「愛される価値がない」と言われ続けた伯爵令嬢、無口な騎士団長に拾われて初めて「おかえり」を知る

歩人

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「愛される価値がない」と言われ続けた伯爵令嬢、無口な騎士団長に拾われて初めて「おかえり」を知る

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 雨が、冷たい。

 それだけが分かった。足がどこに向かっているのかは、もう分からなかった。

 石畳を叩く雨音が、さっきの声を繰り返す。

 ——お前は愛される価値がない。

 ああ、やっぱりそうなんだ。

 フリーダ・フォン・リンデンは、ずぶ濡れの街路を歩いていた。亜麻色の髪が顔に張りつき、淡い紫の瞳は雨に霞んでいる。薄い肩が時折ふるえるのは、寒さのせいか、それとも別の理由か、本人にも判別がつかなかった。

 行く場所がない。

 伯爵家の門は閉ざされている。父の言葉が蘇る。

 ——お前が至らないから破棄されたのだ。恥をかかせおって。

 母は目を逸らしただけだった。弟は最初から姉に興味がなかった。

 だから歩いている。どこへ行けばいいか分からないまま、ただ歩いている。雨に打たれていれば、涙が流れても分からないから、ちょうどいいと思った。



 三時間前のことだ。

 王都の社交クラブ、春の終わりの夜会。蝋燭《ろうそく》の灯りに照らされた広間で、ディートリヒ・フォン・クラウスは満座の貴族を前にフリーダの手を離した。

「申し訳ないが、この婚約は本日をもって解消する」

 ディートリヒの声は、驚くほど淡々としていた。整った顔に浮かぶのは、冷たい無関心。まるで不要になった書類に署名するような顔だった。

「お前は愛される価値がない。もっとふさわしい女性を見つけた」

 ざわり、と広間が揺れた。フリーダは何も言えなかった。声の出し方を忘れていた。

 周囲の視線が突き刺さる。憐憫《れんびん》。嘲笑。好奇。そのどれもが等しく痛かった。

「……すみません」

 なぜ謝ったのか、自分でも分からない。ただ、幼い頃からずっとそうしてきた。何かあれば謝る。自分が悪いのだと思えば、少しだけ楽になれる気がしたから。

 ディートリヒは振り返りもしなかった。



 雨脚が強くなる。

 フリーダの足が止まった。騎士団本部の裏通り。灯りのない路地に、一つだけ窓が明るい建物があった。

 その前に、大きな影が立っていた。

 黒髪を短く刈った、厳《いか》つい大男。雨に濡れることを気にする様子もなく、ただ立っている。顔には古い傷跡があり、表情というものがほとんど見えない。

 王国騎士団長、グスタフ・ベルガー。"鉄面皮《てつめんぴ》"の異名を持つ男。

 フリーダは知っていた。社交界では「あの男は人間の感情を持っていない」と噂される人物だ。騎士としての腕は王国随一だが、会話が壊滅的に下手で、貴族のパーティーでは壁の染みと区別がつかないと言われていた。

