銀の旅人

日々野

文字の大きさ
79 / 183
4章◆魔法使いの卵達

アンジュ邸-2

しおりを挟む

 荷物を腕に抱え、足取りも軽く階段を降りる。イリスの先導で居間に入ると、緑の香りが鼻先をくすぐった。初めて嗅ぐ匂いなのにどこか懐かしい、胸の奥が解れるような優しい香りだ。
 テーブルで茶の支度をしていたアンジュがこちらに気付いて顔を上げる。

「お部屋、あそこでよかったですか? あれでしたらどちらか下の客間に移っていただいても――」
「いえいえそんな、すごくいい部屋だと思います! とっても気に入りました!」

 イリスが口を開く前に、タビトが前に出て否定する。

「それは何よりです。それにしても心配しましたよ、手紙には昼過ぎには着くとあったのに夕方になっても来る気配がないもんだから」
「すみません、私が途中で気持ち悪くなって馬車を降りたんです。酔い止めを切らしてしまって」
「ああ、そうでしたか。では今回は多めに処方しておきますか」
「お願いします」

 使い込まれて黒光りするテーブルに、イリスと二人並んで席に着く。今の話を聞く限り、アンジュは薬を作ることを生業なりわいとしているらしい。薬師というやつだろうか。目の前に置かれた茶も透き通った淡い緑色で、葉っぱのような匂いがする。

 タビトから見て向かい側の壁一面が、真四角で仕切られた木製の抽斗で埋まっていた。アンジュはその抽斗を一つ二つ引いては中から何かを取り出し、手に持った浅い籠の上に落としていく。その様子を不思議そうに眺めるタビトを見て、イリスが小さく笑った。

「アンジュ先生はここよりずっと東方で薬草学を修めた方でね。そこで得た知識と観点からアーロットの植物を研究して、独自の薬を調剤している方なんだ。私が国一番の治癒魔法使いなら、先生は国一番の薬師だよ」
「へー……そんなすごい人なんですか」
「買い被りですよ」

 アンジュが背中で笑って謙遜するが、イリスは構わず続ける。

「街道で『私は疲労や睡眠不足は管轄外』というようなことを話しただろう? アンジュ先生は私とは逆で、そっちを専門にしている方なんだ。体調を整えるための薬とか、眠りやすくするための薬とかね。もちろん普通の鎮痛剤や解熱剤なんかも扱っているけど」
「そっちはイリス先生の魔法に比べると気休めみたいなものですがね。こういう小さな村ではこれでも一応役に立っとるみたいです。先生、これくらいでいかがでしょう」

 作業を終えたアンジュが、浅い木の器を卓の上に差し出す。小さな麻の巾着袋が四つ、寄り添うようにして乗っていた。イリスは一つずつ手に取って中を改めていく。

「ええ、確かに。いつもありがとうございます。タビト、それをお渡しして」
「え? あ、はい」

 既に存在を忘れかけていた行李を卓に乗せ、アンジュの方に押し出す。

「それはこの前東部に行った時に採取したもので……」
「なるほど、これは珍しい」

 二人の癒し手が行李を挟んで何やら専門的な会話を始めたので、話に混ざれないタビトは目の前の茶を啜った。香りはたしかに良い。持ち帰って胸の中にしまっておきたくなるような、温かい香りだ。だが味はしない。

「……お湯だな、これ」

 とぼそりと呟いた正直な感想が、ちょうど二人の会話の途切れた合間に挟まって、一瞬部屋が静まり返る。

 やば、失礼なこと言っちゃった――とタビトは青くなったが、アンジュはからからと笑い出した。

「まあ、若い人からしたらそんなもんでしょう。すまんねタビトくん、夕飯では美味しいもの出してあげるからね」
「すみません、お気遣いなく」
「いえいえ、人間素直なのが一番です。そうだ、何ならもう飯にしますか。もうほとんどできとりますんで」

 アンジュの提案で、居間のテーブルは取引から食事の席に変わった。

 主菜は塩を振って焼いた川魚で、副菜には根菜を柔らかく煮たものや人参の漬物、海藻の和え物など、こじんまりとした皿が並ぶ。それらを麦飯と共に食べながら、三人で取り留めもないことを話した。もっともタビトは時折相槌を打ち、訊かれたことに答える程度ではあったが。

「それでねタビトくん。さっき言ってた美味しいものだけど、今呑んでみるかい」
「えっ。それ夕飯のことじゃなかったんですか?」

 アンジュの用意した食卓は、見た目は地味だが味は良い。だからそれはもう済んだ話と思っていたのだが、イリスは全てを察したように笑う。

「先生、お手柔らかに頼みますよ。この子は成人済みとは言えまだ十八なんですから」
「へぇ、タビトくんまだ十八歳かい。そりゃ立派だ! 将来が楽しみですね、イリス先生。ではちょっと失礼」

 アンジュはにこにこと笑いながら席を立ち、背中を丸めてさっき使っていたのとは別の抽斗を探り始める。その間にイリスがタビトにこっそりと耳打ちした。

「程ほどに付き合う程度でいいからね。明日のこともあるから無理だと思ったら正直に言うんだよ」
「はぁ……」

 タビトが首を傾げていると、アンジュが浮足立った様子で戻ってくる。その胸に大きな茶色のガラス瓶を抱えていた。

「イリス先生はお酒を嗜まない方だから、出すのは迷ったんですけどね。タビトくんはいける口と見た」
「酒ですか」

 タビトの人生の中で、酒を呑んだ経験はほとんどない。

 王都に来る以前は食うにも困る生活をしていたから自分で購入することはまずなく、何かしらの祭りで無料で配られているものや、道端に放置された誰かの飲みさしを口にしたことがある程度だ。王都に来てからはイリスが呑まないこともあって一滴も呑んでいない。

