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幕間
肖像画 前編
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「これで宜しゅうございますか? バハディル様」
そう言って、目の前に布を取り去って如何にも職人といった体の男が頭を下げる。
一応一張羅なのだろうが、顔料の匂いがうっすらと漂っている。
その隣にいるのは絵画工房の主なのだろう恰幅のいい初老の男だったが、愛想のいい顔に緊張がみなぎっている。
バハディル様と呼ばれた男は、目の前に置かれた肖像画をじっと凝視した。
普段はうるさいほどに喋る彼が、無言のまま立ち位置を変え、隅々まで瑕疵がないか見つめている。
工房の主の愛想笑いを浮かべた顔が段々蒼褪め始めたころ、バハディルはほうと溜息をついた。
「良くここまで修理できたな、……感謝する」
工房の主は安堵のあまり泣きそうになった。
「いえ、これほどの作品を手掛けることが出来たのは、画工として大変な栄誉にございます。それにしても、美しいお方ですね。バハディル様のご先祖でいらっしゃるのですか?」
「……いや」
そう言っただけでまた黙り込む。
あまりにも普段の彼と違う態度に怪訝な表情だった。
美しいと工房の主が評した肖像画は細部に至るまで素晴らしいものだった。
青年と言っていい年齢の男性の全身像でけぶる様な金色の髪と印象的な翡翠色の瞳だった。
煌びやかな軍装に身を包み、腰には双剣を佩刀し、銀色の鱗を連ねた竜に騎乗した姿は、幻想的なまでに美しい。
額縁も金で装飾され、様々な貴石が嵌め込まれたそれは、これだけでも一財産になりそうなものだった。
「我らの竜騎士じゃよ」
そう言ってバハディルの妻に案内されて入ってきたのは、かなりの年齢の老人だった。一人では歩くのがおぼつかないのだろう、孫らしき若い男性に支えられている。
「これは、大叔父上、今お知らせしようと思っていたのですが」
「すまんな、年寄りはせっかちなんじゃよ」
バハディルは老人には丁重な態度だったが、隣の若い男にはじろりとやや不快そうに視線を向ける。
「ふふん、ようやく完成したようですね。ま、この絵を修復できる工房を見つけてきたのは僕ですからね」
そう言って、やや胸を逸らしながら言う男にむすっとした顔でねめつける。
「おやおや、近衛大隊の大隊長ともあろうお方が、礼の一つも言えないとは……」
困った物だと言わんばかりに首を振り、皮肉でいっぱいの笑顔でこちらを見る。
「……感謝はしている」
「ま、一応礼として受け取っておきましょう。……この絵の本来の姿を再び見ることが出来ましたしね」
そう言うと今までの斜に構えた様な皮肉気な態度は消え、憧憬に満ちた瞳を向ける。
バハディルも再び肖像画に視線を送る。
「バハディル様、ようございましたわね」
ヴェーラがそう言うのを無言のまま頷く。
「とてもきれいな肖像画ですのね」
「わたくしも始めて見ましたわ」
ニルファーとヘザーがほうと感嘆したように溜息を漏らし、シャノンが瞳を輝かせて肖像画に見入っていいた。
「あの…バハディル様。そのう、顔料の調達がと、当初の予算を大幅に超えてしまいまして……だいぶ、その」
「いくらかかった?」
「は……そのですね」
ごくりと工房の主は唾を呑み込む。
「金貨五百枚ほど……で」
ヴェーラを除いた三人の妻たちは一様に息を呑んだ。
事前に前金はたっぷり払っているうえでの金額にとてもたった一枚の絵の修復の値段とは思えない。
「仕方ありませんよ、装飾品に使うほど質の良い宝石を惜しげもなく顔料に使ったのですから」
若い男は莫大な修復料を提示する職人たちを庇うようなことを言う。
バハディルは無言で頷き、ヴェーラに目配せをする。
ヴェーラも顔色一つ変えず、微笑むと部屋の外に出て行った。
暫くすると金貨のつまった革袋を御盆にのせた召使を何人も引き連れて入ってきた。
