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一章

理不尽な残業

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「三原さん、お願い!もう三原さんしか頼める人いないの!」

 そういって営業三課の事務の篠田が泣きついてきたのは、これで何度目だろう。会社でするには気合の入りすぎたメイクの篠田に視線を向けて、三原花耶はまた始まったか…とこっそり悪態をついた。

「今日、どうしても外せない用事が入っちゃって」
「営業から月曜日の朝一に必要だって急に言われたの」
「他の人も残業できないって断られちゃって」

 まくしたてるように言った篠田は花耶よりも三歳年上だが、高卒の花耶と四大卒の篠田では花耶の方が一年早く入社しているため、後輩になる。 しかし、高卒で年下である事や、花耶が自己主張をあまりしない事などもあってか、時々残業確定の仕事を頼みに来るのだ。それは金曜日の夕方の確率が高く、そして必ずと言っていいほどそんな日はメイクも服装も気合が入っている、という共通点があった。  

 花耶の本来の所属は経理課だった。二月に大きめのプロジェクトが立ち上がり、花耶はそのメンバーに選ばれて、二か月前から営業三課に席を移していた。当然仕事はプロジェクトに関する業務に限られ、営業三課の仕事を請ける事は滅多になかった。どうしても人手が足りない時に、課のトップである課長の許可が下りた時のみ受ける事はあったが。
 しかし、現在課長は不在で、この依頼を勝手に受けてもいいか花耶は判断しかねた。この課をまとめる課長の奥野は厳しいことで有名な人物だからだ。
 さすがに勝手な事をするわけにはいかないのでは?と問うと、課長には私から話を付ける、三原さんには迷惑かけないから大丈夫!と言い切った。
 残業確定の仕事を押し付けてくる時点で十二分に迷惑なのだが、その事には思い至らない篠田だった。こうなってくると、篠田は何が何でも花耶に仕事を押しつけるまで引かない。気合の入ったメイクから察するに、今日の用事が「篠田にとって」どうしても外せないものなのは明白だった。

 結局仕事を押し付けられた花耶は、一人残されたオフィスで黙々とパソコンのキーを打っていた。金曜日のせいか、いつもは遅くまで人がいる課内も今日は花耶以外の者はいない。普段は煩わしい程活気があるこの部屋も、今はしんと静まりかえり集中する気はうってつけだった。
 同じフロアには他の営業の課があり、そちらにはまだ人が残っているらしく、時折人の話し声や廊下を進む靴音が響いた。
 静かな環境で仕事は捗るが、押し付けられた仕事は簡単ではなかった。夕方に渡されて短時間で終わるレベルの内容ではないだろう。作業自体は単純で楽なのだが、とにかく入力項目が多くて面倒くさい。篠田の様な大雑把な性格ではこのような作業はキツイだろうな、とは思うが、だからと言って同情する気はなかった。
 花耶としては、残業代が堂々と稼げる、と言う一点に魅力を感じたから受けただけだ。一人暮らしの花耶にとっては、残業代は貴重な臨時収入だったからだ。そこそこ名の通った会社に勤めているとはいえ、事務職では贅沢が出来るほどの給料は得られない。経理課にいた頃は残業など滅多になかったが、営業三課では残業が増えたため、その点は悪い話ではなかった。

 細かく面倒な入力作業も、黙々と片付けていけばいずれは終わりも来る。一人きりで話しかけてくる相手もおらず、邪魔が入らない環境だったせいか、仕事は予想よりは早く片付いた。
 ファイルを保存するボタンを押して、一息付く。事務所の時計に目をやれば、午後九時を少し過ぎた頃だった。ファイルを共有フォルダに保存してから篠田にもメールで送ると解放感が広がった。いくら残業ウエルカムの花耶でも、一週間目いっぱい働いた後の金曜日、それも帰り間際の急な残業は気分的にも疲れる。今日は内容が単純だから一人でも何とかなったが、篠田の無責任さには呆れるしかなかった。


「何だ、まだ誰かいるのか?」

 パソコンを終了して帰ろうと席を立ったのと同じタイミングで、事務所のドアが開き、入ってきた人物があった。この営業三課の課長の奥野だった。

 奥野透矢、三十二歳。入社以来高い成績をキープし続け、昨年、最年少の三一歳で課長に昇進した出世頭だ。奥野が課長に納まってからの営業三課は高い成績を維持していて、当然ながら上層部や取引先からの信頼も絶大だった。
 奥野は当然ながら仕事に厳しく、部下にも妥協を許さない事で有名だった。彼の下に配属されると、彼の合格ラインに達するまではひたすらダメ出しとやり直しを強いられ、耐えきれずに辞めた社員も何人かいると言う。その様はまさに鬼のしごきと言われ、影では鬼教官とまで呼ばれている。185㎝を超える長身と筋肉質で存在感のある体格や雰囲気が、某映画に出てくる鬼教官に似ているから、と言うのが由来らしい。

