「孤児の世話など令嬢の仕事ではない」と追い出された養育係——国中が探した勇者は、彼女が名づけた子供だった

歩人

文字の大きさ
1 / 1

孤児の世話など令嬢の仕事ではない

 銀色の甲冑を纏《まと》った男が、修道院の門をくぐった。

 春の陽射しに照らされた中庭では、子供たちが畑の草むしりをしている。泥だらけの手を止めて、一斉にそちらを見た。

「……先生、知らない人が来た」

「大丈夫よ」

「でも、剣持ってる」

「剣を持っている人が全員悪い人とは限らないでしょう? ディートリヒ様だって剣を持っているわ」

「ディートリヒ様は別。あの人はいい人」

 八歳になったミリアが、私の後ろに隠れながらそう言った。

 私は土の付いた手をエプロンで拭《ぬぐ》い、立ち上がった。
 騎士。それも、ただの騎士ではない。胸元の紋章は王家直属の騎士団——しかも、団長の証だ。

 銀髪に鋭い目。背が高く、戦場の匂いを纏っている。けれど甲冑の下の目には、敵意はなかった。
 代わりにあったのは、困惑だった。

「セリーヌ・フォン・リンデンバウム殿、でよろしいか」

「はい。ここで子供たちの先生をしております」

 騎士は一瞬、私の格好に視線を落とした。
 泥だらけのエプロン。日に焼けた手。蜂蜜色の髪は簡素に束ね、令嬢らしい装飾は何ひとつない。伯爵令嬢と名乗られて、面食らったのだろう。

「——騎士団長ディートリヒ・フォン・ヴァルトシュタインと申す。王命にて参りました」

 王命。
 その二文字を聞いた瞬間、胸の奥がかすかに冷えた。五年前に捨てた場所から、今さら何の用だろう。

「勇者が覚醒しました」

 ディートリヒの声は低く、静かだった。

「聖剣が光を放ったのは三日前。場所は、この修道院の裏手にある古代遺跡——勇者の試練場です」

 知っている。あの遺跡なら、修道院から歩いて半刻ほどの丘の上にある。ディートリヒ様が月一で通うようになってから、レオンが剣の練習をしたいと言って、二人で通うようになった場所だ。

「覚醒した少年の名は、レオン。姓はありません。——あなたが育てた子供です」

 私は、驚かなかった。

 だって、ずっと知っていたから。
 あの子の黒い瞳に、時おり星のような光が宿ることを。夜、悪い夢を見た子供たちを守るように、無意識に魔力の膜を張っていたことを。私が「星の揺籃歌《ゆりかごうた》」を歌うと、その光がいっそう強くなることを。

「……そうですか」

「そうですか、では困る」

 ディートリヒは眉を寄せた。

「王家からの帰還命令です。勇者の師として、あなたには王都への帰還と、勇者の育成への協力が求められています」

 私は微笑んで、首を横に振った。

「申し訳ございません。ここには、私を必要としている子供たちがおりますので」

 騎士団長は、明らかに予想していなかった答えに、言葉を失っていた。



 あの日のことを、今でもよく覚えている。

 五年と少し前——王都アストリアの外縁部にある孤児院「星の家」。それが、私の居場所だった。

 伯爵家の令嬢が孤児院に通うのは、社交界では「奇行」と見なされていた。慈善活動なら寄付金を送ればいい。まさか自分の手で子供の世話をするなど、貴族のすることではない——と。

