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第五話・人魚姫は恋願う
しおりを挟むこれはとあるニホン人少女の、最期の記憶――。
あの日わたしは、一人ぼっちになった。
幼稚園の帰りのバスがおうちの近く、いつもの場所で停まる。でもいつもと違うのは、そこにママがいなかったこと。
「あら? 茉莉花ちゃんのママが来ていませんね?」
先生が訝しみながら左右を確認するが、ママはいない。泣きそうになるわたしを、『大丈夫、大丈夫だから!』と抱きしめてくれる。わたしのおうちに電話をするために、スマホを取り出す先生。
「出ないわね……」
そのときだった。
「火事だーっ!」
そう叫ぶ声が聴こえた。火事ってアレよね、おうちが燃えちゃうことだよね。
少し離れたおそらに、黒煙がもうもうとあがっていた。風に乗って、焦げ臭い臭いが鼻腔を刺激する。
「あ、アルトお兄ちゃんだ!」
なんとなくボーッと遠くの黒煙を見上げていたら、その方向からアルトお兄ちゃんが走ってくるのが見えた。
お兄ちゃんといっても、お隣のおうちの息子というだけで実の兄妹ではないけど。いつもわたしを可愛がってくれる大好きなお兄ちゃん、近所の中学に通ってるんだって。
アルトお兄ちゃんはわたしの前で止まると、ぜぇぜぇと肩で荒い呼吸だ。
「どちら様ですか?」
園児を守らないといけない立場の先生としては正しい対応なのだろうな、不審者を見るような視線をアルトお兄ちゃんに向ける。わたしをかばうように、アルトお兄ちゃんとの間に入る。
「ハァハァ……すっ、すいません。自分は小津有人と申します。茉莉花ちゃんの隣に住んでいます!」
「茉莉花ちゃん、本当?」
そう問いかけてくる先生に、
「ほんとうだよ! 優しいお兄ちゃんなの!」
なんとなくアルトお兄ちゃんが先生に警戒されているのが幼な心にわかったので、破顔一笑の表情で必死に取り繕うわたし。
「今日はお母さまでなく、小津さん……でしたっけ? そちらが迎えに来たということですか?」
半分くらい警戒を解いた感じの先生が、それでも胡散臭そうにアルトお兄ちゃんに問いかける。アルトお兄ちゃんは……あれ? 顔面蒼白なんですけど。
「あの、あの煙、火事が……」
まだ呼吸の荒いアルトお兄ちゃんが、小さくそうつぶやく。瞬時に先生も察したのだろう、サーッと顔が青ざめるのがわかった。
「まさか、茉莉花ちゃんのおうち⁉」
え……。なんて?
「茉莉花のご両親は、先ほど救急車で運ばれていきました。うちの母が付き添ってますので、病院がわかりしだい僕に連絡が」
スマホの着信音が、アルトお兄ちゃんの言葉を遮る。
「ちょっとすいません!」
アルトお兄ちゃんはスマホを取り出しながら、先生に向かって頭をペコッと下げて。
「母さん、病院決まった? うん、うん……わかった! 茉莉花? 今目の前にいるよ。え?」
アルトお兄ちゃんが、チラとわたしを見る。そして――。
「市民病院に搬送されるそうです。僕が茉莉花を連れて行きたいのですが、よろしいですか?」
「え、えぇ。私の電話番号をお教えしますので、詳細がわかりしだい私にも連絡をいただけますか?」
二人は番号の交換を手早く済ませ、
「それじゃ預かります。茉莉花、おいで!」
「はい、お願いしますね」
アルトお兄ちゃんは、幼児の小走りの速度に合わせて私の手を引いてくれる……のだけど、幼児の走る速さなんてしれてる。途中から私を抱き上げて、一目散に走る。送迎バスの前で手を振る先生の姿が、どんどん遠くなって。
広い道路に出ると、アルトお兄ちゃんがタクシーを停めた。
「市民病院までお願いします、できれば急ぎで!」
「はいよ」
運転手さんとそんなやり取りがあって、タクシーは走り出した。
パパとママは救急車の中で心肺停止状態で人工呼吸を受けていたこと、一度も目覚めることなく病院で死亡が確認されたこと。
それらは、あの日から七年も経ってから知らされた話だ。死因は急性一酸化炭素中毒。火事による火傷はない綺麗な身体だったのを憶えている。
救急車の中での話は、小津のおばちゃんから電話で知らされてあの日のアルトお兄ちゃんも知ってたんだとか。
あぁどんな気持ちであの日、アルトお兄ちゃんは病院へ連れて行ってくれたのだろう。このことを知ったとき、真っ先にその考えが頭をよぎった。
それからさらに三年、私は十五歳になった。児童養護施設での生活も十年近く、施設ではもう古株になる。
『草の戸も 住み替はる世ぞ 雛の家』
とはどっかの俳人の句だったか。元住んでいた家は、今は知らない一家が棲んでいる。知らない子どもが知らない大人をパパママと呼び、笑顔の絶えない幸せな家族がそこにいる。
はっきり言って少し複雑ではあったけれども、今となってはもう私にとっては夢の跡だ。
だけど、あの日からずっと変わらないのは……隣の小津家。優しいおじちゃんおばちゃんと、アルトお兄ちゃんが住む家。施設を抜け出しては会いにきた私に、困ったように笑いながらそれでも向けてくれた笑顔はずっとずっと変わらない――と、思ってた。
施設から小津家へは徒歩で三十分ほどの距離。十五歳になった私は、来年の高校受験も控えていたのでなかなか小津家へ遊びにいくことができなくなっていた。もう、何日会ってないんだっけ?
今ではアルトお兄ちゃんも、二十四歳の立派な社会人。イケメンだから、会社ではさぞかしモテてるんだろうな。
だから、嬉しかったんだ。施設とも小津家とも方向の違う、海の見える国道沿いの牛丼屋からアルトお兄ちゃんが出てきたのを、防潮堤を隔ててすぐ海がある反対側の歩道から発見したとき。私は、勉強のために図書館に行った帰りだった。
「アルトお兄ちゃん!」
嬉しくって、ほんとすっごく嬉しくって、思わず駆けだした。アルトお兄ちゃんはすぐに私に気づいて、そして――。
「バカッ、茉莉花! 来るな!」
え? え? 何で? アルトお兄ちゃんの怒声と、けたたましいクラクションの音、急ブレーキでタイヤが軋む音、沿道の人の悲鳴やら遠くをえい航する貨物船の汽笛やら、いろんな音が私を包み込む。
何がなんだかよくわからなくて、そして次の瞬間『ドンッ!』という衝撃を受けて私の身体は路肩にたたきつけられていた。
「痛っ……」
頭も打ったのかな、何かクラクラする。何が起こったの?
