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ストレンジ
イプシロン
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「……うす。これ、さっき買ってきた。お前もまだ疲れてるだろう? 大変だったな。晴翔兄さんが二時間後に食堂に集合してくれってさ。食堂の奥の打ち合わせルームで、朝食とりながら昨日のことの詳細を説明するって。サンドイッチとスープだけだから、話しながらでも食えるだろ? あ、もう買ってきて貰ってるから心配すんな。じゃあな」
翠を起こさないように小声になる気遣いはあるけれども、相変わらず一方的に話す姿は俺様だった。それでも流石の気配りで、俺と翠が好きなショップのキャラメルラテとブレンドを差し入れしてくれた。
パタパタと歩く永心の向かう先には、野本の姿が見える。俺がみている事に気がついた野本は、ぺこりと可愛らしくお辞儀をした。そして、永心が野本の元へと辿り着くと、愛おしそうに見つめ合いながら、時折談笑をしつつ去っていった。
翠はまだ、ベッドでぐっすりと眠っていた。カフェオレ色の髪が、朝日に照らされてキラキラと輝いていた。太陽光が直接入ってくるとセンチネルの目が潰れてしまうので、安心して眠れるようにするためにもやや光量が減衰するようにされている。
その少し弱まった光でも輝くほどに、翠の髪はツヤツヤだ。普段から口にするものに気を配り、かといってストレスを溜めてもいけないからと我慢し過ぎることもない。体調管理は万全で、常に健康そのものだ。
翠は、生まれ持った素質を上手に活かしていくことに長けていた。ただ、それがどうやって身について行ったのかは、俺もよく知らない。俺が知っているのは、大人になってからの翠だけだからだ。
小、中、高と学校が同じで、時にはクラスも班も同じになったことはあるが、必要最低限の会話しかしていなかった。翠は孤児で、中学までは養護施設から通っていた。高校に入ってからは、奨学金を受けながら寮に入っていた。そして、年々レベルの上がっていく稀なセンチネルとして国から期待されていたため、助成金がもらえていたのだと言う。その話だって、教えてもらったのはつい最近だ。
「インフィニティも孤児だって聞いてたから、俺もあの人を見習って頑張って生きていこうと思って。それに、生まれつきのレベルが高かったら精神力高くないとやっていけないし、後々高額で雇ってもらえるし。今鍛錬しといて損はないからな」
大学に入ったばかりの頃、その話を田崎にしているのを耳に入れたことはあった。
翠は、大学在学中に大きなミッションを成功させたことがあった。俺も途中までは一緒に現場にいたのだけれど、当時母さんの体調が芳しくなくて何度か仕事を抜けていた。丁度俺が休んだタイミングで、ミッションが成功したという連絡があった。
ただ、成功はしたのだが、翠がゾーンアウト寸前まで追い込まれてしまっていた。タワーから俺に「空いているガイドが今お前しかいないから」という理由で連絡が来て、翠の回収のために現場へ向かわされた。
その時の翠は本当にギリギリの状態で、どう見ても連れ帰るまでにはゾーンアウトしてしまいそうだった。だから、俺がその場でケアをする事にした。顔見知りだったため気恥ずかしかったのだが、いざ触れてみると衝撃的な感覚に襲われた。
その刺激は信じられないくらいに甘美なもので、俺たちを一瞬で恋に落とした。
それがパーフェクトマッチの感覚だと、後になって知った。
それからずっとだ。翠に触れる度に、愛しくて狂いそうになる。10年経った今でもだ。
「俺、お前の役に立てそうなんだけど。俺とボンディングしない?」
他の人に触らせないために、俺はガイドとして研鑽を積んだ。そして、特急パーシャルランク10まで上り詰めた男の隣に立つ資格を得た。
「果貫蒼殿 特急ランク10! まじか! ガイドの特急ランク10なんて、初めて聞いたぞ! おめでとう!」
そう言って抱きついてくれた時、絶対に俺が一生守るんだと誓った。そして、関わってこなかった過去を悔やんだ。近くにいたのに、俺は何もしてあげて来なかった。
永心から翠の昔の話を聞くたびに、いつももっとそばにいてやれば良かったという想いに苛まれる。
だからこそ、二人で暮らすようになってからは、ずっと愛せるだけ愛してきた。尽くせるだけ尽くしていたつもりだった。俺自身がそうしたくてやっていたのだから、たとえ意識を無くしたとしてもそれが出来ると思っていた。
