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まほろばのピストル
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定時の間際になって、課長宛に入った電話は黒崎に嫌な予感を抱かせた。電話を受ける課長の顔がみるみる渋いものに変わっていくので黒崎は静かに帰宅の用意を始めていた。しかし、課長が電話を耳につけたまま指をひらひらさせて呼んでくるのを見てしまっては帰れない。定時の3分前であった。
会社を出た頃にはすでに23時を回っていた。終電に乗るために会社を出たものの鞄には持ち帰りの仕事が詰め込まれている。
点字ブロックの上を風に押されて空き缶が転がってくる。タイミングを合わせて黒崎は空き缶を思い切り蹴飛ばした。空き缶はすぐ先の駐輪場の中で跳ねて音を立てた。
課長から厄介な案件を押し付けられたのは少し前のこと。それは暗に客先への納入数量を誤魔化せという指示に等しかった。数量が多い品物であるからバレはしない。相手の在庫に入った後は数ヶ月かけて使い切るものであったからバレるとしても先のことになる、はずだった。
最寄り駅南口の立ち飲み屋に寄ることにしたのは、ただ真っすぐ帰ろうとすると全部が嫌になってしまいそうだったから。瓶を頼んでカウンターに体重を預ける。くそ、苛立ちは収まりそうにない。元々は課長が無理やり押し付けてきた話だったじゃないか。いざ処理する段になれば作業は全部俺に降ってくるんだ。黒崎は毒づいてしまうのをビールで流し込む。空きっ腹なこともあって胃は黒っぽい熱を帯びた。みるみる顔が赤くなっていくのを感じていた。
「ずいぶんと飲みますね」
不意に横から声がする。いつの間にか新しい客が来ていたらしい。
「ストレスですよ」
黒崎は乱暴に答えた。
「ストレス社会ですからね」
随分と簡単にその声は答えた。
「簡単なもんじゃない。悪意だよ。悪意に満ちたストレスだ」
「悪意とは大変なものですね。どうです、良いストレス解消の道具があります。捨てる予定の物なんですが要りますか」
良いストレス解消の道具か。そういう類のおもちゃがあるのは知っていたが、手を出したことはこれまで無かった。
「タダならね。あいにく持ち金すら乏しい有様だ」
「結構です。無料で差し上げます。ご注意いただきたいのは決して人に向かって使ってはならないということです」
「わかったよ。くれよ。どうせ一人で使うようなもんなんだろ」
「そうであれば嬉しいのですが」
疲れからか酔いがひどく回ってきたようだ。話を続けてはいたが、声は徐々に遠のいていった。
黒崎はベッドで目を覚ました。携帯を手繰りよせるまでもなく窓の明かりは朝のものだった。ベッドから跳びあがって準備を始める。持ち帰った仕事は文字通り手付かずであったが、とにかく出社しないといけなかった。
駅を目指して走る。走ってる間中、胃はキリキリと痛む。ストレスがかかると胃酸が過剰に出すぎるようになっていた。
会社に向かう電車の中で奇跡的に黒崎は座ることができて、少しでも作業をしようと鞄の中からパソコンを取り出そうとしたところだった。鞄の中で、知らない感触の物に触れた。黒崎は慎重にそれをつまんで持ち上げる。黒い金属の何か。ずっしりとくる重さがあって、普段持ち歩いているものではなかった。鞄の中で回転させて観察する。取っ手のような部分と真っすぐな部分があって、平仮名の「へ」のような形状をしている。いや、「へ」ではあるのだけど、ゴツゴツとした突起もある。
しばらくして、銃口の小さな穴を覗いて、ようやく銃を握っていることに気が付いた。
息を呑んで体が硬直してしまう。
当たり前のことだが拳銃は黒崎にとって映画や漫画の世界の物であった。
なぜ、それを今握っているのか。なぜ、鞄の中に入っていたのか。なかなか頭が働かない。拳銃は鞄の中で鈍く光る。
記憶はきっかけを以て急速に戻ってくる。電車の揺れの中に昨夜の優しい声と同じ響きを聞いたのだ。
「取り扱いはくれぐれもご注意ください」
立ち飲み屋のカウンターに拳銃が当たり前のように置かれた。
「グロックという拳銃でして、取り扱いは簡単です。引き金を引けば出る。映画のイメージそのままです」
黒崎はその声の主に礼を言ったのか、言わなかったのか、はっきりと思い出せないが鞄に自分で銃を入れたのは確かだった。
課長はモニターから目を離すことなく、デスクの隣に立つ黒崎に対して静かにリスクの説明を繰り返した。契約が打ち切られるかもしれないこと。契約が打ち切られた場合の考えうる損失額。業界内に不名誉な噂が流れた際の追加の損失リスク。淡々と、しかし執拗に、課長は繰り返した。視界の端で動く同僚や先輩も我関せずを貫いて普段より声のトーンを落として話をしている。
「君が、行ってきてお客様に納得してもらってくるんだ」
客先の会議室で、客先の担当者は気の毒そうに黒崎を見下ろしていた。黒崎と担当者は趣味の話もするぐらいには仲良くなっていた。だからこそ余計に、下げた頭の中で課長への憎しみは増すばかりだった。
河川敷一帯には湿ったどぶ臭い匂いが漂っていた。目の前の車は随分と汚れていて中の様子は窺えない。年月による汚れはまだ乗っているかもしれない人間の存在を否定しなかった。
河川敷に放置されている車を見ることは多かったが、それがどういう経緯で置かれることになるのかを黒崎は知らなかった。河川敷に鬱蒼とできあがった薮の中にひっそり佇む車を目の前にした時、黒崎は少し理解した。隠さなきゃいけないような車が持ち込まれるのだ。
