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5-2.
しおりを挟む慌てて声を返しながら由香は湯船から上がる。何にせよ、明日は神社の神主に会う。以前、神様が夢を使って神主に言づてをすることも出来るというようなことを言っていた覚えがある。
もしかしたら神様の近況なんかを聞くことも出来るかもしれない。寝間着に腕を通しながら由香はそっと息を吐く。
明日が来るのが楽しみで――それと同じくらい、少しだけ怖かった。
朝が来る。広大な庭にホースで水やりをしていると、不意に玄関口のチャイムが鳴った。見に行くと、見知らぬ男性が立っている。祖父母より少し若いくらいだろうか。五十代後半くらいの年齢に見える男性は、由香を見ると軽く目を見開いた。
それと同時に扉が開き、祖父が顔を出す。
「ああ、宮部さん。由香、言っていた神主さんの……」
「早くに来て申し訳無い。一刻も早く伝える必要があったので……」
宮部さん、と呼ばれた男性は祖父に笑顔を向けた後、由香の方へ視線を寄せた。その表情に安堵の色が浮かんでいるのが見て取れる。
「伝えたいことですか?」
「そうそう。神様が本当にもう、毎日のように……」
神様。紡がれた言葉に由香は目を瞬かせる。宮部は僅かに首を振ると、「早いけどええやろか」と祖父に言葉をかけた。
祖父が少し困ったような顔をして由香を見る。由香の判断に任せる、と言うのだろう。
別段午前にすることも特に無い。父母もどこかへ出かけるというような話はしていなかった。
「大丈夫です、ここじゃ出来ない話なんですか?」
「そうだね、良かったら神社の方に行っても良いかな」
気遣わしげな口調だ。穏やかな語り口は聞いている人に安心感を与える。祖父母の知り合いであるし、更に言えば要職に就いている人間である。変なことはしないだろう。
由香は頷いた。行ってくるね、と祖父に声をかける。祖父はゆっくりと頷いて「いってらっしゃい。お昼は由香の好きなものにしようね」と笑った。
その言葉に背を押されるようにして、宮部について神社の方へ向かう。朝も早いためか、外を出歩く人の姿はほとんどない。急勾配の階段を上がると、高校一年生の時に神様と別れた境内に行き着く。
冬の間は凍るため止まっていた手水はちょろちょろと水が流れていた。水面に花が浮かんでいて、鮮やかだ。
宮部はゆっくりと境内を歩き、そのまま裏手の方へ向かう。本来なら立ち入りが禁止されている、祠のある方へ向かうようだ。
そこまで綺麗に整地されていない山道を歩きながら、由香は目の前の宮部を見つめる。どこまで行くつもりなのだろうか。
「あの、すみません、どこまで」
「神様――二分様が、貴女のことを何度も口にしていました」
由香が言葉を口にした瞬間、被さるように宮部が口を開いた。由香は軽く口の開閉を繰り返し、「そうなんですか?」とだけ続ける。
神様のことを急に話し出すなんて、おかしくなったのか――なんて言う人は、この場には居ない。由香と宮部の間には、話題の共通項として『神様』が存在するからだ。
「そう……なんですね」
「何度も。何度も。会いたいと言っていました」
「……」
「あまりにも毎日夢に立たれるので、本当に慌てまして。祠も未だ直せていませんからね」
「祠、あの、いつ直すんですか?」
「そうですね……」
宮部は間延びしたような声を出した。
「今の状態で直すわけにはいかないので……」
どういうことだろう。今の状態で直すわけにはいかない? むしろ今の状況だからこそ、直すべきなのではないだろうか。
首を傾げつつ、ゆっくりと階段を登る。次第にぴりぴりとした違和感を覚え始めた。
恐らく神様に近づいている。
階段を登り切ると、祠が目に入る。祭壇のような場所は綺麗にされていたが、なんとなく獣臭のようなものが立ちこめているように感じられた。なんともいえない空気があるというか。
思わず軽く鼻のあたりを覆って、すぐに失礼だろうと由香は指を離した。
「あの、それで、伝えたいことって」
「何度も言われるんです。連れてこいと」
静かな口調だった。
「毎日。毎夜。眠りにつくたびに森に居る。追いかけられるんです。連れてこい、連れてこなければお前の家族の命を半分貰うと」
「え……?」
「誤解があっただろうから。それを解かないといけない。会いたい。連れてこい。連れてこい、連れてこい、連れてこい、連れてこい」
