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孤児の世話など令嬢の仕事ではない
銀色の甲冑を纏《まと》った男が、修道院の門をくぐった。
春の陽射しに照らされた中庭では、子供たちが畑の草むしりをしている。泥だらけの手を止めて、一斉にそちらを見た。
「……先生、知らない人が来た」
「大丈夫よ」
「でも、剣持ってる」
「剣を持っている人が全員悪い人とは限らないでしょう? ディートリヒ様だって剣を持っているわ」
「ディートリヒ様は別。あの人はいい人」
八歳になったミリアが、私の後ろに隠れながらそう言った。
私は土の付いた手をエプロンで拭《ぬぐ》い、立ち上がった。
騎士。それも、ただの騎士ではない。胸元の紋章は王家直属の騎士団——しかも、団長の証だ。
銀髪に鋭い目。背が高く、戦場の匂いを纏っている。けれど甲冑の下の目には、敵意はなかった。
代わりにあったのは、困惑だった。
「セリーヌ・フォン・リンデンバウム殿、でよろしいか」
「はい。ここで子供たちの先生をしております」
騎士は一瞬、私の格好に視線を落とした。
泥だらけのエプロン。日に焼けた手。蜂蜜色の髪は簡素に束ね、令嬢らしい装飾は何ひとつない。伯爵令嬢と名乗られて、面食らったのだろう。
「——騎士団長ディートリヒ・フォン・ヴァルトシュタインと申す。王命にて参りました」
王命。
その二文字を聞いた瞬間、胸の奥がかすかに冷えた。五年前に捨てた場所から、今さら何の用だろう。
「勇者が覚醒しました」
ディートリヒの声は低く、静かだった。
「聖剣が光を放ったのは三日前。場所は、この修道院の裏手にある古代遺跡——勇者の試練場です」
知っている。あの遺跡なら、修道院から歩いて半刻ほどの丘の上にある。ディートリヒ様が月一で通うようになってから、レオンが剣の練習をしたいと言って、二人で通うようになった場所だ。
「覚醒した少年の名は、レオン。姓はありません。——あなたが育てた子供です」
私は、驚かなかった。
だって、ずっと知っていたから。
あの子の黒い瞳に、時おり星のような光が宿ることを。夜、悪い夢を見た子供たちを守るように、無意識に魔力の膜を張っていたことを。私が「星の揺籃歌《ゆりかごうた》」を歌うと、その光がいっそう強くなることを。
「……そうですか」
「そうですか、では困る」
ディートリヒは眉を寄せた。
「王家からの帰還命令です。勇者の師として、あなたには王都への帰還と、勇者の育成への協力が求められています」
私は微笑んで、首を横に振った。
「申し訳ございません。ここには、私を必要としている子供たちがおりますので」
騎士団長は、明らかに予想していなかった答えに、言葉を失っていた。
あの日のことを、今でもよく覚えている。
五年と少し前——王都アストリアの外縁部にある孤児院「星の家」。それが、私の居場所だった。
伯爵家の令嬢が孤児院に通うのは、社交界では「奇行」と見なされていた。慈善活動なら寄付金を送ればいい。まさか自分の手で子供の世話をするなど、貴族のすることではない——と。
でも私には、それしかなかった。
幼い頃、母が病で倒れた。父は領地経営に追われ、屋敷はいつも静かだった。寂しくて抜け出した先に、孤児院があった。そこで初めて、「必要とされる」ということを知った。
以来、十年。
私は毎日のように孤児院に通い続けた。
夜泣きの声が、暗闇の中に響く。
「……っ、ひぐ……」
私はそっとベッドから身を起こし、声のする部屋へ向かった。月明かりだけの廊下を、裸足で歩く。
七歳のミリアだった。毛布を握りしめて、小さな身体を丸めている。
「ミリア、大丈夫よ。先生がいるから」
抱き上げると、冷たい涙が首筋に伝った。この子は捨てられた記憶がまだ消えない。夜になると不安が押し寄せて、眠れなくなるのだ。
ミリアが好きなのは、春の野花の歌。明るい旋律で、花が次々に咲いていく様子を歌う子守唄。
「はるのはなが、さくころに——」
歌いながら背中をさする。少しずつ、震えが止まっていく。
ミリアが眠ったのを確認して、隣の部屋を覗く。
六歳のトーマスは月の歌。四歳のエルザは雨の歌。九歳のヨハンは歌より物語を聞きたがる——だから、低い声で英雄譚を語ってやる。
そして、レオン。
この子だけは、決まった子守唄がある。
「星の揺籃歌」。
私が祖母から教わった、古い古い歌。星が子供を見守り、朝まで導いてくれるという歌詞。他の子には効かないのに、レオンにだけは不思議と効く。
歌い始めると、黒い瞳がゆっくりと閉じていく。
そしてその瞬間——瞼《まぶた》の裏で、かすかに光が揺れるのだ。星のように。
「……せんせ」
「ちゃんと見ているから。おやすみなさい、レオン」
小さな手が、私の指をきゅっと握った。骨ばった、細い指。この子が孤児院に来たのは、嵐の夜だった。門の前に、濡れた布にくるまれて置かれていた。
声も出さず、泣きもせず、ただ黒い目で空を見ていた。
「獅子のように強くなりなさい」
そう祈って、レオン、と名前をつけた。
名前をつけるということは、その子の未来を信じるということだ。
十五人の子供を育てるのは、体力勝負だった。
朝は日の出前に起きて食事の準備。昼間は年齢に合わせた学びの時間を作る。読み書き、算術、薬草の基礎知識。そして午後は、一人一人の得意なことを見つけて伸ばす時間。
トーマスは手先が器用だった。木を削って小さな動物を作らせると、驚くほど精巧なものを仕上げる。ミリアは絵が上手で、壁に花を描かせるとまるで本物のように鮮やかだった。
レオンは——力が強すぎた。
水汲みのバケツを片手で持ち上げる。薪を割ろうとすると、台ごと真っ二つにしてしまう。本人は困ったように俯《うつむ》いて、「……ごめんなさい」と小さく呟く。
「謝ることはないのよ、レオン」
「でも、壊した」
「壊したなら、直す方法を覚えればいい。力は悪いものじゃないの。使い方を知らないだけ」
私はレオンに、力の「加減」を教えた。
「いい? この卵を、割らずに持ってみて」
「……こう?」
ぐしゃり。黄身が指の間から垂れる。
「もう一回。もっとゆっくり、赤ちゃんを抱くみたいに」
「赤ちゃん、抱いたことない」
「じゃあ、小鳥を想像して。飛んでいかないように、でも潰さないように」
卵を割らずに持つ練習。花びらを潰さずに摘む練習。糸を切らずに紡ぐ練習。
何度も失敗した。卵は握り潰され、花びらは粉々になり、糸は何本も千切れた。
それでもレオンは諦めなかった。黒い目を真剣に細めて、何度でも繰り返す。
ある日、初めて卵を割らずに持てた時——レオンは、生まれて初めて笑った。
「先生、できた」
「ええ。ちゃんと見ていたわ」
あの笑顔を、私は一生忘れない。
三日三晩、眠れない夜があった。
エルザが高熱を出したのだ。孤児院に医師は来ない。来ても、「孤児の治療に時間は割けない」と帰ってしまう。
私は薬草を煎じ、額を冷やし、一晩中エルザの手を握っていた。二日目も、三日目も。他の子供たちの食事は年長のヨハンに任せ、レオンが水や薬草を運んでくれた。
三日目の夜明けに、ようやく熱が下がった。
安堵で膝から崩れ落ちそうになった時——孤児院の玄関に、馬車が止まる音がした。
