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第十五話・そうだ、温泉に行こう!(前編)
しおりを挟む「シトリン、温泉に行こう!」
それはいつもの、夕食後のティータイム。新聞を読みながら緩やかにティーカップに口をつけていたマリンが、新聞を握りしめながら立ち上がって叫ぶ。
「はいっ⁉」
同じく、リトルスノウから借りた小説を読みながらティーカップに口をつけていたシトリンが、ビックリしてお茶を吹きそうになる。
「温泉、ですか……いいですね。もちろん、お供します」
何故マリンがいきなりそう言い出したのかはわからなかったが、断る理由もない。ないというか、すごく嬉しい。
マリンは握りしめた新聞を手にズカズカと暖炉に歩み寄ると、それをポイと炎の中に投げ捨てる。実はその新聞の一面に書かれていたのは……。
(かの事件の裁判で、死刑判決を受けたシトリンの両親が明日処刑される……いくら訣別したとは言っても、こんな話はシトリンの耳には入れたくないけ)
マリンとしては、親心にも似た気遣いだった。できるだけ遠くに、フェクダのニュースが入ってこない場所へシトリンを遠ざけようと。
(マリンさん、何か新聞を見て……あ、そうか)
だがシトリンは、察してしまう。ここのところ黒足袋亭でのウエイトレスとしての仕事が立て込んでいたから、自分の『家族だった人』の処遇は口さがないハンターたちの噂話でイヤでも耳に入ったからだ。
一応、公にはシトリンの肉親であることは伏せられている。だがそれでも、一時的に猫獣人に対する周囲の目は厳しいものになるだろう。
(だから、フェクダから遠ざけようとしてくれてるんだな)
そして、いつものシトリンならば。
『お気遣いありがとうございます、マリンさん。でも私は大丈夫ですから‼』
と元気よく応じただろう。そして、いつものように翌朝も出勤したに違いない。
(マリンさんと、温泉……)
残念ながら、シトリンは……残念な子だった。
「当然ながら、明朝出発ですよね⁉」
シトリンの鼻息は、荒い。
「え、うん⁉ もちろんじゃけ、用意しんさい」
何が『当然』なのかマリンにはわからなかったが、無論マリンとて一刻も早くシトリンをフェクダから遠ざけたかったのだ。明朝出発には、異論がなかった。
(前夜に、いきなり有給申請って通るんじゃろうか)
突発的に思いついたこととは云えど、マリンにも仕事がある。幸いにしてシトリンはハンター業に専念する週だったので、黒足袋亭のパールに連絡する必要はなかったけれど。
マリンは陰鬱な表情で魔電を手に取り、時計を見やる。
(誰か、おってくれるじゃろうか)
幸いにして、ハンターギルドには残業中のモルガナほか数名がいてくれた。マリンは一週間の有給を湯治に使いたいと、そしてそれを明日から取りたい旨を恐る恐るモルガナに告げる。
『……マリン。それ、ジョークじゃないよね?』
「はい……」
『まぁマリンは職務に真面目な子だから、何らかの理由はあると思うのよ。でも今、何時?』
「二十一時過ぎ、ですね……本当に、申し訳なく思っています」
魔電の向こうからモルガナの溜め息が聴こえてきて、ますます縮こまるマリンだ。
『わかった、なんとかする。のっぴきならない理由があるんだろうね? それも訊いてほしくはない?』
「ですね。代わりといってはなんですが、ハンターギルドの今年の忘年会。予算は全部私持ちでいいです」
まぁマリンの財力からすれば、それははした金ではあるが。シトリンの奴隷解放に四十億リーブラ使ったとは云えど、十二歳のときにズメイ討伐を果たした際の報奨として王室から百億リーブラを賜っている。
というか、ハンター時代に荒稼ぎして溜め込んだ財産はそれを遥かに上回るのだ。
『うぅ、シフトの組み修正を前夜にやって明日休みの人に出勤を要請するの……どれだけ大変か、わかってるよね?』
「はい……どうやって埋め合わせすればいいのか、自分でも見当がつかないぐらいです」
マリンは目の前にモルガナがいない自宅であるにも関わらず、魔電を片手にペコペコと頭を下げる。
『その間、シトリンちゃんはお留守番なの?』
「いえ、シトリンも湯治に連れていきます。シトリンの耳には入れたくないので」
『……あぁ、なるほど。そういうことか』
モルガナは、かの『薬』の工場をシトリンの家族『だった』猫獣人が運営していたことを知る数少ない人間だ。そしてそれが明日に公開処刑されることを知っていて、マリンの事情を察する。
『パール姉さんに話は? まだなら私が』
「ありがとうございます。でも今週はシトリンはハンター業の週なので、連絡は不要です」
『そか、わかった。こっちは任せて、ごゆっくりね?』
マリンは深々と頭を下げながら、通話を切る。シトリンは、何も聴いてませんよと言いたげにお茶をすするのだけど。
(マリンさん、めっちゃ自分でネタバレ喋ってたの……気づいていない⁉)
シトリンから見たマリンは、常に『完璧な女性』というイメージだったので。だからシトリンを前にして、バレバレな会話をしていたマリンに思わず苦笑いを隠せない。。
「シトリン?」
「あ、いえ。なんでもないです。明日の準備をしてきますね?」
慌ててシトリンは立ち上がり、引きつった笑顔を見せながらリビングを後にした。
そして翌朝、二人は馬車で郊外にあるソラミー空港へ向かう。乗合馬車なので、途中から客が乗っては降りてを繰り返すのだけど。
「(マリンさん、落ち着いてください!)」
「(じゃけど、あいつっ‼)」
同乗する客の中には、シトリンが獣人だからとこれみよがしに自分の衣服にブラシをかける者、首の奴隷環を見て露骨にイヤな顔をする者……都度キレそうになるマリンを、シトリンが必死で宥める。
まぁもっともその都度、眼鏡を外してスプレーのように凶悪な殺気を振りまくマリンだ。その度に周囲の客は、口を噤んで震え上がるのだけど。
「まったく……あいつらは猫飼ったことないんかねぇ?」
イラつきを隠せないで、なんだかとんでもない愚痴を吐くマリン。
「まぁ、犬派もいますし」
そんなマリンに斜め上の言葉を返すシトリンは、
(私はマリンさんに飼われてる……)
とか考えながら、何故か喜色満面である。
馬車はやがて終点の空港に到着。空港とはいっても、飛ぶのは飼いならされたレッサードラゴンだ。
「はわゎ~‼」
滑走路に何匹ものドラゴンが鎮座しているその光景を見るのは、シトリンは初めてであった。
「ドラゴンの背に乗るのですか?」
それはそれで楽しそうと思ったシトリンだが、
(それだと、あまり人が乗れないような?)