「それなのに、俺が傷つけたんだもんなあ」
俺は、大好きな翠の髪を手で梳きながらつぶやいた。サラサラと髪が流れるのを見ていると、とても幸せな気持ちになれる。その感覚を堪能していると、不意に手首を掴まれた。
「翠? 起きてたの?」
俺が声をかけると、ほんの少しだけ瞼を開けた翠が口をへの字に曲げた。まるで子供が拗ねたような顔をしている。
「おー。おはよ。あのさ、傷つけたのもお前だけど、助けたのもお前だろ? フィルコの処置が無かったら、いくらメンタル強くても絶対アウトしてたよ」
翠は、目を慣らすために薄目の状態だった。それでも、寝起きに口を開くと多少ストレスになるはずだ。だから普段はあまり話さない。俺が一方的に話して、翠は相槌を打つようにしている。
それなのに、今日は自ら話しかけてくれた。俺はその行動をとった翠の気持ちを想像して、心がギュッとなった。
目に滲む涙を悟られまいと一瞬堪えてはみたものの、相手は高ランクのセンチネルなのだからバレないわけはないと諦めた。そして、その上で何事もなかったかのようにラテを紙袋から取り出し、話をそちらへ逸らそうとした。
「ん……おはよう。永心がキャラメルラテ持って来てくれたよ。飲める? もしかして結構前から起きてた感じ?」
「うん、まあ、そう。30分くらい前から、ずっと慣らしてた。だから、ラテ貰う」
「ん」と手を差し出した翠が、あまりにも可愛らしくて困ってしまった。抱きしめたいけれど、手には熱いコーヒーがある。危なくてそれは出来ない。でも、今どうしても抱きしめたい。そう考えてじっと翠の目を見つめた。翠は、ふっと息を吐き出して小首を傾げながら俺を見て、ふわっと暖かい笑顔を見せた。
「コーヒーそこに置いとけよ。集合まで二時間あるんだろ? ん」
そう言って、俺に向かって両腕を思いっきり伸ばした。
その顔と仕草は、高校時代に一度だけ見たことがあった。具合が悪そうにしていた翠に頼まれて、少し長めに抱きしめてあげたことがある。その時に見せてくれたものと同じだった。俺に対する愛情が溢れているのがわかる顔。センチネルじゃなくても、気がつくくらいに柔らかい笑顔。
——ありがとう、果貫。
純粋な好意のこもった笑顔。
俺たちは、もう10年一緒にいる。それでも毎日共に暮らすことが奇跡のようで、嬉しくて、楽しい。翠もまだそう思っていてくれているのだろう。それが滲み出た笑顔だった。
「俺、あんなに酷い目に合わせたのに……」
それでも俺を愛していると言ってくれる。心の底から信じられると言ってくれる。その気持ちが、本当に嬉しくて胸が詰まる。辛くなるのか、負担だと感じるのかと恐れていたのに、微塵もそれを感じない。嬉しい、ただそれだけだった。
「愛してるよ、翠」
首を傾けて角度をつける俺に、翠も合わせて同じことをした。唇が触れ合い、お互いの全てを感じるため吸い付き合う。小さく漏れる呼吸音が、少しづつ世界を狭めていく。リップ音に混じって、「好き」と「愛してる」を繰り返すだけの時間。
胸が震えるような喜びに、気がつくと涙が溢れていた。もう、これも出来なかったのかもしれない。そう思うと、思いが次々と溢れて止まらなかった。夢中になってキスをした後、ふと見ると翠も泣いていた。
「愛してるよ、蒼。俺を救ってくれて、ありがとう。俺にはお前だけだ。お前にも俺だけ、だろ?」
その泣き笑いの顔を見ていると、それまでウジウジしていた気持ちがふっと消えてしまった。
——そうだ。俺には翠しかいない。翠にも俺しかいない。俺がいつまでもクヨクヨしていたら、翠が幸せになれない。
そう思うと、途端に靄がはれた。
驚いたことに、それと同時に欲が溢れてきた。自分でも驚くほどの変わり身の速さだった。
俺はグッと唇を噛むと、バスローブを脱ぎ捨てた。そして、まだベッドに横になっている翠に覆い被さり、深く長く口付けた。
「そうだよ。俺には翠だけだ。だから絶対死なせない。絶対に守るよ。経過がどうだろうと、結果的に助かるならそれでいい」
すると、翠はニヤリと楽しそうに笑った。さっきまでの天使のような笑顔とは打って変わって、とてもワルイ笑顔だった。
「そうこないとな。よし、ヤルぞ」
「やめろよ、もうちょっと色っぽいのよろしく」
「しょうがねえなあ」と笑う翠を見て、俺の身体からスッと力が抜けていくのを感じた。それを見て、翠は目で「いいんだよ」と訴えた。死にかけたくせに、気を遣われてしまった。全く、なんて懐が深いのだろう。
