り返しながらわたしは罰が終わることを待った。

 おかげでわたしの成績はよかった。
 小学生の頃、母はわたしが百点と書かれたテストを見せるたびに満足そうに笑った。
 さすがあたしの娘と頭を撫でながら褒めた。


 中学生の頃から母はわたしの交友関係にやかましく口を挟むようになった。
 同級生であっても男の子と話してはだめだときつく諭された。
 女の子にも序列をつけ、成績や素行の悪い子とはつき合ってはいけないと言われた。
 口をきいてもいいと認められたのは、ほんの一握りの生徒に限られた。
 だからわたしはほとんど一日だれとも話をせず、友人もできることなく、気づくとクラスで孤立するようになっていた。

 だけどそのおかげで学校からまっすぐ家に帰れたので、家の手伝いをし、余った時間は勉強にあてることができた。
 成績はずいぶんとよかった。

 中学二年生の頃から母のようすが少しずつ荒れ始めた。
 最初はただ単純に忙しいのだろうと思っていた。
 そういうことは以前もあったからだ。
 夜はいつも遅くてくたくたに疲れて帰ってきた。
 そのうちいままでは一度も聞いたことのない仕事の愚痴をこぼすようになった。
 仕事はうまくいっていないようだった。
 到底無理なノルマを押しつけられ、できないとひどく罵られるのだと、酒に酔った勢いでこぼしていた。
 女だからとかこれだからおばさんはとか上司は傷つく言葉を選んでほかの社員もいる場所で怒鳴り散らすのだという。
 朝起きるとお酒を飲んだまま潰れてテーブルに突っ伏して寝ている母をよく見つけるようになった。
 いつもアイロンがピシッとかかっていたスーツにしわが寄るようになった。
 いつもきれいにまとめていた髪型もてきとうになった。
 だけど化粧だけは厚くなっていった。
 肌の調子が悪いため、それを隠そうとしていた。

 次第に母はアルコールに溺れるようになった。
 同時にわたしに与える罰の回数も多くなった。
 料理が口に合わなかったとか、成績が一番じゃなかったとか、些細な欠点を見つけ罰を与えるようになっていった。
 母の前では決して失敗してはいけないとびくびくと緊張するあまり、わたしは余計に失敗を重ねるようになった。
 いつの間にか香水の匂いを漂わせていた母は、アルコールの臭いのほうが勝るようになっていた。
 母の会社に持っていくバッグのなかにもアルコールが忍ばせてあることにわたしは気づいていた。

 ある日、酩酊した母が家に帰ってくると久しぶりにひどく上機嫌だった。
 母は楽しそうに笑いながら言った。
 会社をクビになったのだと。

 そのときわたしは高校に入学したばかりだった。


 高校に行けなくなったわたしはコンビニでアルバイトを始めた。
 少しでも生活の足しになればと思ってのことだ。
 コンビニのバイトは正直楽しかった。
 店長は人のいいおじさんだったし、一緒のシフトに入ることの多かった女の子とは話していると楽しかった。
 大学生やバンドマンなど高校に通っているだけでは接点のないひととも知り合えた。

 会社を辞めた母はよりいっそうアルコールに溺れるようになっていた。
 次の仕事を見つけようとするようすもなかった。
 布団は万年床と化し、母は寝るか飲むかに一日のほとんどを費やしていた。
 時々出かけることもあったけど、帰ってくるときには必ずたくさんのアルコールが入ったビニール袋を持っていた。
 なんどかたしなめたけど、母はそのたびに酒瓶で殴りかかってきた。
 不摂生な生活を続けているため、腕力がなくなり、物を使って罰を与えるようになっていた。
 茶色の液体の入った頑丈なガラスの瓶がわき腹にあたり鈍い音を立てた。