「えっ?」
目の前には、反対車線側に停止した大きなトラック。私が倒れてる側の車線では、路肩で倒れている私を気遣ってか数メートル手前で車が停まっている。トラックの運転手さんも、車のドライバーさんも青い顔だ。どうしたんだろう?
トラックの前方に、多くの人が集まり始めた。牛丼屋からも人が次々と飛び出してきて、ざわざわと騒がしい。
「大丈夫か!」
「しっかりするんだ!」
そんな悲鳴にも似た叫び声が聴こえてくる。そういやアルトお兄ちゃん、どこだろ……。
そう思ったとき、取り囲んでいる人たちの脚の間から見た光景は今も目に焼き付いている。そこにいたのは、道路に横たわる血まみれのアルトお兄ちゃんだった。
「あなたも大丈夫?」
優しそうなおばちゃんが、中腰になって私を気遣う言葉を口にする。
「えっと、大丈夫です……あっ!」
慌てて立ち上がり、人の輪へ一直線に駆けだす。
「どいて! どいてください! お兄ちゃん、アルトお兄ちゃん!」
人の輪を強引にかきわけながら、アルトお兄ちゃんの元へ。
「ア、アル……お兄ちゃ……」
路上に横たわっているアルトお兄ちゃんの頭からは、ドクドクと血が噴き出している。
「もしもーし! 聴こえますか⁉」
背が高くて綺麗なお姉さんが、路上に横たわっているアルトお兄ちゃんに大声で呼びかけていた。
私は知らなかったんだけど、交通事故の被害者にまず最初にやるのが意識の確認。身体はできるだけ動かさずに。そんなこととは露知らず、
「アルトお兄ちゃ、しっかり! しっかりして!」
慌てて駆け寄りアルトお兄ちゃんの身体を起こそうとする私を、年配のおじさんが背後から羽交い絞めにした。
「落ち着きなさい! こういうときは動かしちゃダメだ! おい、尾先! その男性はもう意識がない! 俺がこの子を抑えてる間に通報頼む!」
「わかりました部長、お願いします!」
そう言って、お姉さんはスマホを取り出す。後に私、このお姉さん『尾先ゆら』さんと異世界で再会することになるのだけど、それはちょっと先の話。
喧噪が絶えない空気の中で、記憶が少しずつ蘇ってくる。
よりによって私は、交通量の多い片側一車線の国道を、アルトお兄ちゃんに久しぶりに出会えた嬉しさから左右確認もせずに飛び出してしまったのだ。横断歩道ではなかったから、もう自殺行為といっていい。
そしてアルトお兄ちゃんは、私を助けるために自分も飛び出して……アルトお兄ちゃんに突き飛ばされて、私は反対車線の路肩まで吹っ飛んでしまったのだった。幸い、こちらの車線は車の流れが断続的でたまたま途切れたところだったから、私は九死に一生を得た。
だけど、だけど。お兄ちゃんがいた側の車線は、車が途切れることなく継続的に車が走っていたんだ。
私を助けるために自らも車道に飛び出たアルトお兄ちゃん。時刻は、十八時を回ろうとしていた。
遠くの水平線に陽が沈もうとしていて、あたりが急に暗くなり始めてて。こういうのって、『逢魔が時』っていうんだっけ。
私が脱力したのに気づいてか、おじさんは羽交い絞めをといてくれた。足の力が抜け、ヘナヘナと座り込んでしまう私。
「大丈夫かい?」
おじさんは心配そうに声をかけてくれたが、私は呆然としたまま目の前に横たわるアルトお兄ちゃんの躯を見つめ続けてて。そのとき、アルトお兄ちゃんの瞳が少しだけ動いたのがわかった。アルトお兄ちゃんの瞳がこっちを、私を見ている。
「茉莉……良かっ……」
アルトお兄ちゃんは、何か言おうとして優しい表情で私に微笑みかける。そして、そのまま意識を失った。
「アッ、アルトお兄ちゃん! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめ……」
路上で倒れたままのアルトお兄ちゃんに縋って泣きじゃくる私の声は、もうアルトお兄ちゃんには届かない。
「うっ、うっそだぁ?」
涙が、次から次へとあふれて止まらない。もう、何も視えない。やがて遠くから、救急車のけたたましいサイレンの音。
逢魔が時、アルトお兄ちゃんは茉莉花という『魔』に出逢ってしまったのだろうか。
――お通夜のために小津家に訪れた翌々日のことだった。
「何しに来た! 来るな! 帰れ!」
玄関先で、泣き叫びながら半狂乱になって靴やらスリッパやらを次々と投げつけてくるのは、優しかった小津のおばちゃん。
「茉莉花ちゃんのせいで有人は! この人殺し!」
おばちゃんの投げた花瓶が私のこめかみに直撃して、割れる。ちょっと切ったみたいで、顔に一筋の血が垂れて流れる。
目に涙を浮かべて、私に怨嗟の罵声を投げかけてくるおばちゃん。それを後ろから抱き留めるように阻止したのは、靴も履かずに慌てて飛び出してきた小津のおじちゃんだった。
「ママ落ち着け! 落ち着くんだ!」
「返して! 有人を返して!」
それでも恨み骨髄、我が子を失って鬼子母神と化したおばちゃんの憤懣は治まらない。
「申し訳ありませんでした! 申し訳ありませんでした!」
私は、お二方の前で土下座しながら何度も何度も泣き叫び続ける。
たくさんの弔問客がギョッとして見守る中、半狂乱になった故人の母親とそれを必死で宥める故人の父親。その目の前で、中学のセーラー服を着た女の子が額から血を垂らして泣き叫びながら土下座をしているのだ。それはそれは、異様な光景だったろう。
「茉莉花ちゃん、今は家内がこんな状態だ。大変もうしわけないが、しばらく我が家に来るのは控えてもらいたい」
小津のおじちゃんはそう言って、半ば強引におばちゃんを玄関内に押し込むと後ろ手でピシャンッと強く扉を閉めた。力の入ったその閉め方に、私はおじちゃんも怒っているのだと察してしまう。
いつまでも土下座したままの私は、憐憫の表情で見守っていた弔問客のうちの一人にうながされるようにして立ち上がって。そしてフラフラと、おぼつかない足取りでその場をあとにした。