黒崎は鞄から銃を取り出した。グロックという拳銃。YouTubeで調べると取り扱い方の説明動画が出てきた。言われた通り、あっけなく撃ててしまうらしい。
右手で銃を持って構える。腕を車に向けて突き出すようにして、指を引き金にかける。一応周りを見回した。人が近くにいる様子はない。
手がすでに汗ばんでいる。右手の人差し指に力を入れる。ゆっくりと、ゆっくりと。引き金が少しずつ動き始める。唾を飲んだ。
目を閉じてしまうほどの破裂音。右手が上に弾かれて、2,3歩あとずさる。火薬の匂い。花火の時のような、でもちょっと違う。右手にはビリビリとした衝撃が残って、銃口からはわずかに白煙がのぼる。
耳の中で反響していた破裂音が消えていくと強い静寂が戻った。
車のフロントガラスは粉々に割れていた。封印されていた車内が見える。誰も乗っていない空虚な室内空間があるだけであった。
心臓が強く脈動した。追いついてくるように汗が噴き出す。
銃を、撃ったのか。黒崎は改めて手元の銃を見つめる。黒い拳銃はおもちゃではなかった。とんでもない音がして車のフロントガラスが撃ち抜かれた。手の骨にまで衝撃が残っている。つい、さっきまでは冗談のつもりだった。銃のようなもので遊んでみる。そんなつもりで河川敷の藪に入ってきた。しかし、銃はそのまま銃だった。
黒崎は慌てて藪を出た。湿った風が首筋の汗を撫でていった。
「次の取引で埋め合わせ? そんなことできるわけないだろ。できないから君は行ったんじゃないのか」
定時を過ぎていたが、課長は黒崎を待ち構えていたかのようにデスクにいた。相変わらずモニターを向いたまま黒崎の報告に淡々と返してくる。つまらない顔をしているな、黒崎は久しぶりに落ち着いて課長の顔を見ることができていた。
「やはり、そこが落とし所と言いますか、今回はこちらの落ち度でしたし」
「こちらの? 君の落ち度だろう」
嫌味な言い方であったが、頭にくることはなかった。
同じ課の人間は全て帰ってしまっていた。このフロアには課長と黒崎、他の課の者が少し残るばかりだった。
黒崎は胸に手を当てる。
「課長、言いはしませんでしたが元は課長の指示でしょう。対応は僕のほうでやりますが次の取引での減額は仕方がないです。決済はしておいてください」
「指示などしていない」
「言うと思ってました。でも、最終的な納品数量の確認はメールで課長にも送っています。メールも残っていますから。見てなかったと釈明なさるのでしたら部長にどうぞ」
黒崎は強く言い切ると自分のデスクに戻って帰り支度を始めた。呆気にとられた課長は黒崎を呼び止めることもできず、帰ってしまうのを見送ることしかできなかった。
会社を出た黒崎はジャケットの内側に手を入れた。指先が拳銃の硬いスライド部に触れる。課長の呆気にとられた顔が笑えて仕方がなかった。
会社に戻る直前、駅のトイレの個室で黒崎はジャケットの内ポケットに拳銃を押し込んでいた。胸横のあたりが奇妙に膨らんだが、ぱっと見ただけではわかりそうにない。
河川敷で拳銃を撃った直後は冷や汗が止まらなかった黒崎だったが、電車に乗って少し経つと冷静さを取り戻していた。撃ってしまったという動揺は消えていたのだが、今度は妙に落ち着かず、じっとしていられなくなった。遂には電車の中にも関わらず鞄のチャックを開けて拳銃に手を触れて、ようやく気持ちを落ち着けることができた。
トイレから出て、ジャケット越しに拳銃に触れる。心が晴れるようだった。久しぶりに息を大きく吸える。いつの間にか浅くしか呼吸できなくなっていたらしい。新鮮な空気を引っかかりなく取り込めるということの気持ちよさ。背中まで空気が満ちていくと骨が震える。骨まで喜んでいるんだ。
街に出て歩いてみても、違う街のような新鮮さがあった。昨日まではなにかに怯えるようにして歩いていた。それはすれ違う人の顔色であったり、交差点の向こう側に立つ人たちの視線であったり、そういう街のなにかに怯えながら歩き方を決めていたし、歩く速度を調整していた。そこまでしても、まだなにかに怯えていたのだ。
本来はそういうもんじゃない。歩きたいように歩いて、そうした結果として歩く速度は決まってくる。胸に拳銃を抱いている黒崎は何にも怯えなくて済んだ。車道を無茶な速度で飛ばしていくスポーツカーにだって恐れはなかった。大量の胃酸による胃痛も、当然消えていたのだ。
問題の案件はつつがなくケリがついた。課長が折れたのだ。黒崎は何食わぬ顔で通常業務に戻ることができた。妙に思った他の課員がそれとなく探りを入れてきたが「骨が折れたよ」と言っておけばそれ以上聞いてくることはなかった。何かを察したつもりなのかもしれないが、恐らく見当違いなものだろう。
仕事は以前よりも順調に進むようになった。これまでは気を遣って慎重に進めていた案件も大胆に推し進めるようになった。するとこれが客先の好印象を買ったらしく、新規案件の受注に繋がった。課長は手の平を返したように黒崎のことを称賛した。職場の喫煙所に立ち寄った時には他部署のベテランから「最近良い顔をしてるな」と褒められることまであった。ベテラン曰く、前は不幸顔というか、あまり明るいイメージはなかったらしい。確かに、馬鹿らしいことに数ヶ月前の自分はそうだった。なんせ自分で自分のことを不幸だと嘆いていた具合なわけだ。顔に表れていても不思議ではなかった。むしろ不思議だったのはなにをそんなに不幸がっていたのかということ。特別な事件があったわけでもない。それでも自分は特別に不幸だと信じている節があった。今は違う。黒崎はようやく、世界との正しい接し方を見つけたのだ。
