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「愛される価値がない」と言われ続けた伯爵令嬢、無口な騎士団長に拾われて初めて「おかえり」を知る
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雨が、冷たい。
それだけが分かった。足がどこに向かっているのかは、もう分からなかった。
石畳を叩く雨音が、さっきの声を繰り返す。
——お前は愛される価値がない。
ああ、やっぱりそうなんだ。
フリーダ・フォン・リンデンは、ずぶ濡れの街路を歩いていた。亜麻色の髪が顔に張りつき、淡い紫の瞳は雨に霞んでいる。薄い肩が時折ふるえるのは、寒さのせいか、それとも別の理由か、本人にも判別がつかなかった。
行く場所がない。
伯爵家の門は閉ざされている。父の言葉が蘇る。
——お前が至らないから破棄されたのだ。恥をかかせおって。
母は目を逸らしただけだった。弟は最初から姉に興味がなかった。
だから歩いている。どこへ行けばいいか分からないまま、ただ歩いている。雨に打たれていれば、涙が流れても分からないから、ちょうどいいと思った。
三時間前のことだ。
王都の社交クラブ、春の終わりの夜会。蝋燭《ろうそく》の灯りに照らされた広間で、ディートリヒ・フォン・クラウスは満座の貴族を前にフリーダの手を離した。
「申し訳ないが、この婚約は本日をもって解消する」
ディートリヒの声は、驚くほど淡々としていた。整った顔に浮かぶのは、冷たい無関心。まるで不要になった書類に署名するような顔だった。
「お前は愛される価値がない。もっとふさわしい女性を見つけた」
ざわり、と広間が揺れた。フリーダは何も言えなかった。声の出し方を忘れていた。
周囲の視線が突き刺さる。憐憫《れんびん》。嘲笑。好奇。そのどれもが等しく痛かった。
「……すみません」
なぜ謝ったのか、自分でも分からない。ただ、幼い頃からずっとそうしてきた。何かあれば謝る。自分が悪いのだと思えば、少しだけ楽になれる気がしたから。
ディートリヒは振り返りもしなかった。
雨脚が強くなる。
フリーダの足が止まった。騎士団本部の裏通り。灯りのない路地に、一つだけ窓が明るい建物があった。
その前に、大きな影が立っていた。
黒髪を短く刈った、厳《いか》つい大男。雨に濡れることを気にする様子もなく、ただ立っている。顔には古い傷跡があり、表情というものがほとんど見えない。
王国騎士団長、グスタフ・ベルガー。"鉄面皮《てつめんぴ》"の異名を持つ男。
フリーダは知っていた。社交界では「あの男は人間の感情を持っていない」と噂される人物だ。騎士としての腕は王国随一だが、会話が壊滅的に下手で、貴族のパーティーでは壁の染みと区別がつかないと言われていた。
目が合った。
フリーダは反射的にうつむいた。こんな姿を見られたくない。ずぶ濡れで、泣いていて、行く場所もない惨めな姿を。
「……すみません、通りかかっただけです。すぐに——」
「屋根がある。来い」
それだけだった。
グスタフは踵《きびす》を返して、明るい窓の建物——騎士団長の官舎に入っていった。扉は開けたまま。
フリーダは雨の中で立ち尽くした。
ついていく理由はなかった。見ず知らずの男の家に上がるなど、伯爵令嬢として——いや、もう令嬢ですらないかもしれないが——ありえないことだった。
でも、他に行く場所がなかった。
雨に打たれたまま凍えて倒れるか、あの扉をくぐるか。
フリーダは、震える足で一歩を踏み出した。
官舎は質素だった。
石造りの小さな一軒家。家具は最低限で、装飾と呼べるものは何もない。ただ、暖炉には火が入っていて、空気が温かかった。
グスタフは何も言わず、粗い麻の布をフリーダに渡した。タオルの代わりだろう。次に、棚から古い毛布を引っ張り出して、椅子の背にかけた。
それから台所に消えて、しばらくして戻ってきた。手に持っていたのは、湯気の立つスープの椀だった。
「食え」
一言。
「あの……すみません。ご迷惑を——」
「冷える。食え」
二言。
フリーダは震える手でスープを受け取った。カブと塩だけの素朴なスープ。味は薄い。でも、温かかった。喉を通る熱が、凍えた体に染みていく。
気がつくと、涙が溢れていた。
スープの椀を持ったまま、声もなく泣いた。誰かに温かいものを差し出されたのは、いつ以来だろう。思い出せなかった。
グスタフは何も言わなかった。向かい側の椅子に座って、自分もスープを飲んでいた。目を逸らすでもなく、声をかけるでもなく、ただそこにいた。
フリーダが泣き止んだのは、スープが冷めた頃だった。
「……すみません。取り乱して」
「客間は奥だ。鍵がかかる」
三言。
それが、この夜のグスタフの全発話だった。
翌朝。
硬いベッドの上で目を覚ましたフリーダは、一瞬ここがどこか分からなかった。石の天井。木の扉。窓から差し込む朝日。
昨夜のことを思い出して、体が強張《こわば》る。飛び起きて身支度を整え、恐る恐る部屋を出た。