と怪訝そうに首を傾げる。
「違うんよ、客が乗る簡易的な小屋みたいなのを飛竜が吊るしながら飛ぶ感じじゃね」
「なるほど!」
それはそれでと、初めての体験にシトリンの胸も高まる。そしてマリンがチケットを買い求めようとカウンターに立ったときに、事件は起こった。
「は? 奴隷は荷室⁉」
再び、凶悪な藍色の禍々しい殺気をマリンは放ち始める。
「はい、決まりですので」
ブルブル震えながらも、必死で言葉を絞り出す職員の女性はもはや涙目だ。
「マリンさん、私は構わないですよ? それより、自分も荷室に乗ろうなんて思わないでくださいね⁉」
マリンならそうするだろうと思って、先んじてシトリンが声をかけた。
(もう奴隷じゃないけん、それ言うべきじゃろうか)
マリンはポーチの中に手を入れ、『鍵』を握りしめた。それはシトリンの首に装着されている、奴隷環を外す鍵――。
戸籍上、シトリンは奴隷解放されているのでもう奴隷ではない。ただシトリンに無断で手続きをしてしまった為、言い出せないでいたのだ。
「それにシトリンにバレたら、絶対泣かれるけん」
「何がバレたらですか?」
思わず声に出てしまったマリン、あたふたと動揺してしまい。
「いいいいっ、いやっ、こっちの話じゃけん!」
「はぁ……」
挙動不審のマリンを見ながら、シトリンはさっぱりわけがわからない。
(何か私に、隠し事があるのかな?)
なんとかうまくシトリンを誤魔化せた?ので、マリンは安堵する。そしてマリンは再び受付嬢に向き直り、意を決して口を開いた。
「バーカ、バーカ! お前の母ちゃんデーべーソ‼」
「え?」
「へ?」
受付嬢、シトリンともに何が起こったのかわからずポカーンとしてしまう。だがそんなことはおかまいなしに、マリンはアッカンベーでとどめを刺すと。
「死ねぇっ‼」
と叫ぶや否や、
「シトリン、行くよっ‼」
「え、どこに⁉」
それには応えずに、惑うシトリンの手を引いてズカズカと空港を出て行くのであった。そして二人は、元来た道を引き返す乗合馬車の中。
「フーッ、フーッ‼」
興奮覚めやらぬマリン、怯える同乗客、困り果てるシトリン。馬車の中はさながら、地獄絵図と化していた。
(マリンさんに、こんな子どもっぽいところがあったなんて……)
シトリンは内心呆れながらも、
(でもこんなマリンさんもいい♡)
なんだか惚れ直しちゃったんである。何よりマリンが怒っているのは、自分のため。
「シトリン、ごめんね。イヤな思いさせちゃったけん……」
「いえ、それは構わないのですが。温泉旅行は中止ですか?」
そうなったらそうなったで、家でゆっくりしてもいい。無理言って有給をもらったのだから、『やっぱ出勤します』なんて言ったらマリンはモルガナに殺されてしまうのだろう。
「いや、温泉には行くけん」
「そうですか、嬉しいです」
でも空路を利用しないなら、どうやって? というよりどこへ行くつもりだったのだろうかとシトリンは思い悩む。
「あぁ、行き先? 海外になるんよ」
「海外……えっ⁉」
ここ、ポラリス大陸は全土がカリスト帝国だ。皇帝の居城があるベネトナシュ市国(通称・帝都)が大陸最西端にあり、ポラリス山脈を北に時計回りに迂回する形でメラク王国、二人が住まうフェクダ王国。
そして南下してメグレズ王国、そこから東へアリオト王国、ミザール王国、大陸最東端はベネトナシュ王国。いずれも陸続きで、それぞれ外国ではあるものの『帝国』のくくりになる。
よって『海外』というのは大陸の外の、帝国とは違う別の国を指すのだ。
「海外というと?」
「ミザール王国の南にある、アルコルっていう島国じゃね。現地ではヤーマ列島国って言われちょって、活火山がたくさんあるんよ。それに伴って各地に温泉がたくさんあるんよね」
