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42.溜息
しおりを挟む「ほう……」
べイエレン公爵邸のフィルの自室にまで押しかけてきたマイナは、フィルお気に入りの一人用のソファーを陣取り、顎に手を添えて艶めかしい溜息を吐いていた。
(まさか恋煩い? いや、マイナに限ってそんなはずは)
失礼なことを考えるフィルである。
「お兄さまも早くご結婚されては?」
「妹が急に訳知り顔でうっとおしい!」
「わたくし、大人の階段をのぼってしまったの」
「ようやくか」
長かったなぁ。
早ければ懐妊していてもおかしくない月日が経っている。
「何ですって?」
「本当にレイは偉いよ。よく耐えたなぁ」
(ニコもそう思うだろ?)
視線でニコに聞いてみた。
ニコがレイとマイナの板挟みになっていたことは容易に想像がつく。
訳知り顔のマイナはうっとおしいが、レイとめでたく結ばれたのであれば我慢しないこともない。
こう見えてもフィルは妹思いであり、友だち思いなのだ。
しかし。
「えっ?」
ニコの顔から表情が抜け落ちたのを見て、思わず声を漏らしてしまった。
まだなのか!?
まだなんだな!?
はい、まだです。
全て視線だけでやり取りした。
ニコは執事長と母の侍女の娘で、幼いころからマイナの侍女になるべく育てられたので、フィルとの息もピッタリなのである。
長年の、というやつである。
フィルとニコは、天然のマイナに振り回されているうちに、視線で会話できるようになってしまったのだ。
(まだなのか、レイ。気の毒に……さすがの俺も泣けてくるよ)
「ところでお兄さま、お付き合いされている女性もいないんですの?」
「いてもお前には絶対に言わないよ」
ちゃんとお付き合いしたことのある女性なんていないけど。
しかも最近は夜遊びすらしていないという健全さ。
もう枯れたのかと友人にも言われたが、そんな気分にもなれないときだってあるのだ。
「なぜ?」
「お前の見当違いで引っ掻き回されたくないからだよ」
それは本当にそう。
絶対ロクなことにならない。
振り回されているレイを見ていれば、さらに警戒心が強くなるというもの。
「失礼な。でも、わたくしは鈍感だから、その予想は外れていないのかも」
「鈍感なことに気付いたんだ!?」
「まあ、そうですね」
「じゃあ、俺が今、お前にさっさと帰って欲しいと思ってるこの気持ちにも気付いて欲しいな? ここに来てること、レイは知ってるんだろうな!?」
父から聞いた話だと、先日はレイが血相を変えて迎えに来て、ひと悶着あったらしい。
人騒がせな妹である。
(そのまま抱えられて帰宅なんてことになってたらお前、今ごろどうなっていたか……)
「もちろんレイさまはご存知よ! 今日はカールとミリアを迎えに来たの。それと、茶碗蒸しが食べたいってレイさまが言ってたから、コッコの卵をもらって帰るの。お兄さまへのご機嫌伺いはついでよ」
「あー。それなら次は父上がいらっしゃるときに来なさい。会いたがっていたから」
「お父さまはお忙しいからなかなか会えないのよ。この間お会いできたのが奇跡ね」
「それは確かにそうだな」
(今は特になぁ……)
王太子殿下が盛大にやらかしているらしく、父まで駆り出されているのだ。
聞きたくないけど、聞かないわけにもいかず、内容を知ってしまったフィルからすると「キモイ、死ね!」みたいな気分だ。
マイナには絶対に言えないけど。
(多分、同じ理由でレイも忙殺されているだろうから『まだ』だとすれば、しばらくはまたお預けだろうなぁ。レイの性格からして、初めての日をなし崩し的にはしないだろうし……それよりも……)
「そっちに連れて行くのミリアなんだ?」
父は「なるほど」と呟いていたが、ニコを見てきたフィルからすると、シェリーじゃないんだ……という驚きがある。
メイド長も驚いていた。