「確認してくれ」
「よ、よろしいので?」
値引きも何もされなかったことに不審に思ったのか、どもりながらもそう問い質す。
バハディルは片眉を上げて、工房の主を見ると
「構わん、正当な値段なのだろう?」
「はっ、ありがとうございます!」
深々と頭を下げる工房の主も職人ももう眼中にないのか肖像画を見入る。
「ヴェーラ、子供たちを呼んでくるといい。この絵を見せたい」
「はい、バハディル様」
「大叔父上、このあと宴席を設けるつもりなのですが」
「ふむ、無論招いてくれるのだろうのう?」
「当然です」
「ぼくも」
「お前は帰っても構わんぞ、大叔父上は召使に送らせる」
「ええ? それが恩人に対する態度ですか?」
そうこうするうちにバハディルの子供たちがやってきた。上は18から下は生まれたばかりの嬰児だ。
にぎやかに入ってきたと思うと、絵を見て歓声を上げたり感歎の溜息を漏らしたりしている。
そこへ蒼い顔をした召使が入ってきた。
絵の修復が終わったことと祝いの宴席への招待を伝えに親族に使いに出した男だった。
親族に何かあったのかと顔を顰めると
「だ、旦那さま。ベルナルド様が」
「追い返せ」
召使いの言葉を遮るように憤然と言い放つ。
それに4人の妻たちも苦笑する。
客人を追い返すなど普通なら有り得ないのだが、ベルナルドは何かと言うと食事を集りに来る。
バハディルがいると大体酒を飲みながら、口喧嘩が起こる。バハディルも追い返せなどと言いながら、実際にそうなったことはない。
「どうせ、宴席のことをどこからか聞きつけてきたのだろう」
「そ、それがお一人ではないのです」
「なに?」
部下でも引き連れてきたのかと更に苦い顔になる。
「ナイジェル様が、部隊長様がお出でにございます」
「なんだと!」
それを聞いた途端バハディルは駆け出していた。
屋敷の外に出ると表門の所にベルナルドとナイジェル、それと見知らぬ若い男が立っていた。
バハディルはナイジェルの表情を認めると息を呑んだ。
白い端正な顔には何の表情も浮かんでいない。
だが、瞳は翡翠色に煌めき、怒りの色に染まっている。
いつもヘラヘラと笑っているベルナルドがやや青ざめた真剣な表情になっているのも分かる。
「バハディル大隊長、我が家の蜥蜴と猿が逃げ出してな。ここに逃げ込んだようだ。探しても構わないだろうか?」
殺気すら孕んだナイジェルの声に自分に向けられたものではないとはいえ、背中に冷たい汗が流れた。
「はい、どうぞご存分に」
「すまない」
そう言うが早いか、走るような速度で屋敷の中に入っていく。それにベルナルドと若い男も付いて行く。
「ユタ、どっちだ?」
「……左の方向にいるようです」
ユタと呼ばれた男はナイジェルの質問にそう答えた。
「左の方向に果樹はありますか?」
屋敷の主であるバハディルに質問する。
ユタの名前にそれがナイジェルの幼馴染であることを思い出す。
ナイジェルはあまり家族のことは話さないが、この幼馴染の名前は良く出るからだ。
「中庭に甘橙と葡萄の木が数本植えられているが……」
「そこです」
「そこだな」
ユタとナイジェルがほぼ同時に答えて、中庭を目指す。
「……いったい何があった、ベルナルド」
声を低めてベルナルドに問い質す。
「……アナイリン様が身籠られました」
バハディルは目を見開く。
ナイジェルが結婚してから2年が経つ。
ナイジェル本人は特に何とも思ってないのだが、周囲は子が出来ないことにやきもきしていたのだ。
特に国王ロークと義父であるライギット辺境伯オスウィンは気にしていてそれとなく第二夫人を娶るようにナイジェルに勧めていた。
ナイジェルはアナイリンを溺愛していたし、少し性的なことに潔癖なところがあり、あまり気が進まず、その都度断っていた。
それなら朗報のはずなのだが。
「つわりで体調の悪いアナイリン様を元気づけようとモラーヴィとファルハードが何やら芸を見せているうちに喧嘩になって、その……芸で使っていた皿と甘橙がアナイリン様に当たってしまいまして」