「へぇ!」
シトリンは、いわゆる『海外』は未経験だ。というより温泉もそうなのだけど。
「そういえばシトリンは、温泉て初めてじゃっけ?」
「ですね、奴隷ですから。だから楽しみです!」
シトリンは本当に心の底からそう思って言ったのだが、マリンの表情は途端に暗くなる。
「マリンさん?」
「ごめん、シトリンを傷つけてしもうた……」
「???」
古今東西、奴隷はお風呂に入れてもらうことも珍しい。シトリンは毎日マリン宅でお風呂に入れてもらえてるし、ご主人様であるマリンと一緒に入ることも多い。
くわえてマリンの帰りが遅いときなどは一番風呂をいただくこともあるのだが、奴隷がここまで厚遇されることは稀なのだ。ましてや温泉となると……。
「空港ですらこの扱いなんじゃけ、温泉も奴隷禁止だったらどうしようか?」
一瞬それが頭に浮かんだマリン、難しい顔で考え込む。
「そうですね、そのときはマリンさんだけで」
ちょっと複雑そうに応じるシトリンだったが、マリンがそんなことをするわけがないのはわかっている。シトリンもまた、マリンとは別の意味で苦悩の表情だ。
「温泉を買い取るか……」
ボソッとつぶやくマリンに、
「無駄遣いはダメですからね!」
とシトリンが釘を刺す。
(やっぱシトリンを奴隷解放したこと、内緒にしとかんといけんね)
シトリンを四十億リーブラ払って奴隷解放しました、なんてバレたらどうなるか。マリンには想像もつかなかった。
「話には聞いたことあるんですが、温泉てどんなところなんです?」
空気を変えようと、シトリンがそう口にする。
「ほうじゃね。本来お風呂ゆうのは、一人用のバスタブがあってその中で身体を洗うんじゃけど」
「はい」
「入る前に身体を洗って、浴槽には身体を温めるリラックスするために入るんよ」
「へぇ、それって……普通なのでは?」
シトリンは、マリン宅のお風呂しか知らないのだ。マリン宅のお風呂がそうなっているため、逆に一人用のバスタブというのが想像できない。
「あぁ、シトリンには言ったことなかったかいね。うちのお風呂、アルコルから個人輸入して買ったんよね」
「‼ そうだったのですか!」
「うん。じゃけど本格的な温泉ちゅうのは、うちのお風呂の何倍も広くて……露天風呂ちゅうて、屋根が無かったりもするんよね」
「へぇ‼ お空を見ながらお風呂に入れるんですね!」
マリンはなおも温泉のレクチャーを続け、シトリンは目をキラキラさせながら聞き入る。そうこうするうちに馬車は、二人が乗車した場所へ近づいてゆく。
「マリンさん、次です」
「あ、まだ降りんけん」
「え?」
マリンの意図することがわからず、シトリンはポカーンとしてしまう。馬車は二人の家近くにある乗り場を、そのまま通りすぎていく。
「マリンさん、どこで降りるんです?」
「エーゲ山の登山口じゃね」
ポラリス山脈の、フェクダ王国沿いにあるのがエーゲ山だ。
「登山口、ですか」
「うん。そこからケーブルカーに乗り換えて山頂に行くけん」
「ケーブルカーってなんです?」
「んーと、山を登るのに特化した形の魔石列車じゃね」
この大陸では、いわゆる『魔石』という鉱物をエネルギー源に変えて動作する機械が普及している。その総称を『魔導機械』といい、それらを動かす『魔石』は帝国領民の生活にはなくてはならない存在だ。
一応専用の鉱山はあるが、ハンターギルドにハンターたちによって納められる魔石もまたその一助を担っていた。
「山頂に駅があるんじゃけど、ちょっと知り合いを訪ねるけん」
「マリンさんのお知り合いですか」
シトリンは、チラと窓の外を見やる。遠くに見えるはエーゲ山だ。
(あんなところに、人が?)