もう人生、消化試合。ううん違う、贖罪のために生きないといけない。
大好きなお兄ちゃんを、その家族を悲しませた自分に幸せになる資格なんてない。絶対にない、だから……。
自分でも覚えていないが、いつのまにか高校生。受験した記憶なんて全然なくて。
養護施設から通うのは私だけだった。そして親なし子だのはまだいい、そんなの小学校でも中学校でも言われてたし。
「あいつでしょ? 道路に飛び出して、自分をかばってくれた人を死なせた奴」
「小さい子ならともかくさぁ? 普通、いい年にもなって道路飛び出す?」
誰から聞いたのかどこから漏れたのか、そんな陰口を叩かれるようになった。
生気のない表情で無口、友達なんて一人も作らない挨拶もしない。そんな私だったから、あっという間にいじめのターゲットになった。
上履きを隠される、教科書を破られる、机に落書きされるなんて当たり前。階段から突き落とされたときは、さすがに手首を骨折してしまった。
髪を切られたこともあった。便器なんて、何度舐めさせられただろう。
(これは……)
休憩時間に、トイレから戻ってきたときのことだ。私の椅子に、ビッシリと画鋲が敷き詰めてあった。普通この手のいたずらは、一個か二個ぐらいで目立たないようにしておくのがセオリーだけど。
椅子の座面は笑っちゃうぐらいキラキラに、メタリックに輝いている。
普通は、知らずに座って痛みで飛び上がるのを見てケラケラと笑う。そんなことがしたいのだと思う。
でもこれは、明らかに心理的ダメージを与えるためのいじめだ。これを仕かけた人たちだって、私が気づかずに座るだなんて思っちゃいない。
だから、彼らの目に映ったその光景はすごく異様だっただろう。
私は、その椅子に思いっきり腰を下ろした。何十個、ううん百個以上あるかな。無数の画鋲が、私のお尻と太ももの裏に突き刺さって埋まる。
「いぎ……っ⁉」
でもダメだ、腰を上げては。これは、人殺しである私への罰なのだから。
お尻に、ヌルヌルとした温かい湿りを感じる。血が出ているんだろうな。私の穢れた咎人の血が。
ポタポタと椅子から垂れる血液の音と、周囲からの固唾を呑む音が聴こえてくる。
授業が始まって、教師がそれに気づいてくれるまで私はずっとそうしていたんだ。
最初は、教師たちは私を助けようとしてはくれてた。だけど私が、いじめられたことを頑なまでに認めなかったもんだから、そのうち何も言われなくなった。
だってそう。これはいじめじゃない、罰なんだ。本当は死ななきゃいけなかった私への。
アルトお兄ちゃんは、もっと生きたかっただろう。おじちゃんやおばちゃんと、いついつまでも仲のよい親子として幸せに暮らしたかっただろう。
風の噂で、おじちゃんとおばちゃんが離婚したと聞いた。今は小津家のあった場所は更地になっていて、何もかもが失くなってしまった。芭蕉風にいうなら、雛の声さえも聴こえない。
私が、あの幸せな一家をぶち壊した。壊してしまったんだ。
だからどんなにいじめられても、心は晴れない。私の贖罪は、まだ終わらない。
あの画鋲事件以来、私へのいじめはピタリと止んだ。
そして同時に始まったのは、『無視』といういじめ。教師からも生徒からも、もう私は視えていない。無断で学校をサボっても、住んでいる養護施設に連絡なんか来やしない。
修学旅行には、行かなかった。旅荷物を持っていつもどおり家は出たけど、周囲から無視されている状況で修学旅行なんて楽しめないし。
何より、私と同じ班になる子が迷惑だろう。だから、足は自然と学校ではなく――。
「アルトお兄ちゃん、こんにちは。また来たよ」
いつのまにか、『ここ』に足が向いていた。あの日、アルトお兄ちゃんを私が殺した場所に。
話しかけるのは電信柱にくくりつけてある、すっかりボロボロになってしまった老朽化した白い花瓶。その花瓶に生けるのは、途中の花屋さんで買った茉莉花の花。
あなたを殺したのは茉莉花ですよという、罪科の証明になればいい。そんなことを思いながら。
花瓶にしゃがみこんで、手を合わせる。口からぶつぶつと出てくるのは謝罪の言葉と、自分へのどうしようもない怒り。堰を切ったように慟哭の涙が止まらない。
通りかかった人が一様にギョッとして私を見つめ、二度見三度見しては歩み去っていく。
反対側のあの日私が飛び出した歩道は、高さが一メートルちょっとの防潮堤を隔ててそこはもう海だ。花瓶のある電信柱から近くのバス停のベンチに座ったまま、ボーッと海を見つめる。
私を乗客だと思ったバスが、扉を開けても乗らない私に見切りをつけては発車していく。
行き先は一つしかないバス停だ。バックミラー越しに運転手が舌打ちするのが見えているのだが、私は気づかなかった。
どのくらいそうしていただろうか。『あの日』と同じ、時刻は逢魔が時に差しかかる。遠くの水平線に、陽が沈むのが見えた。
(帰ろう……)
もうすっかり暗くなっていて、一番星が昇っている。修学旅行に行ったクラスメートたちは、今ごろホテルで美味しいご飯でも食べてるのだろう。
帰りのバスは、向こう側の車線。あちらのバス停に行くには、普段は押しボタン信号機になっている横断歩道を使うことになる。
(なかなか信号変わらないな)
ボタンを押して、もう三分くらい待ってるような気がする。ここの信号機はいつもそう。まぁ滅多にここを渡る人がいないのもあって、横断歩道があるというのに車が減速もせずにビュンビュンと通りすぎる。
それなのに、不思議と静かな波の音しか聴こえない。少し荒っぽい潮風が、私の髪を梳いていく。寄せては返す波の調べが、『知らない世界へ行こう』と歌っている。
(知らない世界……に?)
あぁ、この哀しみから悔恨から、解放される世界があるの? 本当に?
