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2章◆恋と恩義と性欲と
銀の手-2
しおりを挟む「えっ。い、いいんですか?」
「いいから言ってるんだよ」
イリスは小さく笑うと、手首と肘の下のところにあるベルトに手をかけた。ばち、ばち、と革と金属が擦れる音がして、ベルトの紐がだらりと垂れ下がる。続いてイリスが手首の内側あたりを探ると、そこに切り込みが入っているようで、グローブの裾の部分が大きく広がった。内側にも留め具があるらしく、ぱちん、ぱちんと乾いた音がする。そして勿体ぶるような手つきでごそりとグローブを持ち上げると、ついにその左腕が露になった。
ずっとグローブに覆われていたというのに、素肌の色は右腕とほとんど変わらない。そして何よりの違いは肘より少し下、手首のあたりから先の部分が、銀色に輝いていたことだった。
――ああ、だから……『銀の手』。
その美しさに目を瞠る。
それはまさしく銀の手だった。朝の陽ざしを受けて眩いほどに輝く左手は、神様がつくった彫刻のようだ。よく見ると薄い爪や骨ばった指の筋、浮いた血管まで、すべて銀で緻密に再現されている。というより、これは生身の腕そのものだ。銀色であること以外は。
「これは、……義手、なんですか? それともこれも、魔法の道具……?」
タビトが興奮を抑えながら言うと、イリスは軽く銀の指先を動かしてみせる。
「いや。正真正銘私の腕だ。幼い頃に事故で失くしてね。その時に生えてきた」
「は、……はえて……?」
あまりにざっくりとした説明に言葉を失ってしまう。それに以前、リウルは別のことを言っていなかったか。確か、例えイリスであっても……
「失った手足を再生することはできない。先生でも、ないものを生やすことはできない……って、前にリウル先輩が言ってた気がするんですけど」
「そうだね。リウの言っていることは正しいよ。けれど魔法というものは、自身に対しては特別に強い効果を与えることができるものが多い。特に私は、勝手に体が傷を治してしまう体質だから」
「あ、ああ……なるほど……?」
「それでも尋常じゃないくらい体力を消耗するし、こんなにはっきり『痕』が残ってしまうのだから、乱用はできないけどね。いくら治るとは言え、そう何度も腕を落とされるのはごめんだ」
「はぁ……」
輝く左腕の美しさに目を奪われ、気の抜けた返事しかしないタビトを見て、イリスは少し笑った。
「でも世間では、そんな魔法使いの理屈など知らない人の方がずっと多い。この腕を見て『魔法使いイリスは失った手足を再生できる』と思われると色々と厄介なんだ。だからこうして隠してる」
「はぁ、なるほど。……あれ? でも先生、『銀の手』って呼ばれてますよね。こっから来てるんじゃないんですか?」
「ああ、そのことなら」
イリスはグローブを再び左手にあてがうと、一本一本丁寧に指を差し込んでいく。
「不思議な偶然だけど、それはまったく別の由来なんだ。この国では金と銀は特別な色とされているけれど、銀は月の女神……イルリアーネの色と言われている。そして彼女が司っているのが、癒し、安寧、夜による休息。だから腕のいい治癒魔法使いのことを、『銀の手』と呼ぶ慣習が元々あるんだよ。『当代一の癒し手』くらいの意味だ」
「へぇ、……そうなんですか……」
イリスの銀の手が着々とグローブに覆われて見えなくなるのを、タビトが物惜しそうな目で見つめていると、またイリスが笑った。
「君、そんなに見つめなくたって、これからいくらでも見る機会はあるよ。君に話したのは、うちの中で手袋を嵌めるのが面倒になったからだから」
「えっ。あ、ああ、そういうことだったんですか」
家の中なら、またあの綺麗な手を見せてもらえる。それが嬉しかったのは事実だが、同時に少しだけがっかりした。
――大事な秘密を打ち明けてくれた理由は、ただ隠すのが面倒になったからか……。
明らかに萎んだ様子のタビトを見て、イリスはすぐにその心境を察したようだった。テーブルの上で頬杖を付き、タビトの目をじっと覗き込む。
「もちろん、君のことを信頼しているから打ち明けたんだよ。君が軽率に秘密を触れ回るような子だったら、私は口を閉ざすよう主として命令しなければならない」
「え、……」
その言葉で、タビトは久方ぶりに首輪の存在を思い出す。思わず首元に手をやれば、イリスは挑発的に笑った。
「君は私に、命令されたい?」
「さ、……」
――されたい。してほしい。してください。
と、何故かタビトの本能がしきりに吠えていたが、理性でぐっとそれを抑え込む。
「され、……なくても、言いません、……ので、大丈夫です……」
「そう。それならよかった」
イリスは満足げに笑うと、空になった食器とマグを重ねて立ち上がる。
「ごめん、もう行かないとだから片付け頼むね。それからリウも『銀の手』のことは知ってるから、あの子には話しても構わないよ。それじゃ、あとよろしく」
「あっはい。行ってらっしゃい……、」
イリスはすたすたとキッチンを横切ると、スリッパを鳴らしながら速足で玄関から出て行った。
一人残されたタビトは、自分も残りの香茶を飲み干してほうと息を吐く。
自然に傷が治る奇跡のような体質に、日の光を浴びて輝く銀の腕、それから月の女神の話。
起き抜けに抱えていた気まずい感情は、イリスの話を聞いているうちにきれいさっぱり吹き飛んでいた。
――本当に、奇跡みたいな人だ。
改めてそう思う。イリスという人はまさに、月の女神に愛されて生まれてきたんじゃないだろうか。「銀の手」という呼び名の偶然の一致にも、不思議な運命を感じる。
――でも、リウル先輩も知ってるんだよな。……あの二人って、どういう関係なんだ……?
リウルに初めて会った時から、イリスとは相当な信頼関係があるのだとは感じていた。イリスはリウルのことを「教え子のようなもの」と言い、リウスはイリスを「先生」と呼んでいたから、そのまま師匠と弟子のような関係だとなんとなく考えていたが、それだけではないだろう。そして今のタビトは、『あっちの世界』を知ってしまっていた。
――いや、まさか。ないない、あの二人がそんな関係なんて。そんなはずはない、うん。
頭の中に沸いてきたよからぬ妄想を振り払い、トレイに汚れた食器を重ねていく。イリスのぶんもまとめて乗せ終わり、洗い場に運ぼうとした時、バターナイフの先端が赤くひかっていることに気付いた。イリスが指の腹を切ってみせた時の血だ。見ると、イリスが使った布巾にも小さな赤い染みが付いている。
量としては大したものじゃない。だけど。
――傷痕は跡形もなく消え去っても、傷を負った事実が消える訳じゃない。
当たり前のことだ。だけどイリスは、そのことを忘れているんじゃないかと、なんとなく思った。
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