仕方が無いから、翠の好きなことをたくさんしてあげよう。肌をたくさん撫でてあげながら、身体中にキスを落としてあげよう。次にどうすればいいかは、触れていればわかるから。たくさん、心で会話しよう。
能力の修復は、昨日のケアで十分果たせた。今はただ、愛しい人を抱きしめたい。それだけだから。
◇◇◇
「はあ!? お前ら……折角買って来てもらったのに、飲まないで来るなよなー。ったく。じゃあ、食後のコーヒー欲しいよな? 待ってろ、今度は配達してもらうから。それならスタッフさんに頼めばいいだろ?」
俺たちが永心に「コーヒー飲まずにいちゃいちゃしてました。ごめんなさい」と告白すると、変に優しいあいつは代わりのものを準備すると言って席を外してしまった。相変わらず横暴なのか優しいのか分かりにくい男だ。スタッフさんも頼まれたら断れないだろうに。でも、あいつのことだから、また「あなたも、好きなのを買って下さいね」って言うんだろう。そんな感じだから、VDSでは日毎に永心ファンが増えていっている。
「二人ともどうやら復活したと見て良さそうだね。じゃあ、昨日分かったことでほぼ確定していることを報告していくよ」
完全復活した俺たちとは対照的に、完徹したという晴翔さんは、目の下が真っ黒だった。血液分析の結果を時間毎に記録し続けたそうで、緩やかな右肩上がりのグラフと、それと反比例するような右肩下がりのグラフが提示された。右肩上がりのグラフの下にはG、もう一つには「ε」と表記があった。
「ε……イプシロンですよね。無限小でしたよね、確か。インフィニティの対義語の」
「そうだね。インフィニティは無限大。能力がどこまで伸びるかわからない、もしくは測れない者という意味でつけられた称号だな。ただ、イプシロンは違う。これは、薬品名だ。うちと白崎製薬で研究開発中の薬で、能力者の遺伝子をマスクする作用があるものだ」
「能力遺伝子をマスクする? どうしてそんな薬が必要になるんですか?」
俺と野本は驚いてしまって、素頓狂な声を上げてしまった。能力を無くすために薬を飲むなんて、聞いたことがない。
抑えたいという気持ちやコントロールしたいという気持ちは理解できる。ただ、完全に無くすことを前提とした投薬をしようとする考えを、俺は持った事がなかった。
すると、晴翔さんは軽く頷きつつ、「それではいけないよ」と俺たちを諭した。
「君たちはガイドだ。だから能力者であっても、普段はあまり大変な事はないだろう? もう少し力が弱かったり身体能力が低かったりすると、野良センチネルに襲われたりすることもあるかもしれないが、身体能力に長けている君たちにはそれも無いよな? だから能力を無くしたいと思ったことが無いはずだ。でも、センチネルは違う。常に危険と隣り合わせで生きていかなくてはならない。そうなると、『こんな能力なんて無ければいいのに』そう思い悩む時期は必ずある。そうだろう? 咲人、翠くん」
晴翔さんは永心と翠に水を向けると、優しく微笑んだ。そして、席を立つと永心の後ろに立ち、その肩にポンと優しく手を乗せた。
「元々は、うちの所長が困っているセンチネルに力を貸したいということで始めた研究なんだ。クラヴィーアと同様に長期間の観察期間を設けてあって、イプシロンに関する研究はごく少人数のスタッフしか関わっていない。能力を失うということは、望まない人にとっては絶望でしかないだろうからね。慎重に扱う必要があって、スタッフも少ないんだ」
晴翔さんは、手元のタブレットにスタッフ名と所属先が明記された一覧を表示して見せてくれた。当然ながら、そこに載っている人々は、この研究所か白崎製薬に所属している人間だということになる。
ずらっと並んだ名前をサーッと流し読みしていると、そこに見覚えのある名前を見つけた。そこで手を止めていると、晴翔さんから「知っている人がいたのかい?」と声をかけられた。
「いえ、ちょっと、よく覚えてはいないんですけれど、聞き覚えがあるなと思ったもので……」
すると、俺のそのはっきりしない物言いに、翠が違和感を感じたようだった。
「何、その言い方。お前がはっきり覚えてないなんておかしくないか? どいつのこと言ってんの?」
俺に覆い被さるようにして後ろから抱きついて来た翠を、今着いたばかりの田崎が「仕事中ですよ、社長」と言ってひっぺがした。すると、今度は俺の前に潜り込んで来て、膝の上に座ってしまった。田崎は目を丸くしてため息をつくと、「今日だけだぞ」と言って降参していた。
「あ、この人だよ。鈴本環。なんだろうな、すごく聞き覚えのある響きなんだよ……でも、全然覚えてない」