「お子は? アナイリン様はご無事なのか?」
「……何かあったら、部隊長は訪いなど悠長なことはされてません」
「だろうな。よくその場で斬られなかったものだ」
「医者を呼んだりして、部隊長もアナイリン様の無事を確かめるまで離れられませんでしたから」
話をしながら、ナイジェルたちの後を追う。
バハディルが先ほどいた部屋を通り抜ける際、グラム老とドミトリーにナイジェルはすれ違いざま会釈をして通り抜ける。
二人はぽかんと口を開けて、その様子を見ていた。
ヴェーラとバハディルの子供たちも同様でナイジェルの様子に驚きを隠せないようだ。
他の三人の妻と娘たちは何故かその場にいなかった。
中庭に出るとナイジェルは一本の甘橙の木の下で止まった。
木の下の地面には甘橙の皮が無数に落ちている。
「ファルハード、モラーヴィ。そこにいるのは分かっている。さっさと降りて来い」
がさりと木の葉が動く。
に、…にゃああ~。
潰れたあまり似ていない猫の鳴き真似がシンと静まり返った中庭に響き渡る。
ユタは頭を抱え、ベルナルドはあの馬鹿がと力なく呟く。
「……猫が甘橙など食べるか、愚か者どもが!」
吐き捨てるように言うとバハディルの方を振り向く。
「バハディル、木を一本貰う。後で返すからな」
そう言うと外套を脱ぎ棄て、双剣を引き抜く。助走して、幹を数歩駆け上ると手前の枝を切り飛ばす。
バサバサと派手な音を立てて、枝が落ちる。
落ちる枝を器用に避けながら、宙返りを打ち地面に着地する。
また駆け上がると短い気合の声と共に少し細くなった幹の中ほどを両断する。
ドサドサ、バサバサと更に派手な音を立てながら甘橙の木が斬り倒された。
「ベルナルド!」
木が倒れる直前に飛び出したものがあった。モラーヴィを背中にのせたファルハードだった。
ナイジェルの声に応じて、ベルナルドの手から紐の両端に重りをつけたものがうなりを上げてファルハードの足に巻き付く。
そのままぐるぐるとモラーヴィごと絡め獲られ、羽ばたくこともできなくなったファルハードは呆気なく地面に墜落する。
ナイジェルが近づくと地面を転がりまわっていたモラーヴィとファルハードはがばりと地面に頭を擦りつけた。
「わ、悪気はなかったのでございます! 平に、平にご容赦を!」
ファルハードもキュウと申し訳なさそうに鳴く。
「ア、アナイリン様はずっとお子を願っておりました。ご懐妊されてからも心無い言葉を吐く者もございまして、お慰めしようと……調子に乗ってしまいました。申し訳ございません」
心からの謝罪に氷のような視線がほんの僅かに緩む。
「半人前の竜だろうが、精霊だろうが、まずアナイリンに詫びるべきだろう」
「ごもっともでございますが、あまりにも当代様のお嘆きの前に……いたたまれず」
「言い訳するな」
「は、はい」
しゅんと項垂れる精霊と飛竜に溜息を吐く。
「バハディル、騒がせて済まなかった。この木の代わりは後で届けさせる」
「いえ、それは構いませんが」
「告罪天使ナイジェル様にございますか?」
突然話しかけてきた老人に不審そうに目を細め、バハディルの方に視線を向ける。
「私の大叔父にあたります。グラム・ラスロにございます。以前は大法官を務めておりました。隣にいますのその孫にあたりますドミトリー・ラスロです。ユタ殿はご存じかと思いますが、王立学問院に在籍しております」
「御身の武勇をこの国にいる者で知らぬものはございますまい。告罪天使の剣技を間近で拝見できたのは光栄にございます」
「そのような大層なものではありませんが」
「部隊長、実はこのあとささやかながら宴席を設ける予定だったのですが、宜しければ」
「いや、済まないが」
ナイジェルの言葉にバハディルの後ろで盛大な落胆の溜息が複数洩れる。
「ナイジェル様、ここでお会いできたのも神の御心なのかと存じます。老い先短いこの身に食事を共にし、喜びを分かち合う栄誉をお与えくださいませんかな?」
