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7章◆雷光轟く七夜祭
第二十三番『地の声』-3
しおりを挟む――どおおおおおん!
「うわ、まただ」
イリスは首を伸ばし、少しでも花火が見えないかと空を見渡す。次いで少し離れたところから、花火を楽しむ人々の歓声が聞こえた。
「おお、今年のはでかいな」
「きれー」
「ピンク! ピンクのお花だったよ!」
人々の声が聞こえると、今度は彼らの歩く音、笑い声、手を叩いてはしゃぐ音などがまばらに聞こえた。遠くで誰かが弦楽器を奏でている音。弾むような子どもの足音、口笛、歓声、夜風が街路樹を撫でる音……。
世界にすべての音が戻っていた。それに押し出されるようにして、タビトの頭の中で響いていた声も跡形もなく消えていた。
「あ、……」
「え? ちょ、タビト……うわ、うわわわ」
全身から力が抜ける。イリスを支えるどころか立っていることもできなくなり、タビトはその場にずるずると座り込んだ。イリスも背中を壁に押し付けながら、タビトと同じように体の位置を下げていく。イリスはそのまま地面に腰を下ろしたが、タビトは座っていることすらままならず、その場に両手を付いて項垂れた。
「た、……タビト? だいじょうぶ……?」
「お、……オレは……」
ぎゅ、と地面に爪を立てて握りこぶしをつくる。
頭の中から『地の声』が消えたことで、タビトは急速に正気を取り戻しつつあった。たった今自分がしでかしたこと、言ったことを思い出し、絶望的な気分になる。
「お、……オレはなんてことを……! ご、ごめんなさいイリス先生、こんなことするつもりは……! なんかオレ頭おかしくなって……いや言い訳なんですけど! 先生にひどいことを……!」
項垂れた姿勢のまま頭をぐっと下げて土下座する。
――最悪だ。今までの我慢が全部水の泡だ。先生の前では誠実な男でいたかったのに。性欲で暴走する危険な男と思われたら、もう今までと同じように傍には置いてくれないかもしれない。
半ば泣きそうになりながら必死で謝る。けれど頭の上から落ちてきたイリスの声は、場違いなほど軽かった。
「う、うーん。別にいいよ? たぶんアリアナ家の親子に何か言われて不安定になってたところで、『地の声』の症状が現れたってとこだろう?」
「……え。何でそれを……」
まるで見ていたかのような口ぶりに思わず顔を上げると、すぐ近くで目が合う。タビトはどきんと心臓が高鳴るのが分かったが、イリスは平然と続ける。
「だって大貴族の当主とその娘がわざわざ街の食堂までやってきて、素直に謝罪するだけで終わるはずないだろう。ああいう人達はタダでは転ばないものだよ。きっと何か別の目的があったんだろう。何か怖いことを言われたんじゃないの?」
「そ。それは……」
怖いこと。……というよりかは、おぞましいこと、という表現の方が近い気がする。けれど今この場で説明する気にはなれず、タビトはただ「言われました」と頷いた。イリスも得心したように頷き返す。
「やっぱり。迎えに来てよかったよ。一人にしてたら今頃どうなってたか……」
イリスは幼子をあやすようにタビトの髪を撫でる。けれどタビトには今の今までイリスを襲おうとしていた負い目があるだけに、微妙な居心地の悪さを感じた。イリスが別段気にしていないことは素直に安堵したが、こうも平然としていると逆に戸惑ってしまう。
「まあ、その話は帰ってから……いや、今日はもう疲れたし明日にしようか。花火、本当に観なくていい?」
「あ、はい。今日はもう帰り――」
どおおおん! と、タビトの返事に被せるようにして轟音が響く。それを追いかけるようにぱらぱらと何かが爆ぜるような音がして、表の通りからは人々の歓声と拍手が続く。
その時タビトは急に、路地裏にいる自分達二人だけが世界から切り離されたような錯覚を覚えた。
今この瞬間、自分だけがイリスを独占しているという暗い満足感を感じ、慌てて首を振る。
――駄目だ駄目だ、変なこと考えちゃ駄目。今日のことは先生は『地の声』の影響ってことで流してくれたけど、こっから先は全部オレの責任になるんだから。
ぺち、と軽く頬を叩いてから立ち上がる。これ以上余計なことを考えないうちに、一刻も早く人気の多いところへ戻りたかった。しかしタビトが服に付いた土埃を払い終えても、一向にイリスは立ち上がる気配がない。訝しく思ったタビトが目線を落とすと、イリスは壁に背中を預けたまま気まずそうに地面を見つめていた。
「先生? どうしたんですか」
「……えっと……」
イリスがおずおずとタビトを見上げる。
「疲れてるとこ悪いけど……肩、貸してくれない? ……今気付いたんだけど、なんか私、腰が抜けちゃったみたいで……」
「はぁ。……いいですけど……」
腰を抜かすようなことなんて、何かあったっけ。
そんなことを考えながらイリスの腕を引いて立たせる。しかしイリスは立ち上がった勢いでヨタヨタと前のめりに倒れそうになったので、慌ててタビトが間に入って抱き留めた。
「大丈夫ですか? あ、もしかして花火に驚いて腰抜けちゃったんですか。だいぶビビってましたもんね」
「……」
なんとなく思い付きでそう言ったのだが、イリスは恨みがましい目でタビトを見上げる。けれどすぐぷいとそっぽを向いた。
「……君があんなキスするからだろ」
「え。今なんか言いました?」
「別にぃ。ねぇ、もっとちゃんと支えてくれない? これじゃいつまで経っても帰れないよ」
「なんで支えてもらう側がエラそうなんですか……」
「エラいから」
――どおおん。どおおん。ぱらぱら。ぱちぱち。
上空で乱れ咲く花火を背に、タビトとイリスは寄り添いながら家路に着いた。結局二人は花火を観ることはなかったが、反対側の空には満天の星の川が煌いていた。女神イルリアーネの涙の川は、胸が切なくなるほどに美しかったが、
――やっぱり、イリス先生の方が綺麗だな。
と、タビトは思った。
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