 でも私には、それしかなかった。

 幼い頃、母が病で倒れた。父は領地経営に追われ、屋敷はいつも静かだった。寂しくて抜け出した先に、孤児院があった。そこで初めて、「必要とされる」ということを知った。

 以来、十年。
 私は毎日のように孤児院に通い続けた。



 夜泣きの声が、暗闇の中に響く。

「……っ、ひぐ……」

 私はそっとベッドから身を起こし、声のする部屋へ向かった。月明かりだけの廊下を、裸足で歩く。
 七歳のミリアだった。毛布を握りしめて、小さな身体を丸めている。

「ミリア、大丈夫よ。先生がいるから」

 抱き上げると、冷たい涙が首筋に伝った。この子は捨てられた記憶がまだ消えない。夜になると不安が押し寄せて、眠れなくなるのだ。

 ミリアが好きなのは、春の野花の歌。明るい旋律で、花が次々に咲いていく様子を歌う子守唄。

「はるのはなが、さくころに——」

 歌いながら背中をさする。少しずつ、震えが止まっていく。
 ミリアが眠ったのを確認して、隣の部屋を覗く。

 六歳のトーマスは月の歌。四歳のエルザは雨の歌。九歳のヨハンは歌より物語を聞きたがる——だから、低い声で英雄譚を語ってやる。

 そして、レオン。

 この子だけは、決まった子守唄がある。

「星の揺籃歌」。

 私が祖母から教わった、古い古い歌。星が子供を見守り、朝まで導いてくれるという歌詞。他の子には効かないのに、レオンにだけは不思議と効く。

 歌い始めると、黒い瞳がゆっくりと閉じていく。
 そしてその瞬間——瞼《まぶた》の裏で、かすかに光が揺れるのだ。星のように。

「……せんせ」

「ちゃんと見ているから。おやすみなさい、レオン」

 小さな手が、私の指をきゅっと握った。骨ばった、細い指。この子が孤児院に来たのは、嵐の夜だった。門の前に、濡れた布にくるまれて置かれていた。

 声も出さず、泣きもせず、ただ黒い目で空を見ていた。

「獅子のように強くなりなさい」

 そう祈って、レオン、と名前をつけた。
 名前をつけるということは、その子の未来を信じるということだ。



 十五人の子供を育てるのは、体力勝負だった。

 朝は日の出前に起きて食事の準備。昼間は年齢に合わせた学びの時間を作る。読み書き、算術、薬草の基礎知識。そして午後は、一人一人の得意なことを見つけて伸ばす時間。

 トーマスは手先が器用だった。木を削って小さな動物を作らせると、驚くほど精巧なものを仕上げる。ミリアは絵が上手で、壁に花を描かせるとまるで本物のように鮮やかだった。

