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二章

上司と動悸

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「花耶」

 社内の廊下を歩いていた花耶は、聞き馴染んだ穏やかな声を背後から受け、ビクッと飛び上がらんばかりに身体を強張らせた。悲鳴が出なかっただけでもマシだっただろう。

「っ、お…奥野、課長…」

 恐る恐る声の方に視線を向けると、そこには営業三課の鬼教官と呼ばれる奥野が佇んでいた。夏と違いスーツの上着とネクタイを身に着けた姿は、ただそこに立っているだけでも様になっていた。花耶は一瞬だけ奥野の表情を確かめると、さっと視線を逸らして手にしていたファイルをぎゅっと抱きしめた。

「え…っと、な、何か…?」

 情けないほどの声を何とか振り絞った。外に心臓の音が漏れ聞こえそうなほど跳ね上がり、自分で制御出来ない情況に、花耶の背中に汗が流れた。

「いや…重そうだから手伝おうかと思っ…」
「だ、大丈夫です!し、失礼します…!」

 近づいてくる気配を感じた花耶は、咄嗟にそういうと、正に脱兎のごとくその場を走り去った。両腕で抱えていたファイルが重いが、今はそれを気にしている余裕もない。後ろで戸惑い混じりに名を呼ぶ声が聞こえたが、とにかくその場から離れたかった花耶は、経理課の事務所まで一目散に走った。



「はぁ?逃げたぁ?」
「麻友…!声大きい…!」

 年末調整なども一通り終わって経理課が暇になった頃、花耶は麻友と共に社内食堂で昼食を取っていた。さすがにこの時期になると気温も下がり、公園でのお昼も難しいからだ。そこで花耶は麻友に、午前中ファイルを抱えて赤い顔をしていた理由を聞かれたのだった。

「逃げたっていうか…そういうんじゃないけど…」

 逃げたつもりはなかったが、最近奥野と顔を合わせるとどうしても居心地が悪く感じていた。それもあって先ほどは咄嗟にあの場を去ったのだが、麻友に言わせるとそれは逃げたと受け取られたらしい。

「はぁ…どうしてまた?」
「どうしてって…そんなの、こっちが知りたいよ…」
「でも、先々週までは何ともなかったじゃない?」
「う‥うん…」
「じゃ、あれからあいつになんかされたの?」

 そう、先々週までの花耶は、奥野に対して普通に接する事が出来ていた。それは麻友も認めているし、花耶もそう思っている。なんせ先々週の土曜日は、花耶と麻友、奥野と熊谷の四人で水族館に行ったからだ。あの時は特に違和感もなく普通に会話もしていた。
 ちなみに最近の麻友は、奥野を指す時、「あの人」から「あいつ」に変えていた。無意識なのかわざとなのかわからないが、その変化に気付きながらも花耶は何も言わずにいた。

「ふ~ん…じゃ、その後は?二人で会ったの?」
「ううん、先週は高校の友達と会ってたし…向こうも用事があるとかで都合が合わなかったから会ってないよ」
「じゃ…何よ?」

 麻友には先週何かあったのかと思ったらしいが、そういう訳ではなかった。花耶としては心当たりがあると言えばあるが、それが?と言われそうな類のものなだけに、正直言い辛かった。そうこうしている間に昼休みが終わったため、この話はまた改めて…と麻友に言われた花耶だった。



「さて、詳しく聞かせて貰おうじゃない」

 にこにこと楽しそうな麻友に反して、花耶は追い詰められた気分でその場にいた。そこは会社近くのお洒落な雰囲気のカフェで、テーブルの間がさりげなく仕切られているため、回りに気を遣わずに会話を楽しめると二人が気に入っている店だ。今日はノー残業日で定時に終わったため、花耶は退社後さっさと麻友に連れてこられたのだ。

「別に、これと言って何かあったんじゃないんだけど…」

 頼んだホットのメープルラテを手に、花耶は所在なく答えた。本当に、特にこれと言った何かがあったわけではない。

「ただ…」
「ただ?」
「課長を見ると…」
「動悸がして…」
「…」
「息苦しくなるし…」
「…」
「…落ち着かなくなるの…」
「…」

 おずおずとそう語り始めたが、その事を意識しただけでドキドキして顔が赤くなる気がした。ただそれだけの事に花耶は狼狽えた。今まではこんな事がなかっただけに、急な自分の変化に戸惑っていた。