新規の案件を次々に獲得したことをキッカケに、黒崎の業務量は急増していた。受注の後のフォローまでしなければいけないので、下請け企業や管理部門とのやり取りは案件の数だけ増えてくる。最初は順調に進んでいた案件もどこかで手違いなどがあれば足踏みすることになってしまう。他人の凡ミスというのは心をかき乱すものがある。どうして簡単な日程調整すらうまくやれないのか。
苛ついた時には近場の廃墟や藪を探すようになっていた。都会の中では目立つような廃墟は少なかったが、電車にしばらく乗っていれば郊外まで出ることはできた。郊外まで出てしばらく探せば、随分前に潰れたパチンコ店であるとか薄暗い竹藪などがあるものだった。黒崎はそういう場所に拳銃を隠し持って入って、中で的を探す。
放置されたままのパチンコ台。
老いた竹のグレーがかった幹。
的を決めると、拳銃を取り出して構えた。毎回、汗が滲んで自然と息が止まった。右手の指にかかる緊張は初めての時よりもマシなものになった。
パチンコ台は銃弾を受けると跳ねて倒れた。
竹は穴状の割れ目を僅かに作ったのみで、擦れる竹葉が作り出す波のような音が破裂音を隠した。
拳銃を撃った後に冷や汗をかいてしまうのは変わらなかったが、時間が経つと心には澄んだ平穏が戻ってくる。仕事で苛ついていた自分を思い出すと馬鹿馬鹿しい気持ちが沸き上がった。拳銃を持っている黒崎が今更些細なことに苛つくほうがおかしいのだ。
黒崎は度々拳銃を取り出して、ただ眺めることもした。スライドに指を沿わせたり、グリップ部に設けられた滑り止めの溝を引っかいたりしてみた。洗面所の鏡に向かって銃を構えることもした。映画のようにはいかず、なんというか不格好な構え方だった。肩に力が入り過ぎていて窮屈になってしまっている。
黒崎は腕を回して構え直す一連の流れを繰り返した。構えを少しは格好のつくものにしようとしたのだ。途中で真剣な自分の顔を見てしまって思わず苦笑してしまう。
一人暮らしの部屋の中に断続的な笑い声が響いた。
残業も無しに家に帰るのは随分と久しぶりのことだった。黒崎は内ポケットから銃を抜いて机に置いた。そのまま着替えようと動きかけたが、やめる。妙な感覚だった。黒崎は銃をもう一度手に取って重量感を確かめる。
ネットでグロックの取り扱い方法を調べ直す。銃が出回ることのない日本でも、調べれば銃の取り扱い方がわかるのは奇妙なものだ。動画が教えてくれる通りに黒崎は拳銃のグリップ部分にあるボタンを押した。グリップ底部から弾倉が滑り落ちて来るのを受け止める。弾倉の中には弾丸が収められている。
弾丸は3発しか残っていなかった。黒崎が感じた軽さは弾の減りによるものだった。
これまでどれほど撃ってきたか数えてはいなかったが、相当な数を撃ってきたはずだから、弾が少なくなっているのは当然のことではあった。いや、弾に限りがあるのは当たり前の話だ。黒崎はなぜかそのことをすっかり忘れていた。
3発だけの弾が入った弾倉を装填し直す。やはり軽い。
黒崎はいてもたっても居られなくなって家を飛び出た。駅南口の立ち飲み屋に入る。頼んだものを待つ間もベルトにつっこんできた銃をしきりに触ってしまう。ビールの味がいまいちわからない。叫び出したかった。黒崎は前に来た時と同じ場所に立って声を待った。黒崎に銃を授けてくれた声が訪れるのを待った。ひたすら待つしかなかった。
弾の残りが少なくなったことの焦燥感は、日を跨いでより強くなっていた。
朝、悩んだ挙句に黒崎はベルトに拳銃を挿して出社することに決めた。ジャケットの内ポケットに入れているだけでは落ち着けなくなってしまったのだ。ベルトに挿し込むと銃は腹に強く押しつけられて、黒崎はようやく多少の落ち着きを取り戻すことができた。
電車の中でも気を抜くと腰に手を持っていこうとしてしまう。流石に人目もある。黒崎はなんとか堪えていた。
ようやく世界をマトモに見られるようになったのに。それは絶大な威力を誇る拳銃が傍にあってこそだ。ところがどうだろう、弾の切れた拳銃は果たして拳銃と言えるのだろうか。放たれる弾丸もないのに、発射する機構だけを持ったそれはなんなのだろうか。
閃くものがあった。黒崎は急いで携帯で検索を始める。拳銃の種類や機構を調べた時には簡単に情報が出てきたのだから、弾丸の入手方法も教えてくれるのではないかと思ったのだ。「弾丸 入手方法」随分と物騒なワードになるが構わない。弾丸が手に入るなら今の恐れも簡単に解決できるものになるわけだ。なにを恐れていたのだろう、といつものように過去の自分を笑うことができる。
職場の最寄り駅で電車を降りる。降車する客を降ろし終えた電車は扉を閉じて駅を去っていった。
拳銃の弾丸は簡単には手に入りそうになかった。非合法な手段をとれば作ることはできるかもしれないが、危なっかしい上に本当に作れるかどうかは怪しい。
切り替えるしかなかった。逆に考えれば、3発は残っている。それで十分じゃないか。前までみたいに気軽に撃つことはできないが、「いつでも撃てる」という心構えで居られるのは特権的だ。それだけで良い。自分に念じるようにして、黒崎はオフィスに入っていった。
そんな日の、朝の一番から課長がわざわざ黒崎のデスクにまで来て「ちょっと会議室で話そう」と耳打ちしてきたのは、後になって思えば課長の気遣いであった。
