あの日、君は笑っていた

紅蘭

文字の大きさ
1 / 89
第一章

探し物Ⅰ

しおりを挟む
五年前、僕は彼女を殺した。

紗苗さんはとても優しい人だった。

いつも柔らかく微笑んでいて、あたたかい声で僕を呼ぶ。「こう君」って呼んでくれる声が好きだったからわざと聞こえないふりをしたこともあった。

一人で歩いている時に綺麗な花を見つけたら案内してくれた。僕は花なんて本当は興味ない。
だけど綺麗だと言って、嬉しそうに笑う紗苗さんが綺麗だったから、並んで花を眺めた。

ひだまりのような人だった。

僕よりも一つだけ年上の彼女。

僕が大学を卒業したら当たり前のように結婚するんだと思っていた。

結婚して、一緒に年を重ねて、十年後も二十年後も二人で一緒に過ごすんだと思っていた。

それ以外の未来なんてあの時の僕にはなかった。


僕はそんな紗苗さんを殺した。

だけど、罰も受けずに彼女のいない世界で息をしている。

誰も僕を責めない。誰もが僕を被害者だと言う。

「弘介は悪くないのよ。弘介が殺したんじゃないの」母は何回も僕にそう言った。


それでも、僕は知っている。自分の罪の大きさも重さも、自分が一番よく分かっている。


あの日、彼女を殺したのは確かに僕だったのだ。





「こう君、この本すごくいいの。私もう何回も読んじゃった。こう君にも読んでほしいな。あのね、」


お母さん、早くしてよー。

テンションが上がってふわふわしている紗苗さんの声は、どこかから聞こえた男の子の声で途切れた。

はいはい、ちょっと待ってね。

お母さんらしき人の声も聞こえた。頭が覚醒してきた。

多分、隣の部屋の親子だ。普段はあまり会うこともないけど、会ったときは立ち話をする程度には関係は良好だと思う。
少しすると、ぱたぱたと軽い足音が僕の部屋の前を駆け抜け、それと一緒に声も遠のいていった。

静かになった部屋でため息をついて、再び目を閉じる。

今日の夢は、紗苗さんのお気に入りの本を薦められた時の夢。

あれはいつだったのか、どこだったのかもう思い出せない。そういうことがあったなとぼんやり覚えているだけ。

紗苗さんと最後に話した日から五年が経っている。

記憶は風化し、よく思い出せないことが多い。

だから、毎日のように見る紗苗さんの夢を何回も何回も振り返る。

夢で見た紗苗さんを忘れないように胸に刻み付ける。この五年間の習慣だ。

今の夢、紗苗さんはこの後なんて言ったのだろう。

本の面白かったところ? 作者の話? 最初の頃は思い出せていた夢の続きが今では想像でしか描けない。

それがすごく悔しくて、悲しい。

紗苗さんの死から一年ほどが経って、それに気が付いた時は涙が止まらなかった。

紗苗さん葬式以来、初めて泣いたのがあの時だった。

だけど、今となっては思い出せないのは当たり前で、夢のその先が分からないことには慣れた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。 その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。 そこで待っていたのは、最悪の出来事―― けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。 夫は愛人と共に好きに生きればいい。 今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。 でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。 妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。 過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――

老聖女の政略結婚

那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。 六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。 しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。 相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。 子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。 穏やかな余生か、嵐の老後か―― 四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。

《完結》氷の侯爵令息 あなたが子供はいらないと言ったから

ヴァンドール
恋愛
氷の侯爵令息と言われたアラン。彼は結婚相手の伯爵令嬢にとにかく冷たい態度で接する。 彼女は義姉イライザから夫が子供はいらないと言ったと聞き、衝撃を受けるが気持ちを切り替え生きていく。

さようなら、お別れしましょう

椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。  妻に新しいも古いもありますか?  愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?  私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。  ――つまり、別居。 夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。  ――あなたにお礼を言いますわ。 【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる! ※他サイトにも掲載しております。 ※表紙はお借りしたものです。

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る

家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。 しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。 仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。 そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

冷徹宰相様の嫁探し

菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。 その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。 マレーヌは思う。 いやいやいやっ。 私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!? 実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。 (「小説家になろう」でも公開しています)

処理中です...