 目が合った。

 フリーダは反射的にうつむいた。こんな姿を見られたくない。ずぶ濡れで、泣いていて、行く場所もない惨めな姿を。

「……すみません、通りかかっただけです。すぐに——」

「屋根がある。来い」

 それだけだった。

 グスタフは踵《きびす》を返して、明るい窓の建物——騎士団長の官舎に入っていった。扉は開けたまま。

 フリーダは雨の中で立ち尽くした。

 ついていく理由はなかった。見ず知らずの男の家に上がるなど、伯爵令嬢として——いや、もう令嬢ですらないかもしれないが——ありえないことだった。

 でも、他に行く場所がなかった。

 雨に打たれたまま凍えて倒れるか、あの扉をくぐるか。

 フリーダは、震える足で一歩を踏み出した。



 官舎は質素だった。

 石造りの小さな一軒家。家具は最低限で、装飾と呼べるものは何もない。ただ、暖炉には火が入っていて、空気が温かかった。

 グスタフは何も言わず、粗い麻の布をフリーダに渡した。タオルの代わりだろう。次に、棚から古い毛布を引っ張り出して、椅子の背にかけた。

 それから台所に消えて、しばらくして戻ってきた。手に持っていたのは、湯気の立つスープの椀だった。

「食え」

 一言。

「あの……すみません。ご迷惑を——」

「冷える。食え」

 二言。

 フリーダは震える手でスープを受け取った。カブと塩だけの素朴なスープ。味は薄い。でも、温かかった。喉を通る熱が、凍えた体に染みていく。

 気がつくと、涙が溢れていた。

 スープの椀を持ったまま、声もなく泣いた。誰かに温かいものを差し出されたのは、いつ以来だろう。思い出せなかった。

 グスタフは何も言わなかった。向かい側の椅子に座って、自分もスープを飲んでいた。目を逸らすでもなく、声をかけるでもなく、ただそこにいた。

 フリーダが泣き止んだのは、スープが冷めた頃だった。

「……すみません。取り乱して」

「客間は奥だ。鍵がかかる」

 三言。

 それが、この夜のグスタフの全発話だった。



 翌朝。

 硬いベッドの上で目を覚ましたフリーダは、一瞬ここがどこか分からなかった。石の天井。木の扉。窓から差し込む朝日。

 昨夜のことを思い出して、体が強張《こわば》る。飛び起きて身支度を整え、恐る恐る部屋を出た。

 台所から、かちゃかちゃと音が聞こえる。

 グスタフが鍋の前に立っていた。朝のスープを作っている。昨日と同じカブのスープだ。フリーダに気づくと、ちらりと見て——

「座れ」

 フリーダは座った。

「あの、今日中にどこか行き先を探しますので。ご迷惑をおかけして本当に——」

 グスタフが椀を置いた。ことり、という音がフリーダの言葉を遮った。

「急ぐな」

 それだけだった。フリーダは椀に目を落とした。今朝のスープには、昨日にはなかった人参が入っていた。



 結局、フリーダは官舎を出られなかった。

 出られなかったというより、出る場所がなかった。伯爵家は受け入れを拒否した。友人と呼べる貴族はいない。金もない。街で働こうにも、令嬢教育しか受けていないフリーダに出来る仕事など——

「いていい」

 三日目の朝、グスタフが突然言った。

「……え?」

「空き部屋だ。使え」

 それは許可というより、事実の報告に近かった。部屋は空いている。使えばいい。それだけのこと。

 フリーダは何と答えればいいか分からず、また「すみません」と言った。



 日々が流れた。

 フリーダは少しずつ官舎での暮らしに慣れていった。朝はグスタフが作るスープを二人で食べる。昼は官舎の掃除と洗濯をする。夕方にはグスタフが騎士団の仕事から帰ってくる。

 そして毎晩、扉を開けて帰ってきたグスタフは、フリーダの顔を見て一言だけ言った。

「おかえり」

 ——違う。帰ってきたのはあなたなのに。

 最初、フリーダはその言葉の意味が分からなかった。何かの間違いだと思った。だって、「おかえり」は帰ってきた人に言う言葉だ。グスタフの方が外から帰ってきたのだから、フリーダが「おかえりなさい」と言うのが正しいはずで——

 一週間目に気づいた。

 グスタフは、フリーダがここにいること自体を「おかえり」と迎えているのだと。お前はここにいていい。お前の帰る場所はここだ。たった四文字に、そういう意味を込めているのだと。

 フリーダは自室で、声を殺して泣いた。



 二週間が過ぎた頃から、グスタフの不器用な優しさに気づくようになった。

 朝のスープに毎日少しずつ具が増える。カブだけだったのが、人参、じゃがいも、玉葱。フリーダが一度「お肉は入れないんですか」と聞いたら、翌日から塩漬け肉が入るようになった。

 テーブルの上に、名前の分からない花が一輪。花瓶はなかったので、水差しに突っ込んであった。翌日には萎《しお》れていたが、三日後にはまた別の花が突っ込まれていた。

 夜、フリーダが読む本がないと呟いたら、翌週、騎士団の図書室から古い冒険譚《たん》が三冊、テーブルに積まれていた。グスタフは何も言わなかった。フリーダも何も聞かなかった。ただ「ありがとうございます」とだけ言うと、グスタフは小さく頷いた。