台所から、かちゃかちゃと音が聞こえる。
グスタフが鍋の前に立っていた。朝のスープを作っている。昨日と同じカブのスープだ。フリーダに気づくと、ちらりと見て——
「座れ」
フリーダは座った。
「あの、今日中にどこか行き先を探しますので。ご迷惑をおかけして本当に——」
グスタフが椀を置いた。ことり、という音がフリーダの言葉を遮った。
「急ぐな」
それだけだった。フリーダは椀に目を落とした。今朝のスープには、昨日にはなかった人参が入っていた。
結局、フリーダは官舎を出られなかった。
出られなかったというより、出る場所がなかった。伯爵家は受け入れを拒否した。友人と呼べる貴族はいない。金もない。街で働こうにも、令嬢教育しか受けていないフリーダに出来る仕事など——
「いていい」
三日目の朝、グスタフが突然言った。
「……え?」
「空き部屋だ。使え」
それは許可というより、事実の報告に近かった。部屋は空いている。使えばいい。それだけのこと。
フリーダは何と答えればいいか分からず、また「すみません」と言った。
日々が流れた。
フリーダは少しずつ官舎での暮らしに慣れていった。朝はグスタフが作るスープを二人で食べる。昼は官舎の掃除と洗濯をする。夕方にはグスタフが騎士団の仕事から帰ってくる。
そして毎晩、扉を開けて帰ってきたグスタフは、フリーダの顔を見て一言だけ言った。
「おかえり」
——違う。帰ってきたのはあなたなのに。
最初、フリーダはその言葉の意味が分からなかった。何かの間違いだと思った。だって、「おかえり」は帰ってきた人に言う言葉だ。グスタフの方が外から帰ってきたのだから、フリーダが「おかえりなさい」と言うのが正しいはずで——
一週間目に気づいた。
グスタフは、フリーダがここにいること自体を「おかえり」と迎えているのだと。お前はここにいていい。お前の帰る場所はここだ。たった四文字に、そういう意味を込めているのだと。
フリーダは自室で、声を殺して泣いた。
二週間が過ぎた頃から、グスタフの不器用な優しさに気づくようになった。
朝のスープに毎日少しずつ具が増える。カブだけだったのが、人参、じゃがいも、玉葱。フリーダが一度「お肉は入れないんですか」と聞いたら、翌日から塩漬け肉が入るようになった。
テーブルの上に、名前の分からない花が一輪。花瓶はなかったので、水差しに突っ込んであった。翌日には萎《しお》れていたが、三日後にはまた別の花が突っ込まれていた。
夜、フリーダが読む本がないと呟いたら、翌週、騎士団の図書室から古い冒険譚《たん》が三冊、テーブルに積まれていた。グスタフは何も言わなかった。フリーダも何も聞かなかった。ただ「ありがとうございます」とだけ言うと、グスタフは小さく頷いた。
一ヶ月目の夜。
フリーダは夢を見た。
夜会の広間。ディートリヒの冷たい声。満座の嘲笑。父の叱責。母の無関心。
——お前は愛される価値がない。
悲鳴を上げて飛び起きた。
汗で肌着が張りつく。心臓が暴れている。暗い部屋の中、自分がどこにいるか一瞬分からなくなって——
控えめなノックの音。
「……大丈夫か」
扉越しの、低い声。
「だ、大丈夫です……すみません、騒がしくして——」
沈黙。
それから、扉の向こうで何かが動く気配。どさ、と重い音。
フリーダがそっと扉を開けると、グスタフが廊下の壁に背を預けて座っていた。毛布を一枚持って。
「……何を、」
「寝る」
「え?」
「ここで寝る。気にするな」
廊下で。壁に背を預けて。フリーダの部屋の前で。
なぜ、と聞く前に分かった。フリーダが怖い夢を見たとき、すぐ近くにいるためだ。
「あの……ベッドがあるのに——」
「問題ない」
問題しかないと思ったが、グスタフはもう目を閉じていた。この男は一度決めたら動かない。鉄面皮というより、鉄そのものだ。
フリーダは自室に戻って、ベッドに潜り込んだ。
扉の向こうに、誰かがいる。
それだけで、不思議と心臓の音が静かになった。その夜、フリーダは朝まで悪夢を見なかった。
二ヶ月目。
官舎の暮らしは、いつしかフリーダの「日常」になっていた。
朝はグスタフより先に起きて、スープの下ごしらえをする。グスタフが具を切るのは壊滅的に下手だと気づいたからだ。騎士団最強の剣士が、じゃがいもの皮を剥《む》けない。その事実はフリーダの心を少しだけ軽くした。
昼は官舎の庭に小さな菜園を作り始めた。ハーブと葉物野菜。土に触れていると、頭の中が静かになる。
夕方、玄関の扉が開く音。
フリーダは台所から廊下に出て——
「おかえりなさい」
自分の口から出た言葉に、フリーダ自身が驚いた。
グスタフの足が止まった。鉄面皮の目が、ほんの少し——本当にほんの少しだけ——見開かれた。
沈黙が落ちる。
「……ああ」
グスタフは短く答えて、いつものように靴を脱いだ。
でもフリーダは見た。グスタフの耳が、わずかに赤かったのを。
その日の夕食後、フリーダは暖炉の前で本を読んでいた。グスタフは向かいの椅子で剣の手入れをしている。