 アンジュが小さな陶器の器に、水のように透明な酒を注ぐ。

「これはわしのとっておきだからね、一緒に呑む相手が欲しかったんだ。その点タビトくんなら申し分ない」
「はぁ。……とっておきなのにオレでいいんですか?」
「いいんだよ、君みたいな若い人と呑むのが一番だ。ささ、一献いっこん

 よく分からない乾杯の合図をして、イリスが見守る中二人で杯を傾ける。その瞬間、タビトの目の中で星が飛んだ。

「んんっ……! こ、これは!」
「おっ! どうだいタビトくん、いけるだろ?」
「い……いける! なんかこう……がつんと来ました、がつんって! そんでその後こう……かぁ~っと来るみたいな!」
「いいねぇ、やっぱりタビトくんはいけると思ったんだよ! ほら、注いであげるからどんどん呑みなさい」
「ありがとうございます!」

 そこからタビトはアンジュに乗せられ多いに呑んだ。アンジュも途中まではタビトと同じ速さで杯を空けていたが、次第におかわりの代わりに服を脱ぐようになり、最終的には上半身裸になって踊り始めた。最初心配そうにしていたイリスも途中からは呆れ顔になり、アンジュが踊り出した時には傍にあったひざ掛けを彼の肩にかけて水を飲ませていた。

 家主が前後不覚に陥ってしまったことで酒盛りはお開きとなり、イリスはできる範囲で食卓を片付け、タビトはアンジュを彼の寝室まで運んでやった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

ヤンキーDKの献身

ナムラケイ
BL
スパダリ高校生×こじらせ公務員のBLです。 ケンカ上等、金髪ヤンキー高校生の三沢空乃は、築51年のオンボロアパートで一人暮らしを始めることに。隣人の近間行人は、お堅い公務員かと思いきや、夜な夜な違う男と寝ているビッチ系ネコで…。 性描写があるものには、タイトルに★をつけています。 行人の兄が主人公の「戦闘機乗りの劣情」(完結済み)も掲載しています。

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

fall~獣のような男がぼくに歓びを教える

乃木のき
BL
お前は俺だけのものだ__結婚し穏やかな家庭を気づいてきた瑞生だが、元恋人の禄朗と再会してしまう。ダメなのに逢いたい。逢ってしまえばあなたに狂ってしまうだけなのに。 強く結ばれていたはずなのに小さなほころびが2人を引き離し、抗うように惹きつけ合う。 濃厚な情愛の行く先は地獄なのか天国なのか。 ※エブリスタで連載していた作品です

忠犬だったはずの後輩が、独占欲を隠さなくなった

ちとせ
BL
後輩(男前イケメン)×先輩(無自覚美人)  「俺がやめるのも、先輩にとってはどうでもいいことなんですね…」 退職する直前に爪痕を残していった元後輩ワンコは、再会後独占欲を隠さなくて… 商社で働く雨宮 叶斗(あめみや かなと)は冷たい印象を与えてしまうほど整った美貌を持つ。 そんな彼には指導係だった時からずっと付き従ってくる後輩がいた。 その後輩、村瀬 樹(むらせ いつき)はある日突然叶斗に退職することを告げた。 2年後、戻ってきた村瀬は自分の欲望を我慢することをせず… 後半甘々です。 すれ違いもありますが、結局攻めは最初から最後まで受け大好きで、受けは終始振り回されてます。

先輩、可愛がってください

ゆもたに
BL
棒アイスを頬張ってる先輩を見て、「あー……ち◯ぽぶち込みてぇ」とつい言ってしまった天然な後輩の話

聖獣は黒髪の青年に愛を誓う

午後野つばな
BL
稀覯本店で働くセスは、孤独な日々を送っていた。 ある日、鳥に襲われていた仔犬を助け、アシュリーと名づける。 だが、アシュリーただの犬ではなく、稀少とされる獣人の子どもだった。 全身で自分への愛情を表現するアシュリーとの日々は、灰色だったセスの日々を変える。 やがてトーマスと名乗る旅人の出現をきっかけに、アシュリーは美しい青年の姿へと変化するが……。

給餌行為が求愛行動だってなんで誰も教えてくれなかったんだ!

永川さき
BL
 魔術教師で平民のマテウス・アージェルは、元教え子で現同僚のアイザック・ウェルズリー子爵と毎日食堂で昼食をともにしている。  ただ、その食事風景は特殊なもので……。  元教え子のスパダリ魔術教師×未亡人で成人した子持ちのおっさん魔術教師  まー様企画の「おっさん受けBL企画」参加作品です。  他サイトにも掲載しています。

殿下に婚約終了と言われたので城を出ようとしたら、何かおかしいんですが!?

krm
BL
「俺達の婚約は今日で終わりにする」 突然の婚約終了宣言。心がぐしゃぐしゃになった僕は、荷物を抱えて城を出る決意をした。 なのに、何故か殿下が追いかけてきて――いやいやいや、どういうこと!? 全力すれ違いラブコメファンタジーBL! 支部の企画投稿用に書いたショートショートです。前後編二話完結です。

処理中です...