 一ヶ月目の夜。

 フリーダは夢を見た。

 夜会の広間。ディートリヒの冷たい声。満座の嘲笑。父の叱責。母の無関心。

 ——お前は愛される価値がない。

 悲鳴を上げて飛び起きた。

 汗で肌着が張りつく。心臓が暴れている。暗い部屋の中、自分がどこにいるか一瞬分からなくなって——

 控えめなノックの音。

「……大丈夫か」

 扉越しの、低い声。

「だ、大丈夫です……すみません、騒がしくして——」

 沈黙。

 それから、扉の向こうで何かが動く気配。どさ、と重い音。

 フリーダがそっと扉を開けると、グスタフが廊下の壁に背を預けて座っていた。毛布を一枚持って。

「……何を、」

「寝る」

「え?」

「ここで寝る。気にするな」

 廊下で。壁に背を預けて。フリーダの部屋の前で。

 なぜ、と聞く前に分かった。フリーダが怖い夢を見たとき、すぐ近くにいるためだ。

「あの……ベッドがあるのに——」

「問題ない」

 問題しかないと思ったが、グスタフはもう目を閉じていた。この男は一度決めたら動かない。鉄面皮というより、鉄そのものだ。

 フリーダは自室に戻って、ベッドに潜り込んだ。

 扉の向こうに、誰かがいる。

 それだけで、不思議と心臓の音が静かになった。その夜、フリーダは朝まで悪夢を見なかった。



 二ヶ月目。

 官舎の暮らしは、いつしかフリーダの「日常」になっていた。

 朝はグスタフより先に起きて、スープの下ごしらえをする。グスタフが具を切るのは壊滅的に下手だと気づいたからだ。騎士団最強の剣士が、じゃがいもの皮を剥《む》けない。その事実はフリーダの心を少しだけ軽くした。