いつもの夜。静かで、穏やかな時間。
「……グスタフ様」
「ん」
「あの……なぜ、私を拾ってくださったんですか」
ずっと聞けなかった問い。二ヶ月かかって、やっと口に出せた。
グスタフの手が止まった。剣を膝の上に置いて、しばらく暖炉の火を見つめていた。
「……俺も、ガキの頃は雨の中にいた」
フリーダは息を呑んだ。グスタフが自分のことを話すのは初めてだった。
「孤児だ。行く場所がなかった」
「……」
「誰かが屋根を貸してくれた。騎士団の先代団長だ。あの人がいなければ、俺は——」
言葉が途切れた。グスタフは口下手だ。長い文章を話すと、途中で道に迷う。
「だから?」
「……だから、放っておけなかった」
それだけ。
でも、フリーダには十分だった。この人もかつて、雨の中で凍えていた子供だったのだ。そして誰かに拾われて、今度は自分が拾う側になった。
涙が溢れた。嬉しいのか悲しいのか分からない涙。ただ、胸の奥が温かかった。
グスタフが立ち上がった。大きな手がフリーダの頭にそっと触れた。
「……泣くな」
ぽん、ぽん、と不器用に撫でる。
「いや、泣いてもいい」
フリーダは泣いた。声を上げて泣いた。生まれて初めて、誰かの前で遠慮なく泣いた。
グスタフは何も言わず、ただ隣に座っていた。大きな手は、フリーダの頭の上にあった。不器用に。ぎこちなく。でも確かに温かく。
数日後、雨が降った。
窓の外に灰色の幕が下りる。石畳を叩く雨音が、官舎の中まで響いてくる。
フリーダはふと手を止めた。洗濯物を畳む指が、震えていない。
まだ三ヶ月も経っていないのに、雨の記憶が変わり始めていた。あの夜の冷たさではなく、暖炉の前でグスタフとスープを飲んだ夜の温かさが、最初に浮かぶようになっている。
窓辺に寄ると、庭の菜園が雨に打たれていた。小さな芽が出始めたばかりのハーブたち。
「……雨も、悪くないですね」
独り言が口をつく。雨は植物を育てる。冷たいけれど、必要なものだ。あの夜の雨がなければ、フリーダはグスタフに出会わなかった。
玄関の扉が勢いよく開いた。
びしょ濡れのグスタフが立っている。普段は無表情の顔が、わずかに——ほんのわずかに——焦っているように見えた。
「……何だ、いたか」
「え? はい、いますけど……」
「……いや。何でもない」
グスタフは雨が降り出した途端、訓練を切り上げて帰ってきたのだ。雨の中のフリーダを——あの夜のフリーダを思い出して。
この人は、心配していたのだ。
「グスタフ様、びしょ濡れです。麻布を持ってきますね」
「ん」
「それと、今日は温かいスープにしましょう。カブの」
「……ああ」
フリーダは台所に向かいながら、小さく笑った。
雨の日が、怖くなくなった。
三ヶ月が過ぎた。
フリーダは変わり始めていた。
「すみません」が減った。代わりに「ありがとうございます」が増えた。うつむいていた目線が、少しずつ前を向くようになった。笑顔が出るようになった——それは花が咲くように美しかったが、グスタフは目を逸らすだけだった。耳だけが赤かった。
菜園のハーブが育って、スープの味が格段に良くなった。グスタフが三杯おかわりした日、フリーダは初めて声を出して笑った。
「グスタフ様、食べすぎです」
「……うまい」
「それはありがとうございます。でもお鍋が空に——」
「もう一鍋《なべ》作れ」
「えっ」
グスタフの顔は相変わらず鉄面皮だったが、フリーダにはもう分かる。この人は冗談を言っているのだ。表情が変わらないから他の人には絶対に伝わらないが、目の奥がほんの少し柔らかい。
四ヶ月目。
騎士団の若い騎士が、フリーダに言った。
「団長、最近変わりましたよ。前は本当に鉄の塊みたいな人だったのに、今は……鉄の塊が少し温まった感じ?」
「それ、あまり変わっていないのでは……」
「いや、大きな進歩です! 団長が俺たちに『ご苦労《くろう》』って言ったんですよ! 入団してから五年、初めて聞きました!」
フリーダは笑った。グスタフは確かに不器用だ。でも、不器用なりに変わろうとしている。フリーダのために——いや、フリーダと一緒にいることで、自然と変わっているのかもしれない。
五ヶ月目のある日。
フリーダは市場で買い物をしていた。今夜はグスタフの好きなカブのポタージュを作ろうと思って、立派なカブを選んでいた。
——あれは。
市場の向こう側に、見覚えのある顔があった。整った容姿、冷たい目。ディートリヒ・フォン・クラウス。
心臓が跳ねた。手からカブが落ちた。
五ヶ月経っても、体は覚えている。あの夜の恐怖。満座の前で切り捨てられた屈辱。「愛される価値がない」という言葉の刃。
ディートリヒはフリーダに気づいていなかった。彼の表情は険しく、身なりも以前より少し質素になっている。
フリーダはカブを拾い上げて、静かに市場を離れた。
官舎に帰ると、まだグスタフは帰っていなかった。台所に立ってカブを刻みながら、フリーダは自分の手が震えていないことに気づいた。