ナイジェルは僅かに苦笑する。
「ご老人にそこまで言われては、断れませんね」
バハディルの後ろで押さえた歓声が起こる。
そう言って、目の前に布を取り去って如何にも職人といった体の男が頭を下げる。
一応一張羅なのだろうが、顔料の匂いがうっすらと漂っている。
その隣にいるのは絵画工房の主なのだろう恰幅のいい初老の男だったが、愛想のいい顔に緊張がみなぎっている。
バハディル様と呼ばれた男は、目の前に置かれた肖像画をじっと凝視した。
普段はうるさいほどに喋る彼が、無言のまま立ち位置を変え、隅々まで瑕疵がないか見つめている。
工房の主の愛想笑いを浮かべた顔が段々蒼褪め始めたころ、バハディルはほうと溜息をついた。
「良くここまで修理できたな、……感謝する」
工房の主は安堵のあまり泣きそうになった。
「いえ、これほどの作品を手掛けることが出来たのは、画工として大変な栄誉にございます。それにしても、美しいお方ですね。バハディル様のご先祖でいらっしゃるのですか?」
「……いや」
そう言っただけでまた黙り込む。
あまりにも普段の彼と違う態度に怪訝な表情だった。
美しいと工房の主が評した肖像画は細部に至るまで素晴らしいものだった。
青年と言っていい年齢の男性の全身像でけぶる様な金色の髪と印象的な翡翠色の瞳だった。
煌びやかな軍装に身を包み、腰には双剣を佩刀し、銀色の鱗を連ねた竜に騎乗した姿は、幻想的なまでに美しい。
額縁も金で装飾され、様々な貴石が嵌め込まれたそれは、これだけでも一財産になりそうなものだった。
「我らの竜騎士じゃよ」
そう言ってバハディルの妻に案内されて入ってきたのは、かなりの年齢の老人だった。一人では歩くのがおぼつかないのだろう、孫らしき若い男性に支えられている。
「これは、大叔父上、今お知らせしようと思っていたのですが」
「すまんな、年寄りはせっかちなんじゃよ」
バハディルは老人には丁重な態度だったが、隣の若い男にはじろりとやや不快そうに視線を向ける。
「ふふん、ようやく完成したようですね。ま、この絵を修復できる工房を見つけてきたのは僕ですからね」
そう言って、やや胸を逸らしながら言う男にむすっとした顔でねめつける。
「おやおや、近衛大隊の大隊長ともあろうお方が、礼の一つも言えないとは……」
困った物だと言わんばかりに首を振り、皮肉でいっぱいの笑顔でこちらを見る。
「……感謝はしている」
「ま、一応礼として受け取っておきましょう。……この絵の本来の姿を再び見ることが出来ましたしね」
そう言うと今までの斜に構えた様な皮肉気な態度は消え、憧憬に満ちた瞳を向ける。
バハディルも再び肖像画に視線を送る。
「バハディル様、ようございましたわね」
ヴェーラがそう言うのを無言のまま頷く。
「とてもきれいな肖像画ですのね」
「わたくしも始めて見ましたわ」
ニルファーとヘザーがほうと感嘆したように溜息を漏らし、シャノンが瞳を輝かせて肖像画に見入っていいた。
「あの…バハディル様。そのう、顔料の調達がと、当初の予算を大幅に超えてしまいまして……だいぶ、その」
「いくらかかった?」
「は……そのですね」
ごくりと工房の主は唾を呑み込む。
「金貨五百枚ほど……で」
ヴェーラを除いた三人の妻たちは一様に息を呑んだ。
事前に前金はたっぷり払っているうえでの金額にとてもたった一枚の絵の修復の値段とは思えない。
「仕方ありませんよ、装飾品に使うほど質の良い宝石を惜しげもなく顔料に使ったのですから」
若い男は莫大な修復料を提示する職人たちを庇うようなことを言う。
バハディルは無言で頷き、ヴェーラに目配せをする。
ヴェーラも顔色一つ変えず、微笑むと部屋の外に出て行った。
暫くすると金貨のつまった革袋を御盆にのせた召使を何人も引き連れて入ってきた。
「確認してくれ」
「よ、よろしいので?」
値引きも何もされなかったことに不審に思ったのか、どもりながらもそう問い質す。