 昼は官舎の庭に小さな菜園を作り始めた。ハーブと葉物野菜。土に触れていると、頭の中が静かになる。

 夕方、玄関の扉が開く音。

 フリーダは台所から廊下に出て——

「おかえりなさい」

 自分の口から出た言葉に、フリーダ自身が驚いた。

 グスタフの足が止まった。鉄面皮の目が、ほんの少し——本当にほんの少しだけ——見開かれた。

 沈黙が落ちる。

「……ああ」

 グスタフは短く答えて、いつものように靴を脱いだ。

 でもフリーダは見た。グスタフの耳が、わずかに赤かったのを。



 その日の夕食後、フリーダは暖炉の前で本を読んでいた。グスタフは向かいの椅子で剣の手入れをしている。

 いつもの夜。静かで、穏やかな時間。

「……グスタフ様」

「ん」

「あの……なぜ、私を拾ってくださったんですか」

 ずっと聞けなかった問い。二ヶ月かかって、やっと口に出せた。

 グスタフの手が止まった。剣を膝の上に置いて、しばらく暖炉の火を見つめていた。

「……俺も、ガキの頃は雨の中にいた」

 フリーダは息を呑んだ。グスタフが自分のことを話すのは初めてだった。

「孤児だ。行く場所がなかった」

「……」

「誰かが屋根を貸してくれた。騎士団の先代団長だ。あの人がいなければ、俺は——」

 言葉が途切れた。グスタフは口下手だ。長い文章を話すと、途中で道に迷う。

「だから?」

「……だから、放っておけなかった」

 それだけ。

 でも、フリーダには十分だった。この人もかつて、雨の中で凍えていた子供だったのだ。そして誰かに拾われて、今度は自分が拾う側になった。

 涙が溢れた。嬉しいのか悲しいのか分からない涙。ただ、胸の奥が温かかった。

 グスタフが立ち上がった。大きな手がフリーダの頭にそっと触れた。

「……泣くな」

 ぽん、ぽん、と不器用に撫でる。

「いや、泣いてもいい」

 フリーダは泣いた。声を上げて泣いた。生まれて初めて、誰かの前で遠慮なく泣いた。

 グスタフは何も言わず、ただ隣に座っていた。大きな手は、フリーダの頭の上にあった。不器用に。ぎこちなく。でも確かに温かく。



 数日後、雨が降った。

 窓の外に灰色の幕が下りる。石畳を叩く雨音が、官舎の中まで響いてくる。

 フリーダはふと手を止めた。洗濯物を畳む指が、震えていない。

 まだ三ヶ月も経っていないのに、雨の記憶が変わり始めていた。あの夜の冷たさではなく、暖炉の前でグスタフとスープを飲んだ夜の温かさが、最初に浮かぶようになっている。

 窓辺に寄ると、庭の菜園が雨に打たれていた。小さな芽が出始めたばかりのハーブたち。

「……雨も、悪くないですね」

 独り言が口をつく。雨は植物を育てる。冷たいけれど、必要なものだ。あの夜の雨がなければ、フリーダはグスタフに出会わなかった。

 玄関の扉が勢いよく開いた。

 びしょ濡れのグスタフが立っている。普段は無表情の顔が、わずかに——ほんのわずかに——焦っているように見えた。

「……何だ、いたか」

「え? はい、いますけど……」

「……いや。何でもない」

 グスタフは雨が降り出した途端、訓練を切り上げて帰ってきたのだ。雨の中のフリーダを——あの夜のフリーダを思い出して。

 この人は、心配していたのだ。

「グスタフ様、びしょ濡れです。麻布を持ってきますね」

「ん」

「それと、今日は温かいスープにしましょう。カブの」

「……ああ」

 フリーダは台所に向かいながら、小さく笑った。

 雨の日が、怖くなくなった。



 三ヶ月が過ぎた。

 フリーダは変わり始めていた。

 「すみません」が減った。代わりに「ありがとうございます」が増えた。うつむいていた目線が、少しずつ前を向くようになった。笑顔が出るようになった——それは花が咲くように美しかったが、グスタフは目を逸らすだけだった。耳だけが赤かった。

 菜園のハーブが育って、スープの味が格段に良くなった。グスタフが三杯おかわりした日、フリーダは初めて声を出して笑った。

「グスタフ様、食べすぎです」

「……うまい」

「それはありがとうございます。でもお鍋が空に——」

「もう一鍋《なべ》作れ」

「えっ」

 グスタフの顔は相変わらず鉄面皮だったが、フリーダにはもう分かる。この人は冗談を言っているのだ。表情が変わらないから他の人には絶対に伝わらないが、目の奥がほんの少し柔らかい。



 四ヶ月目。

 騎士団の若い騎士が、フリーダに言った。

「団長、最近変わりましたよ。前は本当に鉄の塊みたいな人だったのに、今は……鉄の塊が少し温まった感じ?」

「それ、あまり変わっていないのでは……」

「いや、大きな進歩です! 団長が俺たちに『ご苦労《くろう》』って言ったんですよ! 入団してから五年、初めて聞きました!」

 フリーダは笑った。グスタフは確かに不器用だ。でも、不器用なりに変わろうとしている。フリーダのために——いや、フリーダと一緒にいることで、自然と変わっているのかもしれない。



 五ヶ月目のある日。

 フリーダは市場で買い物をしていた。今夜はグスタフの好きなカブのポタージュを作ろうと思って、立派なカブを選んでいた。

 ——あれは。

 市場の向こう側に、見覚えのある顔があった。整った容姿、冷たい目。ディートリヒ・フォン・クラウス。

 心臓が跳ねた。手からカブが落ちた。

 五ヶ月経っても、体は覚えている。あの夜の恐怖。満座の前で切り捨てられた屈辱。「愛される価値がない」という言葉の刃。

 ディートリヒはフリーダに気づいていなかった。彼の表情は険しく、身なりも以前より少し質素になっている。

 フリーダはカブを拾い上げて、静かに市場を離れた。

 官舎に帰ると、まだグスタフは帰っていなかった。台所に立ってカブを刻みながら、フリーダは自分の手が震えていないことに気づいた。

 怖かった。でも、逃げなかった。逃げたのではなく、帰ったのだ。帰る場所があるから、立ち去ることができた。

 玄関の扉が開く。

「おかえりなさい」

「……ああ」

 いつもの夕方。いつもの言葉。

 フリーダの手は、もう震えていなかった。



 半年が過ぎた、秋の終わりの日。

 官舎の玄関を叩く音がした。

 フリーダが扉を開けると、そこにディートリヒが立っていた。

「フリーダ。久しぶりだな」

 一見すると、半年前と変わらぬ余裕の口調。しかしフリーダの目は見抜いた。襟元の金糸の刺繍が擦り切れていること。靴の革が手入れされていないこと。そして何より——かつてなら騎士団長の官舎など見向きもしなかったはずの男が、自ら足を運んでいること。

