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一章

この先にあるもの

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「今週もお疲れさまでした~!」
「かんぱ~い!」

チン、とグラスが重なる音が店内に響いた。店内は金曜日の夜という事もあってたくさんの人で賑わっていたが、人いきれでむっとする季節はとうに過ぎていた。 
 この日花耶は、麻友と熊谷の三人で少し高級な居酒屋に来ていた。暫くバタバタしていた経理課だったが、熊谷が仕事も落ち着いたみたいだし、慰労会しよっか?と花耶と麻友を誘ってくれたのだ。奥野は役員会議が長引き、後から参加予定になっていた。

 伊東と腰かけ二人組が自滅したあの一件から、何だかんだで二か月近く経ち、季節は十月を迎えていた。
 
 あの日、伊東に制裁を科そうとしていた奥野を止めたのは熊谷だった。さすがに付き合いが長いのか、はたまた空気を読まないのか、皆が凍り付いたあのシーンで、伊東まであと一歩の奥野に声をかけたのだ。止めるなと言った奥野に熊谷は、「いいけど、三原ちゃん完全に引いてるよ?」と告げた事で、奥野の動きが止まった。
 その隙に乗じ、その場にいた上層部のお偉いさん達も、暴力沙汰はよくない、きちんと社として処分をする、また謂れのない噂を撒いていた二人についても厳しく処分すると確約したため、奥野は渋々ながらも矛先を収めたのだった。
 あの時の奥野は本気で伊東を再起不能にする気だったらしい。怒りのふれ方が極端すぎて、その話を熊谷から聞いた花耶と麻友がドン引きしたのは言うまでもない。

 あの後、会社が正式な処分を出す前に、伊東は退職願いを出して会社を去った。さすがにこれだけの事を会社の上層部の面々の前でやってしまったのだ。この社にいても未来はないし、プライドの高い伊東は現状に甘んじる事は出来なかったらしい。
 後でわかった話だが、伊東はあの日、人事部に呼び出されて本社に来ていた。そこで篠田と橋本から、花耶が上司に言われるままに警察沙汰にした事を後悔している、本意ではなかった、謝りたいと言っていると聞かされ、それを真に受けたらしい。実際にはそんな事実はなく、あの二人にいい様に扱われたのだが、さすがに社内で襲い掛かったのは弁明の余地もなかった。
 ただ、伊東は処女だから花耶に興味を持っただけで、そうではないと知るととたんに興味を失った。あんな女だとは思わなかったと身勝手な悪態をついて上層部を呆れさせた。だが、これで花耶への執着が消えて安全になったとも言え、花耶はようやく自分のアパートに戻る事が出来たのだ。

 橋本も、さすがに自分の仕事ぶりがあれだけ否定されては、会社に居づらくなったのだろう。資格を武器に天狗になっていたが、それをぼっきりと折られた上、自分よりも後に入った麻友たちの方が出来ると言われたのもあり、退職していった。
とは言っても、翌週にはうつと診断されたと言って会社に来なくなり、引継ぎもせずにそのまま退職となったのだが。更には橋本が適当に業務をやっていたのが発覚し、その調査や修正にかなりの労力を費やされた。お陰でこの一か月余り、経理課は閑散期の筈なのに繁忙期並みの忙しさだったのだ。

 篠田は事情があってすぐに辞める事が出来ず会社に残りたがったが、懲戒解雇となった。と言うのも、以前花耶が作ったデータがなくなったトラブルがあったが、それが彼女の仕業だと判明したからだった。
 奥野はあの後、システム課にアクセスログの解析を頼んでいたのだが、その結果篠田がデータを消した痕跡があったのだ。最初は否定していた篠田だったが、証拠の存在を告げると逃げきれないと悟ったのかあっさり認めた。仕事が早いと評判の花耶が気に入らなかったのと、自分が好きな人がプロジェクトに選ばれなかった事でプロジェクト自体に反感を感じていたのだと言う。
 幸い、メールにデータが残っていたからよかったものの、万が一なかった場合は取引に大きな支障が出たのは確実だった。伊東を煽った事も十分問題だったが、会社としてはこちらの方を重要視し、さすがに会社に残しておけないと判断したらしい。