怖かった。でも、逃げなかった。逃げたのではなく、帰ったのだ。帰る場所があるから、立ち去ることができた。
玄関の扉が開く。
「おかえりなさい」
「……ああ」
いつもの夕方。いつもの言葉。
フリーダの手は、もう震えていなかった。
半年が過ぎた、秋の終わりの日。
官舎の玄関を叩く音がした。
フリーダが扉を開けると、そこにディートリヒが立っていた。
「フリーダ。久しぶりだな」
一見すると、半年前と変わらぬ余裕の口調。しかしフリーダの目は見抜いた。襟元の金糸の刺繍が擦り切れていること。靴の革が手入れされていないこと。そして何より——かつてなら騎士団長の官舎など見向きもしなかったはずの男が、自ら足を運んでいること。
聞こえてくる噂では、侯爵令嬢との縁談は早々に破談となり、子爵家の財政も傾き始めているらしい。
「考えたんだが——お前との婚約、あれは早まったかもしれない」
「何の御用でしょうか」
自分の声が、思ったより落ち着いていることに驚いた。
「だから、もう一度——」
「ディートリヒ様。あなたは半年前、満座の前で仰いましたよね」
フリーダはまっすぐに彼の目を見た。半年前にはできなかったこと。あの夜、うつむいて「すみません」としか言えなかった自分は、もういない。
「『お前は愛される価値がない』と」
ディートリヒの顔が引きつった。
「あれは……いくらか言葉が過ぎた。だが、お前にも至らない——いや」
そこで初めて、ディートリヒの顔に焦りが滲《にじ》んだ。プライドが口を滑らせたのだ。半年経っても抜けない癖。相手のせいにする癖。
「……反省している」
「反省。そうですか」
フリーダは不思議と怒りを感じなかった。憎しみもなかった。ただ、もうこの人に何も感じないのだと分かった。
背後から足音がした。重く、硬い、騎士の足音。
グスタフがフリーダの後ろに立った。何も言わない。ただ、そこにいる。鉄面皮の顔はいつも通りだが、纏《まと》う空気が違う。騎士団を率いる男の、静かな圧。
ディートリヒが一歩退いた。騎士団長の威圧感に——いや、フリーダの背後にこの男が立っているという事実に怯んだのだ。
「フリーダ。俺がこうして直接来てやっているんだ。その意味が——」
「ディートリヒ様」
フリーダは息を吸って、言った。
「私にはもう、帰る場所がありますので」
静かな声だった。震えてもいなかった。
半年前の自分なら、この言葉は出なかった。「すみません」と謝って、怯えてうつむいて、言われるがままだっただろう。
でも今のフリーダには、帰る場所がある。毎朝のスープ。水差しの花。「おかえり」の四文字。不器用な大きな手の温かさ。
それがあれば、もう何も怖くない。
「聞いたな。帰れ」
グスタフが言った。
たった四文字。でも、その声には鉄のような意志があった。騎士団長の命令は、子爵の息子には重すぎる。
ディートリヒは何か言いかけて、口を閉じた。グスタフの目を見て、全てを悟ったのだろう。この男には勝てない。力でも、地位でも——そして、フリーダの心においても。
ディートリヒは背を向けた。去り際に何か呟いたが、フリーダの耳には届かなかった。もう、届く必要のない言葉だった。
扉を閉めた。
秋の冷たい風が遮断されて、官舎の温かい空気がフリーダを包む。暖炉の火。スープの匂い。使い込まれた木の床。
フリーダは振り返った。
グスタフが立っていた。いつもの鉄面皮。でもフリーダには見える。目の奥の、ほんの少しの心配と、ほんの少しの安堵。
「……大丈夫か」
「はい」
フリーダは笑った。半年前には忘れていた笑い方。花が咲くように、と若い騎士たちが言う、あの笑顔。
「大丈夫です。怖くなかったです。……嘘です、少し怖かったです。でも、大丈夫でした」
グスタフは黙って頷いた。
「……グスタフ様」
「ん」
「ただいま」
半年前、雨の中からこの家に来たとき、フリーダはこの言葉を知らなかった。帰る場所がなかったから。「ただいま」と言える場所なんて、生まれてから一度もなかったから。
でも今は違う。
グスタフは一瞬、目を見開いた。それから——鉄面皮が、ほんの少しだけ緩んだ。他の誰が見ても気づかない程度の、わずかな変化。でもフリーダには、それが笑顔だと分かった。
「おかえり」
低い声。いつもの四文字。でも今日だけは、その声がわずかに震えていた。
フリーダの目から涙が零れた。悲しいからじゃない。嬉しいからだ。自分には帰る場所がある。待っていてくれる人がいる。「おかえり」と言ってくれる声がある。
愛される価値がない——そう言われ続けてきた。そう信じてきた。
でも、この人は最初から何も求めなかった。価値があるから拾ったんじゃない。ただ、雨の中にいたから。屋根があったから。それだけの理由で手を差し伸べて、毎朝スープを温めて、毎晩「おかえり」と言い続けた。
それが愛でなくて、何だろう。
「グスタフ様」
「ん」
「明日のスープ、グスタフ様の好きなカブにしますね」
「……ああ」
静かな夕暮れ。官舎の小さな窓から、秋の最後の陽《ひ》が差し込んでいた。
