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今日も私は誰も待ってくれてはいないボロアパートにとぼとぼと帰っていた。
現在29歳のパート。日中はスーパーの品出しで生計を立てている。時給も安いから、休みなんてほとんどない。職場には私より年を取ったおばさんパートや大学生しかいないから出会いもない。あと一か月で30歳になるというのに、私には彼氏がいたことはなかった。
「あーあ、これからどうしよう…。」
少しでも気を抜くと涙が出そうになってくる。いつもはこんなことないのだけれど、なんだか今日は気持ちがズーンと落ち込んでこんなことで泣いてしまいそうになった。
こんな時に家に誰かいたらもっと気持ちは楽になるのに、とつくづく思ってしまう。けれども、唯一の肉親である母親は二年前に再婚し、いまは相手の連れ子を育てるのに精いっぱいだ。そんな幸せな家庭にこんな陰気で大したとりえもない私は入っちゃいけないようなきがして、実家に帰ることもなくなっていた。多分もう五年は実家に帰っていない。
なんとなくアンニュイな気持ちになりながらもいつも通りに私の家が見えてきた。今にも崩落しそうな階段を踏みしめながら一段一段上ってゆく。ガチャ、と鍵を回してドアを開けると、その中には取り込んだ洗濯物が部屋中に散乱した、少なくとも人には見せれない部屋が夕日に照らされて溶け込むような色彩を放っていた。
「ああ、洗濯物畳まなくっちゃ。」
そうつぶやいて、まき散らされたシフォン生地の薄紫のスカートや淡い水色の薄い生地に小さな白い花々がちりばめられたワンピースを手に取る。これらの服は昔私がデザインを気に入って買ったものだが、もう年齢的な問題もあり、着づらくなってしまったから今週中にフリマアプリに売ってしまおうとしていた。ふと、タオルケットの下敷きになっている紺色の星座があしらわれたワンピースを引っ張り出して、全身鏡の前で合わせてみる。星の部分には一つ一つ銀の小さなビーズが縫い付けて合って、くるりと回るとそれらがぶつかりあって共鳴するようにカチャカチャと鳴った。とりあえずタオル類だけでも夕食前に畳んでおこうかと思ってタオルを集める。もう何年も買い替えていないそれはごわごわして、こんなので顔を拭いたら顔の繊維が切れてしまいそうだった。タオルを黙々と畳みながら私はあの星座のワンピースだけは売らないでおこうとこっそり決意した。
タオルをたたみ終え、レンチンの夕食を終えると、日課である家庭菜園の世話をする。こんなボロアパートだけどなぜか共用の庭は広くって、入居者は大家さんに許可を取れば自由に使っていいことになっていた。だから私は庭の一片を借りて、トマトやナス、キュウリやシソなどを植えて育てている。できた野菜はお隣さんとかにおすそ分けしてみたいけれど、実際インターホンを押して自分の作った野菜を持っていくというのは人見知りの私にとってはかなりの苦行だった。最近買った家庭菜園のガイドブックを見ながらトマトの手入れをしていると、ふと、
「にゃーん。」
と後ろからかわいい鳴き声がした。
「え、ねこ!?」
つい声に出して驚いてしまう。
声の出どころをきょろきょろして探すと、後方右斜めに黄色くて丸い目をした黒猫がちょこんと前足をまげて寝そべるように座っていた。
「わー、かわいいなあ。」
近づいて行っても猫はそのまま香箱座りを続けていた。きれいな猫だから飼い猫なのかも。
頭を撫でてみると耳を下に逸らせるようすがとてもかわいい。首輪はしていないようだった。
「うちの子になっちゃう?」
なんて言いながら撫でていると、突然、その黒猫は車道に向かって走り出した。
「え、危ないよ!!」
私も慌てて追いかける。この辺りは案外車の通りが多いし、県民性なのか、運転が荒い。
やっとのことで車道でのんきに毛づくろいをしている猫に追いつく。
「あんたねえ、こんなとこ危ないでしょ。」
と、猫を抱きかかえて戻ろうとしたとき、もうとっぷり暗くなった夜を割くような白色光が私をつんざいた。

鳥のさえずりと穏やかな日差しで目が覚める。なんだか壮絶な夢を見ていたような気がしたが何も思い出せない。手元にはなぜか家庭菜園の本が握られていた。あれ、昨日何をしたんだっけ。ていうか、今日は早番だから…。
「遅刻だーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!」
やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい
先週も2分遅刻しただけでめちゃくちゃ怒られたからもう絶対遅刻しないって決めたのに
!とりあえずスマホ…。ベッドをまさぐってもスマホはない。落としたのかな、とベッドに潜ってみてもどこにもない。
ていうか、なんだこのベッド。なんか俗にいうラブホみたいな感じ。蚊帳みたいな布がついてて…。いや、実際行ったことないし、同人誌でしか見たことないけど…。だいたいよく見渡してみると昨日畳んだタオルや散らかった服はどこにもないというどころか、ベルサイユ宮殿の一室みたいな空間がそこには広がっていた。
「え、夢?」
ほっぺをつねったけど、痛い。
これってもしかして…。
不安のような期待のようないろいろないまぜの気持ちで洗面台に向かう。大理石のような洗面台には水滴一つ残っていなかった。
せーの、という掛け声でバッと鏡を見る。そこには色白で少し切れ長で灰色がかった瞳、少し癖のある腰ほどの長さのつやつやしたカラスの翅のような黒髪を持つ美しい少女が立っていた。
「異世界転生じゃん!!!」
まさかこんなことって。でも明らかに鏡に映って口を半開きにして立ちすくんでいるのは私だけど私じゃなかった。
「こんなことなら異世界転生の小説読んどきゃよかった…。」
あいにく私は納豆系女子なのでバラ園しか訪れたことがない。ツイッターや広告などで時折出てくる漫画のみがこの世界を攻略する鍵なのだ。
でもたしか、異世界転生ものっていうのは冴えないOLとかが不慮の事故でどこかの国の令嬢になって、王子とかそのほかのイケメンからもちやほやされるっていう話だよね。あれ、こんなに単純だったっけ…。
コンコン、とドアをたたく軽い音がした。
「メアリお嬢様―!お目覚めですか?」
「あ、ああ、はいいー!」
わたわたとベッドに戻り腰掛ける。
ガチャリとドアが開いて70代くらいの品のよさそうな老婆が朝食のプレートを持って部屋に入ってきた。
「では、こちらに置いておきますね。」
老婆は紅茶を金色で縁取られたかわいらしいティーカップに注ぎ、それからこちらを一瞥するとそそくさと出て行ってしまった。愛想のない使用人だな、なんて思いながらプレートに目をやるとそこには半熟のスクランブルエッグ、小ぶりだけれど芳醇な香りを漂わせているパン、サラダが置かれていた。
「うわ、おいしそー!」
大分昔にホテルで食べた朝食のバイキングみたいな朝ごはんに目を輝かせる。大体、朝ごはんなんていつぶりだろう。それに手作り料理ももう多分半年も食べてない。大体いつもスーパーで半額になってるお惣菜か冷凍食品かカップ麺だし。そんなこと考えながら食べていると朝食はあっという間になくなってしまった。もうちょい食べたかったけど、さすがにお代わりしに行く勇気はない。とりあえずこの食器どうしよう。反抗期の息子みたいにドアのまえに置いとけばいいのかしら。取り敢えずお皿をもって住んでたアパートの五倍以上はある部屋を出ることにする。豪邸ってこんなにドアが遠いんだなあ。住んでるだけで痩せちゃいそう。
しかし、廊下に出てみるとずらりとドアが並んでいたもう何が何だか分からない。そのうえ三回くらいまで国会にありそうな階段が伸びている。
「ええ、キッチンは一体どこなんだろー…。」
高そうなネグリジェを着ているお嬢様がお盆をもってウロウロしている姿ははた目から見たらさぞかし滑稽だっただろうが、そんなことに気を留めている暇はなかった。
「キッチンだから一階だとは思うけど、とりあえず端から見ていくか。」
すると、カツカツと乾いた音がこちらに向かってきているのが聞こえてきた。
「え、誰!?」
こっそり隠れようとしたけどもう手遅れ。そこには刃物のように煌めくブロンド髪と青い瞳をした推定9等身のイケメンがこちらを凝視していた。
目があった瞬間、こちらに近づいてくる!
やばい、なんか言わなきゃ。
「ごきげんよ」
「なんでお前がここにいる!?とっとと部屋にもどれ!」
え…?え??
今私怒鳴りつけられた?
なんで?
溺愛されるんじゃないの??
セオリーどこ行った??
あ、もしかして、中身違うのバレた!?
「ご、ごめんなさい!でも私もなんでか分からなくて」
「さっさと失せろ!このクズ女!」
廊下中に響き渡る怒声に、私は何も言い返せず、小走りで元来た道を戻るしかなかった。
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