ミルクティー依存症

高槻

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 自分はどうやら眠りが浅い方らしい、ということを高瀬櫂が知ったのは二ヶ月ほど前のこと。二ヶ月、というとそれからかなり時間が経っているようにも感じられるけれど、十九年近く生きてきた中での二ヶ月はそんなに長くないと櫂は思う。
 櫂の眠りが人よりも浅い方だと指摘したのは、大学で櫂の所属するサークル、映画研究部のOBだった。四つ歳上の彼の名前は笠原裕也。朝、隣で寝ていた裕也が櫂よりも先に目を覚ましてベッドから出て行くとき、必ず櫂はそれに気付く。毎回櫂を起こさないようにと気を付けているらしい裕也は、二ヶ月前のその朝なんだか悔しそうな顔をして、今日は絶対に大丈夫だと思ったんだけどな、やっぱり櫂は眠りが浅いよ、と言った。

「……おはよう」
「おはよう」

 今朝も例外なく裕也がベッドから出て行く気配で目を覚まして、目を擦りながら相手の顔を見上げると、裕也の顔に穏やかな笑顔が浮んだ。わりと大きいのに男の色気もある目と、すっと通った鼻筋が特徴的な、俳優としてテレビにでも出ていそうな整った顔は櫂のお気に入りだった。羨ましいと思わないのは、きっとその顔を眺めているのが好きだからなんだろう。もしこれが自分の顔だったら、わざわざ鏡の前に行かないと見ることができない。

「ミルクティー、飲むよね?」
「うん」
「今淹れてくるからちょっと待ってて」

 新築のマンションの六階の角部屋、2DK。これはまだ大学生でしかない櫂の部屋じゃない。裕也の部屋だ。社会人一年生にも少し贅沢な気もするものの、一流と呼ばれるような大企業に就職した裕也はそれなりの給料を貰っているんだろう。
 それで、そんな裕也の部屋で櫂が寝ていたのはなぜなのか。
 飲み会で酔っ払ったとか終電を逃してしまって自分のアパートに帰れなくなったわけじゃない。そうだとしたら一緒のベッドに寝たりはしない。昨日の夜、櫂はわざわざ自分のアパートからこの部屋にやってきて、終電を無視して裕也のベッドで眠りについた。
 理由を詳しく説明するためには、七ヶ月近く前、まだ櫂が大学に入学したばかりだった四月にまで話を戻す必要がある。
 櫂が映画研究部の新入生歓迎コンパに参加したときのこと。興味のあるサークルだけど一人では行きづらい、と言う友達と一緒に行ったチェーンの居酒屋で、社会人ということで経済力をあてにされて呼ばれたOBの中に裕也がいた。
 一目惚れだった、と後になって裕也は言った。可愛くて、放っておけなくなってしまった、なんて。
 大学生と社会人で日頃会う機会のない二人を繋いだのは携帯のメールだった。最初は入ったばかりのサークルの先輩からだという義務感から返信していただけだったメールも、一週間としないうちに櫂の楽しみの一つになっていた。
 告白されたのは一ヵ月後のGW中の飲み会で再会した時。同性である裕也に告白されても気持ち悪いと思わなかったのは、彼とのメールが大げさでなく心の支えとなってしまっていたところが大きかったのだと思う。
 寂しかった、から。上京して一人暮らしを始めたばかりだったから、というわけじゃない。いつからかなんて思い出せないほど前から、櫂はずっと寂しかった。だから、優しく甘やかしてくれる裕也とのメールが好きだった。
 気がつくと、もし付き合ったら、と櫂は裕也に訊いていた。

『俺、男の人と付き合ったことないんですけど。もし先輩と付き合ったら、先輩に思いきり甘えてもいいことになりますか?』

 友達は多いほうだと櫂は思っている。けれど、それで寂しさが紛れるわけじゃなかった。周囲からは仲がいいと思われているような友達と一緒にいる時でさえ、櫂は他人に好かれるような人間を演じている。顔に笑顔を貼り付けて、ゆっくりと喋りながらも、頭の中では自分が今何を言い何をするべきなのかと忙しく考えている。素の自分が我侭で他人に嫌われるタイプの人間だということ知っているからこその自己防衛。そのせいで、友達は多くても、実はいつも一人ぼっちで、いつも寂しかった。
 甘える。櫂の言うこの言葉の定義は、素の我侭な自分で相手に接するということ。そして、もちろんそれを相手が受け入れてくれるということ。
 櫂が言いたかったことが、その時裕也に正確に伝わったのかどうかはよく解らない。それでも裕也は『いいよ』と笑顔を作った。そして、それからこの関係が始まった。