「セリーヌ」
オスカー・フォン・ヘルムシュタットが、扉の前に立っていた。
侯爵令息。私の婚約者。いつものように完璧に整えられた正装。金糸の刺繍が施された外套《がいとう》。一点の汚れもない白い手袋。
そして、その顔に浮かんでいるのは——嫌悪だった。
「何だ、この臭いは」
煎じ薬の匂いだ。三日間煮詰めた薬草と、汗と、子供たちの生活の匂い。
「オスカー様、今はちょっと——」
「見ろ。お前の服」
私は自分を見下ろした。エプロンは薬草の煮汁で染まり、袖は汗で張り付いている。髪はほどけて顔に掛かり、目の下には深い隈《くま》が刻まれているだろう。
「こんな汚い場所に婚約者がいるのは恥だ」
その言葉は、三日間の疲労で薄くなった心の壁を、簡単に貫いた。
「……恥、ですか」
「当然だろう。侯爵家の宴に招かれているのに、お前はここで孤児の看病をしている。どういうつもりだ」
奥の部屋で、ようやく熱の引いたエルザが寝返りを打つ音がした。隣の部屋では、レオンが起きている気配がする。きっと、聞いている。
「この子が死にかけていたのです」
「だからどうした。孤児のひとりやふたり——」
「——オスカー様」
私の声が変わったことに、オスカーは気づいたようだった。
怒ると、私は静かになる。声のトーンが下がり、丁寧語が混じる。母がそうだったから、同じ癖がついたのだと思う。
「今、とても疲れておりますので。お話は後日、改めてお願いできますか」
「後日? 後日と言ったか? 侯爵家の宴より孤児が大事だと?」
「はい」
即答だった。
迷う必要がなかった。
オスカーの顔が、朱に染まった。怒りではない。屈辱だ。侯爵令息である自分が、孤児以下に扱われたという屈辱。
「……いいだろう。お前がその程度の女だとわかった」
それから一週間後、オスカーは公爵家立ち会いのもとで婚約破棄を申し入れた。
「孤児の世話など令嬢の仕事ではない。身分にふさわしい振る舞いのできない女に、侯爵家の嫁は務まらぬ」
社交界は騒然とした——が、同情の多くはオスカーに向いた。
当然だ。伯爵令嬢が孤児院に入り浸り、社交を疎《おろそ》かにする。誰の目にも、非があるのは私の方に見えただろう。
けれど、それだけでは終わらなかった。
婚約破棄の翌月、孤児院「星の家」に閉鎖命令が下った。
表向きの理由は「衛生基準の不適合」。しかし命令書の末尾には、はっきりとオスカー・フォン・ヘルムシュタットの署名があった。
「孤児院に通えなくなれば、あの女も自分の愚かさに気づくだろう」
きっと、そう考えたのだ。私を引き戻したかったのではない。自分の判断が正しかったと証明したかったのだ。——「ほら見ろ、孤児院も潰れた。やはり令嬢の道楽にすぎなかった」と。子供たちの行き先など、考えてもいなかったのだろう。
私は迷わなかった。
十五人の子供たちと、荷車ひとつ分の荷物。それだけを持って、私は王都を出た。
行き先は、辺境の修道院「銀の泉」。かつて祖母が寄進した小さな修道院で、今はもう修道女もおらず、廃墟《はいきょ》同然と聞いていた。ただ、祖母の遺言で穀物蔵に備蓄があること、裏手に枯れていない井戸があることは知っていた。最低限の命綱だけは、あるはずだった。
馬車の中で、レオンが私の袖を引いた。
「先生、どこに行くの」
「新しいおうちよ」
「……おうち」
「ええ。みんなの、おうち」
レオンは黒い目でしばらく私を見つめてから、小さく頷いた。
「……うん」
辺境の修道院は、聞いていた以上に荒れ果てていた。
屋根には穴が開き、壁は蔦《つた》に覆われ、井戸は枯れかけている。畑だった場所は雑草に埋もれ、礼拝堂の長椅子は朽《く》ちていた。
「先生、ここに住むの?」
ミリアが不安そうに私の手を握った。トーマスは無言で屋根の穴を見上げている。エルザは泣きそうな顔をしている。
「大丈夫よ」
私は笑った。
嘘ではなかった。大変なのはわかっている。でも、ここには子供たちがいる。私を必要としてくれる子供たちが。
「みんなで直しましょう。トーマス、あなたは手先が器用でしょう? 屋根の修理を手伝って。ミリア、壁に絵を描いて明るくしてくれる? レオン——」
「俺が井戸を直す」
レオンが、初めて自分から名乗り出た。
五歳のくせに、もう「俺」と言う。いつからだろう。王都を出てからだ。私を守ると決めたように、ほんの少しだけ、声が強くなった。
最初の一年は、生き延びるのに精一杯だった。
初日の夜、雨漏りのする礼拝堂に子供たちを集めて眠らせた。毛布が足りなくて、私は自分の外套を二番目に小さい子にかけ、一番小さいエルザを抱いて寝た。レオンは私の隣で、眠ろうとせずにずっと起きていた。
「レオン、寝なさい」
「……先生が寝てから寝る」
五歳の子供が、大人を守ろうとしている。可笑《おか》しくて、少しだけ泣きそうになった。
翌朝から、荒れ地との戦いが始まった。畑を開墾し、種を蒔《ま》き、薬草を植えた。手にはすぐに豆ができ、爪の間に泥が入り込んで取れなくなった。伯爵令嬢の手ではなくなった。でも、子供たちに食べさせるための手になった。
近隣の村人たちは最初、貴族の令嬢が畑仕事をする姿を物珍しそうに見ていた。中には露骨に馬鹿にする者もいた。「都落ちの令嬢が畑なんかできるもんか」と。
しかし私が折れなかったのは、子供たちのおかげだった。ヨハンが野草の見分け方を覚え、食べられる山菜を摘んできてくれた。トーマスが壊れた農具を直した。レオンが井戸の底まで潜って水源を見つけた。
やがて村人たちは野菜の苗を分けてくれるようになった。子供たちの薬をくれる薬師もいた。秋には小さいながらも収穫があり、子供たちと一緒に食卓を囲んだ。
あの日の夕食の味を、私は忘れない。自分たちで育てた芋と、薬師のおばあさんがくれた塩だけの、質素な食事。でも子供たちは「おいしい」と笑った。それだけで十分だった。
二年目から、子供たちが変わり始めた。
トーマスは修道院の修繕を任されるうちに、建築の才能を開花させた。壊れた家具を直し、雨漏りを塞ぎ、やがて村人の家の修理まで請け負うようになった。
ミリアは壁に描いた花の絵が評判になり、近隣の教会から聖画の依頼が来るようになった。
エルザは私から薬草の知識を学び、小さな薬師として村人の怪我を手当てするようになった。
そしてレオンは——。
あの子の変化は、静かだったが確かだった。
井戸を直す時、重い石を動かす力に村人たちが目を丸くした。畑を耕す速度は大人の三倍。薪割りはもはや家事ではなく、修行のようだった。
でも力だけではなかった。あの子は、弱い者を守る本能を持っていた。
ある日、村の子供が川に落ちた時、レオンが真っ先に飛び込んだ。自分より年上の子を片腕で抱えて岸まで泳ぎ、何事もなかったように水を払って戻ってきた。
「レオン、怪我はない?」
「ない。……あの子は?」
「大丈夫よ。あなたが助けたから」
レオンは小さく頷いて、照れたように目を逸らした。
「先生が教えてくれたから。力は、守るために使うものだって」
その瞬間、黒い瞳に星のような光が揺れた。
私は知っていた。あの光が何なのか。この国に伝わる古い伝説——「名づけの祝福」。愛情を込めて名前を与えられた者に、勇者の資質が宿る。