愛される価値がないと言われた少女は、帰る場所を見つけた。
愛してくれたのは、世界で一番不器用な男だった。
それだけが分かった。足がどこに向かっているのかは、もう分からなかった。
石畳を叩く雨音が、さっきの声を繰り返す。
——お前は愛される価値がない。
ああ、やっぱりそうなんだ。
フリーダ・フォン・リンデンは、ずぶ濡れの街路を歩いていた。亜麻色の髪が顔に張りつき、淡い紫の瞳は雨に霞んでいる。薄い肩が時折ふるえるのは、寒さのせいか、それとも別の理由か、本人にも判別がつかなかった。
行く場所がない。
伯爵家の門は閉ざされている。父の言葉が蘇る。
——お前が至らないから破棄されたのだ。恥をかかせおって。
母は目を逸らしただけだった。弟は最初から姉に興味がなかった。
だから歩いている。どこへ行けばいいか分からないまま、ただ歩いている。雨に打たれていれば、涙が流れても分からないから、ちょうどいいと思った。
三時間前のことだ。
王都の社交クラブ、春の終わりの夜会。蝋燭《ろうそく》の灯りに照らされた広間で、ディートリヒ・フォン・クラウスは満座の貴族を前にフリーダの手を離した。
「申し訳ないが、この婚約は本日をもって解消する」
ディートリヒの声は、驚くほど淡々としていた。整った顔に浮かぶのは、冷たい無関心。まるで不要になった書類に署名するような顔だった。
「お前は愛される価値がない。もっとふさわしい女性を見つけた」
ざわり、と広間が揺れた。フリーダは何も言えなかった。声の出し方を忘れていた。
周囲の視線が突き刺さる。憐憫《れんびん》。嘲笑。好奇。そのどれもが等しく痛かった。
「……すみません」
なぜ謝ったのか、自分でも分からない。ただ、幼い頃からずっとそうしてきた。何かあれば謝る。自分が悪いのだと思えば、少しだけ楽になれる気がしたから。
ディートリヒは振り返りもしなかった。
雨脚が強くなる。
フリーダの足が止まった。騎士団本部の裏通り。灯りのない路地に、一つだけ窓が明るい建物があった。
その前に、大きな影が立っていた。
黒髪を短く刈った、厳《いか》つい大男。雨に濡れることを気にする様子もなく、ただ立っている。顔には古い傷跡があり、表情というものがほとんど見えない。
王国騎士団長、グスタフ・ベルガー。"鉄面皮《てつめんぴ》"の異名を持つ男。
フリーダは知っていた。社交界では「あの男は人間の感情を持っていない」と噂される人物だ。騎士としての腕は王国随一だが、会話が壊滅的に下手で、貴族のパーティーでは壁の染みと区別がつかないと言われていた。
目が合った。
フリーダは反射的にうつむいた。こんな姿を見られたくない。ずぶ濡れで、泣いていて、行く場所もない惨めな姿を。
「……すみません、通りかかっただけです。すぐに——」
「屋根がある。来い」
それだけだった。
グスタフは踵《きびす》を返して、明るい窓の建物——騎士団長の官舎に入っていった。扉は開けたまま。
フリーダは雨の中で立ち尽くした。
ついていく理由はなかった。見ず知らずの男の家に上がるなど、伯爵令嬢として——いや、もう令嬢ですらないかもしれないが——ありえないことだった。
でも、他に行く場所がなかった。
雨に打たれたまま凍えて倒れるか、あの扉をくぐるか。
フリーダは、震える足で一歩を踏み出した。
官舎は質素だった。
石造りの小さな一軒家。家具は最低限で、装飾と呼べるものは何もない。ただ、暖炉には火が入っていて、空気が温かかった。
グスタフは何も言わず、粗い麻の布をフリーダに渡した。タオルの代わりだろう。次に、棚から古い毛布を引っ張り出して、椅子の背にかけた。
それから台所に消えて、しばらくして戻ってきた。手に持っていたのは、湯気の立つスープの椀だった。
「食え」
一言。
「あの……すみません。ご迷惑を——」
「冷える。食え」
二言。
フリーダは震える手でスープを受け取った。カブと塩だけの素朴なスープ。味は薄い。でも、温かかった。喉を通る熱が、凍えた体に染みていく。
気がつくと、涙が溢れていた。
スープの椀を持ったまま、声もなく泣いた。誰かに温かいものを差し出されたのは、いつ以来だろう。思い出せなかった。
グスタフは何も言わなかった。向かい側の椅子に座って、自分もスープを飲んでいた。目を逸らすでもなく、声をかけるでもなく、ただそこにいた。
フリーダが泣き止んだのは、スープが冷めた頃だった。
「……すみません。取り乱して」
「客間は奥だ。鍵がかかる」
三言。
それが、この夜のグスタフの全発話だった。
翌朝。
硬いベッドの上で目を覚ましたフリーダは、一瞬ここがどこか分からなかった。石の天井。木の扉。窓から差し込む朝日。
昨夜のことを思い出して、体が強張《こわば》る。飛び起きて身支度を整え、恐る恐る部屋を出た。
台所から、かちゃかちゃと音が聞こえる。
グスタフが鍋の前に立っていた。朝のスープを作っている。昨日と同じカブのスープだ。フリーダに気づくと、ちらりと見て——
「座れ」
フリーダは座った。