山頂には早くも雪が降り積もっていて、とてもじゃないが人が住む場所ではない。そしてシトリンの危惧は当たっていて、それは『人』ではなかった。
「ヒャッハー‼」
ハイテンションのマリンと、
「ひっ、ひええぇっ‼」
青い顔のシトリン。今二人は、空を飛んでいた。
「シトリン、落ちんようにね!」
「ははははっ、はいっ‼」
マリンとシトリンは……飛竜の背中に乗っていた。空港で見かけたレッサードラゴンの比ではないそれは、体長はゆうに百メートル近くはある。
「ママママ、マリンさんっ⁉」
「何ね?」
「も、もうちょっとスピードを落としていただけたら⁉」
シトリンにしては珍しく、マリンに『お願い』を口にした。だが無理もない、その飛竜の飛行速度は音速にも迫る勢いなのだ。
「あぁ、初めてじゃときついかもしれんね」
マリンは平然とそう言ってのけると、
「アストライオス! ちょっとスピード落としてもらえん?」
『承知した』
マリンの声に応えた主は、名前をアストライオスという……『原初の竜』。その存在は知られてはいるものの、生態など何一つ不明という人智を超越した神話のような存在だ。
速度が比較的ゆるやかになったのもあって、シトリンにはようやく余裕ができた。といっても目を開けるのが関の山で、下を向くにはまだ勇気が出なかったが。
「なななな、なんで古代竜さんとお知り合いなんですかっ⁉」
マリンの卓越した才や人脈にはたびたび驚かされるが、その中でもトップクラスだとシトリンは思う。何をどうやったら、古代竜と名前を呼び合う関係になれるのか。
(というより古代竜って喋れるのか……)
今更ながらに、シトリンは驚く。そんなシトリンを尻目に、
「あぁ、アストライオスはね。私が唯一負けた魔獣なんよね」
『マリン、まだそれを言うのか? あれは引き分けだと何度も言っておるじゃろうに』
「頑固じゃねぇ。せっかく私が負けを認めとるんじゃから」
『頑固はお主じゃろう。わしとて若干十五歳の少女に羽をへし折られたとか、ほかの竜に知られたら紅顔の至りじゃわい』
そう和やかに談笑する、二人というか一人と一匹。
「マリンさんが十五歳のとき⁉ 引き分け⁉ ほかにも古代竜が⁉ あぁっ、もうどこからツッコめば……」
なおも懐かしそうに談笑を続けるマリンとアストライオスに、シトリンは開いた口が塞がらないのだった。
「シトリンはさ?」
「は、はひっ!」
「? 何メートルの高さなら飛び降りれるん?」
海しか見えない景色が続いた後、遠くに島が見えてきた。シトリンは、高度数千メートルの世界にまだ目を回している。
「えっと、そうですね。経験があるのは二百メートルです」
いったい、二百メートルの高さから飛び降りるってどういう経験なのか。奴隷だからそうさせられたのかと、マリンはモヤるも。
「ん、十分。私も四百まではいけるけん。アストライオス‼ 高度二百メートルまで降下!」
『心得た……というか、人間なのに四百メートルの高さから飛び降りて平気とか。お前はバケモノなのか?」
古代竜、アストライオスは嘆息する。そしてその背に乗っているシトリンはウンウン!と頷いていた。
(猫獣人の私でさえ、二百メートルでギリなのに……)
言っておくが、マリンは人間である。大事なことなのでもう一回言うが、マリンは人間だ。
「古代竜にバケモノとか言われたくないんじゃけど」
マリンは涼しい顔で、向かい風で乱れる髪を抑える。
(かぁっこいい‼)
シトリンの瞳は、ハートマークだ。
「あの島ですか?」
「うん。アルコル諸島自治区……まぁこれは帝国目線じゃね。彼らは『ヤーマ諸島国連合』って自称しちょるけん。その一番北にあるシュラ島、ここには有名な温泉がたくさんあるんよ」
「ふむふむ?」
「イブースキ、ユーヴィン、ヴェイプ……どこにしようかねぇ」
懐からガイドブック?を取り出し、ペラペラとページをめくるマリン。
(なんでこの状況で本がめくれるのだ、この人は)
シトリンは、半ば呆れ顔である。古代竜の背に乗って、時速五百キロほどの速度で飛行している状況で。
「ところでマリンさん?」
「ん?」
「先ほどの件……いいえ、わかってます。飛び降りるんですね?」
シトリンは察する。こんなバカでかい巨大竜で人が住んでいる土地に着地はできない。飛竜用の空港はあるだろうが、『こんなの』がやってきたら全飛竜が失神してしまうだろう。
「うん。海上に落ちることになるけん、ごめんね?」
「……」
まぁそうでしょうね、とシトリンは諦め顔で。
「あ、シトリン猫じゃったね⁉ 水は平気なん?」
うーん、猫扱い……と思いつつもそれはおくびにも出さないシトリン。ぶっちゃけ猫でいい、むしろ私はマリンさんの飼い猫なのだという謎の矜持。
「これまで何度、マリンさんとお風呂に入りましたか? それより今私たちが向かっているの、どこでしたっけ?」
シトリンが、ニヤニヤしながらマリンの顔をうかがう。
「あ、そうか」
ちょっと照れくさそうに、マリンが笑って俯いた。
「温泉もじゃけど、ええ感じのビーチがあったら泳ごうか?」
「いいですね。でも今、季節は冬ですよ?」