バハディルは片眉を上げて、工房の主を見ると
「構わん、正当な値段なのだろう?」
「はっ、ありがとうございます!」
深々と頭を下げる工房の主も職人ももう眼中にないのか肖像画を見入る。
「ヴェーラ、子供たちを呼んでくるといい。この絵を見せたい」
「はい、バハディル様」
「大叔父上、このあと宴席を設けるつもりなのですが」
「ふむ、無論招いてくれるのだろうのう?」
「当然です」
「ぼくも」
「お前は帰っても構わんぞ、大叔父上は召使に送らせる」
「ええ? それが恩人に対する態度ですか?」
そうこうするうちにバハディルの子供たちがやってきた。上は18から下は生まれたばかりの嬰児だ。
にぎやかに入ってきたと思うと、絵を見て歓声を上げたり感歎の溜息を漏らしたりしている。
そこへ蒼い顔をした召使が入ってきた。
絵の修復が終わったことと祝いの宴席への招待を伝えに親族に使いに出した男だった。
親族に何かあったのかと顔を顰めると
「だ、旦那さま。ベルナルド様が」
「追い返せ」
召使いの言葉を遮るように憤然と言い放つ。
それに4人の妻たちも苦笑する。
客人を追い返すなど普通なら有り得ないのだが、ベルナルドは何かと言うと食事を集りに来る。
バハディルがいると大体酒を飲みながら、口喧嘩が起こる。バハディルも追い返せなどと言いながら、実際にそうなったことはない。
「どうせ、宴席のことをどこからか聞きつけてきたのだろう」
「そ、それがお一人ではないのです」
「なに?」
部下でも引き連れてきたのかと更に苦い顔になる。
「ナイジェル様が、部隊長様がお出でにございます」
「なんだと!」
それを聞いた途端バハディルは駆け出していた。
屋敷の外に出ると表門の所にベルナルドとナイジェル、それと見知らぬ若い男が立っていた。
バハディルはナイジェルの表情を認めると息を呑んだ。
白い端正な顔には何の表情も浮かんでいない。
だが、瞳は翡翠色に煌めき、怒りの色に染まっている。
いつもヘラヘラと笑っているベルナルドがやや青ざめた真剣な表情になっているのも分かる。
「バハディル大隊長、我が家の蜥蜴と猿が逃げ出してな。ここに逃げ込んだようだ。探しても構わないだろうか?」
殺気すら孕んだナイジェルの声に自分に向けられたものではないとはいえ、背中に冷たい汗が流れた。
「はい、どうぞご存分に」
「すまない」
そう言うが早いか、走るような速度で屋敷の中に入っていく。それにベルナルドと若い男も付いて行く。
「ユタ、どっちだ?」
「……左の方向にいるようです」
ユタと呼ばれた男はナイジェルの質問にそう答えた。
「左の方向に果樹はありますか?」
屋敷の主であるバハディルに質問する。
ユタの名前にそれがナイジェルの幼馴染であることを思い出す。
ナイジェルはあまり家族のことは話さないが、この幼馴染の名前は良く出るからだ。
「中庭に甘橙と葡萄の木が数本植えられているが……」
「そこです」
「そこだな」
ユタとナイジェルがほぼ同時に答えて、中庭を目指す。
「……いったい何があった、ベルナルド」
声を低めてベルナルドに問い質す。
「……アナイリン様が身籠られました」
バハディルは目を見開く。
ナイジェルが結婚してから2年が経つ。
ナイジェル本人は特に何とも思ってないのだが、周囲は子が出来ないことにやきもきしていたのだ。
特に国王ロークと義父であるライギット辺境伯オスウィンは気にしていてそれとなく第二夫人を娶るようにナイジェルに勧めていた。
ナイジェルはアナイリンを溺愛していたし、少し性的なことに潔癖なところがあり、あまり気が進まず、その都度断っていた。
それなら朗報のはずなのだが。
「つわりで体調の悪いアナイリン様を元気づけようとモラーヴィとファルハードが何やら芸を見せているうちに喧嘩になって、その……芸で使っていた皿と甘橙がアナイリン様に当たってしまいまして」
「お子は? アナイリン様はご無事なのか?」