「あの、今日中にどこか行き先を探しますので。ご迷惑をおかけして本当に——」
グスタフが椀を置いた。ことり、という音がフリーダの言葉を遮った。
「急ぐな」
それだけだった。フリーダは椀に目を落とした。今朝のスープには、昨日にはなかった人参が入っていた。
結局、フリーダは官舎を出られなかった。
出られなかったというより、出る場所がなかった。伯爵家は受け入れを拒否した。友人と呼べる貴族はいない。金もない。街で働こうにも、令嬢教育しか受けていないフリーダに出来る仕事など——
「いていい」
三日目の朝、グスタフが突然言った。
「……え?」
「空き部屋だ。使え」
それは許可というより、事実の報告に近かった。部屋は空いている。使えばいい。それだけのこと。
フリーダは何と答えればいいか分からず、また「すみません」と言った。
日々が流れた。
フリーダは少しずつ官舎での暮らしに慣れていった。朝はグスタフが作るスープを二人で食べる。昼は官舎の掃除と洗濯をする。夕方にはグスタフが騎士団の仕事から帰ってくる。
そして毎晩、扉を開けて帰ってきたグスタフは、フリーダの顔を見て一言だけ言った。
「おかえり」
——違う。帰ってきたのはあなたなのに。
最初、フリーダはその言葉の意味が分からなかった。何かの間違いだと思った。だって、「おかえり」は帰ってきた人に言う言葉だ。グスタフの方が外から帰ってきたのだから、フリーダが「おかえりなさい」と言うのが正しいはずで——
一週間目に気づいた。
グスタフは、フリーダがここにいること自体を「おかえり」と迎えているのだと。お前はここにいていい。お前の帰る場所はここだ。たった四文字に、そういう意味を込めているのだと。
フリーダは自室で、声を殺して泣いた。
二週間が過ぎた頃から、グスタフの不器用な優しさに気づくようになった。
朝のスープに毎日少しずつ具が増える。カブだけだったのが、人参、じゃがいも、玉葱。フリーダが一度「お肉は入れないんですか」と聞いたら、翌日から塩漬け肉が入るようになった。
テーブルの上に、名前の分からない花が一輪。花瓶はなかったので、水差しに突っ込んであった。翌日には萎《しお》れていたが、三日後にはまた別の花が突っ込まれていた。
夜、フリーダが読む本がないと呟いたら、翌週、騎士団の図書室から古い冒険譚《たん》が三冊、テーブルに積まれていた。グスタフは何も言わなかった。フリーダも何も聞かなかった。ただ「ありがとうございます」とだけ言うと、グスタフは小さく頷いた。
一ヶ月目の夜。
フリーダは夢を見た。
夜会の広間。ディートリヒの冷たい声。満座の嘲笑。父の叱責。母の無関心。
——お前は愛される価値がない。
悲鳴を上げて飛び起きた。
汗で肌着が張りつく。心臓が暴れている。暗い部屋の中、自分がどこにいるか一瞬分からなくなって——
控えめなノックの音。
「……大丈夫か」
扉越しの、低い声。
「だ、大丈夫です……すみません、騒がしくして——」
沈黙。
それから、扉の向こうで何かが動く気配。どさ、と重い音。
フリーダがそっと扉を開けると、グスタフが廊下の壁に背を預けて座っていた。毛布を一枚持って。
「……何を、」
「寝る」
「え?」
「ここで寝る。気にするな」
廊下で。壁に背を預けて。フリーダの部屋の前で。
なぜ、と聞く前に分かった。フリーダが怖い夢を見たとき、すぐ近くにいるためだ。
「あの……ベッドがあるのに——」
「問題ない」
問題しかないと思ったが、グスタフはもう目を閉じていた。この男は一度決めたら動かない。鉄面皮というより、鉄そのものだ。
フリーダは自室に戻って、ベッドに潜り込んだ。
扉の向こうに、誰かがいる。
それだけで、不思議と心臓の音が静かになった。その夜、フリーダは朝まで悪夢を見なかった。
二ヶ月目。
官舎の暮らしは、いつしかフリーダの「日常」になっていた。
朝はグスタフより先に起きて、スープの下ごしらえをする。グスタフが具を切るのは壊滅的に下手だと気づいたからだ。騎士団最強の剣士が、じゃがいもの皮を剥《む》けない。その事実はフリーダの心を少しだけ軽くした。
昼は官舎の庭に小さな菜園を作り始めた。ハーブと葉物野菜。土に触れていると、頭の中が静かになる。
夕方、玄関の扉が開く音。
フリーダは台所から廊下に出て——
「おかえりなさい」
自分の口から出た言葉に、フリーダ自身が驚いた。
グスタフの足が止まった。鉄面皮の目が、ほんの少し——本当にほんの少しだけ——見開かれた。
沈黙が落ちる。
「……ああ」
グスタフは短く答えて、いつものように靴を脱いだ。
でもフリーダは見た。グスタフの耳が、わずかに赤かったのを。
その日の夕食後、フリーダは暖炉の前で本を読んでいた。グスタフは向かいの椅子で剣の手入れをしている。
いつもの夜。静かで、穏やかな時間。
「……グスタフ様」
「ん」
「あの……なぜ、私を拾ってくださったんですか」
ずっと聞けなかった問い。二ヶ月かかって、やっと口に出せた。
