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7章◆雷光轟く七夜祭
誰にも言わないで
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◇
「なるほどね。牙の力でしたか」
調理台に凭れたリウルが、合点がいったというように頷く。
「使えるようになってたんですね。だったらそう言やぁいいのにあのガキ、心配させやがって」
「いや、それが……自分の意思で牙を使ったのはあれが初めてだそうだ。博打みたいなものだよ」
ついさっきタビトから聞かされた話を思い出して、イリスはこめかみを抑える。顔の火照りが落ち着いてきたら、またあの時の不安な気持ちがぶり返してしまった。口の中に沸いてきた不快な生唾を、コーヒーと一緒に喉の奥に流し込む。
「出たとこ勝負ってことですか。……まああいつらしいっちゃらしいが……何がそこまでさせたんだか」
リウルが呆れたようにため息を吐いたところで、コンロにかけた鍋がぐつぐつと音を立て始めた。リウルはくるりと調理台に向き直ると、火の勢いを調整して木べらで中をかき回す。イリスはダイニングテーブルでその様子を横目に見ながら、探るように言った。
「昨日聞いたことなんだけど……あの時は私も少し混乱してたから、もう一度確認してもいいかな。君は……二人の話、聞いてたんだよね?」
「ええ、途中まではね。親方が雷怖がって逃げちまったんで代わりに俺が仕方なく。さすがに俺もマリラ嬢が癇癪を起こしたあたりで避難しましたけど」
「でも、その、あの子が……添い遂げたい人がいるって言ったのは、確かなんだよね?」
「はぁ。言ってましたね。あの時はもっとこう、芝居がかった口調でしたけど」
リウルはコンロの火を消して鍋に蓋をすると、再びイリスに向き直る。そして胸に手をあて、もう一方の手で木べらを握り直すと、役者のように抑揚をつけて言った。
「大変失礼な物言いをお許しください、マリラ様。私はその提案を呑むことはできません。何故なら私にはもう既に、添い遂げたい方がいるのです」
言葉の終わりと共に一瞬で真顔に戻り、木べらを置いてイリスの斜め前に腰掛ける。
「こんな感じでした」
「そ、そう。……ちなみにその添い遂げたい方って、君は誰のことだと思……」
「そりゃあイリス先生のことに決まってるでしょう。他に誰がいるんですか」
「ううっ」
あっさりと断言され、イリスの顔がまた熱くなり始める。なんとか熱を冷まそうと手の甲を当ててみるが、さほど効果は得られない。
「や……やっぱりそうなのかな……?」
「やっぱりも何も本人から言われてるんでしょ。そこはいい加減認めてやらねぇと、さすがにあいつが不憫ですよ」
「み、認めてない訳じゃないよ。分かってるよ。でも、私なんて……私のことなんて好きになっても、どうにもならないのに。それに」
イリスは自分の手のひらに目を落とす。タビトへの気持ちが溢れそうになるたび、いつもこの手を思い出して罪の意識に苛まれる。
「私はいつかあの子を死なせる。今は順調に見えていても体は着実に損なわれているんだ。だから私はもう、……これ以上近づいちゃ駄目なのに……」
駄目だと分かっているのに、また触れてしまった。思わせぶりな態度と言葉で、タビトを惑わせてしまった。本当にタビトのことを思うなら離れなければいけないのに、タビトの気持ちが嬉しくてつい舞い上がってしまう。自分の心ひとつ律することができない己の未熟さに涙が滲んだ。
リウルはしばらく黙ってイリスを見つめていた。もう九年の付き合いになるこの青年は、ある意味でイリス以上にイリスのことを理解していた。
「ものは考えようですよ、先生」
じゅうぶんに間を取ったあと、リウルが静かに切り出す。
「いつか死なせると分かってるなら、今いい思いをさせてやりゃあいいじゃないですか。童貞のまま死ぬ方がよほど哀れってもんですよ。それに先生もまんざらじゃないんでしょ? 今のままじゃどのみち後悔しますよ。あいつが気絶しただけで我を忘れて暴走しちまうくらいなんですから」
「そ、それはその」
さっとイリスの頬に朱色が差す。