 レオンは——力が強すぎた。

 水汲みのバケツを片手で持ち上げる。薪を割ろうとすると、台ごと真っ二つにしてしまう。本人は困ったように俯《うつむ》いて、「……ごめんなさい」と小さく呟く。

「謝ることはないのよ、レオン」

「でも、壊した」

「壊したなら、直す方法を覚えればいい。力は悪いものじゃないの。使い方を知らないだけ」

 私はレオンに、力の「加減」を教えた。

「いい? この卵を、割らずに持ってみて」

「……こう?」

 ぐしゃり。黄身が指の間から垂れる。

「もう一回。もっとゆっくり、赤ちゃんを抱くみたいに」

「赤ちゃん、抱いたことない」

「じゃあ、小鳥を想像して。飛んでいかないように、でも潰さないように」

 卵を割らずに持つ練習。花びらを潰さずに摘む練習。糸を切らずに紡ぐ練習。

 何度も失敗した。卵は握り潰され、花びらは粉々になり、糸は何本も千切れた。

 それでもレオンは諦めなかった。黒い目を真剣に細めて、何度でも繰り返す。

 ある日、初めて卵を割らずに持てた時——レオンは、生まれて初めて笑った。

「先生、できた」

「ええ。ちゃんと見ていたわ」

 あの笑顔を、私は一生忘れない。



 三日三晩、眠れない夜があった。

 エルザが高熱を出したのだ。孤児院に医師は来ない。来ても、「孤児の治療に時間は割けない」と帰ってしまう。

 私は薬草を煎じ、額を冷やし、一晩中エルザの手を握っていた。二日目も、三日目も。他の子供たちの食事は年長のヨハンに任せ、レオンが水や薬草を運んでくれた。

 三日目の夜明けに、ようやく熱が下がった。

 安堵で膝から崩れ落ちそうになった時——孤児院の玄関に、馬車が止まる音がした。

「セリーヌ」

 オスカー・フォン・ヘルムシュタットが、扉の前に立っていた。

 侯爵令息。私の婚約者。いつものように完璧に整えられた正装。金糸の刺繍が施された外套《がいとう》。一点の汚れもない白い手袋。

 そして、その顔に浮かんでいるのは——嫌悪だった。

「何だ、この臭いは」

 煎じ薬の匂いだ。三日間煮詰めた薬草と、汗と、子供たちの生活の匂い。

「オスカー様、今はちょっと——」

「見ろ。お前の服」

 私は自分を見下ろした。エプロンは薬草の煮汁で染まり、袖は汗で張り付いている。髪はほどけて顔に掛かり、目の下には深い隈《くま》が刻まれているだろう。

「こんな汚い場所に婚約者がいるのは恥だ」

 その言葉は、三日間の疲労で薄くなった心の壁を、簡単に貫いた。

「……恥、ですか」

「当然だろう。侯爵家の宴に招かれているのに、お前はここで孤児の看病をしている。どういうつもりだ」

 奥の部屋で、ようやく熱の引いたエルザが寝返りを打つ音がした。隣の部屋では、レオンが起きている気配がする。きっと、聞いている。

「この子が死にかけていたのです」

「だからどうした。孤児のひとりやふたり——」

「——オスカー様」

 私の声が変わったことに、オスカーは気づいたようだった。

 怒ると、私は静かになる。声のトーンが下がり、丁寧語が混じる。母がそうだったから、同じ癖がついたのだと思う。

「今、とても疲れておりますので。お話は後日、改めてお願いできますか」

「後日? 後日と言ったか? 侯爵家の宴より孤児が大事だと?」

「はい」

 即答だった。
 迷う必要がなかった。

 オスカーの顔が、朱に染まった。怒りではない。屈辱だ。侯爵令息である自分が、孤児以下に扱われたという屈辱。

「……いいだろう。お前がその程度の女だとわかった」

 それから一週間後、オスカーは公爵家立ち会いのもとで婚約破棄を申し入れた。

「孤児の世話など令嬢の仕事ではない。身分にふさわしい振る舞いのできない女に、侯爵家の嫁は務まらぬ」

 社交界は騒然とした——が、同情の多くはオスカーに向いた。
 当然だ。伯爵令嬢が孤児院に入り浸り、社交を疎《おろそ》かにする。誰の目にも、非があるのは私の方に見えただろう。

 けれど、それだけでは終わらなかった。

 婚約破棄の翌月、孤児院「星の家」に閉鎖命令が下った。
 表向きの理由は「衛生基準の不適合」。しかし命令書の末尾には、はっきりとオスカー・フォン・ヘルムシュタットの署名があった。

「孤児院に通えなくなれば、あの女も自分の愚かさに気づくだろう」

 きっと、そう考えたのだ。私を引き戻したかったのではない。自分の判断が正しかったと証明したかったのだ。——「ほら見ろ、孤児院も潰れた。やはり令嬢の道楽にすぎなかった」と。子供たちの行き先など、考えてもいなかったのだろう。

 私は迷わなかった。

 十五人の子供たちと、荷車ひとつ分の荷物。それだけを持って、私は王都を出た。
 行き先は、辺境の修道院「銀の泉」。かつて祖母が寄進した小さな修道院で、今はもう修道女もおらず、廃墟《はいきょ》同然と聞いていた。ただ、祖母の遺言で穀物蔵に備蓄があること、裏手に枯れていない井戸があることは知っていた。最低限の命綱だけは、あるはずだった。

 馬車の中で、レオンが私の袖を引いた。

「先生、どこに行くの」

「新しいおうちよ」

「……おうち」

「ええ。みんなの、おうち」

 レオンは黒い目でしばらく私を見つめてから、小さく頷いた。

「……うん」



 辺境の修道院は、聞いていた以上に荒れ果てていた。

 屋根には穴が開き、壁は蔦《つた》に覆われ、井戸は枯れかけている。畑だった場所は雑草に埋もれ、礼拝堂の長椅子は朽《く》ちていた。

「先生、ここに住むの?」

 ミリアが不安そうに私の手を握った。トーマスは無言で屋根の穴を見上げている。エルザは泣きそうな顔をしている。

「大丈夫よ」

 私は笑った。
 嘘ではなかった。大変なのはわかっている。でも、ここには子供たちがいる。私を必要としてくれる子供たちが。

「みんなで直しましょう。トーマス、あなたは手先が器用でしょう? 屋根の修理を手伝って。ミリア、壁に絵を描いて明るくしてくれる? レオン——」

「俺が井戸を直す」

 レオンが、初めて自分から名乗り出た。
 五歳のくせに、もう「俺」と言う。いつからだろう。王都を出てからだ。私を守ると決めたように、ほんの少しだけ、声が強くなった。

 最初の一年は、生き延びるのに精一杯だった。

 初日の夜、雨漏りのする礼拝堂に子供たちを集めて眠らせた。毛布が足りなくて、私は自分の外套を二番目に小さい子にかけ、一番小さいエルザを抱いて寝た。レオンは私の隣で、眠ろうとせずにずっと起きていた。