「ふーん。ウチのスタッフじゃん。今思い出せないなら、調べようぜ。田崎、頼んだ」
俺の膝の上に座ったままなのに社長然としている翠を見て、田崎は心底呆れていた。口から「はあ」と文字がこぼれそうなほどの深いため息をつくと「承知いたしました」と大きな声で答えた。
「でもさ、お前が思い出せないようなことってそんな無かったよな? 昨日の酔い方も初めて見たんだけど。お前、誰と飲んでたの?」
翠は、翠と一緒にいない時に俺があれほど酔う飲み方をするとは思わなかったそうで、どうしてもその相手が知りたいのだと言う。俺は、その時一緒にいた相手については、全く後ろめたいことが無かったので、正直に説明することにした。
「昨日一緒に飲んでたのは、翔平と鉄平だよ。まあ、飲んだのは俺だけだけどな。事務所を飛び出してフラフラ歩いてたら、ちょうど食事に行く二人に会ったんだ。だから三人でダイニングバーに飯食いに行ったんだよ」
「へえ、翔平と鉄平だったのか。あー、まあ、それならわからなくもないかな。慣れた相手だもんな」
「そうだけど、相手は年齢もランクも下だ。何かあったら俺が守らないといけないのに……特に翔平は今危険だろ? 本当は送らないといけなかったんだ。判断を誤ったよ」
申し訳ないと下を向いた俺は、翠の額に自分の額をゴツンとぶつけてしまった。普段の俺なら、絶対にしないことだ。センチネルの頭に衝撃を与えるなんて、もってのほかだ。
「あああああ! ご、ごめん!」
そんな俺を見て、ぷっと笑い声を漏らす男がいた。入り口付近から聞こえた笑い声に、ハッとして全員が振り返った。
「あ、ごめんなさい。失礼しました。笑っちゃいけませんよね……あ、それと、おはようございます」
入り口にいたのは、翔平と鉄平だった。よく考えたら、二人もここに泊まっていたのだった。二人がいるなら、状況を思い出すことももう少しうまくいきそうだと思い、話し合いに参加してもらうことにした。
「なあ、お前たちと一緒だからと言って、蒼があれほど酔うなんてかなり珍しいことなんだ。それこそ、お母さんが亡くなった時に俺と飲みすぎて潰れた時くらいだった。昨日そんなに飲んでたのか?」
翔平と鉄平は顔を見合わせると、深刻そうな表情をしてこちらへ顔を向けた。そして、俺に向かって深々と頭を下げた。
「ごめんなさい! 今朝鉄平と話してたんですけど、果貫さんの様子がおかしくなったのってあの店に行ったからかもしれません」
翔平の告白に、翠が立ち上がった。「どういうことだ?」と翔平に問いかけると、鉄平がこちらへスタスタと歩み寄ってきた。そして、手元のタブレットを見て、ある名前をピンチアウトして見せた。俺たちは、その名前を見て驚いた。
「鈴本環先輩、ウチの大学の薬学部の六年生です。この人に、変な噂があるんです。なんかヤバい薬をばら撒いてるって。昨日、俺たちここに来る途中に、晴翔さんからイプシロンの説明を受けてたんです。その担当者のリスト見て、先輩の名前見つけて驚きました。鈴本先輩、昨日行った店でバイトしてるんです。バーテンとして」
「なるほど。それでその店に連れて行ったことを後悔したから、翔平くんはあんなに泣いてたわけか」
晴翔さんが翔平に問いかけると、翔平は「はい」と言って項垂れた。
俺たちの間に緊張が走った。この研究所は、翠と俺と田崎が信念を持って立ち上げた会社の一部だ。そこで働くスタッフによくない噂がある。その噂がなんであれ、ここで働く人間が能力者に危害を加えている可能性があるということだ。
翠は、これまでで最も深い怒りを覚えているようだった。許せない思いは、そのうち自らを苦しめる。普段の翠なら、そのことを痛いほど知っているため、常に心を落ち着けることを優先する。そんなあいつでも、今は自分ではどうにもならないようだった。
「蒼、田崎、晴翔さん。その男がここへ来てからの研究データに不備がないか調べ直します。抽出しておいてください。俺が目を通します。永心、野本。鈴本環の身辺調査を頼む。翔平、鉄平。そのよくない噂、全部話してくれ」
翠はぶるぶると震えていた。怒りが行きすぎると、それもまたゾーンアウトの危険性がある。このまま別行動を取るのは危険だ。そう判断した俺は、翠の腕にしがみついた。
「俺はお前と一緒にいる。ダメだと言っても、絶対聞かないからな! 今のお前は危険だ。何かあったら、俺がケアしないとダメだろう!?」
グッと翠を睨みつけると、翠はまたニヤリと笑った。そして、「わかったよ」と言ってふわりと相合を崩した。