そう言いつつ、シトリンは自分の台詞に違和感を隠せない。アストライオスの速度により強風に晒されているから肌寒さを感じるが、高度数千メートル上空とは云えどこれは夏の空じゃないのかと。
「あぁ、アルコルは十二月が夏なんよ」
「そんなことあるんですか⁉」
北半球にあるフェクダと違い、南半球にあるアルコルは季節が逆なのである。シトリンは初めて知るその知識に、驚きと興奮を隠せない。
そしてシトリンは戦慄する。この古代竜に乗って、自分たちはどれだけの距離を移動してきたのかと。
「フフ……」
「シトリン?」
突如として不敵な笑みを浮かべたシトリンに、マリンが怪訝そうに訊ねる。
「いえ、温泉もそうですが海水浴も楽しみです!」
シトリンは、考えることをやめたのだった。
「そろそろじゃね」
いつのまにか、沖合百メートルほどまで接近していた。グングンと、島の全景が大きく迫ってくる。
「じゃあ、シトリン。用意はええ?」
「はい!」
「じゃあ、行くよ? 三、二、一、ゼロ! て私が言ったら同時に……あれ?」
「えぇっ?」
てっきり本番の合図だと思ってたシトリン、すでに空中に飛び出した後である。マリンは、まだアストライオスの背中に乗ったままだ。
「えっと⁉」
『正直、今のは紛らわしかったと思うぞ?』
アストライオスが呆れたように呟く。
「あぁっシトリン、待って‼ アストライオス、また会いましょう!」
『あぁ、息災でな』
アストライオスがそう返すのと、マリンが飛び降りるのが同時だった。
『忙しない奴だ……』
原初の竜は溜息をつくと、Uターンしながら急上昇。その巨大な体躯は瞬く間に、空の彼方に消えて行った。
一方で、
『ザッパーン‼』
と最初に海面に着水したのはシトリン、遅れてマリンがその近くの海面に落下する。
「シトリン、大丈夫?」
マリンが魚も顔負けの速度でシトリンの傍まで泳いできて、そして心配そうに声をかける。
「……マリンさん、ひどいです。あの言い方だったら誰でも」
シトリンはジト目で、ちょっと泣きそうだ。飛び降りたときに腹打ちしたせいで、おでこと鼻の頭が少し赤くなっていた。
もしちゃんと飛び降りていれば、シトリンも安全な着水に備えることができただろう。だが自分だけが飛び出してしまったことに動揺し、ほぼうつ伏せに近い形で海面に激突してしまったのだ。
だがシトリンがそれだけで済んだのは、猫獣人離れしたシトリンの頑丈さ故ではあった。一方でマリンは、何がどうしてそんなことが可能なのか打ち身の一つすらなくて。
「そういやシトリンて、泳げるん?」
「それ、飛び降りる前に確認しましょうよ。泳げますけど」
「あ、えーと……ほうじゃね?」
そう言って、マリンはバツが悪そうに笑う。つられてシトリンも笑ってしまい、怒るに怒れなくなってしまった。
「じゃあ、岸まで競争しようか」
「いいですね!」
まぁマリンが勝つだろうけど、とシトリンは思いつつも賛同する。でもせめて、背中が見える距離ぐらいは保ちたいと鼻息も荒い。
「じゃあ、三、二、一、ゼロ! って言ったら」
「え?」
またもや紛らわしい発言のマリンに、シトリンは再度ひっかかってしまい……岸に向かって全力で急発進した身体と、今のはスタートの合図じゃなかったのかと急停止しようとした意識とが脳内でショートして。
『ビキッ‼』
「痛たたた‼」
足が攣ってしまったシトリン、その場で溺れ始めた。
「シトリン⁉」
慌ててマリンが泳ぎ寄り、シトリンを抱き上げる。
「大丈夫?」
「うぅ、マリンさんのバカぁ~‼」
もはやシトリンは涙目だ。
「あぅ、ごめんなさいシトリン! このまま連れてってあげるけぇ」
そう言うや否や、
「シトリン、落ちんように私の首にしがみついときんさい」
「あ、はい」
「じゃあ行くけん。三、二、一、ゼロ!」
(もう騙されませんよ‼)
とばかりに、シトリンは余裕のドヤ顔だ。だがこのときばかりは本番の合図だったので、シトリンはまたしても心の準備を海上に置き去りにされてしまう。
「あああぁぁっぁぁあああ⁉」
マリンは片手で、シトリンをいわゆるお米様抱っこの姿勢で……海面上であるのをものともせずに爆泳し始めた。その速度たるや、ゆうに四十ノット(時速約七十四キロ)を超す勢いだ。
これは海のギャングとの別名を持つシャチが『海中を』泳ぐ速度に匹敵するのだが、この速度でシトリンを抱えたまま海面を泳いでいるわけで。
岸方向に背を向けてる形になっているシトリン、もはや諦め顔で遠くなる水平線を見つめながら。
(夏の海 猫の命も ここまでか
シトリン)
思わず、心の俳句を詠んでしまうのだった。
そして(マリン的に)何ごともなく岸に到着して、シトリンを立たせようとするのだけど。
「シトリン、大丈夫なん?」
「大丈夫じゃ……ないみたいです」
高度二百メートルから不意打ちで飛び込まされ、岸に向かって急発進するのを急停止したせいで足が攣って溺れ、そしてここまで海のギャング並みの速度で曳航されてきたのだ。大丈夫なわけがなかった。
「足がガクガクで、上手く立てないです」