ニコは頷いて「マイナさまのことを思って行動できそうだったので」と言う。
真面目な子だな、とフィルも思ってはいたが、あまり器用な立ち回りはできないだろう。
タルコット公爵家でやっていけるのか少し不安だ。
マイナも納得の人選だったようなので口には出さないが。
今回の急な面接は屋敷内をかなりざわつかせた。
終わってみれば、ミリアという誰もが予想していなかった子に決まり、シェリーとサシャは荒れているようだ。
シェリーはフィルの前では上手く隠しているが、サシャは隠しきれていない。
特にサシャに関しては目に余る行動が以前からあったので、フィルとしてはそろそろ他家に放出したほうがいいのではと考えている。
屋敷内の采配は徐々にフィルに任されるようになってきているのだ。
(マイナ付きになれなかったからといって、荒れるような人物はどっちも要らないけどね)
プライドがあるのならば、それは己の仕事ぶりで価値を見せつけていくしかない。
私を選ばなかったことを後悔しろ、ぐらいの気概が欲しいところだ。
(あの方のように毅然と、なんてことは望んでないけどね)
賢く、美しい、ヘンリエッタ王太子妃殿下を思い出していた。
フィルが長らく恋煩っているお相手である。
彼女は望まない政略結婚であったにも関わらず、顔色ひとつ変えずに王太子妃としての公務をこなしている。
(王太子殿下の変態ぶりが表面化した今、彼女の身が心配だな……)
レイとフィルとヘンリエッタは同い年であり、幼馴染でもある。
王太子殿下と結婚させられるぐらいならば、格下でもいいとばかりに王太子殿下の年齢に近い高位貴族のご令嬢たちは、次々と幼な妻と呼ばれる年齢で結婚していった。
その結果、侯爵令嬢のヘンリエッタは十二歳のときに六歳年上の王太子殿下と婚約させられてしまったのだ。
公爵家や侯爵家で残っているのはヘンリエッタだけだった。
父は彼女が婚約者に決まったとき、苦い顔をしていた。
誰もがヘンリエッタのことを気の毒がっていた。
彼女の父親を除いて。
(王太子殿下は王家の闇を詰め込んだような容姿と性格をしているからなぁ)
何代かに一人は必ず、手に負えない人格の者が生まれるらしい。
近親婚が多かった時代の名残と密かに言われている。
フィルも父から聞いたが、口外してはならぬと強く言い聞かされた。
誰もが知っていても、口にはしていけない話というのがある。
当然、そういったことを一切耳に入れずに育てられたマイナは知らない。
レイはレイで、父親が王弟のため、知らないことになっている。
レイは気付いてるだろうけど。
(俺は……女性が不幸になるところを見たくないんだよなぁ……)
フィルは貴族令息のくせに政略結婚に向いていない。
それこそ『気概をもって』それらしい家格の令嬢を娶り、貴族としての義務を全うすべきなのだが。
政略結婚で結ばれた相手を幸せにする自信がない。
根底にある面倒くさがりな自分の本性が、女性を不幸にするような気がするのだ。
(父上が寛大だから独身でいられるけど、普通ならあり得ないよなぁ)
政略結婚だったのに、恋人のように仲のいい両親を見ていると心がざわつく。
父はマイナだけでなく、フィルにも結婚を強いることがなかった。
父は「それだけ私に力があるという証明になるからな」と笑っていた。
政略結婚などしなくとも我が家は安泰であると……。
(父上って本当にかっこいいよなぁ……それに、レイを見てると、ついつい俺も恋愛結婚したくなっちゃうんだよね)
しかし、想い人は人妻である。
幼馴染のレイすら知らない、フィルの秘密である。
王太子殿下がひどすぎて、彼女を諦めることができない。
(あの綺麗な菫色の髪に、もう一度、触れることができれば……)
フィルの部屋で艶めかしい溜息を吐くマイナを見ながら、悶々とするフィルであった。
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