「蒼は俺と一緒に通常業務。みんなは今頼んだことを優先しながら、通常業務で。周囲に知られないように。翔平、鉄平。お前たちは今から事務所に来い」
そして、一旦解散した。
待ってろよ、鈴本。
俺たちの信念を汚した罪は重い。
お前の企み、全部暴いて警察に突き出してやるからな。
翠を起こさないように小声になる気遣いはあるけれども、相変わらず一方的に話す姿は俺様だった。それでも流石の気配りで、俺と翠が好きなショップのキャラメルラテとブレンドを差し入れしてくれた。
パタパタと歩く永心の向かう先には、野本の姿が見える。俺がみている事に気がついた野本は、ぺこりと可愛らしくお辞儀をした。そして、永心が野本の元へと辿り着くと、愛おしそうに見つめ合いながら、時折談笑をしつつ去っていった。
翠はまだ、ベッドでぐっすりと眠っていた。カフェオレ色の髪が、朝日に照らされてキラキラと輝いていた。太陽光が直接入ってくるとセンチネルの目が潰れてしまうので、安心して眠れるようにするためにもやや光量が減衰するようにされている。
その少し弱まった光でも輝くほどに、翠の髪はツヤツヤだ。普段から口にするものに気を配り、かといってストレスを溜めてもいけないからと我慢し過ぎることもない。体調管理は万全で、常に健康そのものだ。
翠は、生まれ持った素質を上手に活かしていくことに長けていた。ただ、それがどうやって身について行ったのかは、俺もよく知らない。俺が知っているのは、大人になってからの翠だけだからだ。
小、中、高と学校が同じで、時にはクラスも班も同じになったことはあるが、必要最低限の会話しかしていなかった。翠は孤児で、中学までは養護施設から通っていた。高校に入ってからは、奨学金を受けながら寮に入っていた。そして、年々レベルの上がっていく稀なセンチネルとして国から期待されていたため、助成金がもらえていたのだと言う。その話だって、教えてもらったのはつい最近だ。
「インフィニティも孤児だって聞いてたから、俺もあの人を見習って頑張って生きていこうと思って。それに、生まれつきのレベルが高かったら精神力高くないとやっていけないし、後々高額で雇ってもらえるし。今鍛錬しといて損はないからな」
大学に入ったばかりの頃、その話を田崎にしているのを耳に入れたことはあった。
翠は、大学在学中に大きなミッションを成功させたことがあった。俺も途中までは一緒に現場にいたのだけれど、当時母さんの体調が芳しくなくて何度か仕事を抜けていた。丁度俺が休んだタイミングで、ミッションが成功したという連絡があった。
ただ、成功はしたのだが、翠がゾーンアウト寸前まで追い込まれてしまっていた。タワーから俺に「空いているガイドが今お前しかいないから」という理由で連絡が来て、翠の回収のために現場へ向かわされた。
その時の翠は本当にギリギリの状態で、どう見ても連れ帰るまでにはゾーンアウトしてしまいそうだった。だから、俺がその場でケアをする事にした。顔見知りだったため気恥ずかしかったのだが、いざ触れてみると衝撃的な感覚に襲われた。
その刺激は信じられないくらいに甘美なもので、俺たちを一瞬で恋に落とした。
それがパーフェクトマッチの感覚だと、後になって知った。
それからずっとだ。翠に触れる度に、愛しくて狂いそうになる。10年経った今でもだ。
「俺、お前の役に立てそうなんだけど。俺とボンディングしない?」
他の人に触らせないために、俺はガイドとして研鑽を積んだ。そして、特急パーシャルランク10まで上り詰めた男の隣に立つ資格を得た。
「果貫蒼殿 特急ランク10! まじか! ガイドの特急ランク10なんて、初めて聞いたぞ! おめでとう!」
そう言って抱きついてくれた時、絶対に俺が一生守るんだと誓った。そして、関わってこなかった過去を悔やんだ。近くにいたのに、俺は何もしてあげて来なかった。
永心から翠の昔の話を聞くたびに、いつももっとそばにいてやれば良かったという想いに苛まれる。
だからこそ、二人で暮らすようになってからは、ずっと愛せるだけ愛してきた。尽くせるだけ尽くしていたつもりだった。俺自身がそうしたくてやっていたのだから、たとえ意識を無くしたとしてもそれが出来ると思っていた。
「それなのに、俺が傷つけたんだもんなあ」
俺は、大好きな翠の髪を手で梳きながらつぶやいた。サラサラと髪が流れるのを見ていると、とても幸せな気持ちになれる。その感覚を堪能していると、不意に手首を掴まれた。
「翠? 起きてたの?」
俺が声をかけると、ほんの少しだけ瞼を開けた翠が口をへの字に曲げた。まるで子供が拗ねたような顔をしている。