おかしい、と思った時には由香の腕は宮部に掴まれていた。半ば引きずられるようにして祠の方へ向かう。
尋常では無い力加減だった。掴まれている部分が痛みに軋む。
「い、いたい……!」
「二分様、二分様」
宮部が由香を石畳の上へ――祭壇の方へ、ほとんど放り投げるようにして強く押す。急に手を離され、由香はたたらを踏みながらその場に座りこんだ。強かに腰を打ち付けて、痛みに声が漏れる。
「連れて参りました」
静かな声だった。由香は顔を上げる。宮部は茫洋とした顔をしていた。心がここにないというような――先ほど、祖父の元へ挨拶に来たときとは様子が違う。
何かに操られているような、という表現が正しく思えるほどに、自我というものが存在していないように見えた。
一瞬呆ける。その瞬間を狙い澄ましたように、ぞわ、と背筋を氷塊が滑り落ちるような違和感を覚えた。周囲の喧騒が一瞬にして消える。世界が塗り替えられていくような感覚。
宮部の姿が消える。それと同時に、ぬらりとした、何かしら滑り気を帯びた手の平が、由香の首元に触れた。
「由香」
静かな声だった。聞き覚えのある声だった。心臓がどくどくと音を立てる。
由香は僅かに息を詰まらせる。指先がするすると由香の頬を撫でた。その感触に背筋がぞわぞわする。
「由香、由香」
「……神様……?」
「ああ。神様だよ。会いたかった。なあ、きっと何か行き違いがある。だから少し話さないか?」
耳元に響く声は、由香の行動を制止するように響く。落ち着いて。ここから出て行くことを考えれば良い。そう、目を閉じて、出て行こうとすれば。
「出て行こうとしてるのか? 無駄だよ」
「は、……」
「さっき投げ出された場所を覚えている?」
視線を向ける。神様が居た。着物は赤色に染まっていて、紐のように張り巡らされていたそれが、ところどころで解れて千切れている。
顔――そう、三年前、別れる間際、神様の顔の輪郭はうまく結べなくなっていた。見ようとしても見えない、というのが正しいだろうか。それは今も変わらない。いや――むしろ酷くなっているように見える。
黒いどろどろとしたもやのようなものが、神様の顔を覆っていた。
投げ出された場所。どういうこと? 何が起こっている?
由香の頬に神様が頬をすり寄せてくる。引き結んだ唇を指でこじ開けられて、そのままキスをされた。
「んむ、う……っ」
「可愛い。可愛い由香。俺の……由香」
「やめ、神様、神様?」
「はは。帰れないよ。だって――君は俺に供えられたんだから」
は、と由香は息を飲む。どういうことだ。供えられた?
考えて、先ほど投げ出された場所を思い出す。そう、祠の前の祭壇だった。
三年前、黒ずんでいた場所。
「供えられたものは俺のものだ。取り分でもない。だから、半分にする必要もない」
「は……」
「由香の命は、俺が貰ったということだよ。わかるだろ? でもほら、俺は由香のことが大事だし、由香の命を全て貰ったら由香は死んでしまうだろう。だから、――そうだな、生きている間は俺と一緒に暮らすことで手を打とう」
「な、なにいってるの?」
「由香。大好きだよ。俺の大切な子。今日からは俺の番だ」
何を言っているのかほとんど理解が出来ない。ぎゅっと目を瞑る。出たい、と願う。出て行くことを止められないと言っていた、だから、出られるはずで。それなのに。
由香、と甘い声が耳朶を打つ。舌先が唇に触れて、そのまま中に入ってきた。生暖かい感触が口腔内を蹂躙する。舌先をなぞられて、そのまま喉の奥に何かを流し込まれる。液体だろうか。どろりとしたそれは、とんでもない嫌悪感を抱かせる味をしていた。
必死になって神様の体を叩くが、びくともしない。由香は泣きそうになりながら与えられたものを必死に飲み干した。次第に、舌がゆっくりと口内を離れていく。
「う、う、なに、なに?」
「ふふ。可愛い。誤解をすぐに解きたかったけれど、どうやら由香は逃げ出したいようだし。なら、先に教えてあげるよ」
「神様」
声が震える。何をされるのか、想像がつかない。いや、――神様の指が由香の腹の辺りを撫でる。
なんとなく想像はついた。けれど、それを口に出したら現実になってしまいそうで、出来ない。
神様が声だけで笑う。
「大丈夫だ、時間はいくらでもあるから」
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