愛するよりも、愛されたい。

松本ダリア

文字の大きさ
7 / 9

第七話 痛む心

しおりを挟む
その後、私は救急車で運ばれた。幸いにも入院するほどの怪我ではなく、数針縫って帰宅する程度だった。でもその間、夫はずっと私に付き添ってくれた。

「一体何があったんだい?どうして鏡が……」

帰りの電車の中で、夫は鏡が割れた原因を尋ねて来た。でも「自分と葛藤して腹が立って瓶を投げつけた」なんて本当の理由など言えるはずがない。

「ごめんなさい。化粧品水を使おうと思ったらちょっと手を滑らせてしまったの」

「そうか……気をつけてくれよ。数針縫うぐらいで済んで良かったが、入院するほどの大怪我をしていたら大変だったんだぞ?本当に心配したんだからな俺は……」

夫は怒るのではなく私を諭すようにそう言った。その目は優しさと慈愛に満ち溢れていて心から私を心配していることが分かった。夫は私が「自分以外の男」と関係を持っているということに全く気づいていないのだ。昔から夫には少し鈍感なところがあるとは思っていたが、改めて実感した。

それに、夫からは私に対する後ろめたさや罪悪感など微塵も感じられない。私以外の女と寝ているはずなのに……

もしかしたら、私はとんでもない思い違いをしているのではないだろうか?街で見かけたあの女は不倫相手でもなんでもなく、ただの知り合いで、飲みやパチンコは言い訳ではなく本当に行っているのでは……私は複雑な気持ちになった。

「どうして……」

「えっ?」

どうして、そんなに優しくするの?と、思わず口をついて出そうになり、慌てて言い換えた。

「な、何でもない。本当にごめんなさい。これからは気をつけるから……」

夫は微笑むと私の頭を優しく撫でてくれた。酷く胸が痛んで、咄嗟に目を逸らした。何の疑いも、罪悪感もないその素直な眼差しから逃れたかった。

いっそ『お前のことが嫌いになった』と言ってくれたなら。諦めがつくのに。『家族』……なんて中途半端な言葉。『女』でも『妻』でもない私は今の夫にとって、一体どういう存在なのだろう。いっそ私の方から『私はあなた以外の男と関係を持っている』そう言おうか。そうしたら、夫はきっと私を嫌いになるはずだ。

そこまで考えて、私はハッとした。慌てて首を振る。

(言えない……そんなこと……)

ただただ、夫の優しさが辛くて苦しかった。



彼にも怪我をしたことは伝えた。当然、心配して会いたいと言ってきたが、私は拒んだ。一か月ほどもすると、怪我したことが嘘のように痛みも傷もすっかり癒えていた。

彼に思いを伝えるべきか迷った。でも彼はきっと納得しないだろう。いつものペースに乗せられて、私はきっとまた拒めなくなる。彼には申し訳ないけれど、何も言わずに関係を断つことにした。その日から通知も着信も全て無視した。心配した彼から連日、嵐のようなメッセージが届く。私は思い切って、着信も通知も全て拒否設定をした。

そんなある日のこと。出勤すると、店に見覚えのある人がいた。

「……陽一くん?!」

驚いて、咄嗟に逃げようとした。しかし彼は私の腕を掴んで言った。

「志麻ちゃん……何で連絡くれないの?」

「離して。私はもうあなたに会いたくないの」

「何で?どういうこと?」

私が押し黙っていると、苛立った彼が声を上げた。

「黙ってちゃ分からないだろ?!どういうことか説明してくれよ!」

今まで見たことも聞いたこともない表情と口調だった。その姿を見て、彼が本気で私を想ってくれていることが伝わってきて胸が苦しくなった。涙が出そうになって何とか堪えた。店長や他の店員達が驚いた顔で私達を見つめている。客が誰もいないことが不幸中の幸いだった。私は彼の腕を掴んで店の外へ連れ出した。