 聞こえてくる噂では、侯爵令嬢との縁談は早々に破談となり、子爵家の財政も傾き始めているらしい。

「考えたんだが——お前との婚約、あれは早まったかもしれない」

「何の御用でしょうか」

 自分の声が、思ったより落ち着いていることに驚いた。

「だから、もう一度——」

「ディートリヒ様。あなたは半年前、満座の前で仰いましたよね」

 フリーダはまっすぐに彼の目を見た。半年前にはできなかったこと。あの夜、うつむいて「すみません」としか言えなかった自分は、もういない。

「『お前は愛される価値がない』と」

 ディートリヒの顔が引きつった。

「あれは……いくらか言葉が過ぎた。だが、お前にも至らない——いや」

 そこで初めて、ディートリヒの顔に焦りが滲《にじ》んだ。プライドが口を滑らせたのだ。半年経っても抜けない癖。相手のせいにする癖。

「……反省している」

「反省。そうですか」

 フリーダは不思議と怒りを感じなかった。憎しみもなかった。ただ、もうこの人に何も感じないのだと分かった。

 背後から足音がした。重く、硬い、騎士の足音。

 グスタフがフリーダの後ろに立った。何も言わない。ただ、そこにいる。鉄面皮の顔はいつも通りだが、纏《まと》う空気が違う。騎士団を率いる男の、静かな圧。

 ディートリヒが一歩退いた。騎士団長の威圧感に——いや、フリーダの背後にこの男が立っているという事実に怯んだのだ。

「フリーダ。俺がこうして直接来てやっているんだ。その意味が——」

「ディートリヒ様」

 フリーダは息を吸って、言った。

「私にはもう、帰る場所がありますので」

 静かな声だった。震えてもいなかった。

 半年前の自分なら、この言葉は出なかった。「すみません」と謝って、怯えてうつむいて、言われるがままだっただろう。

 でも今のフリーダには、帰る場所がある。毎朝のスープ。水差しの花。「おかえり」の四文字。不器用な大きな手の温かさ。

 それがあれば、もう何も怖くない。

「聞いたな。帰れ」

 グスタフが言った。

 たった四文字。でも、その声には鉄のような意志があった。騎士団長の命令は、子爵の息子には重すぎる。

 ディートリヒは何か言いかけて、口を閉じた。グスタフの目を見て、全てを悟ったのだろう。この男には勝てない。力でも、地位でも——そして、フリーダの心においても。

 ディートリヒは背を向けた。去り際に何か呟いたが、フリーダの耳には届かなかった。もう、届く必要のない言葉だった。



 扉を閉めた。

 秋の冷たい風が遮断されて、官舎の温かい空気がフリーダを包む。暖炉の火。スープの匂い。使い込まれた木の床。

 フリーダは振り返った。

 グスタフが立っていた。いつもの鉄面皮。でもフリーダには見える。目の奥の、ほんの少しの心配と、ほんの少しの安堵。

「……大丈夫か」

「はい」

 フリーダは笑った。半年前には忘れていた笑い方。花が咲くように、と若い騎士たちが言う、あの笑顔。

「大丈夫です。怖くなかったです。……嘘です、少し怖かったです。でも、大丈夫でした」

 グスタフは黙って頷いた。

「……グスタフ様」

「ん」

「ただいま」

 半年前、雨の中からこの家に来たとき、フリーダはこの言葉を知らなかった。帰る場所がなかったから。「ただいま」と言える場所なんて、生まれてから一度もなかったから。

 でも今は違う。

 グスタフは一瞬、目を見開いた。それから——鉄面皮が、ほんの少しだけ緩んだ。他の誰が見ても気づかない程度の、わずかな変化。でもフリーダには、それが笑顔だと分かった。

「おかえり」

 低い声。いつもの四文字。でも今日だけは、その声がわずかに震えていた。

 フリーダの目から涙が零れた。悲しいからじゃない。嬉しいからだ。自分には帰る場所がある。待っていてくれる人がいる。「おかえり」と言ってくれる声がある。

 愛される価値がない——そう言われ続けてきた。そう信じてきた。

 でも、この人は最初から何も求めなかった。価値があるから拾ったんじゃない。ただ、雨の中にいたから。屋根があったから。それだけの理由で手を差し伸べて、毎朝スープを温めて、毎晩「おかえり」と言い続けた。

 それが愛でなくて、何だろう。

「グスタフ様」

「ん」

「明日のスープ、グスタフ様の好きなカブにしますね」

「……ああ」

 静かな夕暮れ。官舎の小さな窓から、秋の最後の陽《ひ》が差し込んでいた。

 愛される価値がないと言われた少女は、帰る場所を見つけた。

 愛してくれたのは、世界で一番不器用な男だった。
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