「おー。おはよ。あのさ、傷つけたのもお前だけど、助けたのもお前だろ? フィルコの処置が無かったら、いくらメンタル強くても絶対アウトしてたよ」
翠は、目を慣らすために薄目の状態だった。それでも、寝起きに口を開くと多少ストレスになるはずだ。だから普段はあまり話さない。俺が一方的に話して、翠は相槌を打つようにしている。
それなのに、今日は自ら話しかけてくれた。俺はその行動をとった翠の気持ちを想像して、心がギュッとなった。
目に滲む涙を悟られまいと一瞬堪えてはみたものの、相手は高ランクのセンチネルなのだからバレないわけはないと諦めた。そして、その上で何事もなかったかのようにラテを紙袋から取り出し、話をそちらへ逸らそうとした。
「ん……おはよう。永心がキャラメルラテ持って来てくれたよ。飲める? もしかして結構前から起きてた感じ?」
「うん、まあ、そう。30分くらい前から、ずっと慣らしてた。だから、ラテ貰う」
「ん」と手を差し出した翠が、あまりにも可愛らしくて困ってしまった。抱きしめたいけれど、手には熱いコーヒーがある。危なくてそれは出来ない。でも、今どうしても抱きしめたい。そう考えてじっと翠の目を見つめた。翠は、ふっと息を吐き出して小首を傾げながら俺を見て、ふわっと暖かい笑顔を見せた。
「コーヒーそこに置いとけよ。集合まで二時間あるんだろ? ん」
そう言って、俺に向かって両腕を思いっきり伸ばした。
その顔と仕草は、高校時代に一度だけ見たことがあった。具合が悪そうにしていた翠に頼まれて、少し長めに抱きしめてあげたことがある。その時に見せてくれたものと同じだった。俺に対する愛情が溢れているのがわかる顔。センチネルじゃなくても、気がつくくらいに柔らかい笑顔。
——ありがとう、果貫。
純粋な好意のこもった笑顔。
俺たちは、もう10年一緒にいる。それでも毎日共に暮らすことが奇跡のようで、嬉しくて、楽しい。翠もまだそう思っていてくれているのだろう。それが滲み出た笑顔だった。
「俺、あんなに酷い目に合わせたのに……」
それでも俺を愛していると言ってくれる。心の底から信じられると言ってくれる。その気持ちが、本当に嬉しくて胸が詰まる。辛くなるのか、負担だと感じるのかと恐れていたのに、微塵もそれを感じない。嬉しい、ただそれだけだった。
「愛してるよ、翠」
首を傾けて角度をつける俺に、翠も合わせて同じことをした。唇が触れ合い、お互いの全てを感じるため吸い付き合う。小さく漏れる呼吸音が、少しづつ世界を狭めていく。リップ音に混じって、「好き」と「愛してる」を繰り返すだけの時間。
胸が震えるような喜びに、気がつくと涙が溢れていた。もう、これも出来なかったのかもしれない。そう思うと、思いが次々と溢れて止まらなかった。夢中になってキスをした後、ふと見ると翠も泣いていた。
「愛してるよ、蒼。俺を救ってくれて、ありがとう。俺にはお前だけだ。お前にも俺だけ、だろ?」
その泣き笑いの顔を見ていると、それまでウジウジしていた気持ちがふっと消えてしまった。
——そうだ。俺には翠しかいない。翠にも俺しかいない。俺がいつまでもクヨクヨしていたら、翠が幸せになれない。
そう思うと、途端に靄がはれた。
驚いたことに、それと同時に欲が溢れてきた。自分でも驚くほどの変わり身の速さだった。
俺はグッと唇を噛むと、バスローブを脱ぎ捨てた。そして、まだベッドに横になっている翠に覆い被さり、深く長く口付けた。
「そうだよ。俺には翠だけだ。だから絶対死なせない。絶対に守るよ。経過がどうだろうと、結果的に助かるならそれでいい」
すると、翠はニヤリと楽しそうに笑った。さっきまでの天使のような笑顔とは打って変わって、とてもワルイ笑顔だった。
「そうこないとな。よし、ヤルぞ」
「やめろよ、もうちょっと色っぽいのよろしく」
「しょうがねえなあ」と笑う翠を見て、俺の身体からスッと力が抜けていくのを感じた。それを見て、翠は目で「いいんだよ」と訴えた。死にかけたくせに、気を遣われてしまった。全く、なんて懐が深いのだろう。
仕方が無いから、翠の好きなことをたくさんしてあげよう。肌をたくさん撫でてあげながら、身体中にキスを落としてあげよう。次にどうすればいいかは、触れていればわかるから。たくさん、心で会話しよう。
能力の修復は、昨日のケアで十分果たせた。今はただ、愛しい人を抱きしめたい。それだけだから。
◇◇◇
「はあ!? お前ら……折角買って来てもらったのに、飲まないで来るなよなー。ったく。じゃあ、食後のコーヒー欲しいよな? 待ってろ、今度は配達してもらうから。それならスタッフさんに頼めばいいだろ?」