黒崎は半ば呆然としながら課長が話すのを聞いていた。
黒崎が獲得した新規案件。段取りはテスト品の製作まで進んでいた。その、客先の企業から連絡が入ったと言うのだ。
「君が出した資料の中のな、単価が低すぎたんだ」
「単価ですか」
「電話で聞いたところだと、どうも桁の間違いらしい」
血の気が引いていく、のを黒崎は他人事のように感じていた。自分の後頭部を少し上から見下ろしているような、現実味のない浮遊感があった。
忙しい中で、書類のチェックも疎かになっていたことは否定できなかった。客先に提出する資料も勢いで次々に作っていた。
マズい、のかな。マズいかもしれないな。課長がわざわざ呼び出してるんだし。
手が胸の拳銃を探していた。ちがうんだ。場所を変えたんだ。腰のあたりに手を添えて、感触を確かめる。すると、急に体温が戻ってきて、見下ろしている自分がストンと体に入り込む感覚があった。
「今から急いで行こう。早いうちに説明しなきゃ話がご破算になるかもしれん。俺も行く。前は迷惑をかけたからな」
会社が契約している駐車場は少し離れた場所にあった。営業課用の社用車が数台とまっている。課長と黒崎は小走りで駐車場に向かっていた。胃酸が出過ぎていて、胃と腸がひねられて収縮を繰り返す感覚がある。黒崎は今にも吐いてしまいそうで拳銃を直に触った。それでも吐き気が収まる感じはなかった。
「ちょっと、一瞬先に行っててください。すぐに行きます」
黒崎は課長にそれだけ告げて奥の道に入っていった。細い道を結ぶように走って、ようやく人気のない路地に入ることができた。
目を引いたのは業務用のものだろうか黒崎の背丈ほどある大きな室外機で、黒崎は急いで拳銃を腰から抜いて室外機に向けて構えた。震えながら引き金に指を向ける。
破裂音は連続して発せられた。一発のものではない。腕から肩に抜けていった衝撃もいつもより長かった。
室外機はシューシューと撃たれた穴からガスを放出して騒いでいた。穴が3か所あって、どの穴からもガスが漏れている。黒崎は混乱したまま銃を眺めた。震えたまま弾倉を出す。目を疑った。弾は一発も残っていなかった。
信じられなくて弾倉が収められていた場所を覗く。なにもない。弾は間違いなく先ほど放たれてしまった。気絶してしまいそうだ。弾は一発ずつ出るんじゃないのか。
フルオート射撃。以前、グロックのことを調べた時に書いてあった。引き金を一度引いただけで弾を全部撃ち尽くせる射撃モードも選べるらしい。しかし、一発ずつ大切に撃ちたいからフルオートはやめておこう、黒崎はそう決めていた。
銃の射撃モードを選べるセレクターを確認する。時計のような形状をしているセレクターの突起はいつもと違う方に動いていた。
どうして。考えようとしながらわかっていた。昨日、弾倉を取り出そうとした時に間違えて動かしたんだ。その時しかなかった。
弾倉を入れ直して引き金を引く。弾は出ない。何度も引く。弾は出てこない。
黒崎はヤケクソになって銃を室外機に叩きつけてその場を去った。
走って課長の待つ駐車場まで戻ろうとするが、正しい走り方がわからなくなっていた。すれ違う人の目が気になって見られない。不安に駆られて銃を探すのは癖になっていたが、もうどこにも銃はない。
こんな状態が毎日続くなんて正気ではなかった。
客先の会議室で、黒崎はただ青い顔をしていることしかできなかった。代わりに課長は資料の誤りをひたすらに謝罪して頭を下げた。課長の後頭部を黒崎は少しだけ高い所から見ていた。
課長がうまく話を進めてくれたこともあり、案件が立ち消えになることもなかった。製作途中のテスト品を持っていくという課長の機転も効いた。最後は和やかな雰囲気の中で客先の会社を後にした。
「前はすまないことをしたと思っていたんだ」
車の中ですら碌に喋れなくなっていた黒崎に、課長は柔らかく声をかける。
「俺が勝手なことを言ってしまっていた。意固地になってしまったんだ。それを君が教えてくれた。いつかちゃんと詫びたいと思っていたんだ」
課長は黒崎の目をチラチラ見ながら、時々照れて笑ってしまいながらも詫びの言葉を重ねた。
「いや、僕の方こそ、すいませんでした。ミスをフォローしてもらって」
黒崎の口の中は乾ききっていて、かすんだ声が辛うじて出る。
「そういう時のために上司はいるもんなんだ。最近、君が頑張ってくれていたのは知っていた。業務が多くて大変かもしれないが困ったらいつでも声をかけてくれ。有料だけどね」
慣れないジョークを混ぜたことで、課長は少し顔が熱くなってしまった。
黒崎は、ようやく理解した。銃なんか必要なかったんだ。
朝起きて、コーヒーを淹れる。黒崎はコーヒーに凝るようになっていた。休日に、焙煎所の体験ツアーに彼女と参加したことがきっかけで、コーヒーの奥深さを知った。豆は粗めに多く挽く。良い具合だった。
会社へ向かう用意を進める。少し早めの出社。右肩上がりの営業成績を知った役員が黒崎を海外子会社に駐在させるかどうかという話を進めているらしい。課長は密かに教えてくれた。アメリカかシンガポール。アメリカに行きたいが、物価を考えればシンガポールもアリかもしれない。業務量は依然として多かったが、数か月後に海外生活が待っていると思えば苦ではなかった。
家を出る。新調した靴はまだ硬かった。もっと外回りして慣らさなきゃいけないな。肩で風を切って歩く。
駅の北口にある神社は、その敷地内の一部をほったらかしのままにしていた。薄暗い藪の中には痩せた樹が斜めに生えている。