私は、もう私ではなくなっていたのかもしれない。一歩一歩、波の調べに誘われるがままに歩みを進める。
そしてそれは贖罪を放棄した無責任な私への、死神からの断罪だったのだろう。歩行者が滅多にいない押しボタン式信号機の横断歩道なのだから、車道側の信号はいつも黄色点滅。
そのトラックの運転手も『いつもどおり』を決めてかかり、煙草を胸ポケットから取り出して口にくわえる。助手席に置いてあるライターを取ろうとして、視線は真横を向く。
だから『あの日』と違い、クラクションも鳴らなければ急ブレーキでタイヤが軋む音もしない。
逢魔が時、私は『死神』と邂逅した。そして――トラックのヘッドライトが照らした私の最期の表情は、とっても幸せそうに確かに微笑っていたんだ。
アルコル領・シュラ島。大陸からミザール王国最南端の港湾都市・ブルーウッズを南下して、最初にたどりつくアルコルの地だ。
帝国側からは『アルコル諸島自治区』なんていう上から目線の呼称で呼ばれているが、アルコルの『国民』としては不愉快だろう。実際に、アルコル内部では『ヤーマ諸島連合国』が正式な国名なのだから。
複数の小国から成るヤーマ諸島連合国は、一番大きな面積を誇る『ヤーマ列島国』の統治下にある。こちらにも絶対君主的な存在はいるのだが、あくまで『象徴』としての存在で為政に携わることはない。
ヤーマは都市国家の連合体なので、各々の小国はそれぞれの君主によって統治されているわけだ。そしてここ、シュラ島は――。
「自由民主義だね」
「自由民?」
「そう。シュラ島……シュラの国は、身分制度がないの」
へぇ、珍しい。
「といってもね、領主はドゲンカー一家による世襲制なんだけど。悪くいえば独裁。まぁ島民が圧政に苦しんでるとかは聞かないし、むしろ観光大国。島民の暮らしは裕福なほうだよ」
ふむふむ。
「それにしてもティア、凄いね! さすがは温泉の島って云われてるシュラ島だよ、あちこちから湯気が立ち上ってる!」
「圧巻だよねぇ。湿度凄そう」
「……何で湿度の話になるかな?」
うん、やっぱツッコミ役がいると遠慮なくボケれていいね!
港によって違うのだけど、ここは船から出る際に切符が回収されるスタイル。例によって例のごとく、切符裏には渾身の駄作をば。
『潮騒と 一期一会の 夏の海』
うーん、お粗末。
(一期一会、か)
あのアンさんていう聖女さんと、また逢えるかな。逢えたらいいな。
降りた乗客を出迎えるターミナルの職員さんは、ターニーと同じドワーフのおじさん。長髪でヒゲだらけのオーソドックスな、と言ったら失礼か。ターミナルの職員の制服は着ているのだけれどもね。
ドワーフって鍛冶屋の印象あるけど、誰もがそうじゃない。
商売は競争だからね、勝つ人がいる限り負ける人もいる。職人としての腕と商才は比例しない。
現にソラの商会を仲介にしていなかったら、ターニーはくっそヤバい武器をお酒のボトルと引き換えにポンポン作ってただろう。武器市場が崩壊しちゃう。
どこの世界も、誰もが自分が夢みた職にありつけるわけじゃないのだ。
うーん、話が逸れた。私が切符の裏に書いた落書き、もとい歌に気づくおじさん。やばいな、怒られる?
「いい歌だな。同じ波は二度と見れないもんな」
そう言っておじさん、私が差し出した切符を回収箱じゃなくて自分のポケットに入れちゃった! え? え? 持って帰っちゃうの⁉
「きょっ、恐縮です!」
思わず顔が真っ赤になっちゃう。俳句を始めとする和歌は素人の横好きなので、胸を張れる腕前があるわけじゃない。それに物理で血液が流れていないこの妖精体で、顔が真っ赤になるっていったいどういう現象⁉
でも、私が句に込めた思いをサラッと述べてくれたの、本当に嬉しい。
そしてこのドワーフのおじさんの言葉で思い出すのは、前世ニホンでの鎌倉時代の随筆家である随筆家・鴨長明。その代表作である『方丈記』の書き出しが、確かこんなの。
『行く河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。淀みに浮ぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて久しくとゞまりたる例し無し。世の中にある人とすみかと、またかくの如し』
その瞬間に、私が目にした波の数、形、香り。それら全部は、一秒後には二度と再現することのできない『命』だ。だからこそ、その機会を大事にしようっていうね。でね、おじさん?
「お疲れ様です、姫様。それがし、アルデバランと申す路傍の石にございますれば」
ってターニーに。え? ターニー、姫様なの?
「くっそ笑う!」
「笑うな! おじさん、姫はやめて!」
褐色肌のターニーなんだけど、顔が真っ赤だ。まぁわかる気はするよ。
原初のドワーフなんて、もはや神話の域。姫扱いはまだマシなほう、はっきりいってドワーフ界の女神様だ。
……まぁ私も、妖精界では同じような扱いなんだけどね。だから、からかってばかりもいられない。ブーメランは痛い。
「からかってごめん。でもドワーフたちにとって、あなたは胸を張って自慢したい『お姫様』なんだと思う」
「わかってるよ! だからそれ表で言うのやめてほしいつーかね?」
「おっしゃるとおりです。ターニー師は我々ドワーフにとっては女神にも等しい存在であり、」
そこまで言って、アルデバランさんだっけ? 私の羽をチラ見して。
「……あの? あなたはもしや⁉」
ヤバい!
「あー、ターニー師に気に入られてよく連れ回されるんですけど、正直迷惑しているんですよ。同じ妖精族なのもあって、ティア師によく間違われましてっ‼」
とっさに出たにしては上手く嘘をつけた……と思ったんだけど。
「ほ~ん?」
そう言いながら笑い噛み殺してるな、このクソジジイ。てーか、妖精の私さんは『とっさの嘘が上手くつけない』という、妖精族独特のくっそめんどくさい仕様なのでした。
眼球がシンクロナイズドスイミングしてたので、大嘘はバレバレでしょうね。んでもってさ?
「え? ティア姉、何をおっしゃってるのですか?」
くっそ! 突然のわざとらしい敬語もそうだけど、お前から『ティア姉』とか初めて呼ばれたわっ、ボケがぁっ!