俺たちが永心に「コーヒー飲まずにいちゃいちゃしてました。ごめんなさい」と告白すると、変に優しいあいつは代わりのものを準備すると言って席を外してしまった。相変わらず横暴なのか優しいのか分かりにくい男だ。スタッフさんも頼まれたら断れないだろうに。でも、あいつのことだから、また「あなたも、好きなのを買って下さいね」って言うんだろう。そんな感じだから、VDSでは日毎に永心ファンが増えていっている。
「二人ともどうやら復活したと見て良さそうだね。じゃあ、昨日分かったことでほぼ確定していることを報告していくよ」
完全復活した俺たちとは対照的に、完徹したという晴翔さんは、目の下が真っ黒だった。血液分析の結果を時間毎に記録し続けたそうで、緩やかな右肩上がりのグラフと、それと反比例するような右肩下がりのグラフが提示された。右肩上がりのグラフの下にはG、もう一つには「ε」と表記があった。
「ε……イプシロンですよね。無限小でしたよね、確か。インフィニティの対義語の」
「そうだね。インフィニティは無限大。能力がどこまで伸びるかわからない、もしくは測れない者という意味でつけられた称号だな。ただ、イプシロンは違う。これは、薬品名だ。うちと白崎製薬で研究開発中の薬で、能力者の遺伝子をマスクする作用があるものだ」
「能力遺伝子をマスクする? どうしてそんな薬が必要になるんですか?」
俺と野本は驚いてしまって、素頓狂な声を上げてしまった。能力を無くすために薬を飲むなんて、聞いたことがない。
抑えたいという気持ちやコントロールしたいという気持ちは理解できる。ただ、完全に無くすことを前提とした投薬をしようとする考えを、俺は持った事がなかった。
すると、晴翔さんは軽く頷きつつ、「それではいけないよ」と俺たちを諭した。
「君たちはガイドだ。だから能力者であっても、普段はあまり大変な事はないだろう? もう少し力が弱かったり身体能力が低かったりすると、野良センチネルに襲われたりすることもあるかもしれないが、身体能力に長けている君たちにはそれも無いよな? だから能力を無くしたいと思ったことが無いはずだ。でも、センチネルは違う。常に危険と隣り合わせで生きていかなくてはならない。そうなると、『こんな能力なんて無ければいいのに』そう思い悩む時期は必ずある。そうだろう? 咲人、翠くん」
晴翔さんは永心と翠に水を向けると、優しく微笑んだ。そして、席を立つと永心の後ろに立ち、その肩にポンと優しく手を乗せた。
「元々は、うちの所長が困っているセンチネルに力を貸したいということで始めた研究なんだ。クラヴィーアと同様に長期間の観察期間を設けてあって、イプシロンに関する研究はごく少人数のスタッフしか関わっていない。能力を失うということは、望まない人にとっては絶望でしかないだろうからね。慎重に扱う必要があって、スタッフも少ないんだ」
晴翔さんは、手元のタブレットにスタッフ名と所属先が明記された一覧を表示して見せてくれた。当然ながら、そこに載っている人々は、この研究所か白崎製薬に所属している人間だということになる。
ずらっと並んだ名前をサーッと流し読みしていると、そこに見覚えのある名前を見つけた。そこで手を止めていると、晴翔さんから「知っている人がいたのかい?」と声をかけられた。
「いえ、ちょっと、よく覚えてはいないんですけれど、聞き覚えがあるなと思ったもので……」
すると、俺のそのはっきりしない物言いに、翠が違和感を感じたようだった。
「何、その言い方。お前がはっきり覚えてないなんておかしくないか? どいつのこと言ってんの?」
俺に覆い被さるようにして後ろから抱きついて来た翠を、今着いたばかりの田崎が「仕事中ですよ、社長」と言ってひっぺがした。すると、今度は俺の前に潜り込んで来て、膝の上に座ってしまった。田崎は目を丸くしてため息をつくと、「今日だけだぞ」と言って降参していた。
「あ、この人だよ。鈴本環。なんだろうな、すごく聞き覚えのある響きなんだよ……でも、全然覚えてない」
「ふーん。ウチのスタッフじゃん。今思い出せないなら、調べようぜ。田崎、頼んだ」
俺の膝の上に座ったままなのに社長然としている翠を見て、田崎は心底呆れていた。口から「はあ」と文字がこぼれそうなほどの深いため息をつくと「承知いたしました」と大きな声で答えた。
「でもさ、お前が思い出せないようなことってそんな無かったよな? 昨日の酔い方も初めて見たんだけど。お前、誰と飲んでたの?」