黒崎はその前から立ち去った。
樹には斬りつけられた生々しい傷が、いくつも、いくつも重ねられていた。
黒崎はサバイバルナイフをホルスターに挿しこむ。額に滲んだ汗を拭いながらまだ人が少ない電車へと乗り込んだ。
会社を出た頃にはすでに23時を回っていた。終電に乗るために会社を出たものの鞄には持ち帰りの仕事が詰め込まれている。
点字ブロックの上を風に押されて空き缶が転がってくる。タイミングを合わせて黒崎は空き缶を思い切り蹴飛ばした。空き缶はすぐ先の駐輪場の中で跳ねて音を立てた。
課長から厄介な案件を押し付けられたのは少し前のこと。それは暗に客先への納入数量を誤魔化せという指示に等しかった。数量が多い品物であるからバレはしない。相手の在庫に入った後は数ヶ月かけて使い切るものであったからバレるとしても先のことになる、はずだった。
最寄り駅南口の立ち飲み屋に寄ることにしたのは、ただ真っすぐ帰ろうとすると全部が嫌になってしまいそうだったから。瓶を頼んでカウンターに体重を預ける。くそ、苛立ちは収まりそうにない。元々は課長が無理やり押し付けてきた話だったじゃないか。いざ処理する段になれば作業は全部俺に降ってくるんだ。黒崎は毒づいてしまうのをビールで流し込む。空きっ腹なこともあって胃は黒っぽい熱を帯びた。みるみる顔が赤くなっていくのを感じていた。
「ずいぶんと飲みますね」
不意に横から声がする。いつの間にか新しい客が来ていたらしい。
「ストレスですよ」
黒崎は乱暴に答えた。
「ストレス社会ですからね」
随分と簡単にその声は答えた。
「簡単なもんじゃない。悪意だよ。悪意に満ちたストレスだ」
「悪意とは大変なものですね。どうです、良いストレス解消の道具があります。捨てる予定の物なんですが要りますか」
良いストレス解消の道具か。そういう類のおもちゃがあるのは知っていたが、手を出したことはこれまで無かった。
「タダならね。あいにく持ち金すら乏しい有様だ」
「結構です。無料で差し上げます。ご注意いただきたいのは決して人に向かって使ってはならないということです」
「わかったよ。くれよ。どうせ一人で使うようなもんなんだろ」
「そうであれば嬉しいのですが」
疲れからか酔いがひどく回ってきたようだ。話を続けてはいたが、声は徐々に遠のいていった。
黒崎はベッドで目を覚ました。携帯を手繰りよせるまでもなく窓の明かりは朝のものだった。ベッドから跳びあがって準備を始める。持ち帰った仕事は文字通り手付かずであったが、とにかく出社しないといけなかった。
駅を目指して走る。走ってる間中、胃はキリキリと痛む。ストレスがかかると胃酸が過剰に出すぎるようになっていた。
会社に向かう電車の中で奇跡的に黒崎は座ることができて、少しでも作業をしようと鞄の中からパソコンを取り出そうとしたところだった。鞄の中で、知らない感触の物に触れた。黒崎は慎重にそれをつまんで持ち上げる。黒い金属の何か。ずっしりとくる重さがあって、普段持ち歩いているものではなかった。鞄の中で回転させて観察する。取っ手のような部分と真っすぐな部分があって、平仮名の「へ」のような形状をしている。いや、「へ」ではあるのだけど、ゴツゴツとした突起もある。
しばらくして、銃口の小さな穴を覗いて、ようやく銃を握っていることに気が付いた。
息を呑んで体が硬直してしまう。
当たり前のことだが拳銃は黒崎にとって映画や漫画の世界の物であった。
なぜ、それを今握っているのか。なぜ、鞄の中に入っていたのか。なかなか頭が働かない。拳銃は鞄の中で鈍く光る。
記憶はきっかけを以て急速に戻ってくる。電車の揺れの中に昨夜の優しい声と同じ響きを聞いたのだ。
「取り扱いはくれぐれもご注意ください」
立ち飲み屋のカウンターに拳銃が当たり前のように置かれた。
「グロックという拳銃でして、取り扱いは簡単です。引き金を引けば出る。映画のイメージそのままです」
黒崎はその声の主に礼を言ったのか、言わなかったのか、はっきりと思い出せないが鞄に自分で銃を入れたのは確かだった。
課長はモニターから目を離すことなく、デスクの隣に立つ黒崎に対して静かにリスクの説明を繰り返した。契約が打ち切られるかもしれないこと。契約が打ち切られた場合の考えうる損失額。業界内に不名誉な噂が流れた際の追加の損失リスク。淡々と、しかし執拗に、課長は繰り返した。視界の端で動く同僚や先輩も我関せずを貫いて普段より声のトーンを落として話をしている。
「君が、行ってきてお客様に納得してもらってくるんだ」
客先の会議室で、客先の担当者は気の毒そうに黒崎を見下ろしていた。黒崎と担当者は趣味の話もするぐらいには仲良くなっていた。だからこそ余計に、下げた頭の中で課長への憎しみは増すばかりだった。
河川敷一帯には湿ったどぶ臭い匂いが漂っていた。目の前の車は随分と汚れていて中の様子は窺えない。年月による汚れはまだ乗っているかもしれない人間の存在を否定しなかった。
河川敷に放置されている車を見ることは多かったが、それがどういう経緯で置かれることになるのかを黒崎は知らなかった。河川敷に鬱蒼とできあがった薮の中にひっそり佇む車を目の前にした時、黒崎は少し理解した。隠さなきゃいけないような車が持ち込まれるのだ。
黒崎は鞄から銃を取り出した。グロックという拳銃。YouTubeで調べると取り扱い方の説明動画が出てきた。言われた通り、あっけなく撃ててしまうらしい。
右手で銃を持って構える。腕を車に向けて突き出すようにして、指を引き金にかける。一応周りを見回した。人が近くにいる様子はない。