そう呼んでいいのはソラとデュラだけ――ってあいつらにも許可した覚えはないんだった。年齢だけなら、常に私が一番年下なんだよね。物理で。
それにしてもわかってて言ってるでしょ、悪ノリがすぎる。そしてアルデバランさんも、ターニーと並んでニヤニヤしてる。ムカつく!
結局、私たちの後ろにも切符回収の順番待ちのお客さんがいたので、それ以上のやり取りはそこでストップ。
とりあえず『塔に生きて帰れたらやりたいことリスト』の、『とりあえず殺しとくリスト』にお二人の名前を連ねておきました。
連絡船を降りて、ターミナルまで桟橋をテクテク。
(ん?)
桟橋のすぐそば……の海面。綺麗な女の子?が海中から貝殻ビキニ姿の上半身を出してるんですけど??? そして、私たち降船客一人一人の顔をじっくりと確かめては、ガッカリした表情で寂しそうにうつむく。誰か探している、のかな?
「ティア?」
突然立ち止まった私を置き去りにしてしまったので、ターニーが慌てて戻ってきた。ごめんね。
「ねぇ、アレ」
桟橋を足早にターミナルに急ぐ降船客を一人一人チェックする海中の女の子を、ばれないように手のひらで隠して指さす。指さされるのイヤだろうと思ったから。
「ん? おわっ、女の子が海に落ちて……じゃないね?」
「うん、海霊族の子みたい。人魚種みたいね」
海霊族は下半身が魚か鳥、羽があったりなかったりで、その外見はバラエティー豊かな魔人寄りの亜人だ。そのうち、羽無しで下半身が魚の形態の種族が人魚と呼称されている。
誰を探しているのか知らないが、一番最後の降船客になってしまった私とターニーをチラと一瞥すると、興味なさげにボチャンッと潜っていなくなった。探しているのは男の人かな?
港のターミナル。ターニーが総合案内所のカウンターで空き宿を探してきてるのを待っている間、待合室で時間を潰す。
(あれ? 羽猫そばだ)
うーん、帝国外にもチェーン店があるのかぁ。って、あれ?
(あの子だ……)
ガラス越しに、あの水色ちゃんがお蕎麦を食べてるのが見えた。そして例によって例のごとく、こっちを見てるんですけど⁉ 可愛い女の子がお蕎麦をズズッといきながら凝視してくるの、ほんと怖い!
「何かしたかな、私」
うーん、覚えがない。
「何ブツブツ言ってんの、ティア」
「あ、ターニー。ううん、何でもない」
お蕎麦が好きなのかな? じゃなくて。まぁ何か用があれば、向こうからコンタクトしてくるだろう。妖精が珍しいだけかもしれない。
「宿とれたよ。送迎馬車が表に来てるそうだから、急ごう!」
私はターニーに促されると、席を立つ。
「いや~、楽しみだねぇ!」
もう人魚ちゃんのことも水色ちゃんのことも、気にしてもしょうがない。私は異国情緒溢れる街並みを一瞥すると、旅館からの送迎馬車に乗り込んだ。
「文化が違うって聞いてたけど、もう全然違うねぇ!」
キョロキョロと窓の外を見ながら落ち着かないターニー。そして私もまた、ターニーとは違う意味で挙動不審になってた。
(ニホンやん……)
和瓦の家屋、黒髪黒い瞳のアルコル人たち。温泉街だからか、ユカタ姿が目立つな。和服・振袖姿の人もいるし、舞妓さんだか芸妓さんっぽい人もいる。
もちろん、帝国からの観光客も多くて全員が洋服だ。でも、
「あの衣装、高いのかな?」
ターニーが振り返り、和服を欲しそうな目でこちらを見ている。
「キラッキラッしてる複雑な刺繍のあるやつはピンキリだけど、それなりの値段はするわね。単純に前を合わせてるだけのは安いよ。ただ生地が薄いやつはユカタといって、バスローブみたいなもんだから普段着には使えないかも」
「ティア、詳しいね?」
「そりゃね」
ってことは、料理も和風なんだろうか。転生してきたきたばかりでまだ『和食食べたい!』なんて禁断症状は出てないけど、和風旅館でナイフフォーク両手にステーキもないでしょ。ちょっとだけ期待しておこっと。
旅館はちょっとした高台にあるので、途中で馬が苦しそうだった。ごめんね。そして車窓に流れる異国の景色を楽しんでるうちに、馬車は小一時間ほどで旅館に到着。
「いらっしゃいませー!」
人間族のみならずさまざまな亜人も混じった仲居さんたちが、旅館の玄関で頭を下げて出迎えてくれた。
それぞれに担当客が決まっているようで、私たちの担当は海霊族のおばちゃん。下半身が鳥で羽はないタイプだ。
「お部屋までご案内しますね!」
ターニーの荷物は、いったい何が入っている(じゃなくて入っていない)のか知らないが小さなボディバッグのみなので、おばちゃんは私のキャリーだけを代わりに持ってくれてる。
玄関で靴を脱ぐスタイルの旅館だったから、車輪が廊下に接地しないように片手で軽々と持ちあげてる。腕力凄いなー。
「重くてごめんなさい……」
ついつい謝ってしまった。
「いいえー! お気になさらず。これも仕事ですから!」
ニカッと笑って、さらにキャリーを持つ手の位置を高くするおばちゃん。そこにシビれる! あこがれるゥ!
「こちらになります!」
部屋はやはり和風。アルコルのこの文化は、ニホンからの転生者によるものなのだろうか。逆の可能性もあるよね。
アルコルの国民が、異世界である昔のニホンに転生しちゃったという可能性も微粒子レベルで存在するかもしれない。まぁどっちでもいいや。
「お茶をお煎れしますか?」
とのおばちゃんの言葉に、意味がわからなくて目を白黒させるターニーさん。
「いえ、あとは私たちで大丈夫です。ありがとうございます」
「そうですか。ではごっくり!」
深々と頭を下げておばちゃんが下がったのを確認すると、
「くつろぐ私たちのために、お茶も煎れてくれるサービスがあるんだよ」
と説明すると、ターニーは納得顔。
「至れり尽くせりなんだねぇ!」
「そういう干渉、嫌う人もいるけどね」
私は嫌いじゃないんだけど、やっぱ第三者いると落ち着かないってのもあってお断りしたんだ。
「お茶、煎れるね?」
「ありがとう、ティア!」
いそいそと、お茶を用意。お茶菓子は、ターニーが好きそうなお饅頭だ。
「乾杯いっとく?」
「緑茶で?」
女子二人、バカみたいな会話をしてケタケタ笑い合う。そんなこんなでティータイムを終えて、さっそくです!