グスタフの手が止まった。剣を膝の上に置いて、しばらく暖炉の火を見つめていた。
「……俺も、ガキの頃は雨の中にいた」
フリーダは息を呑んだ。グスタフが自分のことを話すのは初めてだった。
「孤児だ。行く場所がなかった」
「……」
「誰かが屋根を貸してくれた。騎士団の先代団長だ。あの人がいなければ、俺は——」
言葉が途切れた。グスタフは口下手だ。長い文章を話すと、途中で道に迷う。
「だから?」
「……だから、放っておけなかった」
それだけ。
でも、フリーダには十分だった。この人もかつて、雨の中で凍えていた子供だったのだ。そして誰かに拾われて、今度は自分が拾う側になった。
涙が溢れた。嬉しいのか悲しいのか分からない涙。ただ、胸の奥が温かかった。
グスタフが立ち上がった。大きな手がフリーダの頭にそっと触れた。
「……泣くな」
ぽん、ぽん、と不器用に撫でる。
「いや、泣いてもいい」
フリーダは泣いた。声を上げて泣いた。生まれて初めて、誰かの前で遠慮なく泣いた。
グスタフは何も言わず、ただ隣に座っていた。大きな手は、フリーダの頭の上にあった。不器用に。ぎこちなく。でも確かに温かく。
数日後、雨が降った。
窓の外に灰色の幕が下りる。石畳を叩く雨音が、官舎の中まで響いてくる。
フリーダはふと手を止めた。洗濯物を畳む指が、震えていない。
まだ三ヶ月も経っていないのに、雨の記憶が変わり始めていた。あの夜の冷たさではなく、暖炉の前でグスタフとスープを飲んだ夜の温かさが、最初に浮かぶようになっている。
窓辺に寄ると、庭の菜園が雨に打たれていた。小さな芽が出始めたばかりのハーブたち。
「……雨も、悪くないですね」
独り言が口をつく。雨は植物を育てる。冷たいけれど、必要なものだ。あの夜の雨がなければ、フリーダはグスタフに出会わなかった。
玄関の扉が勢いよく開いた。
びしょ濡れのグスタフが立っている。普段は無表情の顔が、わずかに——ほんのわずかに——焦っているように見えた。
「……何だ、いたか」
「え? はい、いますけど……」
「……いや。何でもない」
グスタフは雨が降り出した途端、訓練を切り上げて帰ってきたのだ。雨の中のフリーダを——あの夜のフリーダを思い出して。
この人は、心配していたのだ。
「グスタフ様、びしょ濡れです。麻布を持ってきますね」
「ん」
「それと、今日は温かいスープにしましょう。カブの」
「……ああ」
フリーダは台所に向かいながら、小さく笑った。
雨の日が、怖くなくなった。
三ヶ月が過ぎた。
フリーダは変わり始めていた。
「すみません」が減った。代わりに「ありがとうございます」が増えた。うつむいていた目線が、少しずつ前を向くようになった。笑顔が出るようになった——それは花が咲くように美しかったが、グスタフは目を逸らすだけだった。耳だけが赤かった。
菜園のハーブが育って、スープの味が格段に良くなった。グスタフが三杯おかわりした日、フリーダは初めて声を出して笑った。
「グスタフ様、食べすぎです」
「……うまい」
「それはありがとうございます。でもお鍋が空に——」
「もう一鍋《なべ》作れ」
「えっ」
グスタフの顔は相変わらず鉄面皮だったが、フリーダにはもう分かる。この人は冗談を言っているのだ。表情が変わらないから他の人には絶対に伝わらないが、目の奥がほんの少し柔らかい。
四ヶ月目。
騎士団の若い騎士が、フリーダに言った。
「団長、最近変わりましたよ。前は本当に鉄の塊みたいな人だったのに、今は……鉄の塊が少し温まった感じ?」
「それ、あまり変わっていないのでは……」
「いや、大きな進歩です! 団長が俺たちに『ご苦労《くろう》』って言ったんですよ! 入団してから五年、初めて聞きました!」
フリーダは笑った。グスタフは確かに不器用だ。でも、不器用なりに変わろうとしている。フリーダのために——いや、フリーダと一緒にいることで、自然と変わっているのかもしれない。
五ヶ月目のある日。
フリーダは市場で買い物をしていた。今夜はグスタフの好きなカブのポタージュを作ろうと思って、立派なカブを選んでいた。
——あれは。
市場の向こう側に、見覚えのある顔があった。整った容姿、冷たい目。ディートリヒ・フォン・クラウス。
心臓が跳ねた。手からカブが落ちた。
五ヶ月経っても、体は覚えている。あの夜の恐怖。満座の前で切り捨てられた屈辱。「愛される価値がない」という言葉の刃。
ディートリヒはフリーダに気づいていなかった。彼の表情は険しく、身なりも以前より少し質素になっている。
フリーダはカブを拾い上げて、静かに市場を離れた。
官舎に帰ると、まだグスタフは帰っていなかった。台所に立ってカブを刻みながら、フリーダは自分の手が震えていないことに気づいた。
怖かった。でも、逃げなかった。逃げたのではなく、帰ったのだ。帰る場所があるから、立ち去ることができた。
玄関の扉が開く。
「おかえりなさい」
「……ああ」
いつもの夕方。いつもの言葉。
フリーダの手は、もう震えていなかった。