手がすでに汗ばんでいる。右手の人差し指に力を入れる。ゆっくりと、ゆっくりと。引き金が少しずつ動き始める。唾を飲んだ。
目を閉じてしまうほどの破裂音。右手が上に弾かれて、2,3歩あとずさる。火薬の匂い。花火の時のような、でもちょっと違う。右手にはビリビリとした衝撃が残って、銃口からはわずかに白煙がのぼる。
耳の中で反響していた破裂音が消えていくと強い静寂が戻った。
車のフロントガラスは粉々に割れていた。封印されていた車内が見える。誰も乗っていない空虚な室内空間があるだけであった。
心臓が強く脈動した。追いついてくるように汗が噴き出す。
銃を、撃ったのか。黒崎は改めて手元の銃を見つめる。黒い拳銃はおもちゃではなかった。とんでもない音がして車のフロントガラスが撃ち抜かれた。手の骨にまで衝撃が残っている。つい、さっきまでは冗談のつもりだった。銃のようなもので遊んでみる。そんなつもりで河川敷の藪に入ってきた。しかし、銃はそのまま銃だった。
黒崎は慌てて藪を出た。湿った風が首筋の汗を撫でていった。
「次の取引で埋め合わせ? そんなことできるわけないだろ。できないから君は行ったんじゃないのか」
定時を過ぎていたが、課長は黒崎を待ち構えていたかのようにデスクにいた。相変わらずモニターを向いたまま黒崎の報告に淡々と返してくる。つまらない顔をしているな、黒崎は久しぶりに落ち着いて課長の顔を見ることができていた。
「やはり、そこが落とし所と言いますか、今回はこちらの落ち度でしたし」
「こちらの? 君の落ち度だろう」
嫌味な言い方であったが、頭にくることはなかった。
同じ課の人間は全て帰ってしまっていた。このフロアには課長と黒崎、他の課の者が少し残るばかりだった。
黒崎は胸に手を当てる。
「課長、言いはしませんでしたが元は課長の指示でしょう。対応は僕のほうでやりますが次の取引での減額は仕方がないです。決済はしておいてください」
「指示などしていない」
「言うと思ってました。でも、最終的な納品数量の確認はメールで課長にも送っています。メールも残っていますから。見てなかったと釈明なさるのでしたら部長にどうぞ」
黒崎は強く言い切ると自分のデスクに戻って帰り支度を始めた。呆気にとられた課長は黒崎を呼び止めることもできず、帰ってしまうのを見送ることしかできなかった。
会社を出た黒崎はジャケットの内側に手を入れた。指先が拳銃の硬いスライド部に触れる。課長の呆気にとられた顔が笑えて仕方がなかった。
会社に戻る直前、駅のトイレの個室で黒崎はジャケットの内ポケットに拳銃を押し込んでいた。胸横のあたりが奇妙に膨らんだが、ぱっと見ただけではわかりそうにない。
河川敷で拳銃を撃った直後は冷や汗が止まらなかった黒崎だったが、電車に乗って少し経つと冷静さを取り戻していた。撃ってしまったという動揺は消えていたのだが、今度は妙に落ち着かず、じっとしていられなくなった。遂には電車の中にも関わらず鞄のチャックを開けて拳銃に手を触れて、ようやく気持ちを落ち着けることができた。
トイレから出て、ジャケット越しに拳銃に触れる。心が晴れるようだった。久しぶりに息を大きく吸える。いつの間にか浅くしか呼吸できなくなっていたらしい。新鮮な空気を引っかかりなく取り込めるということの気持ちよさ。背中まで空気が満ちていくと骨が震える。骨まで喜んでいるんだ。
街に出て歩いてみても、違う街のような新鮮さがあった。昨日まではなにかに怯えるようにして歩いていた。それはすれ違う人の顔色であったり、交差点の向こう側に立つ人たちの視線であったり、そういう街のなにかに怯えながら歩き方を決めていたし、歩く速度を調整していた。そこまでしても、まだなにかに怯えていたのだ。
本来はそういうもんじゃない。歩きたいように歩いて、そうした結果として歩く速度は決まってくる。胸に拳銃を抱いている黒崎は何にも怯えなくて済んだ。車道を無茶な速度で飛ばしていくスポーツカーにだって恐れはなかった。大量の胃酸による胃痛も、当然消えていたのだ。
問題の案件はつつがなくケリがついた。課長が折れたのだ。黒崎は何食わぬ顔で通常業務に戻ることができた。妙に思った他の課員がそれとなく探りを入れてきたが「骨が折れたよ」と言っておけばそれ以上聞いてくることはなかった。何かを察したつもりなのかもしれないが、恐らく見当違いなものだろう。
仕事は以前よりも順調に進むようになった。これまでは気を遣って慎重に進めていた案件も大胆に推し進めるようになった。するとこれが客先の好印象を買ったらしく、新規案件の受注に繋がった。課長は手の平を返したように黒崎のことを称賛した。職場の喫煙所に立ち寄った時には他部署のベテランから「最近良い顔をしてるな」と褒められることまであった。ベテラン曰く、前は不幸顔というか、あまり明るいイメージはなかったらしい。確かに、馬鹿らしいことに数ヶ月前の自分はそうだった。なんせ自分で自分のことを不幸だと嘆いていた具合なわけだ。顔に表れていても不思議ではなかった。むしろ不思議だったのはなにをそんなに不幸がっていたのかということ。特別な事件があったわけでもない。それでも自分は特別に不幸だと信じている節があった。今は違う。黒崎はようやく、世界との正しい接し方を見つけたのだ。