そう言いながら、ちょっと恨みがましい視線をマリンに送るシトリン。だがマリンのほうは、それを意に介した様子もなく。
そしてヒョイと、シトリンを片手で抱き上げる。
「ああああっ、あのっ⁉」
「落ちるけん、私の首に掴まっときんさい」
「あ、はい」
今シトリンは、マリンの首に両手を絡めて片手で姫抱っこされている状態だ。
(あ、いい匂い……)
顔が近いので、いつものマリンの香りもすぐ鼻先。シトリンは、もはや幸せの絶頂に達していた。
「びしょ濡れのままじゃ、宿に入れんけ。まず海水浴からしようか?」
今したじゃないですかと皮肉の一つでも言いたいのを、シトリンはグッと堪えて。
「でも服濡れたままなのは、変わらないですよね?」
「あぁ、海水浴場にコイン式の魔石洗濯機があるんよね。洗濯してる間、海で遊ぼう!」
「わかりました。あ、でも水着が」
「もちろん、ビーチで売っちょるけ。シトリンはどんな水着がええかいね」
マリンの回した片手の上に座ってるものだから、シトリンの顔はマリンより少し高い位置にある。だからマリンは、少し上を向いてしゃべる姿勢となっていた。
そして逆にシトリンはマリンの顔を少し見下ろしながら、
「マリンさんはビキニがいいです」
なんて言うものだから、マリンもちょっと赤面してしまい。
「いや、シトリンの話……」
と小声を絞り出すのがやっとだった。
二人はやがてビーチ沿いの大き目の露店で、購入する水着の選定を始める。獣人観光客向けに『尻尾穴、開けます(別料金)』という貼り紙を確認したマリンは、小さくガッツポーズだ。
「お金は私が出すけん、好きなん選びんさい」
「ありがとうございます」
ここで遠慮しても、マリンは自分が払うと言ってきかないだろう。シトリンは学習していたので、遠慮なく好意に甘えることにした。
そして何着か手に取っては立てかけてある姿見の前で合わせてみて、などやっていて『ピン!』と何かがシトリンに降りてきた。
「マリンさんっ‼」
「あ、はい」
「マリンさんが選んでください。その代わり、私もマリンさんのを選びたいです‼」
ギラついた目で、興奮を隠せずにシトリンが鼻息荒くそう提案する。鼻血でも垂れてきそうな勢いである。
「それも面白そうじゃね」
と了承したのを、マリンは後で死ぬほど後悔することになるのだけど。
「ほうじゃねぇ、シトリンは……」
マリンはシトリンの身体のラインをチラと見やると、
「シトリンは鍛えちょるけん、腹筋見えるほうがかっこいいと思うんよ」
「え……」
シトリンは一瞬、怯んでしまう。それだと、ビキニということだろうかと。
まだ若干十三歳、胸は十分に発育していないのがシトリンのコンプレックスだった。なので、ついつい表情も引き攣ってしまう。
だがマリンが選んだのは、シトリンと同じレッドタビーの獣柄のタンキニだった。トップに大き目のフリルが付いており、胸の凹凸が目立たない。
そしてボトムスもスカートタイプなので、歳相応に幼くもなく背伸びもしない感じのデザインになっている。
「これなら、シトリンのような小さ……じゃなくてね?」
「え?」
「ほら、フリルのおかげで胸にボリュームが……その」
わざとらしく(マリンとしてはさりげなく)シトリンから視線を外し、冷や汗を流しながら挙動不審のマリン。シトリンはそんなマリンの前に回り込むと、
「最初、何て言おうとしました?」
身体を傾けて、ジーッとマリンを凝視する。
「そ、それよりっ! これにするけん‼」
マリンは狼狽しながら、商品を持ってレジに並ぶ。
「あのー、マリンさんの分をまだ選んでないんですけど?」
「あぁ、シトリンの好きな奴でええけん。適当に選んじょって」
先ほど失言しかけた負い目もあって、マリンはシトリンの顔を見ることができないでいる。そしてマリンのその言葉を受けて、シトリンの琥珀色の瞳がキラリと光った。
「はい、素敵なの選んでおきます‼」
マリンはシトリンのサイズを知っているし、シトリンもマリンのサイズを知っている。シトリンは売り場に戻ると、あらかじめ決めていたマリン用のサイズの水着を手に取って。
そして、並んでいるマリンの元へ小走りに駆け戻った。
「マリンさん、選んできました!」
喜色満面、ウッキウキでシトリンが手渡すそれは……トップがクロス・ホルター・ビキニで、ボトムがVストリングの紐で結ぶタイプ。
「え、それはちょっと露出が多……」
ちょっと困惑した表情になるマリンを、シトリンの言葉が遮る。
「マリンさんは『私と違って』かっこいい胸なので、このタイプのが映えると思うんですよ。それに足も長いから、隠すのはもったいないです‼」
先ほどシトリンの胸が小さいからと言いそうになった意趣返しだろうか、『私と違って』を強調するシトリン。そしてキラッキラの瞳で見上げられながらそう提案されては、マリンも邪険にしにくい。
「カラーも、マリンさんの色に合わせてみたんです」
どちらも、『深い藍色』だ。
「あ、うん……選んでくれてありがとう」
マリンはそう言って笑みを返すものの、
(シトリンは、こういうのが好みなんかね?)
