銀の旅人

日々野

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8章◆少年タビトの物語

第二十五番『火葬剤』-2

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 タビトはくるりとイリスに背を向けると、さっそく川の浅瀬に入っていく。角が丸くなった白い岩に囲まれた入江のような場所で、水位は膝くらいしかない。手始めに爪先をひたして水温を確かめる。

「お。けっこう冷たい」

 独り言のように呟いてから、すぐさまばしゃりと飛沫を立てて川の中に座り込んだ。

「せんせー、先生も来てくださいよ。冷たくて気持ちいいですよ」
「……うん」

 イリスは自分の素晴らしい『思い付き』が初歩的な『思い違い』だったことのショックから未だ立ち直れていなかったが、なんとか気持ちを切り替えて立ち上がる。『火葬剤』を投与されるのはタビトの方なのに、自分ばかり落ち込んでいられない。それに「深いところに近づかなれば大丈夫」というタビトの意見は尤もだ。
 イリスは麦わら帽子が川風に飛ばされないよう、軽く手で押さえながら歩み寄る。その間にもタビトは小さな入り江の中で体を横たえたり、頭から潜ったりして順調に全身を濡らしていた。

「ぷはぁ!」

 と、大口を開けてタビトが水面から体を起こす。同時に透明な雫が宙を舞い、日の光を浴びてきらきらと輝いた。太陽の神に愛されたような豊かな土色の肌が、イリスには不思議と眩く見えた。程よく筋肉のついた引き締まった体、くっきりと浮き出る喉仏、すらりと伸びた長い腕。それらをなぞるようにサンサリードの清流が滴り落ち、元々彼が持っている野性的な魅力を際立たせていた。

「せんせ。ほらいきますよ。えいっ」
「え? うわっ」

 突如目の前に水の塊が迫ってきて、イリスは顔面から水を被った。ぽかんとしているイリスを見て、タビトがけらけらと声を出して笑う。

「もー、何で全部完璧に当たっちゃってるんですか。避けてくださいよ」
「えー……」

 今の、私が悪いの?
 と、イリスは小さな理不尽を感じたが、タビトが楽しそうにしているならそれに越したことはない。イリスはシャツの裾で顔を拭うと靴を脱ぎ、タビトがいる川べりの岩場に腰掛け、足を水に浸した。

「本当だ、けっこう冷たいね。気持ちいい」
「先生は川入らないんですか? それ泳ぐ用の格好でしょ?」
「うーん、そういうつもりじゃないんだけど」

 上は普段からよく着ている前開きの白のシャツで、下はイリスには珍しく膝丈で切った目の粗いズボンを履いている。単純に川べりで行う実験だから濡れないようにという判断からだが、たしかにシャツさえ脱げばすぐにでも水の中に飛び込めるだろう。泳げないので飛び込まないが。

「こうやって足をつけるくらいならいいけど、それ以上入るつもりはないよ。一応仕事中だしね」

 イリスの返事にタビトは「えー、つまんないなあ」と口を尖らせるが、すぐにぱっと顔を輝かせる。
「あっそれじゃあ、『火葬剤』を打って二時間経ったら遊びましょうよ! それならもう仕事中じゃないでしょ」
「え? う、うーん。でもほら、私泳げないから……」
「オレだって泳げませんよ。……そうだ、それじゃ今回のご褒美は『イリス先生と川遊びすること』! これでどうですか?」

 こんな風にニコニコと輝く笑顔を向けられては、無下にするのは難しい。イリスはつられて口角が上がってしまうのを感じながら、手元の書類に目を落とす。

「そこまで言われたら仕方ないな。じゃあそうしよう」
「やった! あ、でも本当に嫌だったら言ってくださいよ? 川に何か嫌な思い出があるとか」
「そういうんじゃないよ。ただ体を拭くもの、君のぶんしか持ってこなかったから。ちょっと不便かなと思っただけ」
「なんだ、そんなこと。それなら先生が使えばいいですよ、オレはそのへんの岩にでもへばりついて乾かします」
「そういう訳にはいかないけど……でもそうだね、この天気なら日没前にあがれば十分乾きそうだ」

 さっき懐中時計を見た時、針は午前九時過ぎのところを指していた。『火葬剤』の症状が収まるのが正午前だとして、そこから休憩と昼食の時間をとっても日没までは十分ある。
 今後の予定が決まったところで、いったんイリスだけが荷物のところに戻り、注射器の箱を手に戻ってきた。タビトの全身がくまなく濡れていることを改めて確認してから、慎重に左腕に針を刺す。

「いつもより体が火照って肌が乾きやすくなるから、できるならずっと全身を水につけていてほしい。それからさっきも言ったけど、万が一発火した時はすぐ患部を水に沈めて私を呼ぶんだよ」
「はい。分かりました」

 針を抜いたあとにできる小さな傷口は、イリスが親指で拭うと手品のように消えた。タビトはそれを見届けると、仰向けになるような姿勢で背中から浅瀬にざぶりと飛び込む。

 イリスは改めて懐中時計を確認する――午前九時二十六分。
 それを手元の書類に書きつけてから、仰向けの姿勢で浮かんだり沈んだりを繰り返しながら川中を進むタビトを見守る作業に入った。

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