 そんな生活が数ヶ月続いた。
 もう夏だった。
 電気は止められていたからエアコンはつけられるわけもなく、部屋はむしむしと暑くてじっとしていても汗が流れた。
 今日も変化のない一日が始まるのだとため息をついたとき、乱暴に玄関のドアを叩く音が聞こえた。
 ドアをあけると、そこには見知らぬおじさんが三人いた。
 みんないかつい顔をして、派手な柄や色のシャツを着ていた。

 おじさんたちが言うには、母は借金をしていて、一円たりともお金を返していないのだという。
 借用書というものを目の前につきつけられ、わたしはその金額に呆然とした。
 それは時給八百円程度のコンビニのアルバイトでは到底返せるような金額ではなかった。
 おじさんたちはわたしの顔を見て肩を叩いた。
 わたしなら借金を返すことも可能だという。
 ひとりのおじさんからは顔をしかめたくなるようなひどい腋臭の臭いがした。

 とりあえず事務所に行こうとわたしは外に連れ出された。
 振り向くと母は新しい酒瓶を取り出しぶつぶつとなにか言いながらお酒を飲もうとしていた。

 アパートから出ると、太陽の光が射るように差していた。
 空は雲一つなく澄んで真っ青だ。
 蝉の鳴き声が響き渡り、影が濃い。
 透明なビニールのバッグにプールの道具を入れた親子連れが目についた。
 キャッキャッ、キャッキャと子どもが楽しそうに騒いでいる。

 鉄錆の浮いた狭いアパートの階段を一列になっておりる。
 おじさんたちはわたしが逃げないように上と下を固めている。
 一段おりるごとにめまいがするようだ。
 磨き上げられた黒い車が階段の下に停めてあった。

 そのときわたしは道の向こうからタクシーがこっちへ来るのを知った。
 タクシーは乗客を乗せていない。

 階段を下りきって地面に足をつけた瞬間、わたしは躍動するように走りだした。
 おじさんたちはそれまでおとなしかったわたしに油断していたのか、とっさの判断が遅れ思わず見送る。

 わたしはタクシーの前に飛び出した。
 タクシーの運転手はあわててブレーキを踏む。
 住宅街のせまい道を走っていたのでそれほどスピードは出ていない。
 寸前のところでタクシーは止まる。
 勢いそのままにボンネットに両手をつきわたしは必死で叫んだ。
 すがりついた。

「助けて!!」

 眼鏡をかけた中年の運転手は目を白黒させていた。
 だが、後ろからくる厳ついおじさんたちに気づくと、タクシーの運転手はわたしからあからさまに目を逸らした。
 クラクションが鳴り響く。

 耳をつんざくような音は邪魔だからどけろという合図だ。

 わたしは呆然と道路に立ちつくす。

 光はいやというほど差していて今日はひどく眩しい日だった。
 だが世界は色がぬけおちるようにくらくなった。
 このままなにも感じられなくなればいいのにと願った。
 暑さも寒さも痛みも悲しみも苦しみもなにも感じられなくなればいい。

 不意に手首を強い力で引かれた。
 腋臭のひどいおじさんだった。
 鼻をつく臭いに思わず顔をしかめる。

 タクシーはわたしの体がよけたのをいいことに、すかさず出発した。
 濃い排ガスがマフラーから勢いよく吐きだされた。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

今更気付いてももう遅い。

ユウキ
恋愛
ある晴れた日、卒業の季節に集まる面々は、一様に暗く。 今更真相に気付いても、後悔してももう遅い。何もかも、取り戻せないのです。

離婚した妻の旅先

tartan321
恋愛
タイトル通りです。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

英雄一家は国を去る【一話完結】

青緑 ネトロア
ファンタジー
婚約者との舞踏会中、火急の知らせにより領地へ帰り、3年かけて魔物大発生を収めたテレジア。3年振りに王都へ戻ったが、国の一大事から護った一家へ言い渡されたのは、テレジアの婚約破棄だった。 - - - - - - - - - - - - - ただいま後日談の加筆を計画中です。 2025/06/22

本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います

こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。 ※「小説家になろう」にも投稿しています

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

処理中です...