 そして今、花耶が参加しているプロジェクトのリーダーでもあった。このプロジェクトは大口の取引先からの紹介で、新たな顧客獲得にも繋がるものだった。以前から取引したいと切望していた相手だったため、会社としては何としてもこのプロジェクトを成功させたいと、本社勤務の中から優秀な社員が選ばれてチームが組まれた。紹介してくれたのは三課が担当していた取引先で、プロジェクトのメンバーも三課を中心に組まれた。また取引先の指名で奥野がリーダーになったとも聞く。そんな大層なプロジェクトに、しがない経理課の自分がどうして選ばれたのかが花耶には疑問だった。

「奥野課長…」

 突然現れた相手が意外すぎて、花耶は一瞬目を見開いたが、それは相手も同様だったらしい。奥野は軽く目を瞠ると事務所内を見渡し、誰もいない事を確認して眉をひそめた。

「何だ、三原だけ残って仕事していたのか?」
「え、ああ、はい。篠田さんに頼まれたものがあったので」

 固めの声色に、花耶は勝手に残業してまずかったのかと不安になりつつも肯定した。経理課と違い突発的な業務が多い営業の残業は事前申請が不要だったため、特に問題があるとは思っていなかった。ただし、篠田は課長には話をしておくと言っていたが、言い忘れていた可能性は十分にあるな、と花耶は自分で確認しなかった迂闊さを悔やんだ。この会社では本来、残業代は上司が承認しないと出ないからだ。
 とは言っても、花耶にしてみれば、ここでただ働きになるのも納得がいかなかった。篠田に頼まれて残業していた事、課長には篠田から連絡して許可をもらっておくと言われた事などを簡単に説明すると、奥野の眉間のしわが益々深くなってしまい、かえって花耶は困惑した。体格のいい奥野の不機嫌な表情はかなり威圧感があった。

「ああ、悪い、悪い。三原に対して怒った訳じゃない」

 花耶の表情が曇ったのを察したのか、奥野が慌てて謝ってきた。
 奥野曰く、今日は営業三課の親睦会だったという。その為、残業している者はいないと思っていたのに、まさか篠田が自分の仕事を花耶に押し付けて参加していたとは思わなかった、と。更に花耶は飲み会があった事すら知らなかった事も予想外だった。奥野としては応援に来ている者は自部署の一員と同じとの認識でいたため、一人を疎外する篠田のやりようは彼の意に反したようだ。
 花耶にしてみれば、我が強く賑やかしい営業のメンバーは苦手だったため、仮に誘われてもその飲み会に出たいとは思わなかっただろう。奥野の気持ちは有難いが、気にしないで欲しかった。残業代が稼げて助かりますから、と暗に飲み会に行くよりも仕事をしていた方がよかったと告げたが、伝わった様子はなかった。

 仕事が片付き、奥野への説明も終わったため、早々に退社しようとした花耶だったが、遅いから駅まで一緒に行こうと言われて面食らった。既に午後九時を過ぎているとはいえ、まだ周辺は人の往来もそれなりにあり危ないとは思えなかったからだ。
 花耶にしてみれば威圧感があり慣れない上司と一緒など気が重かったが、奥野は会社には忘れ物を取りに戻っただけだからもう帰る、どうせ駅までは同じ道だと言うので、花耶は断る事も出来なかった。駅までなら仕方ないか、と諦めて奥野についていった。最終的には奥野が下りる駅は花耶が乗り換えをする駅で、結局そこまで一緒に行く羽目になった。

 駅に着くとタイミングが悪い事に、花耶が乗る予定の路線の電車は原因不明の停電で運休したばかりだった。復旧次第再開するとのアナウンスが響く。

「じゃ飯でも行くか。どうせ何も食べてないんだろう」

 奥野にそう言われて、花耶は驚いて隣に立つ上司を仰ぎ見た。もとより苦手意識のある上司、しかも誰かに見られたら面倒な事になる予感しかしない相手と二人でなど、花耶にとっては罰ゲームでしかなかった。

「い、いえ、そこまでして頂かなくても大丈夫です」
「そうはいかん。経理課から預かっている社員を課の飲み会に参加させなかったばかりか、一人だけ残業まで押し付けたとあっては俺も立場がない。お詫びだと思ってくれ」

 何とか回避を試みたが、そう言われてしまうとさすがに無碍にも出来なかった。じゃあ行くぞ、と言って奥野が歩き出してしまった。花耶は小さくため息を一つ零すと、先に進む上司の後を追いかけた。
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