あの日、君は笑っていた

紅蘭

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第二章

変わったものと変わらないものⅤ

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「麗奈ちゃん、君は何を知っているの?」


その言い方がまた頭に来た。


「私は何も知りませんよ」


そう、私は何も知らない。

あの日、あの場所でどんなことがあったのかも、その時弘介さんがどこで何をしていたのかも。

私は何も知らない。


「どうしてそんな泣きそうな顔をしているの?」


知らない。何も知らない。

怒りで涙がこみあげてきて、言葉が口をついて出た。


「全部弘介さんが悪いんです! 紗苗さんが死んだのはあなたのせいだ。あなたが、紗苗さんを殺したんです!!」


涙が溢れて叫ぶようにしてそう言うと、まだ言葉が出て来そうになった。

嫌だ、これ以上言いたくない。こんな汚いこと言いたくない。

そう思っても止められない。

自分ではどうしようもなくなったその時、誰かが私の口を後ろから覆った。


「はい、そこまで」

「あ……」


後ろを見上げるとひろ君がいた。


「すみません、今日はもう連れて帰ります」


ひろ君は弘介さんに頭を下げると私の手を引いた。

引かれるままに歩き出す。横をすり抜けるとき、呆然とした弘介さんの顔が見えた。



涙でぐしゃぐしゃな顔のまま電車には乗れないだろうから、とひろ君はタクシーを止めてくれた。

その時にはもう私も落ち着いていて、すごく申し訳なかったが、確かにこの顔で電車に乗るのは恥ずかしかったので何も言わずにタクシーに乗った。

タクシーの中でひろ君は何も言わず、私の顔を見ることもなかった。


マンションの前でタクシーを降り、私たちの住む部屋へ向かう。

斜め前を歩くひろ君の表情は見えない。

ひろ君はドアを開けると、先に私に入るように促す。

申し訳なさと少しの恥ずかしさが入り混じった感情でひろ君を見上げるとひろ君はいつも通り笑う。


「いいから、先に風呂に入っておいで。お湯はってるから」


その言葉と同時に私の背は押され、ひろ君も玄関に入る。

とりあえずお風呂に入ろう。私は靴を脱ぐと自分の部屋から着替えをとり、お風呂に向かう。

ひろ君は真っすぐにリビングの方へ行った。


温かいお湯につかると体がだるくて動かなくなってきた。

このまま目を閉じて寝てしまいたい。体の力を抜いて頭を浴槽にあずけると、天井の白いライトが見えた。

それを眺めながら自分がさっき言ったことを思い出した。


「弘介さんのせい。弘介さんが殺した」


もう一度言葉にしてみると自分の言葉が人を傷付けたことをリアルに感じられた。

それと同時にかつて自分が言ったことも思い出す。


――『僕のせいで死んだ』、と『僕が殺した』は似ているけど違うと思います。


お湯がぬるくなってきたので『追い炊き』ボタンを押す。

そのまま目を閉じると、ひろ君の話す声が聞こえる。

内容までは分からないけど、誰かと電話をしているみたいだ。

心地いいその響きを聞いていたら眠くなってきた。
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