「どうぞ」
「……ん」

 上半身を起こして、裕也の差し出してくるマグカップを受け取った。
 マグカップに入っているとはいっても、彼の淹れてくれる紅茶はいつもティーバッグではなくティーポットできちんと淹れられたものだった。茶葉だってどこかの専門店で売られているミルクティー向きのもの。その紅茶に、砂糖とミルクが絶妙な割合で入れられている。
 一口飲んで、櫂は満足げに目を細めた。暖かくて、甘くて、優しい。裕也のミルクティーは彼自身みたいだと櫂は密かに思っている。
 自分もベッドに座った裕也に、櫂は僅かに身体を傾け、その肩に頭を乗せた。飼い主に甘える猫みたいな仕草だった。誰かの暖かな温もりと匂いが櫂を安心させてくれる。
 裕也が小さく笑うのが聞こえてきた。

「どうしたの」
「別に」

 別に、ただ甘えているだけ。
 付き合う前にしていたメールの通り、裕也は櫂を甘やかすのが上手かった。いつでも優しく包み込んで、寂しさなんて忘れさせてくれる。
 櫂にも高校時代には彼女がいた。三年間で三人。それなりに可愛い、性格も悪くない女の子だったけれど、三人ともあまり長く続かなかった。理由は簡単だった。彼女たちは自分が櫂に甘えたくて、櫂のことを甘やかしてくれるような雰囲気ではなかったから。
 そもそも男である裕也と付き合ってみようなんて考えたのには、その経験も関係している。女が駄目なのなら男だったらどうなんだろう、なんていう、好奇心みたいななにか。
 今までに男を好きになったことはないし、今でも自分が本当に裕也を恋愛対象として好きなのかよく解らないものの、少なくとも、裕也の隣は居心地がよかった。隣に居られるのなら自分が男と付き合っているという事実なんてどうでもいいと思わせるくらいに。
 襟刳の広いカットソーから覗く裕也の肌に直に触れようと頬を寄せると、その振動が伝わったのか、櫂のマグカップの中のミルクティーが、たぷん、と僅かに揺れた。

「櫂、零れちゃうよ?」
「零さないよ」
「どうだかなあ」

 苦笑しつつ裕也は櫂のマグカップを取り上げて、腕をのばして小さなサイドテーブルの上に置いてしまった。裕也が動いたせいで身体を離さなくてはならなくなった櫂が不満を表情で伝えると、唇に何か柔らかいものが触れる。唇だ。それは触れるだけの本当に軽いキスだったけれど、不意打ちに驚いて櫂の身体が小さく跳ねた。

「キスされるの、嫌?」

 質問には答えない。正直に答えるとかなり長くなってしまう。長い答えをわざわざ言うのも、それを避けるために嘘をつくことすらも、今は面倒だった。そんなことを裕也といるときにまでしたくない。
 答えが返ってこないということは裕也の方も予想していたんだろう。彼はそれ以上何も言うことなく、櫂の顎を掬い上げるようにして上向かせてきた。そしてそのまま、二度、三度とキスを繰り返す。相変わらず小鳥が啄ばむような軽さだった。普通ならそろそろ深くなるのだろうかと期待し始めるころ、いつものように裕也は櫂から離れていく。

「………っ」

 いつの間にか詰めていた息を吐き出す。それ以上はないと無言のまま告げられて、安心したのか、残念に思ったのか、櫂は自分でも判断しかねた。
 付き合っているのに、と思わないこともない。それまでの自分がストレートだったとはいえ、裕也とは恋人として付き合うことを了承している。当然、中学生でもないし、身体の関係を持つことも含めて、だ。
 けれど、五月に付き合い始めてからもうすぐ半年、その間に何度もこうして裕也の部屋に泊まって一緒に寝ているというのに、裕也はこうやって子供騙しみたいなキスをするだけで、それより先に進もうとはしなかった。
 別にそれでも構わないけど、と櫂は視線を斜め下に向けた。櫂が裕也に求めているものはそれじゃない。優しく甘やかしてくれる存在としての裕也は完璧だった。

「拗ねてる?」
「そんなことはない」
「僕は訊いたよ? 二度目にキスする前に、嫌かどうかって」
「そういう意味じゃなくて――」

 そういう意味じゃない、ならどういう意味なのか。一度は言いかけて、けれどその続きを櫂は言わなかった。なんとなく気が進まなかった。
 機嫌を損ねてそっぽを向いた櫂の頭を小さな子供にするように撫でて、裕也は櫂にマグカップを返してくれた。

「それ飲んだら、何か食べに行こうか?」
 ミルクティーを飲みながら頷く。少しくらい冷めてしまっていてもおいしいものはおいしい。
「何食べたい?」
「……パニーニ」
「いつも行ってるお店の?」
「そう」

 十月ももうすぐ終わる。冬はもうすぐそこだった。
 今日は寒くなるんだろうか。もし寒かったら、帰ってきてからまたミルクティーを淹れてもらおう。
 寒い日のミルクティーはただでさえ格別だから、それが裕也の淹れたものならどれほど美味しく感じるんだろう――そんなことを考えると、櫂の顔に自然と笑顔が浮んでいた。
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