「オンセンへゴー!」
ターニーのテンション高いです。二人でユカタに着替え、アメニティセットと下着の替えを持って部屋を出る。大浴場目指して歩いてたら、別の廊下との合流地点でほかの宿泊客とぶつかりそうになったんだけど。
「ア、ゴメナサ!」
「いえ、こちらこそ」
よく見たら、桟橋で見た人魚ちゃんではないか。
「あら、あなた? 桟橋にいた……」
その人魚ちゃん、ちょっとだけ訝し気な表情になったものの私たちの顔にすぐ思い当たったようで、
「ア、ミナトイマシタ、ヒトデスネ?」
ん? 言葉がカタコトだな。
「そうです、誰かを探しておられるようでしたけど」
特に知りたかったわけじゃない、沈黙を埋めるための会話だ。その人魚ちゃんも大浴場に行こうとしてたみたいで、私たちと並んで歩く形になっちゃったから。
「地元の方なんですか?」
人魚界の常識というか風習が、よくわからない。ひょっとしたら遠洋から泳いでやってくることもあるのかもしれないけど。
「ウミノ、セイレーン。アマリ、ジモトトカ、ナイデス」
「じゃあ海全部、お庭みたいな感じなんですか?」
ターニーも会話に入ってきた。
「ソウイウワケ、チガウ」
慌てて手のひらと首を振って、何て答えていいのかわからず困ったように笑う人魚ちゃん。っていつまでも人魚ちゃんもないな。
「あ、名前言ってませんでしたね。私はティアです、見てのとおり妖精族。こちらはターニー、ドワーフです」
海の中に住んでる民さんからしたら、賢者六人衆てあまり知らないだろうなーと思ったので正直に紹介。やっぱり知らなかったようで、人魚ちゃんは特にびっくりした様子もなかった。
「ワタシ、ジャスミン、イイマス。ヨロシクデス」
ジャスミンかぁ、そういやこっちにもあるんだ? 前世の世界で、和名が確か『茉莉花』。その花言葉は、確か『愛らしさ』だったかな。
「お似合いの綺麗な名前ですね!」
カタコトしか喋れないのに、笑顔を絶やさず私たちと頑張って会話しようとしてるのを見て、本当に花言葉どおりの人だなと思った。
「ア、アリガト、ゴザマス……」
うーん、顔を真っ赤にして俯いちゃった可愛い! って、ターニーさん? ジャスミンさんの足元をチラリチラリ。何見てんだろ、と思ったら。
「あれ? 足……」
足がどうかした? んん? そういや人間の足‼
「ア、コノウデワ、マドーグ。ニンゲンノ、アシ、デキル」
よく見ると、金色に輝く細い腕輪をしている。ただ、継ぎ目がない。それでいて手首ギリギリの太さだ、どうやってハメたんだろ?
この魔導具を使用して人間の足を手に入れることで、とてつもなく大きな代償を払うことになること。それでもどうしても人間の足を手に入れる必要があったのだと、ジャスミンさんはカタコトながら教えてくれた。
(大きな代償……そうまでして、人間の足を手に入れたい理由て何だろう?)
ちょっとそれは訊きにくくて、結局そのまま。ターニーも同様で、自分が振ったネタなもんだからバツが悪そう。
そんな私たちの態度を見て何か勘違いしたのか、
「ダイジョブ、イツデモ、モドセル!」
そう言ってニコッと笑うジャスミンさん。そうじゃないのだけど、これ以上話を掘り下げるのはやめよう。
「オフロ、ツキマシタ!」
ジャスミンさん、大浴場に到着してちょっとテンションアゲアゲです。もちろん、私たちも!
で、どう見ても和風な脱衣所。ロッカーは、木の板を差し込むタイプのレトロなカード?キーだったので、ターニーに使い方をレクチャー。
「なんで知ってんのよ、ティア?」
「あんたもだけど、私のこと何歳だと思ってんの」
そう言ったら黙った。賢者六人衆て無駄に人生経験多いもんね……と言ったらほかの四人に怒られるかな?
まぁ前世ニホンでの知識なんだけどね。ところで、ジャスミンさんは使い方を知ってたみたい。
「こういうところに泊まるのは、初めてですか?」
「エト、コノセカイ、オンセン、ハジメテデス」
コノセカイ……この世界? 地上の世界てことかな。って海中にも温泉あるのかしらん。
んでもって、三人仲良くすっぽんぽん。にしてもターニーのブラ、でかいなー。
片方だけでも、ご飯詰めたら大盛りサイズ。隣にはお味噌汁を入れて……すごくおかしな画を想像してしまい、慌てて打ち消す。私、こんな変態さんだったかな⁉
背は一番小さいけど筋肉質で引き締まってる上に巨乳のターニーと、背は結構高め(一七〇センチくらい?)だけど胸は平均サイズながら形のよい美乳シルエットのジャスミンさん。
腹筋はターニーのようなシックスパックじゃないが、モデルさんのような綺麗な縦線が浮いたそれと、脂肪の一グラムも無さそうな締まったウエストが羨ましくて眩しくて婀娜い。
「ジャスミンさん、いい身体しててうらやましい……」
「こらこらティア! 初対面の人に対して、それはちょっと失礼だよ!」
ターニーに半分本気で怒られたが、ジャスミンさんは気にする素振りもなくというか少し照れ臭そう。
「ダイジョブ、デス、アリガト、ゴザマス!」
そりゃね。女の子としたらスタイル褒められたら嬉しいもんね? 私は褒められたことないからわからないのだけどフンガーッ!
(いかんいかん、自爆しちゃった)
何だか、急に恥ずかしくなってきた。明らかに私、引き立て役だ。すでに入浴中の客が、私たち三人をジロジロ見ているぅ~!
(妖精だ……)
(妖精じゃん!)
(あ、妖精?)
(初めて見た、めっちゃ可愛い!)
(神秘的だなぁ。話しかけちゃダメだろうか?)
