あの日、君は笑っていた

紅蘭

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第一章

探し物Ⅰ

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五年前、僕は彼女を殺した。

紗苗さんはとても優しい人だった。

いつも柔らかく微笑んでいて、あたたかい声で僕を呼ぶ。「こう君」って呼んでくれる声が好きだったからわざと聞こえないふりをしたこともあった。

一人で歩いている時に綺麗な花を見つけたら案内してくれた。僕は花なんて本当は興味ない。
だけど綺麗だと言って、嬉しそうに笑う紗苗さんが綺麗だったから、並んで花を眺めた。

ひだまりのような人だった。

僕よりも一つだけ年上の彼女。

僕が大学を卒業したら当たり前のように結婚するんだと思っていた。

結婚して、一緒に年を重ねて、十年後も二十年後も二人で一緒に過ごすんだと思っていた。

それ以外の未来なんてあの時の僕にはなかった。


僕はそんな紗苗さんを殺した。

だけど、罰も受けずに彼女のいない世界で息をしている。

誰も僕を責めない。誰もが僕を被害者だと言う。

「弘介は悪くないのよ。弘介が殺したんじゃないの」母は何回も僕にそう言った。


それでも、僕は知っている。自分の罪の大きさも重さも、自分が一番よく分かっている。


あの日、彼女を殺したのは確かに僕だったのだ。





「こう君、この本すごくいいの。私もう何回も読んじゃった。こう君にも読んでほしいな。あのね、」


お母さん、早くしてよー。

テンションが上がってふわふわしている紗苗さんの声は、どこかから聞こえた男の子の声で途切れた。

はいはい、ちょっと待ってね。

お母さんらしき人の声も聞こえた。頭が覚醒してきた。

多分、隣の部屋の親子だ。普段はあまり会うこともないけど、会ったときは立ち話をする程度には関係は良好だと思う。
少しすると、ぱたぱたと軽い足音が僕の部屋の前を駆け抜け、それと一緒に声も遠のいていった。

静かになった部屋でため息をついて、再び目を閉じる。

今日の夢は、紗苗さんのお気に入りの本を薦められた時の夢。

あれはいつだったのか、どこだったのかもう思い出せない。そういうことがあったなとぼんやり覚えているだけ。

紗苗さんと最後に話した日から五年が経っている。

記憶は風化し、よく思い出せないことが多い。

だから、毎日のように見る紗苗さんの夢を何回も何回も振り返る。

夢で見た紗苗さんを忘れないように胸に刻み付ける。この五年間の習慣だ。

今の夢、紗苗さんはこの後なんて言ったのだろう。

本の面白かったところ? 作者の話? 最初の頃は思い出せていた夢の続きが今では想像でしか描けない。

それがすごく悔しくて、悲しい。

紗苗さんの死から一年ほどが経って、それに気が付いた時は涙が止まらなかった。

紗苗さん葬式以来、初めて泣いたのがあの時だった。

だけど、今となっては思い出せないのは当たり前で、夢のその先が分からないことには慣れた。

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