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8章◆少年タビトの物語
第二十五番『火葬剤』-1
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七夜の月 十五日
魔人の書 第二十五番『火葬剤』 危険度:5
プラバ式注射器を使用する。静脈に注入すると、血液が巡った箇所からただちに皮膚より発火する。
燃え尽きるまでの時間は個人によるが、平均的な成人男性で約九十分程度。可燃部分が残っていても、二時間で完全に鎮火する。被検体が元々死体の場合は、生体よりやや火の廻りが遅くなり、二時間ちょうどで燃え尽きることが多い。現在でも一部地域では実際に火葬の際に使用される。
三角座りの膝の上に紙の束を斜めにのせ、イリスがつらつらと説明を読み上げる。最後の一文までいくと、イリスはつばの広い麦わら帽子の角度をちょっとあげてタビトを正面から見据えた。
「何か質問はある?」
「大アリですよ!! 完全に死ぬやつじゃないですか!!」
想像するだけでもおぞましい『火葬剤』の症状に、タビトは身震いをして自分の二の腕をさする。しかしイリスは眩しそうに目を細め、周囲の景色を見渡した。
ここはサンサリーズ村の端っこを流れる清流、サンサリード川上流の川べりである。村外れにあるアンジュ邸の裏の小道から森に入り、一時間ほど傾斜を登ると、森の合間に抱かれるようにして流れるこの川に突き当たる。急な傾斜を流れる清流がごつごつとした岩々にぶつかり、白い飛沫をたてながら落ちていくさまは見ているだけで涼しげだ。流れの緩やかな川べりに点在する岩は長い時をかけて水に削られてきたせいか、表面が平たく均されすべすべとしていて、体を横たえれば水浴のような体験を味わえるだろう。岩でできた天然の階段を少し下ると細く小さな滝があり、滝つぼの周囲はお椀のように深くくぼんでいる。森の木々を透かした美しいエメラルドグリーンの水盆は、泳ぎが得意な者なら格好の遊び場になるに違いない。
イリスは自分が見出したこの一帯に満足すると、再びタビトに視線を戻す。
「安心して。『火葬剤』には単純かつ効果的な対処法がある。そのためにここまで来たんだ。何か分かる?」
「えっ」
タビトはこの場所に着くなり、イリスの指示で既に上半身裸になっていた。下は目の粗い亜麻布の下着一枚。靴も水に濡れないよう、他の荷物とまとめて木影に置いてある。
さっきイリスがしたように、タビトも周囲をぐるりと見渡す。
「もしかして、……水ですか?」
タビトの答えに、イリスが我が意を得たりというように大きく頷く。
「その通り。『火葬剤』を投与する前に肌の表面が濡れていればそこからは出火しない。つまり二時間の間、ここで川遊びしていれば何ら問題ないってこと」
「……ああ。なるほど。ホントに単純だ」
「もちろん、うっかり乾かないように注意は必要だけど……ここには小さな滝みたいなものもたくさんあるから、滝の落下点に入れば息継ぎの心配なく常に全身を濡らしていられると思う。万が一出火してもすぐ水の中に入れば大丈夫。ただし一度でも出火すると火傷を負うおそれはあるから、その時は私を呼んで。すぐ治すから」
しばらく前から温めていた素晴らしい思い付きを披露し、イリスはニッコリ微笑む。
これまで被験者に『火葬剤』を投与する時は、ヴァルトレインの屋敷の実験室にある古い水槽を使っていた。元は漆喰で固めた貯水槽だったもので、深さは二メートル程もある。最初に全身ずぶ濡れにされた彼らは『火葬剤』を投与されると、すぐさま井戸水を満たした水槽に入れられた。水は被験者の頭の高さまで溜める決まりになっている。一歩間違えれば溺れる程度の深さに調整することで被験者が空気を求めて自発的に動き、常に全身を濡らすことができるという寸法だ。このやり方ならばほぼ確実に出火は防げるが、被験者にかなりの負担を与えてしまう。
自分が実験を主導するからには、タビトには絶対にそんな苦痛を味わわせたりしない――とイリスは人知れず意気込んでいたのだけれど、当の本人の反応がいまいち鈍い。イリスはちょっとだけ不安になった。
「どうしたの? 他に気になることでもある?」
「えっ。いや、気になるというか……」
タビトは再度周囲の景色を見渡し、困ったように笑みをつくる。
「オレ、川遊びって初めてで……というか泳いだことないから。大丈夫なのかなって……ああ!」
言葉の途中でイリスの表情がみるみる曇っていくことに気付き、タビトは思いついたように付け加える。
「でも岩場をウロウロしてるだけでも楽しいし、深いとこに近づかなきゃ大丈夫ですよね。というかこの機会に泳ぎの練習してみようかなー! 先生教えてくださいよ。一緒に泳ぎましょう!」
二カッ! と白い歯を見せてタビトが微笑む。しかしイリスは暗い表情のままぼそりと言った。
「私も。……泳げない」
「えっ。……」
「ごめん。なんか見た目で君は泳げるものとばかり思ってた。冷静に考えたら見た目で分かる訳ないよね。……ああ、私がちゃんと確認しておけばこんなことには……」
「いやいや大丈夫ですよ先生、オレ川遊びはしたことないけど浅瀬で水浴びとか水汲みとかそういうことはよくしてましたから! 水に入るのは好きですよ、気持ちいいですもんね。あ、最初に全身濡らしとかなきゃいけないんでしたっけ。それじゃちょっと行ってきますね!」