レオンがそうかもしれないと、最初に気づいたのは三年目の夜だった。
悪い夢を見た子供たちの部屋に、薄い光の膜が張られていた。魔力の壁。眠りながら、無意識に、レオンが仲間を守っていたのだ。
でも私は、誰にも言わなかった。
この子を勇者に仕立てたいのではない。この子が、この子らしく育ってくれればいい。力の強い子。弱い者を放っておけない子。不器用に笑う子。それだけで、レオンはレオンだ。
勇者だから価値があるのではない。レオンだから価値がある。それは、この孤児院の子供たち全員に言えることだった。
騎士団長ディートリヒが初めて修道院を訪れたのは、四年目の秋だった。
彼は王命により勇者捜索の任を負い、王国中を旅していた。辺境の修道院に立ち寄ったのは、単なる休息のためだったらしい。
しかし、子供たちに囲まれた騎士団長の姿は——なかなかに面白いものだった。
「……この者たちは、なぜ私の甲冑を叩くのだ」
「音が面白いんですって。子供は珍しいものが好きなんですよ」
「やめろ。やめなさい。……これは王家の紋章であって太鼓ではない」
ディートリヒは子供が苦手だった。正確には、どう接していいかわからなかったのだと思う。戦場では百人の部下を率いる男が、五歳の子供の前では完全に狼狽《ろうばい》していた。
夕食を共にした時、ディートリヒは修道院の暮らしを見回して、訊いた。
「なぜ、こんな場所で」
「こんな場所、とは失礼ですね」
「いや、そういう意味ではない。……あなたは伯爵令嬢だろう。王都に戻れば、相応の暮らしができるはずだ」
「相応の暮らし、というのがどういうものか、私にはよくわかりません」
私は子供たちが食べ終えた皿を重ねながら、答えた。
「ただ、この子たちがここにいます。この子たちには私が必要です。それだけで十分です」
ディートリヒは黙った。
翌朝、出発の準備をしながら、不器用にこう言った。
「この子たちは——あなたがいなければ、今の姿にはなっていないだろう」
「いいえ。この子たちの力ですよ。私はただ、見ていただけです」
「見ていること自体が、誰にでもできることではない」
そう言って、ディートリヒは去った。
けれどそれから、月に一度、修道院に立ち寄るようになった。勇者捜索の一環として、辺境の集落や修道院を巡回する任務がある——レオンの異常な身体能力を目にした以上、ここを定期報告の拠点に組み込むのは当然のことだったのだろう。子供たちに剣の基礎を教え、壊れた柵を直し——レオンには、特に目をかけた。
「この子の剣筋は異常だ。教えてもいないのに、型ができている」
「そうですか? レオンは力の使い方の練習をたくさんしましたから」
「力の使い方?」
「卵を割らずに持つ練習です」
ディートリヒは、よくわからないという顔をしていた。
そして五年目の春——冒頭に戻る。
騎士団長が帰還命令を持って来た日、私は断った。
けれどそれで終わるはずがなかった。
二週間後、王家の使者が正式な文書を携えて現れた。「勇者の師」として王都に帰還し、勇者の教育に協力せよ、と。
それだけなら、まだよかった。
問題は、使者と共に来た人物だった。
「久しぶりだな、セリーヌ」
オスカー・フォン・ヘルムシュタットが、修道院の門をくぐった。
五年ぶりの婚約者——いや、元婚約者。相変わらず完璧な正装。一点の汚れもない白い手袋。そして、あの自信に満ちた笑み。
「まさかお前が育てた孤児が勇者とはな。驚いたよ」
「オスカー様。どのようなご用件でしょうか」
「用件? 決まっているだろう。俺が来たのは、勇者を迎えに来たからだ」
オスカーは笑った。社交界で見せる、完璧に計算された笑顔。
「知っているか、セリーヌ。俺は、あの孤児院を支援していたんだ。勇者が育った場所の後援者としてな。王に報告書も出している」
嘘だ。
あの孤児院を閉鎖に追い込んだのは、あなたでしょう。
けれど私は何も言わなかった。言葉で反論する必要はない。
「ヘルムシュタット卿」
背後から、低い声がした。
ディートリヒが、一通の書類を手にしていた。
「孤児院『星の家』の閉鎖命令書だ。衛生基準不適合を理由としているが、末尾の署名は——あなたのものだな」
オスカーの顔から、笑みが消えた。
「な——どこでそれを」
「王都の記録庫に保管されていた。勇者捜索の過程で、勇者の出自を調べる必要があった。その際に発見した」
ディートリヒは書類をオスカーに突きつけた。
「支援していたのではない。閉鎖に追い込んだのだ。勇者を育てた場所を」
オスカーの白い手袋が、かすかに震えた。
「それは……その時は、まだ勇者だとわかっていなかったのだから——」
「勇者であろうとなかろうと、子供たちの居場所を奪ったことに変わりはない」
「わ、わかっていたら、閉鎖などしなかった!」
その一言が、全てを物語っていた。
勇者だとわかっていたら。つまり、この人にとって子供の価値は「何者であるか」でしか測れないのだ。ただの孤児なら捨てていい。勇者なら大切にする。そういう人なのだ。
五年前から、何も変わっていなかった。
ディートリヒの声には、静かな怒りが滲《にじ》んでいた。この人は普段、感情を見せない。それだけに、その怒りは重かった。
オスカーは狼狽した。社交界では弁が立つ男だが、証拠を突きつけられては言い逃れできない。
「と、とにかく、勇者の帰還が優先だ。俺は王命で——」
「僕は行かないよ」
静かな声だった。
レオンが、修道院の入り口に立っていた。
五年前の痩せた子供はもういない。十歳になったレオンは背が伸び、黒い瞳は澄んで、凛とした少年になっていた。
けれどその目には——私がよく知っている、あの強い光が宿っていた。
「レオン」
「先生を泣かせた人が来る国に、なぜ僕が行かなきゃいけないの」
オスカーが息を呑んだ。
「先生は泣かなかったよ」
レオンは淡々と続けた。
「泣かなかった。でも僕は知ってる。王都を出た夜、荷車の横で、みんなが寝た後に、先生がひとりで空を見ていたこと。あの時、先生の目が赤かったこと」
……覚えて、いたのか。
あの夜。子供たちを寝かしつけた後、ひとりで荷車に座って星を見ていた。泣いてはいなかった。けれど涙を堪えていたのは、本当だ。
「僕の先生を追い出した人がいる国を、なぜ守らなければならないのですか」
レオンが、王の使者に向かって言った。
十歳の少年の声は、修道院の中庭に静かに響いた。使者の顔が青ざめた。勇者が国を守ることを拒否している——それが王家にとってどれほど重大なことか、全員がわかっていた。
次の厄災は、もう目前に迫っている。勇者なくして、この国は魔物の大発生を乗り越えられない。
私は、前に出た。
「レオン」
レオンの前に屈《かが》んで、目を合わせた。黒い瞳に星の光が揺れている。怒りと悲しみで、光が強くなっている。
「それでも守りなさい」
「……先生」
「あなたはそういう子に育ったでしょう?」
レオンの唇が震えた。
「川に落ちた子を助けた時、あなたは何も考えずに飛び込んだわ。知らない子だったのに。あの子のお父さんやお母さんが、あなたに何をしてくれたわけでもないのに」
「それは……」
「力は、守るために使うもの。そう教えたわよね」