目の前にそれをぶら下げながら、マリンはちょっと複雑だった。
ビーチ沿いにある『海の家』の更衣室でマリンとシトリン、二人服を脱ぐ。
脱状の中に電子レンジのような形をした洗濯用の魔導機械があり、全裸のままで濡れた服を抱えて説明書きを読み終えたマリンが感心したように溜め息をもらした。
「はぁ~、この洗濯機は水を使わんのじゃね」
同じく隣には、濡れた服を抱えたシトリン。
「水を使わず洗濯、ですか?」
さっぱりわけが分からないといった表情だ。マリンはシトリンに向き直り、
「何か魔石の光がこうドバーッと出て、汚れを分解する……みたいな?」
マリンも上手く説明できず、服を右手に一手に抱えて左手でジェスチャーまじりで説明するもさっぱり容量を得ない。、
「よくわからないけれど、この中に入れればいいんですね?」
「多分……」
小さな扉を開けて、トレー状の大きな皿の上に二人の服を入れて。
「四百リーブラ分のコインを入れて……ここを押すん?」
ちょっと不安そうに自問自答するマリンに、
「そのようです」
と説明書きを見ながら、シトリン。
「じゃあ押すけん」
マリンがボタンを押すと、庫内が光に包まれる。庫内へはガラス窓で中が覗けるようになっているのだが、見た感じでは何の変化もなく。
「これで洗濯が行われているわけでしょうか?」
「みたいじゃねぇ。なんか手ごたえがなくてスッキリせんね」
右上にある小さなウインドウに残り時間が四十五分である旨がデジタルで表示され、それが点滅を始めた。
「じゃあ四十五分経ったら、一旦戻ってこようか。シトリン、水着に着替えよ?」
「はい!」
シトリンは水着に着替えつつ、マリンの裸体を横目でチラチラと観察する。
(マリンさんは下から履くタイプなのか)
シトリンは胸に自信がないので、先に隠せるようにと上から着るタイプだ。
そして視線はどうしても、マリンの形のいい乳房に引き寄せられる。だがそれは、下心からくるものではなくて
(注射針の痕も、ほとんど消えてきたな)
そう思って、自然と笑みがこぼれる。
「あの、シトリン?」
「……」
「シートーリン?」
「え?」
シトリンは呆けてたようで、思わず我に返って。そして自分の右手がマリンの左乳房をさすっていることに気づいて、自分で自分に仰天してしまう。
「ああああっ、あのっ‼ こっ、これは違くてっ‼」
無意識化の行動だったのだろう。シトリンの右手は、注射痕が消えかけているマリンの左乳房を優しく掴んでいたのだ。
「あのあのっ、あのですねっ⁉ もうだいぶ消えたなって、それで嬉しくなってっ‼」
だがマリンは少し決まり悪そうに困ったような笑顔を浮かべ、
「シトリンには、だいぶ心配と迷惑をかけたんよね。本当にごめん……」
魔薬の支配下にあったとは云えど、シトリンを害する行為がたくさんあった。それは今でもマリンにとって、絶対に忘れてはいけない『過ち』として心に刻まれている。
「そういう意味では、胸に痕は残ったほうがえかったんじゃけどね」
己が罪の、証として。絶対に忘れちゃいけない目印として、そう考えて。
「冗談じゃないです。マリンさんの綺麗な胸が復活してくれて、私はとっても嬉しいんです‼」
「シトリン……」
マリンは感極まって、上半身裸のままシトリンに抱きつく。身長差がゆうに三十センチ以上あるものだから、自然とマリンの胸の谷間にシトリンの顔が埋まる。
「ママママ、マリンさん⁉」
瞬間的に、シトリンはボワッと顔面が真っ赤になってしまった。だがマリンは、その両手を緩めてくれることはなくて。
「シトリン、本当にいい子じゃけ……」
(マリンさん、泣いてる?)
マリンの胸に顔を埋めたまま抱きつかれているものだから、シトリンはマリンの顔を確認できない。だが、マリンの声が揺れて震えている。
マリンは片手で潤んだ自らの瞳を拭うと、両手を離してシトリンを解放。
「ごめんごめん、苦しかった?」
「いえ、幸せでした」
「?」
シトリンはクスッと笑うと、
「早くビーチに行きましょうよ‼」
そう言って笑う。マリンの涙は、見て見ぬふりをするのが吉だ。
(もうあまり、気にしないでほしいな)
そう思ったから。
「ほうじゃね。海水浴ならではの食べ物とか、食べさせてあげるけん」
「はい、楽しみです!」
そして着替え終わった二人、更衣室を飛び出して。マリンもシトリンもそれぞれ、眼鏡とモノクルは置いてきている。
「波打ち際まで競争じゃけん!」
そう言うが早いが、マリンが一目散に駆けだした。
「あっ、ずるい‼」
慌ててシトリンが後を追う。当然ながらマリンのほうが先に着いて、あとから追いついたシトリンの身体に両手で海水をかけた。
「何するんですかぁ~」
シトリンも負けじと海に入り、マリンに海水シャワーをお見舞いする。
――とまぁそんな感じで、二人は喜色満面で命のお洗濯。浮き輪にシトリンを乗せたマリンがそれを押しながら沖まで爆速で泳いだため、まるで波が割れるような大波が発生して、周囲の浮き輪の客がひっくり返り上下逆のカオスになったり。
マリンが本気で泳いだときの速度は、揚力を利用して走る水中翼船にも匹敵するのだからさもありなんである。
シトリンにとってかき氷で頭がキーンとなるのも初めてならば、かき氷を食べ終わったあとにシロップで染まったお互いの舌を見せ合うなんてことも初めてで。