小鹿の馬車亭で、動かないタビトと手のひらにべっとりとついた血を見た瞬間、イリスは何も考えられなくなった。体の内側で魔法の力が増幅して弾けるような感覚があったから、おそらくそこかしこに癒しの力をばら撒いてしまったのだろう。すぐに後ろからリウルに羽交い絞めにされ、タビトが息をしていることを確認することで落ち着いたけれど、あれは『銀の手』にあるまじき失態だった。治癒魔法使いはどんな時も誰よりも、一番冷静でいなければならないのに。
イリスは上目遣いでリウルの顔色を窺う。
「……誰にも言わないでね?」
「……言いませんよ。何の被害も出ませんでしたし。俺は口内炎、親方は胃もたれが治ってむしろ得しました」
「そ、……そう。……」
生温かい沈黙が訪れる。
イリスがそのまま何か考え込んでしまったので、リウルはとんとん、と指先でテーブルを叩く。
「先生、そろそろ出た方がいいんじゃないですか。アリアナ家の当主に呼ばれてるんでしょ」
「あっ」
途端、イリスがその場に立ち上がる。
「そうだ、もう出……あ、着替えないと! ごめんもう行くね、コーヒーご馳走さま!」
足早にキッチンを突っ切り廊下に飛び出す。リウルはそれをテーブルに付いたまま見送ったが、数秒も経たないうちにイリスが真新しいシャツに腕を通しながらキッチンの入り口に顔を出す。
「ごめんリウ、それとタビトのことなんだけど……」
「分かってますよ、起きたらなんか適当に食わせます。家のこともできる範囲でやっとくんで」
「本っ当にごめんね! いつもありがとう、頼んだよ」
イリスは一度ほっとしたように表情を緩めると寝室に引っ込み、また数秒もしない内に準備を整えキッチンの前を横切る。そして騒がしい足音を立てながら玄関に向かうと、「行ってきます!」と一言残して出て行った。
嵐が過ぎ去ったような部屋で、リウルは一人ため息を吐く。
「本当にあの人は……何年経っても一生かわいいんだよな……」
今は吹っ切れているとはいえ、上目遣いで「誰にも言わないで」と言われた時は、正直グッとくるものがあった。そして今、二階で寝ている弟分の姿を頭の中に思い浮かべる。
「女も知らねぇガキにとっちゃ、あの人自身が一番の劇薬だよなぁ……」
タビトの忍耐強さに感心すると同時に多大な同情心を寄せ、リウルは再び調理台に向かった。
「なるほどね。牙の力でしたか」
調理台に凭れたリウルが、合点がいったというように頷く。
「使えるようになってたんですね。だったらそう言やぁいいのにあのガキ、心配させやがって」
「いや、それが……自分の意思で牙を使ったのはあれが初めてだそうだ。博打みたいなものだよ」
ついさっきタビトから聞かされた話を思い出して、イリスはこめかみを抑える。顔の火照りが落ち着いてきたら、またあの時の不安な気持ちがぶり返してしまった。口の中に沸いてきた不快な生唾を、コーヒーと一緒に喉の奥に流し込む。
「出たとこ勝負ってことですか。……まああいつらしいっちゃらしいが……何がそこまでさせたんだか」
リウルが呆れたようにため息を吐いたところで、コンロにかけた鍋がぐつぐつと音を立て始めた。リウルはくるりと調理台に向き直ると、火の勢いを調整して木べらで中をかき回す。イリスはダイニングテーブルでその様子を横目に見ながら、探るように言った。
「昨日聞いたことなんだけど……あの時は私も少し混乱してたから、もう一度確認してもいいかな。君は……二人の話、聞いてたんだよね?」
「ええ、途中まではね。親方が雷怖がって逃げちまったんで代わりに俺が仕方なく。さすがに俺もマリラ嬢が癇癪を起こしたあたりで避難しましたけど」
「でも、その、あの子が……添い遂げたい人がいるって言ったのは、確かなんだよね?」
「はぁ。言ってましたね。あの時はもっとこう、芝居がかった口調でしたけど」
リウルはコンロの火を消して鍋に蓋をすると、再びイリスに向き直る。そして胸に手をあて、もう一方の手で木べらを握り直すと、役者のように抑揚をつけて言った。
「大変失礼な物言いをお許しください、マリラ様。私はその提案を呑むことはできません。何故なら私にはもう既に、添い遂げたい方がいるのです」
言葉の終わりと共に一瞬で真顔に戻り、木べらを置いてイリスの斜め前に腰掛ける。