レオンは俯《うつむ》いた。拳を握りしめている。十歳の、まだ小さな拳。
「……ずるいよ、先生」
「ずるくて結構よ。先生はずるい大人なの」
レオンが、泣き笑いのような顔をした。
「……わかった」
レオンは袖で目を拭った。それから、顔を上げた。涙の跡が残る頬で、けれどその目はもう、泣いてはいなかった。
「でも、条件がある」
「条件?」
「僕の先生を『無駄だ』と言った人には、会いたくない。その人が関わるなら、僕は動かない」
使者の視線が、オスカーに向いた。
オスカーは一歩後ずさった。
「ま、待て。私は——」
「ヘルムシュタット卿」
使者が静かに言った。
「お引き取りを」
後日、王宮で正式な謁見《えっけん》が行われた。
レオンは王の前に立ち、勇者としての任を受け入れた。ただし、ひとつの条件をつけて。
「育ての親である方々への謝罪と、修道院への正式な支援を」
王は即座にこれを受け入れた。
そしてオスカー・フォン・ヘルムシュタットには——何の罰も下されなかった。
罰は不要だった。
「勇者の恩人を追い出し、勇者を育てた孤児院を閉鎖した男」。その事実が社交界に知れ渡った。
最初は、オスカーを擁護する声もあった。「勇者だとわかっていれば誰だって」「事情があったのだろう」と。
しかし王家がセリーヌを正式に「勇者の恩人」として表彰した時点で、風向きが変わった。王家に逆らえない者から順に、オスカーから距離を置き始めた。宴に招かれなくなった。取引先が離れていった。侯爵家の中でさえ、腫れ物のように扱われるようになった。
聞いた話では、オスカーは弁明のために方々を回ったらしい。「あの時は事情があった」「知っていればこんなことは」と。最初の数ヶ月は擁護する声もあった。けれど王家の表彰が広まるにつれ、少しずつ——本当に少しずつ、潮が引くように人が離れていった。誰もが同じ質問を返すようになった。
「事情があれば、子供の居場所を奪っていいのですか?」
半年もかからなかった。あれほど求めていた「社交界での名声」が、音もなく崩れ落ちたのだ。
因果応報、とは言わない。
ただ、あの人は最初から、何が大切なのかを間違えていた。それだけの話だ。
レオンが旅立つ日、修道院の門の前に子供たちが集まった。
「レオン兄ちゃん、行っちゃうの?」
「うん。でも、すぐ帰る」
「すぐってどれくらい?」
「……厄災が終わったら」
「厄災って何?」
「強い魔物がたくさん来ること。僕がやっつける」
「全部?」
「全部」
「ほんと?」
「ほんと。約束する」
小さな子供たちがレオンにしがみついている。レオンは困ったように一人一人の頭を撫で——かつて卵を割らずに持てなかった手で、今は子供の髪を乱さないように、そっと。
「先生」
レオンが私の前に立った。十歳の少年は、もう私の肩の高さまである。
「必ず帰るから」
「ええ。知っているわ」
「知ってるって何」
「あなたはそういう子だもの。約束を守る子に育ったもの」
レオンは照れたように目を逸らした。それから、思い出したように言った。
「……先生が名前をくれた時のこと、覚えてるよ」
「あら、あなた赤ちゃんだったのに?」
「覚えてる。声だけ。あったかい声が、名前を呼んでくれた。だから僕は、泣かなかったんだ」
——嵐の夜。門の前で、声も出さず、泣きもせず、ただ黒い目で空を見ていた赤ん坊。
泣かなかったのではない。泣く必要がなかったのだ。名前を呼ばれた瞬間に、この子はもう、ひとりではなくなっていたから。
「行ってらっしゃい、レオン」
「行ってきます。——先生」
レオンは三歩歩いて、振り返った。
「先生」
「何?」
「……星の揺籃歌、歌って。最後に」
十歳の少年が、五歳の子供のような顔をしていた。
私は笑って、歌い始めた。祖母から教わった、古い子守唄。星が子供を見守り、朝まで導いてくれるという歌。
レオンの黒い瞳に、星の光が揺れた。今度は瞼の裏ではなく、はっきりと目の中に。泣いているのか、光っているのか、わからなかった。
歌い終わると、レオンは今度こそ前を向いた。ディートリヒが付き添い、その背中を守るように並ぶ。
子供たちが手を振る。私も手を振った。
小さな——いや、もう小さくはない背中が丘の向こうに消えるまで、ずっと。
レオンが去った翌日、ディートリヒが修道院に戻ってきた。
「……勇者の護衛任務は」
「王都までの護衛は副官に任せた。レオンは明日から王城で正式な勇者教育に入る。護衛は近衛に引き継がれる手筈だ」
「では、なぜ戻ってこられたのですか」
「……王命で、修道院への支援体制を整備する任を受けた。勇者の出身地として、ここは王家の庇護下に入る」
ディートリヒは甲冑を外し、修道院の柵の修理を始めた。王命とは言え、柵の修理まで任務に含まれているとは思えなかったけれど——そこには触れないでおいた。
ディートリヒは甲冑を外し、修道院の柵の修理を始めた。子供たちがまた寄ってきて、金槌《かなづち》を叩く音に合わせて歌い始めた。
「ディートリヒ様、甲冑着ないの?」
「ここでは必要ない」
「なんで?」
「守るものが、剣で守る類《たぐい》のものではないからだ」
「じゃあ何で守るの?」
「……金槌と、釘だ」
子供たちが笑った。ディートリヒの耳がまた赤くなった。
不器用な人だと思う。言葉が足りなくて、表情も乏しくて。でも、この人の手は嘘をつかない。壊れた柵を、ひとつひとつ丁寧に直していく。
「ディートリヒ様」
「何だ」
「ありがとうございます」
「……礼には及ばない」
ディートリヒは目を逸らした。耳の先がかすかに赤いのを、私は見逃さなかった。
数日後、修道院の門を叩く音がした。
開けると、小さな女の子がひとりで立っていた。
薄汚れた服。擦り切れた靴。泣き腫《は》らした目。誰かに連れてこられたのではない。ひとりで歩いてきたのだ。
「あの……ここ、おねえさんがいるところ?」
「おねえさん?」
「やさしい、おねえさん。こどもの世話をしてくれるおねえさんがいるって、村の人が……」
この子にも、帰る場所がないのだろう。
世界は広い。そして、居場所のない子供は、まだたくさんいる。
私は屈んで、その子と目を合わせた。
「おいで」
小さな手を取る。冷たくて、震えている。
「あなたの名前は?」
「……ない。おかあさんが、つけてくれなかった」
そう。
なら、私がつけよう。
名前をつけるということは、その子の未来を信じるということだ。
「大丈夫よ。ちゃんと見ているから」
私は小さな手を握って、修道院の中に連れていった。
中庭に入ると、子供たちが駆け寄ってきた。
「先生、新しい子?」
「ええ。みんな、よろしくね」
エルザが温かい薬草茶を持ってきた。ミリアが「一緒にお絵描きしよう」と手を差し出した。トーマスが小さな木彫りの兎を「はい、あげる」と渡した。
女の子はきょとんとしていた。こんなにたくさんの人に囲まれたことがないのだろう。おずおずと木彫りの兎を受け取り、それから——ほんの少しだけ、唇の端が上がった。
春の風が中庭を抜ける。子供たちの笑い声が聞こえる。ディートリヒが柵を直す金槌《かなづち》の音が響く。
あの子たちを「無駄」と呼んだ方に、お答えする必要はございません。
私の答えは、いつだってここにある。泥だらけのエプロンと、子供たちの笑顔と、ひとつひとつ丁寧につけた名前の中に。
