あの日、君は笑っていた

紅蘭

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第一章

弘介と紗苗Ⅱ

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「うん、また明日」


この人が『紗苗さん』か。

さっきの女の人が帰って行くと彼女は僕の方を見て言った。


「これも何かの縁なので手伝いますよ。私三年生なので少しは役に立つかと」


一つしか変わらないことに驚いた。

もっと年上なのかと思った。決して悪い意味ではなく、いい意味で。

すごく落ち着いている人だ。

ぶつかって腕を掴んだ上に、レポートを手伝ってもらうのはすごく申し訳なかったけど、正直ありがたかったので、僕は素直に頭を下げる。


「ありがとうございます」

「いいえ、気にしないでください」


微笑む彼女はとても綺麗だった。

つい見とれてしまってはっとする。そしてそれをごまかすように言った。


「紗苗さんって言うんですか?」

「はい、紗苗です」

「年上なんですから、敬語はやめてください」


僕の言葉に紗苗さんが一瞬だけきょとんとしてまた微笑んだ。


「じゃああなたも敬語止めてもらえますか? 一つしか変わらないんですから。ね、弘介君」


なんで僕の名前を知っているんだ。

驚いてばっと紗苗さんの顔を見ると、紗苗さんは笑った。


「そんなに驚かないで。レポートに書いてたでしょう?」

「ああ、そうだった」


思うと同時に声に出ていたようで、紗苗さんは「うん」と頷いた。

改めて開いた本に視線を落とす。少し読んだだけで分かった。

僕のレポート課題にぴったりの本だった。

「これもらって」と紗苗さんが僕に缶コーヒーを差し出した。

ありがたくもらって早速飲むと、コーヒーの香りが口の中いっぱいに広がった。


「中野先生ね、今朝奥さんと喧嘩したんだって」


紗苗さんはまるで内緒話をするかのように声を潜めて教えてくれた。

なるほど、だからあんなにカリカリしていたのか。

更に紗苗さんは可笑しそうに笑う。


「喧嘩した時はいつもああなんだよ。それで、帰りに駅前のケーキを買って帰るの」


どこから仕入れているんだ、その情報は。

女の人の情報収集力はすごいなと、感心する。

コーヒーをもう一口飲む。


「かわいいよね」


その言葉に口に含んだコーヒーを吐き出してしまいそうになり、無理やり飲み込むとむせた。

なんだ、かわいいって。あんなハゲたおっさんがかわいいわけないだろ。

そう言いたかったが、むせて言葉にならない。


「大丈夫?」


紗苗さんが立ちあがって机の向こう側から心配そうにのぞき込んでくる。

誰のせいだと思っているんだ。と、心の中で文句を言うが、もちろん紗苗さんには届かない。

少ししてようやく落ち着いた。


「あんなおじさんかわいいわけないよ」


僕がそう言うと、紗苗さんは首をかしげた。


「そうかな。あんなおじさんになっても奥さんと喧嘩して、ケーキで仲直りできるんだよ。かわいくない?」


かわいくない。

心の中でそう思ったが、口には出さずに代わりに曖昧に頷いておいた。

女の人の考えることはよく分からない。
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