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2章◆恋と恩義と性欲と
第六番『誘う未亡人』-4
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「は、……?」
口の中の水分が、全部干上がったみたいだった。からからに喉が乾いて声が出ない。
タビトが信じられない思いでイリスを見つめていると、イリスは銀の手でそっとタビトの首輪に触れた。
「タビト。主として君に命令する。私を殺しなさい」
「……、」
心が痛くて、涙が溢れそうだった。ぎゅっと手を握り込むことで、涙が零れそうになるのをなんとかこらえる。
そんなことを言ってほしくなかった。そんなことをイリスの口から、イリスの声で、言ってほしくなかった。
「何を、……馬鹿なこと言ってんですか」
声が震えそうになるのを必死で抑え、首に伸びた銀色の手に触れる。温かな体温はたしかにイリスのものだ。――でも、違う。全然違う。
タビトは銀の腕を引き離すと、イリスの顔をしたものを、正面から睨みつけた。
「先生はオレがこの家に来た時から一度だって命令したことがない。『しなさい』、って言い方すら一度もしてない。そんな優しい人が、そんな酷い命令、する訳ないだろ」
数秒の沈黙の後、イリスの顔をしたものから、ふっと表情が消えた。
鼻白んだようにため息を吐き、女の声で言う。
「だからつまんないのよ。あなたみたいな子って」
白い煙のようなものがさあっと縦に伸び、空気中に霧散した。
氷の粒のようなものがしばらくその場を漂っていたが、やがてそれも消えていく。幻覚が消え去った後には、相変わらずイリスがソファにぐったりと体を埋もれさせて眠っていた。タビトは今度こそ本当に、肩を落として安堵の息を吐く。
「あー怖かった……男に化けるなんて聞いてないし……体温まであるとか……あれ本当に幻覚で済ませていいの……?」
力なく投げ出されたイリスの銀の手を握り、そのぬくもりを確かめる。冷えた体がそこから温まっていく気がして、しばらくタビトはその場に項垂れていた。
なるほどあそこまではっきりとした幻覚なら、多くの犠牲者が出たのも頷ける。先に出た女の方のイリスの手は冷たかったのに、後から出た男の方のイリスの幻覚には体温があるという小技も憎らしい。女のイリスで一度心に揺さぶりをかけ、男のイリスでトドメを刺そうとする二段構えは、幻覚と分かっていてもかなり辛いものがあった。
「でも幻覚……ってことは、要はオレの頭が作り出したものってことでいいんだよな……? 何考えてんだよオレ。こんなこと先生に言えないっての……」
よくよく思い返すと、幻覚との会話は一から十まで全部イリスに聞かせたくないことだらけだ。なんとなく申し訳なくなり、イリスの寝顔をそっと盗み見る。
そして思いがけない光景に、はっと息を呑んだ。
ぐったりとソファに頭を預けて眠る、イリスの閉じた目蓋の下から、涙が一筋零れ落ちていた。透明な雫は輪郭を伝い、銀色に輝く左手に落ちる。
タビトの頭の中で、女の声が響く。
――でもその人、心の中でずうっと言ってるわよ。死にたいって。
――とっても辛いことがあったのね、夢の中で子どもみたいに泣いてるの。
タビトは銀の手を握りしめたまま、ただイリスが泣き止むのを、待つことしかできなかった。
口の中の水分が、全部干上がったみたいだった。からからに喉が乾いて声が出ない。
タビトが信じられない思いでイリスを見つめていると、イリスは銀の手でそっとタビトの首輪に触れた。
「タビト。主として君に命令する。私を殺しなさい」
「……、」
心が痛くて、涙が溢れそうだった。ぎゅっと手を握り込むことで、涙が零れそうになるのをなんとかこらえる。
そんなことを言ってほしくなかった。そんなことをイリスの口から、イリスの声で、言ってほしくなかった。
「何を、……馬鹿なこと言ってんですか」
声が震えそうになるのを必死で抑え、首に伸びた銀色の手に触れる。温かな体温はたしかにイリスのものだ。――でも、違う。全然違う。
タビトは銀の腕を引き離すと、イリスの顔をしたものを、正面から睨みつけた。
「先生はオレがこの家に来た時から一度だって命令したことがない。『しなさい』、って言い方すら一度もしてない。そんな優しい人が、そんな酷い命令、する訳ないだろ」
数秒の沈黙の後、イリスの顔をしたものから、ふっと表情が消えた。
鼻白んだようにため息を吐き、女の声で言う。
「だからつまんないのよ。あなたみたいな子って」
白い煙のようなものがさあっと縦に伸び、空気中に霧散した。
氷の粒のようなものがしばらくその場を漂っていたが、やがてそれも消えていく。幻覚が消え去った後には、相変わらずイリスがソファにぐったりと体を埋もれさせて眠っていた。タビトは今度こそ本当に、肩を落として安堵の息を吐く。
「あー怖かった……男に化けるなんて聞いてないし……体温まであるとか……あれ本当に幻覚で済ませていいの……?」
力なく投げ出されたイリスの銀の手を握り、そのぬくもりを確かめる。冷えた体がそこから温まっていく気がして、しばらくタビトはその場に項垂れていた。
なるほどあそこまではっきりとした幻覚なら、多くの犠牲者が出たのも頷ける。先に出た女の方のイリスの手は冷たかったのに、後から出た男の方のイリスの幻覚には体温があるという小技も憎らしい。女のイリスで一度心に揺さぶりをかけ、男のイリスでトドメを刺そうとする二段構えは、幻覚と分かっていてもかなり辛いものがあった。
「でも幻覚……ってことは、要はオレの頭が作り出したものってことでいいんだよな……? 何考えてんだよオレ。こんなこと先生に言えないっての……」
よくよく思い返すと、幻覚との会話は一から十まで全部イリスに聞かせたくないことだらけだ。なんとなく申し訳なくなり、イリスの寝顔をそっと盗み見る。
そして思いがけない光景に、はっと息を呑んだ。
ぐったりとソファに頭を預けて眠る、イリスの閉じた目蓋の下から、涙が一筋零れ落ちていた。透明な雫は輪郭を伝い、銀色に輝く左手に落ちる。
タビトの頭の中で、女の声が響く。
――でもその人、心の中でずうっと言ってるわよ。死にたいって。
――とっても辛いことがあったのね、夢の中で子どもみたいに泣いてるの。
タビトは銀の手を握りしめたまま、ただイリスが泣き止むのを、待つことしかできなかった。
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