半年が過ぎた、秋の終わりの日。
官舎の玄関を叩く音がした。
フリーダが扉を開けると、そこにディートリヒが立っていた。
「フリーダ。久しぶりだな」
一見すると、半年前と変わらぬ余裕の口調。しかしフリーダの目は見抜いた。襟元の金糸の刺繍が擦り切れていること。靴の革が手入れされていないこと。そして何より——かつてなら騎士団長の官舎など見向きもしなかったはずの男が、自ら足を運んでいること。
聞こえてくる噂では、侯爵令嬢との縁談は早々に破談となり、子爵家の財政も傾き始めているらしい。
「考えたんだが——お前との婚約、あれは早まったかもしれない」
「何の御用でしょうか」
自分の声が、思ったより落ち着いていることに驚いた。
「だから、もう一度——」
「ディートリヒ様。あなたは半年前、満座の前で仰いましたよね」
フリーダはまっすぐに彼の目を見た。半年前にはできなかったこと。あの夜、うつむいて「すみません」としか言えなかった自分は、もういない。
「『お前は愛される価値がない』と」
ディートリヒの顔が引きつった。
「あれは……いくらか言葉が過ぎた。だが、お前にも至らない——いや」
そこで初めて、ディートリヒの顔に焦りが滲《にじ》んだ。プライドが口を滑らせたのだ。半年経っても抜けない癖。相手のせいにする癖。
「……反省している」
「反省。そうですか」
フリーダは不思議と怒りを感じなかった。憎しみもなかった。ただ、もうこの人に何も感じないのだと分かった。
背後から足音がした。重く、硬い、騎士の足音。
グスタフがフリーダの後ろに立った。何も言わない。ただ、そこにいる。鉄面皮の顔はいつも通りだが、纏《まと》う空気が違う。騎士団を率いる男の、静かな圧。
ディートリヒが一歩退いた。騎士団長の威圧感に——いや、フリーダの背後にこの男が立っているという事実に怯んだのだ。
「フリーダ。俺がこうして直接来てやっているんだ。その意味が——」
「ディートリヒ様」
フリーダは息を吸って、言った。
「私にはもう、帰る場所がありますので」
静かな声だった。震えてもいなかった。
半年前の自分なら、この言葉は出なかった。「すみません」と謝って、怯えてうつむいて、言われるがままだっただろう。
でも今のフリーダには、帰る場所がある。毎朝のスープ。水差しの花。「おかえり」の四文字。不器用な大きな手の温かさ。
それがあれば、もう何も怖くない。
「聞いたな。帰れ」
グスタフが言った。
たった四文字。でも、その声には鉄のような意志があった。騎士団長の命令は、子爵の息子には重すぎる。
ディートリヒは何か言いかけて、口を閉じた。グスタフの目を見て、全てを悟ったのだろう。この男には勝てない。力でも、地位でも——そして、フリーダの心においても。
ディートリヒは背を向けた。去り際に何か呟いたが、フリーダの耳には届かなかった。もう、届く必要のない言葉だった。
扉を閉めた。
秋の冷たい風が遮断されて、官舎の温かい空気がフリーダを包む。暖炉の火。スープの匂い。使い込まれた木の床。
フリーダは振り返った。
グスタフが立っていた。いつもの鉄面皮。でもフリーダには見える。目の奥の、ほんの少しの心配と、ほんの少しの安堵。
「……大丈夫か」
「はい」
フリーダは笑った。半年前には忘れていた笑い方。花が咲くように、と若い騎士たちが言う、あの笑顔。
「大丈夫です。怖くなかったです。……嘘です、少し怖かったです。でも、大丈夫でした」
グスタフは黙って頷いた。
「……グスタフ様」
「ん」
「ただいま」
半年前、雨の中からこの家に来たとき、フリーダはこの言葉を知らなかった。帰る場所がなかったから。「ただいま」と言える場所なんて、生まれてから一度もなかったから。
でも今は違う。
グスタフは一瞬、目を見開いた。それから——鉄面皮が、ほんの少しだけ緩んだ。他の誰が見ても気づかない程度の、わずかな変化。でもフリーダには、それが笑顔だと分かった。
「おかえり」
低い声。いつもの四文字。でも今日だけは、その声がわずかに震えていた。
フリーダの目から涙が零れた。悲しいからじゃない。嬉しいからだ。自分には帰る場所がある。待っていてくれる人がいる。「おかえり」と言ってくれる声がある。
愛される価値がない——そう言われ続けてきた。そう信じてきた。
でも、この人は最初から何も求めなかった。価値があるから拾ったんじゃない。ただ、雨の中にいたから。屋根があったから。それだけの理由で手を差し伸べて、毎朝スープを温めて、毎晩「おかえり」と言い続けた。
それが愛でなくて、何だろう。
「グスタフ様」
「ん」
「明日のスープ、グスタフ様の好きなカブにしますね」
「……ああ」
静かな夕暮れ。官舎の小さな窓から、秋の最後の陽《ひ》が差し込んでいた。
愛される価値がないと言われた少女は、帰る場所を見つけた。
愛してくれたのは、世界で一番不器用な男だった。
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