周囲の人たちのそういう思いを知らない私、勝手にセルフで針の筵なのでした……。
とりあえずかけ湯をして、まずは片足をチャポン。少し深めだったので、ターニーは膝を折って足裏つけてしゃがみこんでる感じ、私はちょうどいいのでお尻をつけて足を投げ出す。ジャスミンさんは高身長なので、ちょっとリクライニング気味に背中を浴槽の壁に預けてる。
「女の子が集まってオンセンで話すことといったら、やっぱ恋バナだよね!」
お? ターニーにしては珍しい発言。男の子に興味あったのか。こいつ、昔カノジョがいたことあるんだよね。
「へぇ、ターニー。そういう人いるの?」
「え、いないよ?」
ならなんでネタをフッたんですかね?
「ティアはどうなの?」
「私、今世でまだ五日も経ってないんだけど?」
「あ、そうだったね」
終了。じゃなくて!
「ジャスミンさんはどうですか? 恋バナ、ってわかるかな。何て言えばいいんだろ」
自分がフッた手前、ジャスミンさんにも声をかけるターニー。
「コイバナ、ワカル、マス」
「あ、良かった、通じた」
「ツライ、コイ、シテマス」
それは本当に小さな、とても小さな声で。でもそこはゲスい私たち、目を爛々を輝かせて。
「詳しく!」
「どんな? どんな恋なんですか?」
今思うと反省です、コレ。本当に申し訳ない。
いや、本当の本当に申し訳ないのは……アレ、発動しちゃいました。私に対して嘘がつけなくなるという魔眼、『真実の瞳』。
(あ、しまっ……)
と思ったときはすでに時は遅し。
ジャスミンさんは困ったように笑いながら、それでもカタコトながら話してくれた。
はい、というわけでジャスミンです。ティアさんやターニーさんに話す回想ですので、カタコトではなくなります。あ、いや人間族の言葉はカタコトなんですけどね?
海霊族の、いわゆる人魚として生を受けてもう何十年だろう。姉三人はとっくに結婚したり、彼氏がいたりするんだよね。でも末っ子の私は、いつまでも一人ぼっち。
そんな私が、一世一代の恋をした。
もうお姉ちゃんズは私以上に大はしゃぎですよ。妹ラブのシスコンですからね、まぁこうなるだろうとは予想してました。でも、困ったもんです。まだ片思いなんだよ?
「ど、どんな人? 年上? 年下?」
「同じ海霊族? それとも亜人? 人間?」
「脈はどうなの、いい感じ? それとも絶望的?」
「ちょっ、ちょっと待って! 一度に言わないで!」
二番目の姉・コーラルビーズお姉ちゃんは既婚なのだけど、たまたま里帰りしてたもんだから姉三人が全員そろってて姦しいことこの上ない。
「えっと、出会ったのは三年前ぐらいかな……」
それは、ある冬の日のことだった。普段住んでいる海域は比較的温暖な水温なのだけど、その日は半月がかりで北方まで泳いできてたんだよね。実は私、結構脳筋系。
(さすがにここらへんまで来ると、ちょっと冷たいな)
水温はギリギリで氷点下じゃないってだけで、水面には流氷がプカプカと浮いている。普段なら『冷たーい!』と大騒ぎするところ、全力で遠泳してきたもんだから身体はポカポカ。むしろ冷たさが心地いい。
いつか姉が見せてくれた、地上の地図。それによると、私たち家族が住んでいるのはアルコルという島国の沖合、その海溝深く。
北上すると大陸にぶつかり、そこはミザール王国。西へ進むとアリオト王国、メグレズ王国。そのまま大きなポラリス山脈を右に見ながら進むと、ドゥーベ市国。
ここに、大陸で一番偉い人間族が住んでいるらしい。皇帝、っていったかな。
ドゥーベ市国は大陸最西端なので、そこから先は広大な海だ。どこまで続くのかわからない、未知の大陸があるかもしれない。
でも見知らぬ外洋は危険でいっぱいなので、そのまま地形に沿って時計回りに北上。そうすると、大陸最北端のメラク王国にたどり着く。今現在、メラクの沖合なうなんである。
(帰りはどうしようかな)
同じルートで戻るほうが最短だけど、同じ景色もつまらない。
大陸北側をメラクから東へ泳ぐと、フェクダ王国。メラクとフェクダは山脈の北側左右に位置していて、この大陸は卵を乗せたスプーンをひっくり返したような形になっている。メラクとフェクダは、そのスプーンの底部分で向かい合ってる感じかな。
だからフェクダからそのまままっすぐ東へ泳ぐと、地形がえぐれてるから見知らぬうちに見知らぬ外洋へ入り込んでしまう罠。
なので今度は、右に大陸を見ながら反時計周りに南下。すると、往路で通ったメグレズ王国の北側の海にたどり着く。ちなみにメグレズとメラク、フェクダとドゥーベを線で結ぶとポラリス山脈にバッテンを付けた感じになるのね。
メグレズ王国は北も南も海に面している。といっても、北側から南側へは人魚の身では行くことができない。川でつながってるかもしれないが、『かもしれない』で人間の住む領域を冒険は危険。
だから諦めてそのまま東を目指すと、やはりこちらも往路で南側を通過したアリオト王国、ミザール王国の北側の海。こちらもメグレズと同じ理由で地上をショートカットはできません。そのまま東へ泳いで、大陸最東端はベネトナシュ王国。
ドゥーベ市国と同じく、そこから先は怖い怖い外洋。なので地形に沿って今度は時計周りのまま南下して、ベネトナシュからミザールの南側の海へ。
そしてミザールから南下すると、アルコル諸島の沖合にやっと帰ってこれるのだけど……何日、いや何ヶ月かかるんだろう⁉
(元来たルートを戻るほうがいっか……)
海霊族の寿命は長い。だから『ちょっとお散歩』で一週間一ヶ月留守なんてしてても家族は心配しない。だけどさすがに数ヶ月の留守は、家族に心配かけちゃう。
無念です。でもいつかは大陸一周するぞ!