時間が経つのも忘れて、二人は遊び続けた。そこへ、ビーチに設置された魔導拡声器の声。
『コイン洗濯機をご利用のお客様。洗濯が終わっておりますので、速やかに取り除いていただくようお願いいたします』
「あ、忘れちょった‼」
「私が行ってきますね」
シトリンが軽快に、タタタッと駆けて行く。マリンはその後ろ姿を見送りながら、
「女同士でっちゅうのも、ええんかもしれんね」
小さく、そう呟いた。
その後も二人はたこ焼きをハフハフと頬張ったり、サンオイルを塗ってもらうためにブラの紐を外してうつ伏せになったマリンに跨り、シトリンが背中にオイルを塗ってあげたり。
シトリンは途中で鼻血が出そうになって、というか出てしまいマリンの背中に垂らしちゃったりなどのハプニングもあり。二人の楽しい時間は、アッという間にすぎていく。
「シトリンは、肌がほどよく色付くタイプなんじゃね」
更衣室で水着を脱いだシトリンの肌は、水着部分とそうでない部分で綺麗に色が分かれていた。
「え、あれ? これなんです⁉」
「へ?」
自分のツートンカラーになった裸体を見ながら、シトリンが途端に慌てだした。
「何か皮膚の病気になっちゃったんでしょうか⁉」
「シトリン、落ち着いて‼」
なんとかシトリンを落ち着かせて、マリンは『日焼け』について説明。シトリンも納得いったのか、恥ずかしそうに俯いて。
「知りませんでした……みっともないところを見せてお恥ずかしいです」
「いやいや、知らんかったんじゃけ」
そしてシトリンはマリンの裸体に目をやり、
「マリンさんは色が同じですね?」
「あぁ……シトリンみたいに綺麗に日焼けできるタイプと違って、私は肌が赤くなるんよね。じゃから、サンオイルが必須なんよ」
「はぁ~、あのオイルにはそういう意味があったんですか」
「何じゃと思ってたん?」
「いや、なんでこんなことするんだろうなって」
そんなおかしなやり取りをして二人、顔を見合わせて吹き出す。
「今日は本当に、初めて経験することばかりで楽しかったです‼」
二人とも着替え終えて更衣室を出ながら、シトリンがしみじみと話す。
「それは良かったけん。でもまだまだ今日は終わっとらんけ、宿の料理と温泉も楽しみじゃね!」
「はい!」
途中の露店でりんご飴を買い、二人は海沿いの道を歩く。水着を買ったお店でビーチサンダルも買っていたので、それを履いて。
二人とも靴や眼鏡、モノクルなどはそれぞれのコンテナーバッグに仕舞っていた。
「マリンさん、眼鏡なくて大丈夫ですか?」
「大丈夫。シトリンがおるけん」
何故自分がいるから眼鏡がなくても大丈夫なのかわからなかったが、シトリンは思わず照れ笑いだ。
やがて宿の入口に着いてマリンとシトリン、二人カウンターへ向かい。
(ここでも奴隷が入場を制限されたりとか、あるんじゃろうか)
と危惧するマリンと、
(って考えてるだろうから、マリンさんがキレないように見張っておかないと‼)
と腹を据えるシトリン。名コンビである。
「奴隷、ですか?」
キョトンとして、カウンターでワフクと呼ばれるアルコルの民族衣装を着た受付嬢がマリンに問い返した。
マリンは少し厳しい視線で返事を待ち、それをシトリンがハラハラしながら見守る。だが心配は杞憂だったようで、
「それって、帝国の身分制度の話ですよね? ここはヤーマですよ、ご安心ください」
帝国目線では、アルコルは自治区扱いだ。言葉は悪いが、『戦争をしかけないでおいてやるぞ』という上から目線。
だがこの国の国民にとっては、『ヤーマ諸島連合国』が正式名称なのだ。連合国というだけあって、ここシュラ島も独立した国なのである。
このシュラ島のような小さな島国の集まりがヤーマであり、一番大きな島にある『トキーオ皇国』がそれらを束ねていた。
マリンがホッとしたのもつかの間、受付嬢はシトリンをチラリと見やって。
「そちら、獣人さんですよね?」
瞬間的にピリッとした空気がマリンから放たれたが、マリンを宥めるようにシトリンが無言でマリンの手を握りしめる。
「シトリンは獣人ですが、それが?」
マリンの表情も自然と険しくなるものの、受付嬢はなんで睨まれてるんだろうと首を傾げつつ。
「獣人の毛にアレルギーがあるお客様などのために、人間族と獣人とでは入浴時間が交代制になっております。こちらのパンフに入浴時間が書かれておりますので、ご覧になってください」
なんだそういうことかと、マリンとシトリンは安堵した。もっともマリンとシトリンの安堵の意味は、それぞれ違ったけれど。
だけどすぐマリンは、渋い表情を浮かべる。。
「私は、シトリンと一緒の時間には入れないってことですか?」
奴隷差別はこの国にはなかった。獣人と入浴時間がわかれるのは、差別じゃなくて区別だ。
そういう事情だからマリンも、強く出られなくて。
「あ、ご一緒に入りたいということでしたら獣人の入浴時間に人間族もお入りいただけますのでご安心ください」
「それは重畳じゃね」
そう言ってマリンはようやく、この宿に入って初めての笑顔を見せる。そしてシトリンは、心の底から安堵するのであった。
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