「…で?それはいつから?」
「…いつって…」
「最初にそんな風になったのは?」
「最初に…?は…水族館の帰り、くらい?」
「え?あの帰り?」
「う…うん…」

 どこにそんなシーンがあったのか、と今度は麻友が不思議に思った。あの日は奥野の車で四人で出かけたのだが、その日の夜、花耶は麻友の家に泊ったのだ。奥野は花耶を家まで送ると言ったが、もともとあの日は花耶が麻友の家に泊りに来る予定だったので、そのまま家まで送って貰った。だから、帰りに何かが起きたのなら麻友も一緒にいたはずだった。

「あの状況のどこにそんな要素が?」
「その…帰りって言うか、何て言うか…」

 そう言いながら花耶は、酷く言い難そうにしながらも、その時の事を話し始めた。



 あの日、水族館に行った四人だが、熊谷が奥野に気を使ってか、時々二人ずつになる事があった。勿論、花耶と奥野、麻友と熊谷だ。熊谷は奥野と同期で仲がいいので、奥野のために気を使ったのだろう、と花耶は思っていた。

 その何度か目の奥野との二人きりになった時、花耶は一瞬だけ奥野とはぐれてしまった。二十人程度の団体と花耶達が、ちょうどクロスするように鉢合わせたのだ。あっという間に人の流れに流されて、花耶は奥野とはぐれてしまった。慌てて奥野の姿を求めたが、人が多いのもあってか、直ぐには見つからなかった。
 そこに軽薄そうな若い男が二人、花耶に声をかけてきたのだ。ただでさえ奥野とはぐれて動揺しているところに急に話しかけられた花耶は、驚きと恐怖で固まってしまった。そうしている間にも男達は勝手に一緒に回ろうと言い出して、花耶の腕を掴んだのだ。先日の伊東の事もあったし、それまでも変質者に狙われた事もあり、花耶は完全に頭が真っ白になってしまったのだ。
 だが、そこに幸いにも奥野が現れて難を逃れたのだが、その時にはぐれるといけないからと手を繋がれた。その手に動揺してしまってから奥野の姿を見ると動悸が止まらなくなったのだ。

 ここまで聞いた麻友は、はぁ…とため息をついた。とりあえず情況は理解してくれたらしいが、こんな事でと呆れられただろうか…と花耶は心配になった。自分でも何でこんなに動揺しているんだろう…と思っているのだから尚更だ。

「で…その時から、あいつを見ると動悸がするのね?」
「う、うん…」
「他の人は?」
「他?は…特に、は…」
「ふぅん…あいつ限定、ねぇ…」

 そう言うと麻友は、頬杖をつきながら抹茶ラテのカップを弄んだ。行儀の悪い好意ではあるが麻友がすると不思議とそうは見えない。麻友の柔らかくちょっと幼めの顔立ちがそう思わせるのだろう。

「じゃ、暫く会わずにいたら?」
「え?」
「だから、落ち着くまで会わなきゃいいんじゃない?」

 そういうと麻友は、にっこりと笑った。



(暫く会わない、かぁ…)

 麻友と別れて家に帰った花耶は、お風呂に浸かりながら先ほどの会話を思い返していた。麻友に相談して出た答えは暫く会わないと言うものだったが、果たしてそれが正解なのだろうか…
 確かに会わなければ動機もしないし、気持ちを乱される事もない。でも、会わない選択をするには踏ん切りがつかなかった。会えば落ち着かないのだが、会えないのも嫌だと思うのだ。

 今は経理課に戻ったため、殆ど接点がないと言うのもある。以前は奥野が席にいる限りは側にいたし、いなくても業務連絡で頻繁にメールでのやり取りがあった。奥野の補佐だったのだから当然なのだが、今は廊下ですれ違う事も稀だ。今日だって多分、奥野は会議か何かで経理課のあるフロアに来ていたのだろう。平日はそんな偶然がない限り、姿を見る事も声を聴くこともなかった。
 奥野はマメだが、仕事モードにスイッチが入るとメッセージも来たり来なかったりで、最近は忙しいのかそのメッセージも滞りがちだった。先週の土曜日は花耶が、日曜日は奥野がそれぞれ用事があって会えなかったため、もう二週間まともに話もしていない。この状況はホッとする半面、何かが足りなく感じて仕方ないのだ。

 どんな時に動悸がするのかについては、麻友には会った時だと答えたが、実際にはそうではない。ドキドキするのは奥野の事を思い出した時もだ。自分のよりも大きくて熱い手、長くて骨ばった指、肩や腰を抱かれる時に感じる胸板の厚さや腕の太さ、見た目よりも柔らかい唇…それらを思い出すだけでも苦しいくらい心拍数が上がるし、時折お腹の奥がきゅんとなる。そんな自分の反応がはしたなくて恥ずかしいのだが、奥野に会う度にその事まで一緒に思い出されてしまい、より一層居たたまれなくなるのだった。

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