「……何かあったら、部隊長は訪いなど悠長なことはされてません」
「だろうな。よくその場で斬られなかったものだ」
「医者を呼んだりして、部隊長もアナイリン様の無事を確かめるまで離れられませんでしたから」
話をしながら、ナイジェルたちの後を追う。
バハディルが先ほどいた部屋を通り抜ける際、グラム老とドミトリーにナイジェルはすれ違いざま会釈をして通り抜ける。
二人はぽかんと口を開けて、その様子を見ていた。
ヴェーラとバハディルの子供たちも同様でナイジェルの様子に驚きを隠せないようだ。
他の三人の妻と娘たちは何故かその場にいなかった。
中庭に出るとナイジェルは一本の甘橙の木の下で止まった。
木の下の地面には甘橙の皮が無数に落ちている。
「ファルハード、モラーヴィ。そこにいるのは分かっている。さっさと降りて来い」
がさりと木の葉が動く。
に、…にゃああ~。
潰れたあまり似ていない猫の鳴き真似がシンと静まり返った中庭に響き渡る。
ユタは頭を抱え、ベルナルドはあの馬鹿がと力なく呟く。
「……猫が甘橙など食べるか、愚か者どもが!」
吐き捨てるように言うとバハディルの方を振り向く。
「バハディル、木を一本貰う。後で返すからな」
そう言うと外套を脱ぎ棄て、双剣を引き抜く。助走して、幹を数歩駆け上ると手前の枝を切り飛ばす。
バサバサと派手な音を立てて、枝が落ちる。
落ちる枝を器用に避けながら、宙返りを打ち地面に着地する。
また駆け上がると短い気合の声と共に少し細くなった幹の中ほどを両断する。
ドサドサ、バサバサと更に派手な音を立てながら甘橙の木が斬り倒された。
「ベルナルド!」
木が倒れる直前に飛び出したものがあった。モラーヴィを背中にのせたファルハードだった。
ナイジェルの声に応じて、ベルナルドの手から紐の両端に重りをつけたものがうなりを上げてファルハードの足に巻き付く。
そのままぐるぐるとモラーヴィごと絡め獲られ、羽ばたくこともできなくなったファルハードは呆気なく地面に墜落する。
ナイジェルが近づくと地面を転がりまわっていたモラーヴィとファルハードはがばりと地面に頭を擦りつけた。
「わ、悪気はなかったのでございます! 平に、平にご容赦を!」
ファルハードもキュウと申し訳なさそうに鳴く。
「ア、アナイリン様はずっとお子を願っておりました。ご懐妊されてからも心無い言葉を吐く者もございまして、お慰めしようと……調子に乗ってしまいました。申し訳ございません」
心からの謝罪に氷のような視線がほんの僅かに緩む。
「半人前の竜だろうが、精霊だろうが、まずアナイリンに詫びるべきだろう」
「ごもっともでございますが、あまりにも当代様のお嘆きの前に……いたたまれず」
「言い訳するな」
「は、はい」
しゅんと項垂れる精霊と飛竜に溜息を吐く。
「バハディル、騒がせて済まなかった。この木の代わりは後で届けさせる」
「いえ、それは構いませんが」
「告罪天使ナイジェル様にございますか?」
突然話しかけてきた老人に不審そうに目を細め、バハディルの方に視線を向ける。
「私の大叔父にあたります。グラム・ラスロにございます。以前は大法官を務めておりました。隣にいますのその孫にあたりますドミトリー・ラスロです。ユタ殿はご存じかと思いますが、王立学問院に在籍しております」
「御身の武勇をこの国にいる者で知らぬものはございますまい。告罪天使の剣技を間近で拝見できたのは光栄にございます」
「そのような大層なものではありませんが」
「部隊長、実はこのあとささやかながら宴席を設ける予定だったのですが、宜しければ」
「いや、済まないが」
ナイジェルの言葉にバハディルの後ろで盛大な落胆の溜息が複数洩れる。
「ナイジェル様、ここでお会いできたのも神の御心なのかと存じます。老い先短いこの身に食事を共にし、喜びを分かち合う栄誉をお与えくださいませんかな?」
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