 最終的には三人とも花耶への謝罪がなかったので、三人への評価は低いままで終わった。プライドだけは無駄に高かったが、それが自滅に繋がったとは理解出来ずにいるらしい。他に行ってもまた問題を起こすだろうと言うのが大半の見方だった。

「ま、お陰で効率上がったからいいんですけどね」

 文句を言いながらも、麻友は橋本のせいで出来なかった業務改善が出来た事を喜んでいた。これまでは橋本が今までの仕事のやり方に固執して、効率化を阻んでいたからだ。新しいやり方をすれば仕事が楽になるのだが、新しいやり方を覚えるのが面倒で、何やかんやと理由をつけては拒んでいたのだ。だがその障害がなくなった事で、麻友は仕事が格段に楽になったのだ。

「三原ちゃんは?もう体調は大丈夫なの?」
「あ。はい。もうすっかり元気です」

 花耶は心配してくれた熊谷にお礼を述べた。貧血と熱中症で一時は入院も必要と言われたが、その後諸々の厄介事が片付いたのもあってか、花耶は目に見えて回復した。伊東と、その元凶だった橋本や篠田がいなくなったことと、奥野の甲斐甲斐しい世話も大きかったと言える。

「で、社の女性陣は?そっちは大丈夫なの?」
「まぁ、何とか…」

 それに言及されて花耶は苦笑した。実はあの時、奥野が何度も俺の花耶と連発してくれたことで、花耶と奥野の事が社内にばれてしまったのだ。
 何と言っても、あの場に秘書課の倉橋や毛利がいた事が大きかっただろう。あの二人から今回の話が広がり、更には社の上層部もその場にいた事もあり、二人の仲は公認同然になってしまったのだ。
 幸いと言うべきなのか、倉橋と毛利が奥野のキレた様を目の当たりにして、あれは無理…怖すぎる…と二人して青ざめた顔で語った事で、二人の事をとやかく言う者は出てこなかった。花耶に何かすれば奥野の怒りを買うというのが社内共通の認識となり、人事部長が花耶は高卒の時点で入社資格を得ていたと明言した事で、高卒である事で下に見る者もいなくなった。

「あのキレっぷりみて何か言ってこれたら、ある意味勇者だわ…」
「はは、俺もあんな奥野初めて見たからなぁ~」

 愛されてるよね~三原ちゃん、と熊谷に言われて、花耶は答えようがなくて曖昧に笑みを浮かべた。

 実は花耶は、社内のそんな空気に反して、奥野との事はまだはっきりさせていなかった。あの直後に橋本が辞めると言い出して課内が慌ただしくなって、そこの事についてゆっくり考えたり話し合ったりしている暇も余裕もなかったからだ。奥野も無理に急がなくていいと言ってくれたのもあり、二人の関係はまだ曖昧なままだった。

 もっとも麻友に言わせれば、奥野の聞き分けがいいのは外堀をほぼ埋め終えて余裕があるからだろうとの事だった。この事に関しては花耶も、あの時奥野が俺の花耶と連発したのはわざとだったのではないかと思っている。
 奥野はあの時は頭に血が上っていたからつい…と謝っていたが、現状を見る限り、一番望む状況を手に入れているのは奥野だ。公認となった事で社内でも平気で名前で呼ぶようになり、仕事帰りに二人で食事に行くのを隠そうともしない態度からも、花耶は確信に近いものを感じていた。

「でも、ぼちぼち返事しないといけないんじゃない?」
「…うん…」
「ええ?三原ちゃん、まだ返事…してなかった?」

 麻友の発言に驚きを示したのは熊谷だった。どうやら既に二人は付き合っていると思っていたらしい。でも、社内の空気を思えば、それも当然だろう。既に社長も公認の仲なのだから。

「はい。その…返事は急がないって言ってくれたので…」
「そうなの?あ~なるほど…納得…」
「納得って、何がです?」

 すかさず麻友が熊谷の発言に反応し、熊谷は困ったと言った風に苦笑していた。

「え?ああ、最近営業の間で、奥野の指導がいつにもまして厳しいって噂になってたからさ」
「え?…それってもしかして…」
「だろうなぁ~まぁ、野郎共へのけん制もあるんだろうけど…」
「…意外と…余裕ないんですね…」

