あの日、君は笑っていた

紅蘭

文字の大きさ
57 / 89
第二章

変わったものと変わらないものⅥ

しおりを挟む
「麗奈、麗奈」


名前を呼ぶ声にはっとして目を開ける。

いつの間にか寝ていたみたいで、熱々だったお湯がまたぬるくなっている。


「麗奈、大丈夫? 開けるよ」


その言葉と同時に浴室のドアが開いてひろ君が顔を出した。


「大丈夫?」

「うん、寝てた」


そう言いながら立ち上がる。

ひろ君は私にタオルを手渡すと、キッチンの方へ行った。

体に付いた水滴を拭き取っていると向こうからひろ君の声が聞こえる。


「シチュー作ったんだけど食べる?」


笑ってしまった。


「シチュー?」


もう夏になろうかというこんな時期にシチューって……。

笑いながら聞くとひろ君も笑った。


「うん、シチュー。麗奈好きだろ?」

「好きだけどね」


そう笑ったけど知っている。

ひろ君が私のためにわざわざ作ってくれたこと。お風呂に入る前はなかったから。

ひろ君は何も言わないし聞かない。

だけど私を元気づけるために好きなものを作ってくれる。

その優しさがとても好きだ。


「ひろ君」

「うん?」


鍋とおたまのこすれる音がする。


「ありがとう」


改めてお礼を言うのは恥ずかしいけど、なぜか自然と言葉が出た。

ひろ君は少し遅れて「うん」と言った。


シチューを食べて布団に入る。

お風呂の中で少し寝たせいか、全く眠くない。

同じ布団で横になっているひろ君を見てみるが、寝ているのか起きているのかよく分からない。

ため息をついてとりあえず目を閉じてみる。


さっきの弘介さんの愕然とした顔が浮かぶ。

どうしてこうなってしまったんだろう。

分からない。

私はどこで間違えてしまったのか。

これは分かる。

きっと、一番初めから間違えていたのだ。

そんなつもりじゃなかったと思うのも、弘介さんが悪いんだという言葉も全部言い訳でしかないことを私は知っている。

だけど認めるわけにはいかなかった。

私はそれを認められるほど強くはなかった。

あの日声をかけなければよかった。探さなかったらよかった。余計な好奇心などさっさと捨ててしまえばよかった。


溢れた涙を拭う。泣いたら駄目だ。ひろ君が起きてしまう。

また心配かけてしまう。真っ暗な中で天井を見上げてどうにか涙を止めようとしたけど止まらなかった。


「麗奈」


ひろ君が私の方へ手を伸ばしてきた。

どうも最初から起きていたようだ。

私はひろ君の胸の中に入り込み、抱き着いた。

大きな手がなぐさめるように私の頭を撫でる。

もう嫌だ。何も考えたくない。

涙でぐちゃぐちゃなまま顔を上げると真っ暗な中でひろ君の輪郭が見えた。


「ひろ君、お願い、今は何も考えたくないの」


私が望めばひろ君は応えてくれる。

いつだってそうだった。

大きな手が私の涙を拭い、ひろ君の顔が近付いて来た。


「ごめんね」


その謝罪は何に対してだったのか、言った私にも分からなかった。

だけど、ひろ君は「うん」と頷いて、温かい手で丁寧に私を愛した。

いつもは心地いいその優しさが今はとても痛かった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。 その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。 そこで待っていたのは、最悪の出来事―― けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。 夫は愛人と共に好きに生きればいい。 今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。 でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。 妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。 過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――

老聖女の政略結婚

那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。 六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。 しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。 相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。 子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。 穏やかな余生か、嵐の老後か―― 四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。

《完結》氷の侯爵令息 あなたが子供はいらないと言ったから

ヴァンドール
恋愛
氷の侯爵令息と言われたアラン。彼は結婚相手の伯爵令嬢にとにかく冷たい態度で接する。 彼女は義姉イライザから夫が子供はいらないと言ったと聞き、衝撃を受けるが気持ちを切り替え生きていく。

さようなら、お別れしましょう

椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。  妻に新しいも古いもありますか?  愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?  私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。  ――つまり、別居。 夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。  ――あなたにお礼を言いますわ。 【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる! ※他サイトにも掲載しております。 ※表紙はお借りしたものです。

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る

家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。 しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。 仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。 そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

『婚約破棄された悪役令嬢ですが、嫁ぎ先で“連れ子三人”の母になりました ~三人の「ママ」が聞けるまで、私は絶対に逃げません~』

放浪人
恋愛
「母はいりません」と拒絶された悪役令嬢が、最強の“ママ”になるまでの物語。 「君のような可愛げのない女は、王妃にふさわしくない」 身に覚えのない罪で婚約破棄され、“悪役令嬢”の汚名を着せられたクラリス。 彼女が新たに嫁いだのは、北方の辺境を守る「氷の公爵」ことレオンハルト・フォン・グレイフだった。 冷え切った屋敷で彼女を待っていたのは、無表情な夫と、心に傷を負った三人の連れ子たち。 「僕たちに、母はいりません」 初対面で突きつけられた三つの拒絶。しかし、クラリスは諦めなかった。 「称号はいりません。私が欲しいのは――あなたたち三人の『ママ』になれる日だけです」 得意の生活魔法『灯(ともしび)』で凍えた部屋を温め、『鎮(しずめ)』の歌で夜泣きを癒やし、家政手腕で荒れた食卓を立て直す。 クラリスの献身的な愛情は、頑なだった子供たちの心を解きほぐし、やがて不器用な夫の氷の心さえも熱く溶かしていく。 これは、不遇な悪役令嬢が「最強の母」となり、家族を脅かす元婚約者や魔獣たちを華麗に撃退し、最愛の家族から「ママ」と呼ばれるその日までを綴った物語。

処理中です...