新規の案件を次々に獲得したことをキッカケに、黒崎の業務量は急増していた。受注の後のフォローまでしなければいけないので、下請け企業や管理部門とのやり取りは案件の数だけ増えてくる。最初は順調に進んでいた案件もどこかで手違いなどがあれば足踏みすることになってしまう。他人の凡ミスというのは心をかき乱すものがある。どうして簡単な日程調整すらうまくやれないのか。
苛ついた時には近場の廃墟や藪を探すようになっていた。都会の中では目立つような廃墟は少なかったが、電車にしばらく乗っていれば郊外まで出ることはできた。郊外まで出てしばらく探せば、随分前に潰れたパチンコ店であるとか薄暗い竹藪などがあるものだった。黒崎はそういう場所に拳銃を隠し持って入って、中で的を探す。
放置されたままのパチンコ台。
老いた竹のグレーがかった幹。
的を決めると、拳銃を取り出して構えた。毎回、汗が滲んで自然と息が止まった。右手の指にかかる緊張は初めての時よりもマシなものになった。
パチンコ台は銃弾を受けると跳ねて倒れた。
竹は穴状の割れ目を僅かに作ったのみで、擦れる竹葉が作り出す波のような音が破裂音を隠した。
拳銃を撃った後に冷や汗をかいてしまうのは変わらなかったが、時間が経つと心には澄んだ平穏が戻ってくる。仕事で苛ついていた自分を思い出すと馬鹿馬鹿しい気持ちが沸き上がった。拳銃を持っている黒崎が今更些細なことに苛つくほうがおかしいのだ。
黒崎は度々拳銃を取り出して、ただ眺めることもした。スライドに指を沿わせたり、グリップ部に設けられた滑り止めの溝を引っかいたりしてみた。洗面所の鏡に向かって銃を構えることもした。映画のようにはいかず、なんというか不格好な構え方だった。肩に力が入り過ぎていて窮屈になってしまっている。
黒崎は腕を回して構え直す一連の流れを繰り返した。構えを少しは格好のつくものにしようとしたのだ。途中で真剣な自分の顔を見てしまって思わず苦笑してしまう。
一人暮らしの部屋の中に断続的な笑い声が響いた。
残業も無しに家に帰るのは随分と久しぶりのことだった。黒崎は内ポケットから銃を抜いて机に置いた。そのまま着替えようと動きかけたが、やめる。妙な感覚だった。黒崎は銃をもう一度手に取って重量感を確かめる。
ネットでグロックの取り扱い方法を調べ直す。銃が出回ることのない日本でも、調べれば銃の取り扱い方がわかるのは奇妙なものだ。動画が教えてくれる通りに黒崎は拳銃のグリップ部分にあるボタンを押した。グリップ底部から弾倉が滑り落ちて来るのを受け止める。弾倉の中には弾丸が収められている。
弾丸は3発しか残っていなかった。黒崎が感じた軽さは弾の減りによるものだった。
これまでどれほど撃ってきたか数えてはいなかったが、相当な数を撃ってきたはずだから、弾が少なくなっているのは当然のことではあった。いや、弾に限りがあるのは当たり前の話だ。黒崎はなぜかそのことをすっかり忘れていた。
3発だけの弾が入った弾倉を装填し直す。やはり軽い。
黒崎はいてもたっても居られなくなって家を飛び出た。駅南口の立ち飲み屋に入る。頼んだものを待つ間もベルトにつっこんできた銃をしきりに触ってしまう。ビールの味がいまいちわからない。叫び出したかった。黒崎は前に来た時と同じ場所に立って声を待った。黒崎に銃を授けてくれた声が訪れるのを待った。ひたすら待つしかなかった。
弾の残りが少なくなったことの焦燥感は、日を跨いでより強くなっていた。
朝、悩んだ挙句に黒崎はベルトに拳銃を挿して出社することに決めた。ジャケットの内ポケットに入れているだけでは落ち着けなくなってしまったのだ。ベルトに挿し込むと銃は腹に強く押しつけられて、黒崎はようやく多少の落ち着きを取り戻すことができた。
電車の中でも気を抜くと腰に手を持っていこうとしてしまう。流石に人目もある。黒崎はなんとか堪えていた。
ようやく世界をマトモに見られるようになったのに。それは絶大な威力を誇る拳銃が傍にあってこそだ。ところがどうだろう、弾の切れた拳銃は果たして拳銃と言えるのだろうか。放たれる弾丸もないのに、発射する機構だけを持ったそれはなんなのだろうか。
閃くものがあった。黒崎は急いで携帯で検索を始める。拳銃の種類や機構を調べた時には簡単に情報が出てきたのだから、弾丸の入手方法も教えてくれるのではないかと思ったのだ。「弾丸 入手方法」随分と物騒なワードになるが構わない。弾丸が手に入るなら今の恐れも簡単に解決できるものになるわけだ。なにを恐れていたのだろう、といつものように過去の自分を笑うことができる。
職場の最寄り駅で電車を降りる。降車する客を降ろし終えた電車は扉を閉じて駅を去っていった。
拳銃の弾丸は簡単には手に入りそうになかった。非合法な手段をとれば作ることはできるかもしれないが、危なっかしい上に本当に作れるかどうかは怪しい。
切り替えるしかなかった。逆に考えれば、3発は残っている。それで十分じゃないか。前までみたいに気軽に撃つことはできないが、「いつでも撃てる」という心構えで居られるのは特権的だ。それだけで良い。自分に念じるようにして、黒崎はオフィスに入っていった。
そんな日の、朝の一番から課長がわざわざ黒崎のデスクにまで来て「ちょっと会議室で話そう」と耳打ちしてきたのは、後になって思えば課長の気遣いであった。
黒崎は半ば呆然としながら課長が話すのを聞いていた。
黒崎が獲得した新規案件。段取りはテスト品の製作まで進んでいた。その、客先の企業から連絡が入ったと言うのだ。
「君が出した資料の中のな、単価が低すぎたんだ」
「単価ですか」
「電話で聞いたところだと、どうも桁の間違いらしい」