七夜の月 十五日
魔人の書 第二十五番『火葬剤』 危険度:5
プラバ式注射器を使用する。静脈に注入すると、血液が巡った箇所からただちに皮膚より発火する。
燃え尽きるまでの時間は個人によるが、平均的な成人男性で約九十分程度。可燃部分が残っていても、二時間で完全に鎮火する。被検体が元々死体の場合は、生体よりやや火の廻りが遅くなり、二時間ちょうどで燃え尽きることが多い。現在でも一部地域では実際に火葬の際に使用される。
三角座りの膝の上に紙の束を斜めにのせ、イリスがつらつらと説明を読み上げる。最後の一文までいくと、イリスはつばの広い麦わら帽子の角度をちょっとあげてタビトを正面から見据えた。
「何か質問はある?」
「大アリですよ!! 完全に死ぬやつじゃないですか!!」
想像するだけでもおぞましい『火葬剤』の症状に、タビトは身震いをして自分の二の腕をさする。しかしイリスは眩しそうに目を細め、周囲の景色を見渡した。
ここはサンサリーズ村の端っこを流れる清流、サンサリード川上流の川べりである。村外れにあるアンジュ邸の裏の小道から森に入り、一時間ほど傾斜を登ると、森の合間に抱かれるようにして流れるこの川に突き当たる。急な傾斜を流れる清流がごつごつとした岩々にぶつかり、白い飛沫をたてながら落ちていくさまは見ているだけで涼しげだ。流れの緩やかな川べりに点在する岩は長い時をかけて水に削られてきたせいか、表面が平たく均されすべすべとしていて、体を横たえれば水浴のような体験を味わえるだろう。岩でできた天然の階段を少し下ると細く小さな滝があり、滝つぼの周囲はお椀のように深くくぼんでいる。森の木々を透かした美しいエメラルドグリーンの水盆は、泳ぎが得意な者なら格好の遊び場になるに違いない。
イリスは自分が見出したこの一帯に満足すると、再びタビトに視線を戻す。
「安心して。『火葬剤』には単純かつ効果的な対処法がある。そのためにここまで来たんだ。何か分かる?」
「えっ」
タビトはこの場所に着くなり、イリスの指示で既に上半身裸になっていた。下は目の粗い亜麻布の下着一枚。靴も水に濡れないよう、他の荷物とまとめて木影に置いてある。
さっきイリスがしたように、タビトも周囲をぐるりと見渡す。
「もしかして、……水ですか?」
タビトの答えに、イリスが我が意を得たりというように大きく頷く。
「その通り。『火葬剤』を投与する前に肌の表面が濡れていればそこからは出火しない。つまり二時間の間、ここで川遊びしていれば何ら問題ないってこと」
「……ああ。なるほど。ホントに単純だ」
「もちろん、うっかり乾かないように注意は必要だけど……ここには小さな滝みたいなものもたくさんあるから、滝の落下点に入れば息継ぎの心配なく常に全身を濡らしていられると思う。万が一出火してもすぐ水の中に入れば大丈夫。ただし一度でも出火すると火傷を負うおそれはあるから、その時は私を呼んで。すぐ治すから」
しばらく前から温めていた素晴らしい思い付きを披露し、イリスはニッコリ微笑む。
これまで被験者に『火葬剤』を投与する時は、ヴァルトレインの屋敷の実験室にある古い水槽を使っていた。元は漆喰で固めた貯水槽だったもので、深さは二メートル程もある。最初に全身ずぶ濡れにされた彼らは『火葬剤』を投与されると、すぐさま井戸水を満たした水槽に入れられた。水は被験者の頭の高さまで溜める決まりになっている。一歩間違えれば溺れる程度の深さに調整することで被験者が空気を求めて自発的に動き、常に全身を濡らすことができるという寸法だ。このやり方ならばほぼ確実に出火は防げるが、被験者にかなりの負担を与えてしまう。
自分が実験を主導するからには、タビトには絶対にそんな苦痛を味わわせたりしない――とイリスは人知れず意気込んでいたのだけれど、当の本人の反応がいまいち鈍い。イリスはちょっとだけ不安になった。
「どうしたの? 他に気になることでもある?」
「えっ。いや、気になるというか……」
タビトは再度周囲の景色を見渡し、困ったように笑みをつくる。
「オレ、川遊びって初めてで……というか泳いだことないから。大丈夫なのかなって……ああ!」
言葉の途中でイリスの表情がみるみる曇っていくことに気付き、タビトは思いついたように付け加える。
「でも岩場をウロウロしてるだけでも楽しいし、深いとこに近づかなきゃ大丈夫ですよね。というかこの機会に泳ぎの練習してみようかなー! 先生教えてくださいよ。一緒に泳ぎましょう!」
二カッ! と白い歯を見せてタビトが微笑む。しかしイリスは暗い表情のままぼそりと言った。
「私も。……泳げない」
「えっ。……」
「ごめん。なんか見た目で君は泳げるものとばかり思ってた。冷静に考えたら見た目で分かる訳ないよね。……ああ、私がちゃんと確認しておけばこんなことには……」
「いやいや大丈夫ですよ先生、オレ川遊びはしたことないけど浅瀬で水浴びとか水汲みとかそういうことはよくしてましたから! 水に入るのは好きですよ、気持ちいいですもんね。あ、最初に全身濡らしとかなきゃいけないんでしたっけ。それじゃちょっと行ってきますね!」
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