「ごめんなさい。私、あなたのこと嫌いになったの。だから、もう会いたくない」

「志麻ちゃん、何で目を逸らしながら言うの?本気なら俺の顔見て言ってよ」

私は尚も彼から目を逸らしたまま、お願いだから、早く去って欲しい。涙が溢れてしまう前に。そう思った。

「……ごめんなさい。今はあなたの顔を直視できない……泣きそうなの」

「は?何で泣くの?俺のこと嫌いになったんだろ?」

彼はそう言って私の腕を強く掴んだ。私はその手を思い切り振り解いて声を上げた。

「あなたと話すことは何もないの!お願いだからもう帰って!」

最後に一瞬だけ見えた彼の顔は酷く悲しげだった。信じられない、というような顔をして私のことをじっと見つめていた。

「そうかよ。分かった。もう会わないから。連絡もしない。仕事の邪魔してごめん」

驚くほど低い声でそう言って、彼は私の前から立ち去った。私はしばらくの間、その背中を見つめていた。彼は一度もこちらを振り返らなかった。

「……陽一くん、ごめんなさい……ごめんなさい……っ」

堪えていた涙が溢れて止まらなかった。どうしようもなく胸が苦しかった。彼を心から愛しているからこそ苦しくて、痛くて、とても辛かった。真冬の冷たい風が余計に身に染みた。

ひとしきり泣いた後、ハンカチで涙を拭き、ポケットから目薬を取り出した。そして、鏡で自分の顔を確認すると、何事もなかったかのように店内に戻った。

「石波さん、大丈夫なの?」

「あのお客さんは確か、石波が新商品を売ってくれた人だよな?何かあったのか?」

店長と他の店員達が心配して声を掛けてくれた。

「すみません。何でもないんです。ちょっとトラブルがあっただけで……ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」

「それならいいが……しかし、顔色が悪いぞ。そんな顔じゃ、接客は無理だろ。仕事はいいから、今日はとりあえず帰れ。な?」

店長は優しい笑顔を浮かべてそう言ってくれた。他の店員も大きく頷いている。つくづく良い職場、人に恵まれたなぁと私は心が温かくなった。

「店長、皆さん……ありがとうございます。本当にすみません」



家に帰り、誰もいないリビングに足を踏み入れると途端に力が抜けてしまった。床に崩れ落ちそうになり、慌てて近くのソファに倒れ込んだ。仰向けになったまま、ぼんやりとした。色々な記憶が次から次へと蘇った。

彼と初めて出会った時のことを思い出した。がっしりとした体格に似合わない眼鏡を掛けて、でも、明るい笑顔が素敵で、気が付いたらいつの間にかペースに乗せられていた。一緒にいるととても楽しかった。彼は夫とは正反対のタイプだ。夫は痩せていてひょろっとしている。決して男前ではないしユーモアがある人ではないが、見るからに「優しくて献身的な人」そう思わせるタイプだった。夫と正反対だからこそ私は彼に惹かれたのだ。

そして、彼と身も心も愛し合ったことを思い出して、また涙が溢れた。

彼との出会いは偶然だったのかもしれない。それでも、彼は私にとって大切な存在だった。彼は身も心も私を愛してくれた。私の心と体を優しく包み込んで、寂しさを埋めてくれたのだ。私はそんな彼を心の底から深く愛し、感謝していた。

ついさっき見た彼の悲しげな顔を思い出した。私は彼を傷つけてしまった。あんなに私のことを愛してくれたのに。

「陽一くん……私、なんて酷いことを……」

最後にきちんとこの思いを伝えたかった。一方的で自分勝手。そんなことは分かっていた。でも、彼を夫以上に愛してしまった以上、そうするしかなかった。しかし、直接連絡を取ったり、会う勇気はない。会ってしまったらきっとまた彼の胸に飛び込んでしまうだろう。

便箋びんせん……どこかにしまったような……」

私はリビングの棚を探し回り、便箋を見つけた。何枚か使った後があったが、いつ買ったものなのかはもう思い出せなかった。それから私は彼に宛てて手紙を書いたのだった。



最終話へ続く。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

完全なる飼育

浅野浩二
恋愛
完全なる飼育です。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

大事な人

ちえ
恋愛
大人向け恋愛小説

処理中です...