「レオン、寝なさい」

「……先生が寝てから寝る」

 五歳の子供が、大人を守ろうとしている。可笑《おか》しくて、少しだけ泣きそうになった。

 翌朝から、荒れ地との戦いが始まった。畑を開墾し、種を蒔《ま》き、薬草を植えた。手にはすぐに豆ができ、爪の間に泥が入り込んで取れなくなった。伯爵令嬢の手ではなくなった。でも、子供たちに食べさせるための手になった。

 近隣の村人たちは最初、貴族の令嬢が畑仕事をする姿を物珍しそうに見ていた。中には露骨に馬鹿にする者もいた。「都落ちの令嬢が畑なんかできるもんか」と。

 しかし私が折れなかったのは、子供たちのおかげだった。ヨハンが野草の見分け方を覚え、食べられる山菜を摘んできてくれた。トーマスが壊れた農具を直した。レオンが井戸の底まで潜って水源を見つけた。

 やがて村人たちは野菜の苗を分けてくれるようになった。子供たちの薬をくれる薬師もいた。秋には小さいながらも収穫があり、子供たちと一緒に食卓を囲んだ。

 あの日の夕食の味を、私は忘れない。自分たちで育てた芋と、薬師のおばあさんがくれた塩だけの、質素な食事。でも子供たちは「おいしい」と笑った。それだけで十分だった。

 二年目から、子供たちが変わり始めた。

 トーマスは修道院の修繕を任されるうちに、建築の才能を開花させた。壊れた家具を直し、雨漏りを塞ぎ、やがて村人の家の修理まで請け負うようになった。

 ミリアは壁に描いた花の絵が評判になり、近隣の教会から聖画の依頼が来るようになった。

 エルザは私から薬草の知識を学び、小さな薬師として村人の怪我を手当てするようになった。

 そしてレオンは——。

 あの子の変化は、静かだったが確かだった。

 井戸を直す時、重い石を動かす力に村人たちが目を丸くした。畑を耕す速度は大人の三倍。薪割りはもはや家事ではなく、修行のようだった。

 でも力だけではなかった。あの子は、弱い者を守る本能を持っていた。

 ある日、村の子供が川に落ちた時、レオンが真っ先に飛び込んだ。自分より年上の子を片腕で抱えて岸まで泳ぎ、何事もなかったように水を払って戻ってきた。

「レオン、怪我はない?」

「ない。……あの子は?」

「大丈夫よ。あなたが助けたから」

 レオンは小さく頷いて、照れたように目を逸らした。

「先生が教えてくれたから。力は、守るために使うものだって」

 その瞬間、黒い瞳に星のような光が揺れた。
 私は知っていた。あの光が何なのか。この国に伝わる古い伝説——「名づけの祝福」。愛情を込めて名前を与えられた者に、勇者の資質が宿る。

 レオンがそうかもしれないと、最初に気づいたのは三年目の夜だった。

 悪い夢を見た子供たちの部屋に、薄い光の膜が張られていた。魔力の壁。眠りながら、無意識に、レオンが仲間を守っていたのだ。

 でも私は、誰にも言わなかった。
 この子を勇者に仕立てたいのではない。この子が、この子らしく育ってくれればいい。力の強い子。弱い者を放っておけない子。不器用に笑う子。それだけで、レオンはレオンだ。

 勇者だから価値があるのではない。レオンだから価値がある。それは、この孤児院の子供たち全員に言えることだった。



 騎士団長ディートリヒが初めて修道院を訪れたのは、四年目の秋だった。

 彼は王命により勇者捜索の任を負い、王国中を旅していた。辺境の修道院に立ち寄ったのは、単なる休息のためだったらしい。

 しかし、子供たちに囲まれた騎士団長の姿は——なかなかに面白いものだった。

「……この者たちは、なぜ私の甲冑を叩くのだ」

「音が面白いんですって。子供は珍しいものが好きなんですよ」

「やめろ。やめなさい。……これは王家の紋章であって太鼓ではない」

 ディートリヒは子供が苦手だった。正確には、どう接していいかわからなかったのだと思う。戦場では百人の部下を率いる男が、五歳の子供の前では完全に狼狽《ろうばい》していた。