 三課の現状を知って、麻友は意外に思いつつも呆れも隠さなかった。花耶は三課の面々の顔を浮かべながら、その状況が目に見えるように感じて苦笑した。

「まぁ、社長まで巻き込んで牽制球投げたんだし、想定内っちゃ想定内なんだけどね…」
「三課の皆さんもお気の毒…」
「まぁ、三原ちゃんがOKすれば逆に振り切りそうだから、暫くの辛抱じゃない?」
「やだ、熊谷さんっ!そんな事決めつけないでください。あくまでも花耶の気持ち最優先なんだから。それでなくても前科持ちなんですからね!」
「勿論わかってるよ。麻友ちゃんは友達思いで優しいねぇ」
「花耶は特別なんです。簡単に渡してたまるもんですか」

 二人の楽し気な掛け合いを眺めながら、花耶はまだ来ぬ元上司の顔を思い浮かべた。奥野には困ったと思いながらも、以前のように反発する気持ちは起きなかった。奥野への信頼は確かに強くなったし、花耶の中では好感度は麻友や満春たちと変わらないくらいに高くなっていた。伊東相手に切れた時は心底怖いと思ったが、それも自分の事を想っての事だとなれば話も変わってくる。

 ただ、満春のいう様な、一般的な恋愛でいわれる様なときめきやドキドキ感というものをあまり感じないため、これが恋なのかどうかが判断出来ないでいた。何をもって好きだと思うのだろう…と考えるのだが、未だに答えが出ない。麻友に相談しても、満春や里帆に話をしても、みんな生ぬるい目で花耶を見るだけで、そこは自分で考えな!と言って、それ以上は教えてくれなかった。多分、これから先は花耶が自分と向き合って答えを出さなければいけないのだろう。

 それにもう一つ引っかかるものがあった。奥野の気持ちに応えた場合、その瞬間にベッドに連れ込まれて放してもらえないような気がしているのだ。これは予感と言うよりも確信に近い気がして、それが躊躇している理由だった。始まり方が始まり方だったせいか、花耶の潔癖な性分のせいか、そっちの方にはまだ抵抗があるのだ。男性とお付き合いをした事がない花耶としては、出来れば段階を踏んで欲しいと思うし、心が付いていかない状態で肌を重ねる事は出来そうにもなかった。

 流された結果、お互いに傷つけあうような事になってしまったのだ、と思う。今後があるなら、出来れば同じ轍は踏みたくないし、どうせならプラスに考えられる関係でありたかった。社内公認になったとはいえ、未だに釣り合わないという思いは消えないし、年や経験の差などもやっぱり気になってしまう。素の自分を出して幻滅されたら…と思うと、踏み込む勇気が持てないのもある。社内公認になってしまったため、そうなった場合のダメージは計り知れない気がしてならない。手を取ると選ぶのなら、それらの事をまず自分で何とかしなければいけないのだと思うと気が重かった…



「あ~、やっと来た」
「お疲れ様です」
「悪い、遅くなった」

 自分の思考に入り込んでいた花耶は、暗く感じると同時に聞き慣れた声が下りてきたのを聞いた。顔を上げると、威圧感のある鋭い目が柔らかさと甘さを含んで自分を見下ろしていた。目が合うと自然と口元が綻んで、そんな自分に花耶は、遠くない先に二人の関係性が大きく変わるのを感じた。それは突然の事で花耶自身を大いに戸惑わせたが、妙な確信を花耶にもたらしていた。思い描いていたものと始まりの形こそ違ったが、多分、今ならその先にある未来を同じにすることは出来るのかもしれない…

「お疲れ様です、おかえりなさい」

 自然と口から出てきた言葉に、三人が三様の表情を浮かべた。声をかけられた男は一瞬呆けた様な表情を浮かべたが、直ぐに心底嬉しそうな笑みを浮かべた。

「ああ、ただいま」

恋が始まった気がした。

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