血の気が引いていく、のを黒崎は他人事のように感じていた。自分の後頭部を少し上から見下ろしているような、現実味のない浮遊感があった。
忙しい中で、書類のチェックも疎かになっていたことは否定できなかった。客先に提出する資料も勢いで次々に作っていた。
マズい、のかな。マズいかもしれないな。課長がわざわざ呼び出してるんだし。
手が胸の拳銃を探していた。ちがうんだ。場所を変えたんだ。腰のあたりに手を添えて、感触を確かめる。すると、急に体温が戻ってきて、見下ろしている自分がストンと体に入り込む感覚があった。
「今から急いで行こう。早いうちに説明しなきゃ話がご破算になるかもしれん。俺も行く。前は迷惑をかけたからな」
会社が契約している駐車場は少し離れた場所にあった。営業課用の社用車が数台とまっている。課長と黒崎は小走りで駐車場に向かっていた。胃酸が出過ぎていて、胃と腸がひねられて収縮を繰り返す感覚がある。黒崎は今にも吐いてしまいそうで拳銃を直に触った。それでも吐き気が収まる感じはなかった。
「ちょっと、一瞬先に行っててください。すぐに行きます」
黒崎は課長にそれだけ告げて奥の道に入っていった。細い道を結ぶように走って、ようやく人気のない路地に入ることができた。
目を引いたのは業務用のものだろうか黒崎の背丈ほどある大きな室外機で、黒崎は急いで拳銃を腰から抜いて室外機に向けて構えた。震えながら引き金に指を向ける。
破裂音は連続して発せられた。一発のものではない。腕から肩に抜けていった衝撃もいつもより長かった。
室外機はシューシューと撃たれた穴からガスを放出して騒いでいた。穴が3か所あって、どの穴からもガスが漏れている。黒崎は混乱したまま銃を眺めた。震えたまま弾倉を出す。目を疑った。弾は一発も残っていなかった。
信じられなくて弾倉が収められていた場所を覗く。なにもない。弾は間違いなく先ほど放たれてしまった。気絶してしまいそうだ。弾は一発ずつ出るんじゃないのか。
フルオート射撃。以前、グロックのことを調べた時に書いてあった。引き金を一度引いただけで弾を全部撃ち尽くせる射撃モードも選べるらしい。しかし、一発ずつ大切に撃ちたいからフルオートはやめておこう、黒崎はそう決めていた。
銃の射撃モードを選べるセレクターを確認する。時計のような形状をしているセレクターの突起はいつもと違う方に動いていた。
どうして。考えようとしながらわかっていた。昨日、弾倉を取り出そうとした時に間違えて動かしたんだ。その時しかなかった。
弾倉を入れ直して引き金を引く。弾は出ない。何度も引く。弾は出てこない。
黒崎はヤケクソになって銃を室外機に叩きつけてその場を去った。
走って課長の待つ駐車場まで戻ろうとするが、正しい走り方がわからなくなっていた。すれ違う人の目が気になって見られない。不安に駆られて銃を探すのは癖になっていたが、もうどこにも銃はない。
こんな状態が毎日続くなんて正気ではなかった。
客先の会議室で、黒崎はただ青い顔をしていることしかできなかった。代わりに課長は資料の誤りをひたすらに謝罪して頭を下げた。課長の後頭部を黒崎は少しだけ高い所から見ていた。
課長がうまく話を進めてくれたこともあり、案件が立ち消えになることもなかった。製作途中のテスト品を持っていくという課長の機転も効いた。最後は和やかな雰囲気の中で客先の会社を後にした。
「前はすまないことをしたと思っていたんだ」
車の中ですら碌に喋れなくなっていた黒崎に、課長は柔らかく声をかける。
「俺が勝手なことを言ってしまっていた。意固地になってしまったんだ。それを君が教えてくれた。いつかちゃんと詫びたいと思っていたんだ」
課長は黒崎の目をチラチラ見ながら、時々照れて笑ってしまいながらも詫びの言葉を重ねた。
「いや、僕の方こそ、すいませんでした。ミスをフォローしてもらって」
黒崎の口の中は乾ききっていて、かすんだ声が辛うじて出る。
「そういう時のために上司はいるもんなんだ。最近、君が頑張ってくれていたのは知っていた。業務が多くて大変かもしれないが困ったらいつでも声をかけてくれ。有料だけどね」
慣れないジョークを混ぜたことで、課長は少し顔が熱くなってしまった。
黒崎は、ようやく理解した。銃なんか必要なかったんだ。
朝起きて、コーヒーを淹れる。黒崎はコーヒーに凝るようになっていた。休日に、焙煎所の体験ツアーに彼女と参加したことがきっかけで、コーヒーの奥深さを知った。豆は粗めに多く挽く。良い具合だった。
会社へ向かう用意を進める。少し早めの出社。右肩上がりの営業成績を知った役員が黒崎を海外子会社に駐在させるかどうかという話を進めているらしい。課長は密かに教えてくれた。アメリカかシンガポール。アメリカに行きたいが、物価を考えればシンガポールもアリかもしれない。業務量は依然として多かったが、数か月後に海外生活が待っていると思えば苦ではなかった。
家を出る。新調した靴はまだ硬かった。もっと外回りして慣らさなきゃいけないな。肩で風を切って歩く。
駅の北口にある神社は、その敷地内の一部をほったらかしのままにしていた。薄暗い藪の中には痩せた樹が斜めに生えている。
黒崎はその前から立ち去った。
樹には斬りつけられた生々しい傷が、いくつも、いくつも重ねられていた。
黒崎はサバイバルナイフをホルスターに挿しこむ。額に滲んだ汗を拭いながらまだ人が少ない電車へと乗り込んだ。
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