銀の旅人

日々野

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7章◆雷光轟く七夜祭

第二十三番『地の声』-2

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「ん、……んんっ……」

 ちゅ、ちゅ、と卑猥な水音が狭い路地裏に響く。怯えて縮こまる舌を引っ張り出して吸い上げながら、シャツの下では親指で乳首を捏ね繰り回す。こんな状況になってもまだイリスは抵抗しなかった。ただタビトの頭にしがみ付いたまま、時折びくびくと体を震わせる。

 それがタビトには不思議だった。体格や膂力りょりょくに差があると言ってもイリスは男だ。全力で手足を振り回すなりして暴れれば、タビトだって多少は手を焼いたはずだった。

 ――諦めてる?

 まずそう思った。
 ただでさえ体格で不利なのに、この状況でタビトに魔人の力を使われればイリスはひとたまりもないだろう。暴れたらそのぶん消耗するし怪我をすることもある。だったら最初から何もしない方が、結果的には楽に済むと考えているのかもしれない。

 ――いや。それは先生らしくない気がする……。

 なんとなく胸に引っかかるものを感じて、タビトはほんの少しだけ顔を離した。途端、イリスは水中から上がったように「ぷは」と大きく息継ぎをする。荒い呼吸を繰り返すイリスの目には、かすかに涙が溜っていた。
 タビトがその目のきわに口付けて涙を吸い上げると、イリスはタビトに抱き着く腕にぎゅっと力を込める。

 ――ほら、やっぱり逃げない。なんで? 泣くほど嫌なのに、なんでまだ抱き着いてくるんだ?

 タビトはますます不思議になり、至近距離からイリスの目を覗き込んだ。

「あの、先生。ちょっと聞きたいんですけど」
「な、……なに?」
「何で逃げないんですか? 嫌がらないんですか?」
「……は、はぁ? なに、……それ君が言うの……?」

 イリスは乱れる呼吸の合間に、途切れ途切れ答える。心底呆れた、とでも言いたげな口調に、タビトも少しおかしな気分になった。たしかに、なんでオレはこんなことを聞いているんだろう。自分で襲ったくせに。

「すみません。なんか気になって」
「なんかって……はぁ……別にそんなの……気にしなくていいんじゃないの。……続ければ?」

 素っ気ない口調だが、イリスはタビトの視線から逃れるように目線を斜め下に泳がせた。その仕草に絶対に何かある、と直感で感じ取ったタビトは、強引にイリスと目を合わせる。

「いえ、気になります。教えてください。何か理由があるんじゃないですか?」
「え、ええ……? いや、理由って言われても」

 イリスがまた目を逸らそうとしたので、タビトは更に強くイリスの体を壁に押し付ける。完全に逃げ場をなくしてから睫毛が重なるほど近くまで顔を寄せれば、イリスは気まずそうにもごもごと言った。

「う、……わ、分かるでしょ。ふつう。言わなくても……」
「いや、分からないです。教えてください」
「だからぁ……」

 はぁぁ、と大きくため息を吐く。迷うように視線をちらちらと彷徨わせてから、他人事のように呟いた。

「嫌がらないってことは……嫌じゃないってことじゃないの? ……ふつうに考えて……」
「……。それって――」

 ――どおおおおおん!

 と、上空から轟音が響き、イリスが小さく悲鳴を上げてタビトの方に身を寄せる。もともと近かった距離が更に縮まり、タビトはイリスを落とさないよう反射的にシャツから腕を抜いて腰に手を回した。自然、イリスを抱き上げるような格好になる。

「び、びっくりした。……今のも花火? 近かったよね」
「……はい、……」
「ここからじゃ建物の影になって全然見えないなあ……はあ。音に驚かされただけじゃなんか損した気分だよ」
「……はい……」

 つい今までタビトに胸をまさぐられていたというのに、イリスはその張本人にしがみ付いたまま空を気にしている。まるでタビトに触れられることなんて、何でもないことのように。何より轟音が響く数秒前、タビトはイリスの顔が花火に白く照らされて闇の中から浮かび上がるさまをはっきり見た。暗闇の中にいるイリスは、ただ泣いて嫌がっているだけに見えたのに。花火に一瞬だけ照らされたイリスの頬と唇は赤く染まり、瞳は快楽に濡れているように見えた。そして今になって触れ合っている部分から、イリスの熱い体温が伝わってくる。

 ――本当に、嫌じゃなかったってこと?

 どくん、どくん、という温かな鼓動が、タビトの胸の中で膨れ上がっていた黒い感情を溶かしていく。頭の中で響いていた不吉な声を打ち消していく。そして再び頭上で空が割れるような音が響いた。
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