 夕食を共にした時、ディートリヒは修道院の暮らしを見回して、訊いた。

「なぜ、こんな場所で」

「こんな場所、とは失礼ですね」

「いや、そういう意味ではない。……あなたは伯爵令嬢だろう。王都に戻れば、相応の暮らしができるはずだ」

「相応の暮らし、というのがどういうものか、私にはよくわかりません」

 私は子供たちが食べ終えた皿を重ねながら、答えた。

「ただ、この子たちがここにいます。この子たちには私が必要です。それだけで十分です」

 ディートリヒは黙った。
 翌朝、出発の準備をしながら、不器用にこう言った。

「この子たちは——あなたがいなければ、今の姿にはなっていないだろう」

「いいえ。この子たちの力ですよ。私はただ、見ていただけです」

「見ていること自体が、誰にでもできることではない」

 そう言って、ディートリヒは去った。
 けれどそれから、月に一度、修道院に立ち寄るようになった。勇者捜索の一環として、辺境の集落や修道院を巡回する任務がある——レオンの異常な身体能力を目にした以上、ここを定期報告の拠点に組み込むのは当然のことだったのだろう。子供たちに剣の基礎を教え、壊れた柵を直し——レオンには、特に目をかけた。

「この子の剣筋は異常だ。教えてもいないのに、型ができている」

「そうですか? レオンは力の使い方の練習をたくさんしましたから」

「力の使い方?」

「卵を割らずに持つ練習です」

 ディートリヒは、よくわからないという顔をしていた。



 そして五年目の春——冒頭に戻る。

 騎士団長が帰還命令を持って来た日、私は断った。
 けれどそれで終わるはずがなかった。

 二週間後、王家の使者が正式な文書を携えて現れた。「勇者の師」として王都に帰還し、勇者の教育に協力せよ、と。

 それだけなら、まだよかった。

 問題は、使者と共に来た人物だった。

「久しぶりだな、セリーヌ」

 オスカー・フォン・ヘルムシュタットが、修道院の門をくぐった。

 五年ぶりの婚約者——いや、元婚約者。相変わらず完璧な正装。一点の汚れもない白い手袋。そして、あの自信に満ちた笑み。

「まさかお前が育てた孤児が勇者とはな。驚いたよ」

「オスカー様。どのようなご用件でしょうか」

「用件? 決まっているだろう。俺が来たのは、勇者を迎えに来たからだ」

 オスカーは笑った。社交界で見せる、完璧に計算された笑顔。

「知っているか、セリーヌ。俺は、あの孤児院を支援していたんだ。勇者が育った場所の後援者としてな。王に報告書も出している」

 嘘だ。
 あの孤児院を閉鎖に追い込んだのは、あなたでしょう。

 けれど私は何も言わなかった。言葉で反論する必要はない。

「ヘルムシュタット卿」

 背後から、低い声がした。
 ディートリヒが、一通の書類を手にしていた。

「孤児院『星の家』の閉鎖命令書だ。衛生基準不適合を理由としているが、末尾の署名は——あなたのものだな」

 オスカーの顔から、笑みが消えた。

「な——どこでそれを」

「王都の記録庫に保管されていた。勇者捜索の過程で、勇者の出自を調べる必要があった。その際に発見した」

 ディートリヒは書類をオスカーに突きつけた。

「支援していたのではない。閉鎖に追い込んだのだ。勇者を育てた場所を」

 オスカーの白い手袋が、かすかに震えた。

「それは……その時は、まだ勇者だとわかっていなかったのだから——」

「勇者であろうとなかろうと、子供たちの居場所を奪ったことに変わりはない」

「わ、わかっていたら、閉鎖などしなかった!」

 その一言が、全てを物語っていた。
 勇者だとわかっていたら。つまり、この人にとって子供の価値は「何者であるか」でしか測れないのだ。ただの孤児なら捨てていい。勇者なら大切にする。そういう人なのだ。