春の陽射しに照らされた中庭では、子供たちが畑の草むしりをしている。泥だらけの手を止めて、一斉にそちらを見た。
「……先生、知らない人が来た」
「大丈夫よ」
「でも、剣持ってる」
「剣を持っている人が全員悪い人とは限らないでしょう? ディートリヒ様だって剣を持っているわ」
「ディートリヒ様は別。あの人はいい人」
八歳になったミリアが、私の後ろに隠れながらそう言った。
私は土の付いた手をエプロンで拭《ぬぐ》い、立ち上がった。
騎士。それも、ただの騎士ではない。胸元の紋章は王家直属の騎士団——しかも、団長の証だ。
銀髪に鋭い目。背が高く、戦場の匂いを纏っている。けれど甲冑の下の目には、敵意はなかった。
代わりにあったのは、困惑だった。
「セリーヌ・フォン・リンデンバウム殿、でよろしいか」
「はい。ここで子供たちの先生をしております」
騎士は一瞬、私の格好に視線を落とした。
泥だらけのエプロン。日に焼けた手。蜂蜜色の髪は簡素に束ね、令嬢らしい装飾は何ひとつない。伯爵令嬢と名乗られて、面食らったのだろう。
「——騎士団長ディートリヒ・フォン・ヴァルトシュタインと申す。王命にて参りました」
王命。
その二文字を聞いた瞬間、胸の奥がかすかに冷えた。五年前に捨てた場所から、今さら何の用だろう。
「勇者が覚醒しました」
ディートリヒの声は低く、静かだった。
「聖剣が光を放ったのは三日前。場所は、この修道院の裏手にある古代遺跡——勇者の試練場です」
知っている。あの遺跡なら、修道院から歩いて半刻ほどの丘の上にある。ディートリヒ様が月一で通うようになってから、レオンが剣の練習をしたいと言って、二人で通うようになった場所だ。
「覚醒した少年の名は、レオン。姓はありません。——あなたが育てた子供です」
私は、驚かなかった。
だって、ずっと知っていたから。
あの子の黒い瞳に、時おり星のような光が宿ることを。夜、悪い夢を見た子供たちを守るように、無意識に魔力の膜を張っていたことを。私が「星の揺籃歌《ゆりかごうた》」を歌うと、その光がいっそう強くなることを。
「……そうですか」
「そうですか、では困る」
ディートリヒは眉を寄せた。
「王家からの帰還命令です。勇者の師として、あなたには王都への帰還と、勇者の育成への協力が求められています」
私は微笑んで、首を横に振った。
「申し訳ございません。ここには、私を必要としている子供たちがおりますので」
騎士団長は、明らかに予想していなかった答えに、言葉を失っていた。
あの日のことを、今でもよく覚えている。
五年と少し前——王都アストリアの外縁部にある孤児院「星の家」。それが、私の居場所だった。
伯爵家の令嬢が孤児院に通うのは、社交界では「奇行」と見なされていた。慈善活動なら寄付金を送ればいい。まさか自分の手で子供の世話をするなど、貴族のすることではない——と。
でも私には、それしかなかった。
幼い頃、母が病で倒れた。父は領地経営に追われ、屋敷はいつも静かだった。寂しくて抜け出した先に、孤児院があった。そこで初めて、「必要とされる」ということを知った。
以来、十年。
私は毎日のように孤児院に通い続けた。
夜泣きの声が、暗闇の中に響く。
「……っ、ひぐ……」
私はそっとベッドから身を起こし、声のする部屋へ向かった。月明かりだけの廊下を、裸足で歩く。
七歳のミリアだった。毛布を握りしめて、小さな身体を丸めている。
「ミリア、大丈夫よ。先生がいるから」
抱き上げると、冷たい涙が首筋に伝った。この子は捨てられた記憶がまだ消えない。夜になると不安が押し寄せて、眠れなくなるのだ。
ミリアが好きなのは、春の野花の歌。明るい旋律で、花が次々に咲いていく様子を歌う子守唄。
「はるのはなが、さくころに——」
歌いながら背中をさする。少しずつ、震えが止まっていく。
ミリアが眠ったのを確認して、隣の部屋を覗く。
六歳のトーマスは月の歌。四歳のエルザは雨の歌。九歳のヨハンは歌より物語を聞きたがる——だから、低い声で英雄譚を語ってやる。
そして、レオン。
この子だけは、決まった子守唄がある。
「星の揺籃歌」。
私が祖母から教わった、古い古い歌。星が子供を見守り、朝まで導いてくれるという歌詞。他の子には効かないのに、レオンにだけは不思議と効く。
歌い始めると、黒い瞳がゆっくりと閉じていく。
そしてその瞬間——瞼《まぶた》の裏で、かすかに光が揺れるのだ。星のように。
「……せんせ」
「ちゃんと見ているから。おやすみなさい、レオン」
小さな手が、私の指をきゅっと握った。骨ばった、細い指。この子が孤児院に来たのは、嵐の夜だった。門の前に、濡れた布にくるまれて置かれていた。
声も出さず、泣きもせず、ただ黒い目で空を見ていた。
「獅子のように強くなりなさい」
そう祈って、レオン、と名前をつけた。
名前をつけるということは、その子の未来を信じるということだ。
十五人の子供を育てるのは、体力勝負だった。
朝は日の出前に起きて食事の準備。昼間は年齢に合わせた学びの時間を作る。読み書き、算術、薬草の基礎知識。そして午後は、一人一人の得意なことを見つけて伸ばす時間。
トーマスは手先が器用だった。木を削って小さな動物を作らせると、驚くほど精巧なものを仕上げる。ミリアは絵が上手で、壁に花を描かせるとまるで本物のように鮮やかだった。
レオンは——力が強すぎた。
水汲みのバケツを片手で持ち上げる。薪を割ろうとすると、台ごと真っ二つにしてしまう。本人は困ったように俯《うつむ》いて、「……ごめんなさい」と小さく呟く。
「謝ることはないのよ、レオン」
「でも、壊した」
「壊したなら、直す方法を覚えればいい。力は悪いものじゃないの。使い方を知らないだけ」
私はレオンに、力の「加減」を教えた。
「いい? この卵を、割らずに持ってみて」
「……こう?」
ぐしゃり。黄身が指の間から垂れる。
「もう一回。もっとゆっくり、赤ちゃんを抱くみたいに」
「赤ちゃん、抱いたことない」
「じゃあ、小鳥を想像して。飛んでいかないように、でも潰さないように」
卵を割らずに持つ練習。花びらを潰さずに摘む練習。糸を切らずに紡ぐ練習。
何度も失敗した。卵は握り潰され、花びらは粉々になり、糸は何本も千切れた。
それでもレオンは諦めなかった。黒い目を真剣に細めて、何度でも繰り返す。
ある日、初めて卵を割らずに持てた時——レオンは、生まれて初めて笑った。
「先生、できた」
「ええ。ちゃんと見ていたわ」
あの笑顔を、私は一生忘れない。
三日三晩、眠れない夜があった。
エルザが高熱を出したのだ。孤児院に医師は来ない。来ても、「孤児の治療に時間は割けない」と帰ってしまう。
私は薬草を煎じ、額を冷やし、一晩中エルザの手を握っていた。二日目も、三日目も。他の子供たちの食事は年長のヨハンに任せ、レオンが水や薬草を運んでくれた。
三日目の夜明けに、ようやく熱が下がった。
安堵で膝から崩れ落ちそうになった時——孤児院の玄関に、馬車が止まる音がした。
「セリーヌ」
オスカー・フォン・ヘルムシュタットが、扉の前に立っていた。