「こんな感じでした」
「そ、そう。……ちなみにその添い遂げたい方って、君は誰のことだと思……」
「そりゃあイリス先生のことに決まってるでしょう。他に誰がいるんですか」
「ううっ」
あっさりと断言され、イリスの顔がまた熱くなり始める。なんとか熱を冷まそうと手の甲を当ててみるが、さほど効果は得られない。
「や……やっぱりそうなのかな……?」
「やっぱりも何も本人から言われてるんでしょ。そこはいい加減認めてやらねぇと、さすがにあいつが不憫ですよ」
「み、認めてない訳じゃないよ。分かってるよ。でも、私なんて……私のことなんて好きになっても、どうにもならないのに。それに」
イリスは自分の手のひらに目を落とす。タビトへの気持ちが溢れそうになるたび、いつもこの手を思い出して罪の意識に苛まれる。
「私はいつかあの子を死なせる。今は順調に見えていても体は着実に損なわれているんだ。だから私はもう、……これ以上近づいちゃ駄目なのに……」
駄目だと分かっているのに、また触れてしまった。思わせぶりな態度と言葉で、タビトを惑わせてしまった。本当にタビトのことを思うなら離れなければいけないのに、タビトの気持ちが嬉しくてつい舞い上がってしまう。自分の心ひとつ律することができない己の未熟さに涙が滲んだ。
リウルはしばらく黙ってイリスを見つめていた。もう九年の付き合いになるこの青年は、ある意味でイリス以上にイリスのことを理解していた。
「ものは考えようですよ、先生」
じゅうぶんに間を取ったあと、リウルが静かに切り出す。
「いつか死なせると分かってるなら、今いい思いをさせてやりゃあいいじゃないですか。童貞のまま死ぬ方がよほど哀れってもんですよ。それに先生もまんざらじゃないんでしょ? 今のままじゃどのみち後悔しますよ。あいつが気絶しただけで我を忘れて暴走しちまうくらいなんですから」
「そ、それはその」
さっとイリスの頬に朱色が差す。
小鹿の馬車亭で、動かないタビトと手のひらにべっとりとついた血を見た瞬間、イリスは何も考えられなくなった。体の内側で魔法の力が増幅して弾けるような感覚があったから、おそらくそこかしこに癒しの力をばら撒いてしまったのだろう。すぐに後ろからリウルに羽交い絞めにされ、タビトが息をしていることを確認することで落ち着いたけれど、あれは『銀の手』にあるまじき失態だった。治癒魔法使いはどんな時も誰よりも、一番冷静でいなければならないのに。
イリスは上目遣いでリウルの顔色を窺う。
「……誰にも言わないでね?」
「……言いませんよ。何の被害も出ませんでしたし。俺は口内炎、親方は胃もたれが治ってむしろ得しました」
「そ、……そう。……」
生温かい沈黙が訪れる。
イリスがそのまま何か考え込んでしまったので、リウルはとんとん、と指先でテーブルを叩く。
「先生、そろそろ出た方がいいんじゃないですか。アリアナ家の当主に呼ばれてるんでしょ」
「あっ」
途端、イリスがその場に立ち上がる。
「そうだ、もう出……あ、着替えないと! ごめんもう行くね、コーヒーご馳走さま!」
足早にキッチンを突っ切り廊下に飛び出す。リウルはそれをテーブルに付いたまま見送ったが、数秒も経たないうちにイリスが真新しいシャツに腕を通しながらキッチンの入り口に顔を出す。
「ごめんリウ、それとタビトのことなんだけど……」
「分かってますよ、起きたらなんか適当に食わせます。家のこともできる範囲でやっとくんで」
「本っ当にごめんね! いつもありがとう、頼んだよ」
イリスは一度ほっとしたように表情を緩めると寝室に引っ込み、また数秒もしない内に準備を整えキッチンの前を横切る。そして騒がしい足音を立てながら玄関に向かうと、「行ってきます!」と一言残して出て行った。
嵐が過ぎ去ったような部屋で、リウルは一人ため息を吐く。
「本当にあの人は……何年経っても一生かわいいんだよな……」
今は吹っ切れているとはいえ、上目遣いで「誰にも言わないで」と言われた時は、正直グッとくるものがあった。そして今、二階で寝ている弟分の姿を頭の中に思い浮かべる。
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