 五年前から、何も変わっていなかった。

 ディートリヒの声には、静かな怒りが滲《にじ》んでいた。この人は普段、感情を見せない。それだけに、その怒りは重かった。

 オスカーは狼狽した。社交界では弁が立つ男だが、証拠を突きつけられては言い逃れできない。

「と、とにかく、勇者の帰還が優先だ。俺は王命で——」

「僕は行かないよ」

 静かな声だった。

 レオンが、修道院の入り口に立っていた。

 五年前の痩せた子供はもういない。十歳になったレオンは背が伸び、黒い瞳は澄んで、凛とした少年になっていた。

 けれどその目には——私がよく知っている、あの強い光が宿っていた。

「レオン」

「先生を泣かせた人が来る国に、なぜ僕が行かなきゃいけないの」

 オスカーが息を呑んだ。

「先生は泣かなかったよ」

 レオンは淡々と続けた。

「泣かなかった。でも僕は知ってる。王都を出た夜、荷車の横で、みんなが寝た後に、先生がひとりで空を見ていたこと。あの時、先生の目が赤かったこと」

 ……覚えて、いたのか。

 あの夜。子供たちを寝かしつけた後、ひとりで荷車に座って星を見ていた。泣いてはいなかった。けれど涙を堪えていたのは、本当だ。

「僕の先生を追い出した人がいる国を、なぜ守らなければならないのですか」

 レオンが、王の使者に向かって言った。

 十歳の少年の声は、修道院の中庭に静かに響いた。使者の顔が青ざめた。勇者が国を守ることを拒否している——それが王家にとってどれほど重大なことか、全員がわかっていた。

 次の厄災は、もう目前に迫っている。勇者なくして、この国は魔物の大発生を乗り越えられない。

 私は、前に出た。

「レオン」

 レオンの前に屈《かが》んで、目を合わせた。黒い瞳に星の光が揺れている。怒りと悲しみで、光が強くなっている。

「それでも守りなさい」

「……先生」

「あなたはそういう子に育ったでしょう?」

 レオンの唇が震えた。

「川に落ちた子を助けた時、あなたは何も考えずに飛び込んだわ。知らない子だったのに。あの子のお父さんやお母さんが、あなたに何をしてくれたわけでもないのに」

「それは……」

「力は、守るために使うもの。そう教えたわよね」

 レオンは俯《うつむ》いた。拳を握りしめている。十歳の、まだ小さな拳。

「……ずるいよ、先生」

「ずるくて結構よ。先生はずるい大人なの」

 レオンが、泣き笑いのような顔をした。

「……わかった」

 レオンは袖で目を拭った。それから、顔を上げた。涙の跡が残る頬で、けれどその目はもう、泣いてはいなかった。

「でも、条件がある」

「条件?」

「僕の先生を『無駄だ』と言った人には、会いたくない。その人が関わるなら、僕は動かない」

 使者の視線が、オスカーに向いた。
 オスカーは一歩後ずさった。

「ま、待て。私は——」

「ヘルムシュタット卿」

 使者が静かに言った。

「お引き取りを」



 後日、王宮で正式な謁見《えっけん》が行われた。

 レオンは王の前に立ち、勇者としての任を受け入れた。ただし、ひとつの条件をつけて。

「育ての親である方々への謝罪と、修道院への正式な支援を」

 王は即座にこれを受け入れた。

 そしてオスカー・フォン・ヘルムシュタットには——何の罰も下されなかった。

 罰は不要だった。

 「勇者の恩人を追い出し、勇者を育てた孤児院を閉鎖した男」。その事実が社交界に知れ渡った。

 最初は、オスカーを擁護する声もあった。「勇者だとわかっていれば誰だって」「事情があったのだろう」と。
 しかし王家がセリーヌを正式に「勇者の恩人」として表彰した時点で、風向きが変わった。王家に逆らえない者から順に、オスカーから距離を置き始めた。宴に招かれなくなった。取引先が離れていった。侯爵家の中でさえ、腫れ物のように扱われるようになった。

 聞いた話では、オスカーは弁明のために方々を回ったらしい。「あの時は事情があった」「知っていればこんなことは」と。最初の数ヶ月は擁護する声もあった。けれど王家の表彰が広まるにつれ、少しずつ——本当に少しずつ、潮が引くように人が離れていった。誰もが同じ質問を返すようになった。