侯爵令息。私の婚約者。いつものように完璧に整えられた正装。金糸の刺繍が施された外套《がいとう》。一点の汚れもない白い手袋。
そして、その顔に浮かんでいるのは——嫌悪だった。
「何だ、この臭いは」
煎じ薬の匂いだ。三日間煮詰めた薬草と、汗と、子供たちの生活の匂い。
「オスカー様、今はちょっと——」
「見ろ。お前の服」
私は自分を見下ろした。エプロンは薬草の煮汁で染まり、袖は汗で張り付いている。髪はほどけて顔に掛かり、目の下には深い隈《くま》が刻まれているだろう。
「こんな汚い場所に婚約者がいるのは恥だ」
その言葉は、三日間の疲労で薄くなった心の壁を、簡単に貫いた。
「……恥、ですか」
「当然だろう。侯爵家の宴に招かれているのに、お前はここで孤児の看病をしている。どういうつもりだ」
奥の部屋で、ようやく熱の引いたエルザが寝返りを打つ音がした。隣の部屋では、レオンが起きている気配がする。きっと、聞いている。
「この子が死にかけていたのです」
「だからどうした。孤児のひとりやふたり——」
「——オスカー様」
私の声が変わったことに、オスカーは気づいたようだった。
怒ると、私は静かになる。声のトーンが下がり、丁寧語が混じる。母がそうだったから、同じ癖がついたのだと思う。
「今、とても疲れておりますので。お話は後日、改めてお願いできますか」
「後日? 後日と言ったか? 侯爵家の宴より孤児が大事だと?」
「はい」
即答だった。
迷う必要がなかった。
オスカーの顔が、朱に染まった。怒りではない。屈辱だ。侯爵令息である自分が、孤児以下に扱われたという屈辱。
「……いいだろう。お前がその程度の女だとわかった」
それから一週間後、オスカーは公爵家立ち会いのもとで婚約破棄を申し入れた。
「孤児の世話など令嬢の仕事ではない。身分にふさわしい振る舞いのできない女に、侯爵家の嫁は務まらぬ」
社交界は騒然とした——が、同情の多くはオスカーに向いた。
当然だ。伯爵令嬢が孤児院に入り浸り、社交を疎《おろそ》かにする。誰の目にも、非があるのは私の方に見えただろう。
けれど、それだけでは終わらなかった。
婚約破棄の翌月、孤児院「星の家」に閉鎖命令が下った。
表向きの理由は「衛生基準の不適合」。しかし命令書の末尾には、はっきりとオスカー・フォン・ヘルムシュタットの署名があった。
「孤児院に通えなくなれば、あの女も自分の愚かさに気づくだろう」
きっと、そう考えたのだ。私を引き戻したかったのではない。自分の判断が正しかったと証明したかったのだ。——「ほら見ろ、孤児院も潰れた。やはり令嬢の道楽にすぎなかった」と。子供たちの行き先など、考えてもいなかったのだろう。
私は迷わなかった。
十五人の子供たちと、荷車ひとつ分の荷物。それだけを持って、私は王都を出た。
行き先は、辺境の修道院「銀の泉」。かつて祖母が寄進した小さな修道院で、今はもう修道女もおらず、廃墟《はいきょ》同然と聞いていた。ただ、祖母の遺言で穀物蔵に備蓄があること、裏手に枯れていない井戸があることは知っていた。最低限の命綱だけは、あるはずだった。
馬車の中で、レオンが私の袖を引いた。
「先生、どこに行くの」
「新しいおうちよ」
「……おうち」
「ええ。みんなの、おうち」
レオンは黒い目でしばらく私を見つめてから、小さく頷いた。
「……うん」
辺境の修道院は、聞いていた以上に荒れ果てていた。
屋根には穴が開き、壁は蔦《つた》に覆われ、井戸は枯れかけている。畑だった場所は雑草に埋もれ、礼拝堂の長椅子は朽《く》ちていた。
「先生、ここに住むの?」
ミリアが不安そうに私の手を握った。トーマスは無言で屋根の穴を見上げている。エルザは泣きそうな顔をしている。
「大丈夫よ」
私は笑った。
嘘ではなかった。大変なのはわかっている。でも、ここには子供たちがいる。私を必要としてくれる子供たちが。
「みんなで直しましょう。トーマス、あなたは手先が器用でしょう? 屋根の修理を手伝って。ミリア、壁に絵を描いて明るくしてくれる? レオン——」
「俺が井戸を直す」
レオンが、初めて自分から名乗り出た。
五歳のくせに、もう「俺」と言う。いつからだろう。王都を出てからだ。私を守ると決めたように、ほんの少しだけ、声が強くなった。
最初の一年は、生き延びるのに精一杯だった。
初日の夜、雨漏りのする礼拝堂に子供たちを集めて眠らせた。毛布が足りなくて、私は自分の外套を二番目に小さい子にかけ、一番小さいエルザを抱いて寝た。レオンは私の隣で、眠ろうとせずにずっと起きていた。
「レオン、寝なさい」
「……先生が寝てから寝る」
五歳の子供が、大人を守ろうとしている。可笑《おか》しくて、少しだけ泣きそうになった。
翌朝から、荒れ地との戦いが始まった。畑を開墾し、種を蒔《ま》き、薬草を植えた。手にはすぐに豆ができ、爪の間に泥が入り込んで取れなくなった。伯爵令嬢の手ではなくなった。でも、子供たちに食べさせるための手になった。
近隣の村人たちは最初、貴族の令嬢が畑仕事をする姿を物珍しそうに見ていた。中には露骨に馬鹿にする者もいた。「都落ちの令嬢が畑なんかできるもんか」と。
しかし私が折れなかったのは、子供たちのおかげだった。ヨハンが野草の見分け方を覚え、食べられる山菜を摘んできてくれた。トーマスが壊れた農具を直した。レオンが井戸の底まで潜って水源を見つけた。
やがて村人たちは野菜の苗を分けてくれるようになった。子供たちの薬をくれる薬師もいた。秋には小さいながらも収穫があり、子供たちと一緒に食卓を囲んだ。
あの日の夕食の味を、私は忘れない。自分たちで育てた芋と、薬師のおばあさんがくれた塩だけの、質素な食事。でも子供たちは「おいしい」と笑った。それだけで十分だった。
二年目から、子供たちが変わり始めた。
トーマスは修道院の修繕を任されるうちに、建築の才能を開花させた。壊れた家具を直し、雨漏りを塞ぎ、やがて村人の家の修理まで請け負うようになった。
ミリアは壁に描いた花の絵が評判になり、近隣の教会から聖画の依頼が来るようになった。
エルザは私から薬草の知識を学び、小さな薬師として村人の怪我を手当てするようになった。
そしてレオンは——。
あの子の変化は、静かだったが確かだった。
井戸を直す時、重い石を動かす力に村人たちが目を丸くした。畑を耕す速度は大人の三倍。薪割りはもはや家事ではなく、修行のようだった。
でも力だけではなかった。あの子は、弱い者を守る本能を持っていた。
ある日、村の子供が川に落ちた時、レオンが真っ先に飛び込んだ。自分より年上の子を片腕で抱えて岸まで泳ぎ、何事もなかったように水を払って戻ってきた。
「レオン、怪我はない?」
「ない。……あの子は?」
「大丈夫よ。あなたが助けたから」
レオンは小さく頷いて、照れたように目を逸らした。
「先生が教えてくれたから。力は、守るために使うものだって」
その瞬間、黒い瞳に星のような光が揺れた。
私は知っていた。あの光が何なのか。この国に伝わる古い伝説——「名づけの祝福」。愛情を込めて名前を与えられた者に、勇者の資質が宿る。
レオンがそうかもしれないと、最初に気づいたのは三年目の夜だった。
悪い夢を見た子供たちの部屋に、薄い光の膜が張られていた。魔力の壁。眠りながら、無意識に、レオンが仲間を守っていたのだ。
