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8章◆少年タビトの物語
第二十五番『火葬剤』-3
しおりを挟む『火葬剤』の経過は、イリスが予想していたのとは別の方向で順調だった。
「先生、ここ魚めっちゃいますよ! たぶん食えるやつだと思います。捕まえて後で昼飯にしますか?」
「ほら先生蟹! こういう小さい蟹は塩振って焼くだけで美味いんですよ。ここ置いとくんで見ててください」
「先生、なんか珍しい石ありました! ほら、ここに金色のキラキラしたやつが入ってるんです。滝つぼの底の方にあったんですけど、これ値段付きませんかね? 宝石じゃないからダメかな」
浅瀬での水浴に早々に飽きたタビトは、イリスの心配をやんわりとかわして岩の階段を下り、広くて深さのある滝つぼの周辺を散策し始めた。そして投与から一時間が経つころには、普通に泳げるようになっていた。
川遊びは初めてだし、泳いだこともない――なんて困ったように笑っていたのが嘘のようだ。今やタビトはここで生まれ育った地元の青年のように自信たっぷりに水をかき、細々とした発見をしては喜び、全身全霊でサンサリーズの夏を満喫していた。
最初から楽しんでもらうことが目的だったとはいえ、ほんの一時間で見事に順応してしまったタビトの運動神経にイリスは少し呆れた。こういうところにも生き物としての強度の違いが現れてるなあ――と、自分の青白い胸元を見下ろし自嘲気味に笑う。
タビトの体質ならば、『火葬剤』の症状は二時間と言わず一時間くらいに収まっていたかもしれない。けれどそれを確かめようとすると彼に火傷を負わせる危険があるし、何より本人が楽しそうにしていたので、イリスはきっかり二時間、タビトの川遊びを見守った。
更に念のため懐中時計の針が午前十一時半のところを通り過ぎるのを見届けると、イリスは下流に向かって突き出した大岩の上に手を付き、下の滝つぼに向かって声をかける。
「タビト。少し早いけどお昼にしようか」
「えっ。もうそんな時間ですか」
「うん。アンジュ先生のお弁当があるからあがっておいで」
「はーい!」
流れのゆるやかな深いエメラルドグリーンの水盆の中、仰向けになってぷかぷかと浮かんでいたタビトがイリスの声でくるりと身を反転させる。そして長い腕でゆったりと水をかいて浅瀬に向かって泳ぎ始めた。もはや自分の庭のような振る舞いに苦笑しながら、イリスも荷物が置いてある大岩の方へ歩き出す。
川によって削られた岩々と森の木々との境目、木陰になって少しひんやりした土の上に、今日持ってきたものがまとめてあった。イリスがリュックの口を緩め、竹の葉で包んだ弁当や革の水入れを取り出していると、程なくしてタビトが水を滴らせながらやってくる。
「うぅ、地上は暑いですね。川の中で食いたい」
「たった二時間で魚人みたいなこと言うようになったね。ほら、木陰は涼しいからおいで」
イリスから受け取ったふかふかのタオルで顔を拭いながら、タビトが足を投げ出すようにして岩と土の境目に腰を下ろす。
「あ。そういやさっきの蟹どこです? 今塩焼きにしちゃいましょう!」
「えっ。……さあ、岩の窪みの水が溜まってるところに入れといたけど……まだいるかな」
「えー、ちゃんと見ててくださいよー! どの岩ですか?」
「いや私の仕事は蟹じゃなくて君を見ることだし……というか」
イリスは水袋をタビトの腕に押し付ける。
「今日は火を点けるものも塩も持ってきてないから塩焼きは無理だよ。やるなら持ち帰って、アンジュ先生のうちのキッチンを借りなきゃ」
「ああ、そっか。まあそれも悪くはないけど……」
タビトは不満そうに眉をひそめながら、革袋を傾けて水を飲む。けれど途中で思い出したように口を開いた。
「というかオレ、フツーに川の水飲んじゃってたんですけど。よかったですか?」
「うーん、この辺りは人気がないからそこまで心配する必要はないけど……動物の糞とかが混じってることもあるからオススメはしないね」
「なるほど。つまり大丈夫ってことですね」
「そうだね」
噛み合っているのかいないのか、大雑把な会話をしながら木陰の中で弁当を広げた。竹の葉に包まれていたのは、米と麦を蒸して三角形に結んだもので、中には味をつけた魚の切り身や刻んだ漬物が入っている。それを膝にのせて並んで口に運ぼうとした時、下流の方から「おぉい」と野太い声が響いた。
「おーい。イリス先生。いませんかぁ」
声にあまり緊迫感はなかったものの、わざわざ村はずれのアンジュ邸から更に一時間かけてのぼってきた、となると少し気になるものがある。イリスは立ち上がって岩場の方に早足で向かった。少し遅れてタビトも用心棒のように着いてくる。
「私はここです。どうしました?」
「ああ、イリス先生。……よかった、やっと会えた」
そこに居たのは、昨日イリスが半日顔を突き合わせていた義理の父子だった。情が深く腕っぷしも強いことから村人達から頼りにされているが、根っこの部分は牧歌的で争いが嫌いなギリー。そんなギリーに対し、ぶっきらぼうな態度を見せつつも最近少しずつ甘えることを覚え始めたラギ。汗みずくになり、肩で息をあげているギリーの影に隠れるようにしてラギがくっついていた。
「アン爺にこのあたりにいると聞いたもんで。よかったら昼飯でも一緒にどうですか。今そっち行きますね」
「え。……」
土の地面を歩く方が楽と判断したのだろう、父子は岩場からいったん森の中に入りイリスの視界から消えた。イリスはこっそりと斜め後ろにいたタビトの様子を横目で探る。
「……」
明らかに機嫌が悪くなっていた。「せっかく二人きりだったのに。邪魔なのが来た」と顔に書いているようだ。
「た、……タビト。ほら、ちょっとお昼食べるだけだから。その後は二人で遊べるよ」
「……だといいんですけど」
はぁ。と低いため息を零し、肩を落としてすごすごと木陰に戻るタビトの後ろ姿を見て、イリスは一抹の不安を覚えたが、幸いにもそれはすぐ払拭されることとなった。
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