「事情があれば、子供の居場所を奪っていいのですか?」

 半年もかからなかった。あれほど求めていた「社交界での名声」が、音もなく崩れ落ちたのだ。

 因果応報、とは言わない。
 ただ、あの人は最初から、何が大切なのかを間違えていた。それだけの話だ。



 レオンが旅立つ日、修道院の門の前に子供たちが集まった。

「レオン兄ちゃん、行っちゃうの?」

「うん。でも、すぐ帰る」

「すぐってどれくらい?」

「……厄災が終わったら」

「厄災って何?」

「強い魔物がたくさん来ること。僕がやっつける」

「全部?」

「全部」

「ほんと?」

「ほんと。約束する」

 小さな子供たちがレオンにしがみついている。レオンは困ったように一人一人の頭を撫で——かつて卵を割らずに持てなかった手で、今は子供の髪を乱さないように、そっと。

「先生」

 レオンが私の前に立った。十歳の少年は、もう私の肩の高さまである。

「必ず帰るから」

「ええ。知っているわ」

「知ってるって何」

「あなたはそういう子だもの。約束を守る子に育ったもの」

 レオンは照れたように目を逸らした。それから、思い出したように言った。

「……先生が名前をくれた時のこと、覚えてるよ」

「あら、あなた赤ちゃんだったのに?」

「覚えてる。声だけ。あったかい声が、名前を呼んでくれた。だから僕は、泣かなかったんだ」

 ——嵐の夜。門の前で、声も出さず、泣きもせず、ただ黒い目で空を見ていた赤ん坊。

 泣かなかったのではない。泣く必要がなかったのだ。名前を呼ばれた瞬間に、この子はもう、ひとりではなくなっていたから。

「行ってらっしゃい、レオン」

「行ってきます。——先生」

 レオンは三歩歩いて、振り返った。

「先生」

「何?」

「……星の揺籃歌、歌って。最後に」

 十歳の少年が、五歳の子供のような顔をしていた。

 私は笑って、歌い始めた。祖母から教わった、古い子守唄。星が子供を見守り、朝まで導いてくれるという歌。

 レオンの黒い瞳に、星の光が揺れた。今度は瞼の裏ではなく、はっきりと目の中に。泣いているのか、光っているのか、わからなかった。

 歌い終わると、レオンは今度こそ前を向いた。ディートリヒが付き添い、その背中を守るように並ぶ。

 子供たちが手を振る。私も手を振った。

 小さな——いや、もう小さくはない背中が丘の向こうに消えるまで、ずっと。



 レオンが去った翌日、ディートリヒが修道院に戻ってきた。

「……勇者の護衛任務は」

「王都までの護衛は副官に任せた。レオンは明日から王城で正式な勇者教育に入る。護衛は近衛に引き継がれる手筈だ」

「では、なぜ戻ってこられたのですか」

「……王命で、修道院への支援体制を整備する任を受けた。勇者の出身地として、ここは王家の庇護下に入る」

 ディートリヒは甲冑を外し、修道院の柵の修理を始めた。王命とは言え、柵の修理まで任務に含まれているとは思えなかったけれど——そこには触れないでおいた。

 ディートリヒは甲冑を外し、修道院の柵の修理を始めた。子供たちがまた寄ってきて、金槌《かなづち》を叩く音に合わせて歌い始めた。

「ディートリヒ様、甲冑着ないの?」

「ここでは必要ない」

「なんで?」

「守るものが、剣で守る類《たぐい》のものではないからだ」

「じゃあ何で守るの?」

「……金槌と、釘だ」

 子供たちが笑った。ディートリヒの耳がまた赤くなった。

 不器用な人だと思う。言葉が足りなくて、表情も乏しくて。でも、この人の手は嘘をつかない。壊れた柵を、ひとつひとつ丁寧に直していく。

「ディートリヒ様」

「何だ」

「ありがとうございます」

「……礼には及ばない」

 ディートリヒは目を逸らした。耳の先がかすかに赤いのを、私は見逃さなかった。



 数日後、修道院の門を叩く音がした。

 開けると、小さな女の子がひとりで立っていた。

 薄汚れた服。擦り切れた靴。泣き腫《は》らした目。誰かに連れてこられたのではない。ひとりで歩いてきたのだ。

「あの……ここ、おねえさんがいるところ?」

「おねえさん?」

「やさしい、おねえさん。こどもの世話をしてくれるおねえさんがいるって、村の人が……」

 この子にも、帰る場所がないのだろう。
 世界は広い。そして、居場所のない子供は、まだたくさんいる。

 私は屈んで、その子と目を合わせた。

「おいで」

 小さな手を取る。冷たくて、震えている。

「あなたの名前は?」

「……ない。おかあさんが、つけてくれなかった」

 そう。