でも私は、誰にも言わなかった。
この子を勇者に仕立てたいのではない。この子が、この子らしく育ってくれればいい。力の強い子。弱い者を放っておけない子。不器用に笑う子。それだけで、レオンはレオンだ。
勇者だから価値があるのではない。レオンだから価値がある。それは、この孤児院の子供たち全員に言えることだった。
騎士団長ディートリヒが初めて修道院を訪れたのは、四年目の秋だった。
彼は王命により勇者捜索の任を負い、王国中を旅していた。辺境の修道院に立ち寄ったのは、単なる休息のためだったらしい。
しかし、子供たちに囲まれた騎士団長の姿は——なかなかに面白いものだった。
「……この者たちは、なぜ私の甲冑を叩くのだ」
「音が面白いんですって。子供は珍しいものが好きなんですよ」
「やめろ。やめなさい。……これは王家の紋章であって太鼓ではない」
ディートリヒは子供が苦手だった。正確には、どう接していいかわからなかったのだと思う。戦場では百人の部下を率いる男が、五歳の子供の前では完全に狼狽《ろうばい》していた。
夕食を共にした時、ディートリヒは修道院の暮らしを見回して、訊いた。
「なぜ、こんな場所で」
「こんな場所、とは失礼ですね」
「いや、そういう意味ではない。……あなたは伯爵令嬢だろう。王都に戻れば、相応の暮らしができるはずだ」
「相応の暮らし、というのがどういうものか、私にはよくわかりません」
私は子供たちが食べ終えた皿を重ねながら、答えた。
「ただ、この子たちがここにいます。この子たちには私が必要です。それだけで十分です」
ディートリヒは黙った。
翌朝、出発の準備をしながら、不器用にこう言った。
「この子たちは——あなたがいなければ、今の姿にはなっていないだろう」
「いいえ。この子たちの力ですよ。私はただ、見ていただけです」
「見ていること自体が、誰にでもできることではない」
そう言って、ディートリヒは去った。
けれどそれから、月に一度、修道院に立ち寄るようになった。勇者捜索の一環として、辺境の集落や修道院を巡回する任務がある——レオンの異常な身体能力を目にした以上、ここを定期報告の拠点に組み込むのは当然のことだったのだろう。子供たちに剣の基礎を教え、壊れた柵を直し——レオンには、特に目をかけた。
「この子の剣筋は異常だ。教えてもいないのに、型ができている」
「そうですか? レオンは力の使い方の練習をたくさんしましたから」
「力の使い方?」
「卵を割らずに持つ練習です」
ディートリヒは、よくわからないという顔をしていた。
そして五年目の春——冒頭に戻る。
騎士団長が帰還命令を持って来た日、私は断った。
けれどそれで終わるはずがなかった。
二週間後、王家の使者が正式な文書を携えて現れた。「勇者の師」として王都に帰還し、勇者の教育に協力せよ、と。
それだけなら、まだよかった。
問題は、使者と共に来た人物だった。
「久しぶりだな、セリーヌ」
オスカー・フォン・ヘルムシュタットが、修道院の門をくぐった。
五年ぶりの婚約者——いや、元婚約者。相変わらず完璧な正装。一点の汚れもない白い手袋。そして、あの自信に満ちた笑み。
「まさかお前が育てた孤児が勇者とはな。驚いたよ」
「オスカー様。どのようなご用件でしょうか」
「用件? 決まっているだろう。俺が来たのは、勇者を迎えに来たからだ」
オスカーは笑った。社交界で見せる、完璧に計算された笑顔。
「知っているか、セリーヌ。俺は、あの孤児院を支援していたんだ。勇者が育った場所の後援者としてな。王に報告書も出している」
嘘だ。
あの孤児院を閉鎖に追い込んだのは、あなたでしょう。
けれど私は何も言わなかった。言葉で反論する必要はない。
「ヘルムシュタット卿」
背後から、低い声がした。
ディートリヒが、一通の書類を手にしていた。
「孤児院『星の家』の閉鎖命令書だ。衛生基準不適合を理由としているが、末尾の署名は——あなたのものだな」
オスカーの顔から、笑みが消えた。
「な——どこでそれを」
「王都の記録庫に保管されていた。勇者捜索の過程で、勇者の出自を調べる必要があった。その際に発見した」
ディートリヒは書類をオスカーに突きつけた。
「支援していたのではない。閉鎖に追い込んだのだ。勇者を育てた場所を」
オスカーの白い手袋が、かすかに震えた。
「それは……その時は、まだ勇者だとわかっていなかったのだから——」
「勇者であろうとなかろうと、子供たちの居場所を奪ったことに変わりはない」
「わ、わかっていたら、閉鎖などしなかった!」
その一言が、全てを物語っていた。
勇者だとわかっていたら。つまり、この人にとって子供の価値は「何者であるか」でしか測れないのだ。ただの孤児なら捨てていい。勇者なら大切にする。そういう人なのだ。
五年前から、何も変わっていなかった。
ディートリヒの声には、静かな怒りが滲《にじ》んでいた。この人は普段、感情を見せない。それだけに、その怒りは重かった。
オスカーは狼狽した。社交界では弁が立つ男だが、証拠を突きつけられては言い逃れできない。
「と、とにかく、勇者の帰還が優先だ。俺は王命で——」
「僕は行かないよ」
静かな声だった。
レオンが、修道院の入り口に立っていた。
五年前の痩せた子供はもういない。十歳になったレオンは背が伸び、黒い瞳は澄んで、凛とした少年になっていた。
けれどその目には——私がよく知っている、あの強い光が宿っていた。
「レオン」
「先生を泣かせた人が来る国に、なぜ僕が行かなきゃいけないの」
オスカーが息を呑んだ。
「先生は泣かなかったよ」
レオンは淡々と続けた。
「泣かなかった。でも僕は知ってる。王都を出た夜、荷車の横で、みんなが寝た後に、先生がひとりで空を見ていたこと。あの時、先生の目が赤かったこと」
……覚えて、いたのか。
あの夜。子供たちを寝かしつけた後、ひとりで荷車に座って星を見ていた。泣いてはいなかった。けれど涙を堪えていたのは、本当だ。
「僕の先生を追い出した人がいる国を、なぜ守らなければならないのですか」
レオンが、王の使者に向かって言った。
十歳の少年の声は、修道院の中庭に静かに響いた。使者の顔が青ざめた。勇者が国を守ることを拒否している——それが王家にとってどれほど重大なことか、全員がわかっていた。
次の厄災は、もう目前に迫っている。勇者なくして、この国は魔物の大発生を乗り越えられない。
私は、前に出た。
「レオン」
レオンの前に屈《かが》んで、目を合わせた。黒い瞳に星の光が揺れている。怒りと悲しみで、光が強くなっている。
「それでも守りなさい」
「……先生」
「あなたはそういう子に育ったでしょう?」
レオンの唇が震えた。
「川に落ちた子を助けた時、あなたは何も考えずに飛び込んだわ。知らない子だったのに。あの子のお父さんやお母さんが、あなたに何をしてくれたわけでもないのに」
「それは……」
「力は、守るために使うもの。そう教えたわよね」
レオンは俯《うつむ》いた。拳を握りしめている。十歳の、まだ小さな拳。
「……ずるいよ、先生」
「ずるくて結構よ。先生はずるい大人なの」
レオンが、泣き笑いのような顔をした。
「……わかった」