翠は、翠と一緒にいない時に俺があれほど酔う飲み方をするとは思わなかったそうで、どうしてもその相手が知りたいのだと言う。俺は、その時一緒にいた相手については、全く後ろめたいことが無かったので、正直に説明することにした。
「昨日一緒に飲んでたのは、翔平と鉄平だよ。まあ、飲んだのは俺だけだけどな。事務所を飛び出してフラフラ歩いてたら、ちょうど食事に行く二人に会ったんだ。だから三人でダイニングバーに飯食いに行ったんだよ」
「へえ、翔平と鉄平だったのか。あー、まあ、それならわからなくもないかな。慣れた相手だもんな」
「そうだけど、相手は年齢もランクも下だ。何かあったら俺が守らないといけないのに……特に翔平は今危険だろ? 本当は送らないといけなかったんだ。判断を誤ったよ」
申し訳ないと下を向いた俺は、翠の額に自分の額をゴツンとぶつけてしまった。普段の俺なら、絶対にしないことだ。センチネルの頭に衝撃を与えるなんて、もってのほかだ。
「あああああ! ご、ごめん!」
そんな俺を見て、ぷっと笑い声を漏らす男がいた。入り口付近から聞こえた笑い声に、ハッとして全員が振り返った。
「あ、ごめんなさい。失礼しました。笑っちゃいけませんよね……あ、それと、おはようございます」
入り口にいたのは、翔平と鉄平だった。よく考えたら、二人もここに泊まっていたのだった。二人がいるなら、状況を思い出すことももう少しうまくいきそうだと思い、話し合いに参加してもらうことにした。
「なあ、お前たちと一緒だからと言って、蒼があれほど酔うなんてかなり珍しいことなんだ。それこそ、お母さんが亡くなった時に俺と飲みすぎて潰れた時くらいだった。昨日そんなに飲んでたのか?」
翔平と鉄平は顔を見合わせると、深刻そうな表情をしてこちらへ顔を向けた。そして、俺に向かって深々と頭を下げた。
「ごめんなさい! 今朝鉄平と話してたんですけど、果貫さんの様子がおかしくなったのってあの店に行ったからかもしれません」
翔平の告白に、翠が立ち上がった。「どういうことだ?」と翔平に問いかけると、鉄平がこちらへスタスタと歩み寄ってきた。そして、手元のタブレットを見て、ある名前をピンチアウトして見せた。俺たちは、その名前を見て驚いた。
「鈴本環先輩、ウチの大学の薬学部の六年生です。この人に、変な噂があるんです。なんかヤバい薬をばら撒いてるって。昨日、俺たちここに来る途中に、晴翔さんからイプシロンの説明を受けてたんです。その担当者のリスト見て、先輩の名前見つけて驚きました。鈴本先輩、昨日行った店でバイトしてるんです。バーテンとして」
「なるほど。それでその店に連れて行ったことを後悔したから、翔平くんはあんなに泣いてたわけか」
晴翔さんが翔平に問いかけると、翔平は「はい」と言って項垂れた。
俺たちの間に緊張が走った。この研究所は、翠と俺と田崎が信念を持って立ち上げた会社の一部だ。そこで働くスタッフによくない噂がある。その噂がなんであれ、ここで働く人間が能力者に危害を加えている可能性があるということだ。
翠は、これまでで最も深い怒りを覚えているようだった。許せない思いは、そのうち自らを苦しめる。普段の翠なら、そのことを痛いほど知っているため、常に心を落ち着けることを優先する。そんなあいつでも、今は自分ではどうにもならないようだった。
「蒼、田崎、晴翔さん。その男がここへ来てからの研究データに不備がないか調べ直します。抽出しておいてください。俺が目を通します。永心、野本。鈴本環の身辺調査を頼む。翔平、鉄平。そのよくない噂、全部話してくれ」
翠はぶるぶると震えていた。怒りが行きすぎると、それもまたゾーンアウトの危険性がある。このまま別行動を取るのは危険だ。そう判断した俺は、翠の腕にしがみついた。
「俺はお前と一緒にいる。ダメだと言っても、絶対聞かないからな! 今のお前は危険だ。何かあったら、俺がケアしないとダメだろう!?」
グッと翠を睨みつけると、翠はまたニヤリと笑った。そして、「わかったよ」と言ってふわりと相合を崩した。
「蒼は俺と一緒に通常業務。みんなは今頼んだことを優先しながら、通常業務で。周囲に知られないように。翔平、鉄平。お前たちは今から事務所に来い」
そして、一旦解散した。
待ってろよ、鈴本。
俺たちの信念を汚した罪は重い。
お前の企み、全部暴いて警察に突き出してやるからな。
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