 なら、私がつけよう。

 名前をつけるということは、その子の未来を信じるということだ。

「大丈夫よ。ちゃんと見ているから」

 私は小さな手を握って、修道院の中に連れていった。

 中庭に入ると、子供たちが駆け寄ってきた。

「先生、新しい子?」

「ええ。みんな、よろしくね」

 エルザが温かい薬草茶を持ってきた。ミリアが「一緒にお絵描きしよう」と手を差し出した。トーマスが小さな木彫りの兎を「はい、あげる」と渡した。

 女の子はきょとんとしていた。こんなにたくさんの人に囲まれたことがないのだろう。おずおずと木彫りの兎を受け取り、それから——ほんの少しだけ、唇の端が上がった。

 春の風が中庭を抜ける。子供たちの笑い声が聞こえる。ディートリヒが柵を直す金槌《かなづち》の音が響く。

 あの子たちを「無駄」と呼んだ方に、お答えする必要はございません。

 私の答えは、いつだってここにある。泥だらけのエプロンと、子供たちの笑顔と、ひとつひとつ丁寧につけた名前の中に。

感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

「言葉を直すだけの女に婚約者の席はない」と追放された翻訳官令嬢——一語の誤訳で、二十年の同盟が崩れた

Lihito
恋愛
外交文書の一語一語に文化と敬意の重みを読み取り、三十年間一度も外交問題を起こさなかった宮廷翻訳官エルザ。 だが婚約者の外務次官には「辞書仕事」と蔑まれ、廊下ですれ違いざまに婚約破棄を告げられる。 去って二ヶ月、後任が選んだたった一語の誤訳で隣国大使が席を立ち、二十年の同盟が崩壊の危機に。 港町で異文化商取引の研究者オスカーと出会い、言葉の橋を架ける仕事に新たな居場所を見つけたエルザの元に、かつての男が現れる。

不器量令嬢は、婚約破棄の断罪が面倒くさい

あんど もあ
ファンタジー
不器量なマルグリットは、婚約者の美しい第一王子からずっと容姿を貶められる日々。とうとう王立学園の卒業パーティーで王子に婚約破棄を宣言され、「王子から解放される! それいいかも!」となったが、続く断罪が面倒くさくて他の人に丸投げする事にする。

英雄一家は国を去る【一話完結】

青緑 ネトロア
ファンタジー
婚約者との舞踏会中、火急の知らせにより領地へ帰り、3年かけて魔物大発生を収めたテレジア。3年振りに王都へ戻ったが、国の一大事から護った一家へ言い渡されたのは、テレジアの婚約破棄だった。 - - - - - - - - - - - - - ただいま後日談の加筆を計画中です。 2025/06/22

「お前の煎じ薬など、ただの草の汁だ」と追放された薬師令嬢——王宮の井戸水を飲んだ者から、順に倒れた

Lihito
恋愛
王宮の七つの井戸に薬草の煎じ液を加え、四十年間疫病を防いできた薬師令嬢カミラ。 だが婚約者の近衛副長には「草の汁」と蔑まれ、侍医長にも消毒液を捨てられる日々。 婚約破棄と共に追放された一ヶ月後、浄水を失った王宮では原因不明の病が蔓延し始める。 山あいの湯治場で温泉研究者フェリクスと出会い、味覚と科学を掛け合わせた新たな水の守り方を見つけたカミラの元に、かつて彼女を追い出した男が現れる。

神子は、不要と判断された

ゆめ@マンドラゴラ
ファンタジー
神子は奇跡を起こさない。 ただ、問題が起きないようにしている。 人々はそれを理解できなかった。 そして神子は、不要と判断される。 ――何も起きないことの価値を、失ってから知ることになる。

破棄されたのは、婚約だけではありませんでした

しばゎんゎん
ファンタジー
「私、ヴァルディア伯爵家次男、レオン・ヴァルディアはエリシアとの婚約を破棄する」 それは、一方的な婚約破棄だった。 公衆の面前で告げられた言葉と、エリシアに向けられる嘲笑。 だがエリシア・ラングレイは、それを静かに受け入れる。 断罪される側として…。 なぜなら、彼女は知っていたからだ。 この栄華を、誰が支え、誰が築き上げてきたのかを。 愚かな選択は、やがて当然の帰結をもたらす。 時が来たとき、真に断罪される者が明確に示される。 残酷な結果。 支えを外し、高みを目指した結果、真っ逆さまに転落する男、レオン。 利用価値がなくなった男〘レオン〙を容赦なく切り捨てる女、アルシェ侯爵家令嬢のミレイユ。 そう、真の勝者は彼らではない… 真の勝者はすべてを見通し、手中に収めたエリシアだった。 これは、静かにすべてを制する才女と、 自ら破滅を選んだ愚かな者たちの物語。 ※毎日2話ずつ公開予定です(午前/午後 各1話を順次予約投稿予定)。 ※16話で完結しました