レオンは袖で目を拭った。それから、顔を上げた。涙の跡が残る頬で、けれどその目はもう、泣いてはいなかった。
「でも、条件がある」
「条件?」
「僕の先生を『無駄だ』と言った人には、会いたくない。その人が関わるなら、僕は動かない」
使者の視線が、オスカーに向いた。
オスカーは一歩後ずさった。
「ま、待て。私は——」
「ヘルムシュタット卿」
使者が静かに言った。
「お引き取りを」
後日、王宮で正式な謁見《えっけん》が行われた。
レオンは王の前に立ち、勇者としての任を受け入れた。ただし、ひとつの条件をつけて。
「育ての親である方々への謝罪と、修道院への正式な支援を」
王は即座にこれを受け入れた。
そしてオスカー・フォン・ヘルムシュタットには——何の罰も下されなかった。
罰は不要だった。
「勇者の恩人を追い出し、勇者を育てた孤児院を閉鎖した男」。その事実が社交界に知れ渡った。
最初は、オスカーを擁護する声もあった。「勇者だとわかっていれば誰だって」「事情があったのだろう」と。
しかし王家がセリーヌを正式に「勇者の恩人」として表彰した時点で、風向きが変わった。王家に逆らえない者から順に、オスカーから距離を置き始めた。宴に招かれなくなった。取引先が離れていった。侯爵家の中でさえ、腫れ物のように扱われるようになった。
聞いた話では、オスカーは弁明のために方々を回ったらしい。「あの時は事情があった」「知っていればこんなことは」と。最初の数ヶ月は擁護する声もあった。けれど王家の表彰が広まるにつれ、少しずつ——本当に少しずつ、潮が引くように人が離れていった。誰もが同じ質問を返すようになった。
「事情があれば、子供の居場所を奪っていいのですか?」
半年もかからなかった。あれほど求めていた「社交界での名声」が、音もなく崩れ落ちたのだ。
因果応報、とは言わない。
ただ、あの人は最初から、何が大切なのかを間違えていた。それだけの話だ。
レオンが旅立つ日、修道院の門の前に子供たちが集まった。
「レオン兄ちゃん、行っちゃうの?」
「うん。でも、すぐ帰る」
「すぐってどれくらい?」
「……厄災が終わったら」
「厄災って何?」
「強い魔物がたくさん来ること。僕がやっつける」
「全部?」
「全部」
「ほんと?」
「ほんと。約束する」
小さな子供たちがレオンにしがみついている。レオンは困ったように一人一人の頭を撫で——かつて卵を割らずに持てなかった手で、今は子供の髪を乱さないように、そっと。
「先生」
レオンが私の前に立った。十歳の少年は、もう私の肩の高さまである。
「必ず帰るから」
「ええ。知っているわ」
「知ってるって何」
「あなたはそういう子だもの。約束を守る子に育ったもの」
レオンは照れたように目を逸らした。それから、思い出したように言った。
「……先生が名前をくれた時のこと、覚えてるよ」
「あら、あなた赤ちゃんだったのに?」
「覚えてる。声だけ。あったかい声が、名前を呼んでくれた。だから僕は、泣かなかったんだ」
——嵐の夜。門の前で、声も出さず、泣きもせず、ただ黒い目で空を見ていた赤ん坊。
泣かなかったのではない。泣く必要がなかったのだ。名前を呼ばれた瞬間に、この子はもう、ひとりではなくなっていたから。
「行ってらっしゃい、レオン」
「行ってきます。——先生」
レオンは三歩歩いて、振り返った。
「先生」
「何?」
「……星の揺籃歌、歌って。最後に」
十歳の少年が、五歳の子供のような顔をしていた。
私は笑って、歌い始めた。祖母から教わった、古い子守唄。星が子供を見守り、朝まで導いてくれるという歌。
レオンの黒い瞳に、星の光が揺れた。今度は瞼の裏ではなく、はっきりと目の中に。泣いているのか、光っているのか、わからなかった。
歌い終わると、レオンは今度こそ前を向いた。ディートリヒが付き添い、その背中を守るように並ぶ。
子供たちが手を振る。私も手を振った。
小さな——いや、もう小さくはない背中が丘の向こうに消えるまで、ずっと。
レオンが去った翌日、ディートリヒが修道院に戻ってきた。
「……勇者の護衛任務は」
「王都までの護衛は副官に任せた。レオンは明日から王城で正式な勇者教育に入る。護衛は近衛に引き継がれる手筈だ」
「では、なぜ戻ってこられたのですか」
「……王命で、修道院への支援体制を整備する任を受けた。勇者の出身地として、ここは王家の庇護下に入る」
ディートリヒは甲冑を外し、修道院の柵の修理を始めた。王命とは言え、柵の修理まで任務に含まれているとは思えなかったけれど——そこには触れないでおいた。
ディートリヒは甲冑を外し、修道院の柵の修理を始めた。子供たちがまた寄ってきて、金槌《かなづち》を叩く音に合わせて歌い始めた。
「ディートリヒ様、甲冑着ないの?」
「ここでは必要ない」
「なんで?」
「守るものが、剣で守る類《たぐい》のものではないからだ」
「じゃあ何で守るの?」
「……金槌と、釘だ」
子供たちが笑った。ディートリヒの耳がまた赤くなった。
不器用な人だと思う。言葉が足りなくて、表情も乏しくて。でも、この人の手は嘘をつかない。壊れた柵を、ひとつひとつ丁寧に直していく。
「ディートリヒ様」
「何だ」
「ありがとうございます」
「……礼には及ばない」
ディートリヒは目を逸らした。耳の先がかすかに赤いのを、私は見逃さなかった。
数日後、修道院の門を叩く音がした。
開けると、小さな女の子がひとりで立っていた。
薄汚れた服。擦り切れた靴。泣き腫《は》らした目。誰かに連れてこられたのではない。ひとりで歩いてきたのだ。
「あの……ここ、おねえさんがいるところ?」
「おねえさん?」
「やさしい、おねえさん。こどもの世話をしてくれるおねえさんがいるって、村の人が……」
この子にも、帰る場所がないのだろう。
世界は広い。そして、居場所のない子供は、まだたくさんいる。
私は屈んで、その子と目を合わせた。
「おいで」
小さな手を取る。冷たくて、震えている。
「あなたの名前は?」
「……ない。おかあさんが、つけてくれなかった」
そう。
なら、私がつけよう。
名前をつけるということは、その子の未来を信じるということだ。
「大丈夫よ。ちゃんと見ているから」
私は小さな手を握って、修道院の中に連れていった。
中庭に入ると、子供たちが駆け寄ってきた。
「先生、新しい子?」
「ええ。みんな、よろしくね」
エルザが温かい薬草茶を持ってきた。ミリアが「一緒にお絵描きしよう」と手を差し出した。トーマスが小さな木彫りの兎を「はい、あげる」と渡した。
女の子はきょとんとしていた。こんなにたくさんの人に囲まれたことがないのだろう。おずおずと木彫りの兎を受け取り、それから——ほんの少しだけ、唇の端が上がった。
春の風が中庭を抜ける。子供たちの笑い声が聞こえる。ディートリヒが柵を直す金槌《かなづち》の音が響く。
あの子たちを「無駄」と呼んだ方に、お答えする必要はございません。
私の答えは、いつだってここにある。泥だらけのエプロンと、子供たちの笑顔と、ひとつひとつ丁寧につけた名前の中に。
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