で、そのときだった。海の中にいても明らかに感じる、大きな衝突音と振動。
「なっ、何ごと⁉」
慌てて海面まで急浮上。勢いがつきすぎててて、流氷に脳天が直撃。ぴよぴよぴよ……目から星が出た。
たんこぶをさすりながら、改めて周囲を確認。地上は夜だったみたいで、あたりは真っ暗なんだけど……あっ⁉
「大変‼」
大きな蒸気船が、大型の氷山と衝突してる! 黒くモクモクとした噴煙が上がってて、船体の一部が炎に包まれていた。多くの人のパニックになった叫び声が聴こえる。
私に何ができるのか知らないけど、助けに行かなきゃ! そう思って。数メートルだけ潜って、あとは弾丸のように泳ぎ進む。ときおり流氷やその欠片が身を斬り血が滲むが、そんなことに構っていられない。
たどり着いたとき、もう船は船首から前半分が沈みかけてて。逆に船尾は海面から浮いているもんだから、海面に斜めに突き刺さってる状態。このままじゃ、完全に沈没するのは明らかだ。
(あれ?)
海面にプカプカと浮いたり沈んだりしてる、銀色のメタリックな塊……いや、違う人間だ! あれが鎧というものだとは、後で知ったの。
とりあえず助けるべく、一目散に泳ぐ。
たどり着いたとき、その鎧を着た大柄な人間族らしき男性。唇が真っ青で、身体は冷え切っている。ガクガクと震えているが、意識はないようだ。
(時間との戦いになる!)
幸いにして、フェクダの護岸が遠目に視認できた。
このままだと沈む船で海流が不安定になり、私も渦に巻き込まれてしまうだろう。まだ助けを求めている人がいるかもしれないが、私はスーパーマンじゃない。ここは心を鬼にするしかなくて。
「アメル、行きます!」
と自分を鼓舞。あ、言い忘れてたね。私の本当の名前はアメジストエレスチャル、愛称はアメル。
じゃあ何でジャスミンなのかっていうと、それはちょっと後で。
その男性を背負った状態で、海面をジェット船のように泳いで大陸を目指す。冷たい風で、体表についた海水がピキピキと氷結していく。
(人魚の氷漬けとかシャレにならないな)
なんとかフェクダの海岸まで到着。砂浜の奥のほう、乾いているあたりまで尾びれをビチビチ言わせながら(笑)、男性を背負ったまま運ぶ。
鎧を外すのは大変苦労した。初めて見るものだし、何より鎧というものが何かわからない。なんでこんな重くて冷たい金属を、身に纏ってるんだろうなって。
「ここからどうしよう……」
私はエラ呼吸(ちょうど人間形態と魚形態の分かれ目がある腰あたりにエラがあるの)と肺呼吸のハイブリッドなので、地上でも息はできるのだけど。いかんせん、
「足ぃ~!」
そうなのだ、人間みたいに足はない。魚のような胴体と尾びれがあるだけ。
砂浜の奥地まで大柄な男性を背負って来るのは腕力だけでなんとかなったが、それでも息は絶え絶えの牛歩戦術だった。ましてや人間の言葉なんてしゃべれないから、下手すると捕まってしまうかもしれない。殺されてしまうかもしれない。
(ど、どうしよう!)
そうこうしているうちに、夜風でその男性の身体はどんどん冷たくなっていく。震えも大きくなってきた。
これが正しいのかどうかわからない。でも普段の何倍もの運動をして熱を持ってる、今の私の身体が役に立たないだろうか? そう思って。
唯一身に着けてる貝殻ビキニのブラを外すと、月明かりに私の胸が反射して宝石のようにキラキラと輝く。ってそんなことどうでもいいか、温めないと!
その人の服が濡れてたから全部脱がせたの。だからつまり、どちらも一糸まとわぬ裸だ。
そのまま覆いかぶさるようにして包み込むように抱きしめる。さながら人魚のかけ布団です、ハイ。
どのくらいそうしていただろうか、私も寝ちゃったみたいで。事情が事情とはいえ、屋外で男性と裸で抱き合って眠るとかもうね。
遠く水平線上に、朝陽の欠片が見える。男性もまだ意識は失ったままだが、寝息は静かだ。顔色も血色が少し戻ってきているように感じる。
「よ、よ゛がっ゛だあ゛ぁ~っ!」
なんか嬉しくて涙が出た。ついでに鼻水も出た。
(でもそれどころじゃないな)
そう、それどころじゃない。潮が満ちてきていて、もう十メートルもない。私は大丈夫だけど、この人が水没しちゃう!
『誰かー! 誰かいませんかー!』
声の限り叫ぶ。海霊語だから人間には通じないけど、少なくとも誰かに気づいてもらえたら。
「うっ、うぅ……⁉」
私の声に最初に気づいたのは、ほかならぬその男性だった。でもまだ、意識が朦朧としている。こういうとき、どうすればいい?
(こういうときは確か……)
私の記憶の中に或る、一つの光景が蘇る。それはまるで既視感のような、追憶。倒れている男性と、呼びかける女性がいる。その女性はどうしてたっけ?
『もしもーし! 聴こえますか⁉』
意識確認。海霊語だけど、その声に男性の身体が少し反応するのがわかった。
『私の声が、顔がわかりますか?』
必死でそう呼びけていたら、人の気配を感じた。一人の人間族の女性が私たちに気づいたみたいで、砂浜に降りる階段を駆け下りているのが見えた。
(良かった……)
人間語はわからないし、人間も海霊語はわからないだろう。ここから先はあの人に任せよう。
幸い、満ち潮で波打ち際はすぐそこだ。私は、
『後はお願いしますね!』
と一声発するが早いが、ポチャンと海中へ。私は速やかにその場を後にしたのだけど。
『あ、ブラ忘れた!』
「ここから西周りでメラク⁉」
体力バカ脳筋のターニー(言いすぎ)もびっくり仰天だ。もちろん、私も例外じゃない。
たとえて言うなら何だろ、南アフリカ共和国はケープタウン・喜望峰からアフリカ大陸の大西洋側を時計周りに泳ぎ、ジブラルタル海峡から地中海へ。そしてリビア・エジプトあたりまで泳いできちゃいました(てへぺろ)しちゃったようなもんで。
「筋肉痛がひどそう……」
私も、さすがにその距離を一気に飛んだことはない。
『ソデス、キンニク、イタイ。スゴク、ネタデス』
ネタ? あぁ、『寝た』ね。そりゃそうだろうな。
「その人に惚れちゃった?」
ターニーが、ウッキウキで訊く。
『ソノトキ、ワカラナイ、デス。デモ、ドキ、ムネムネ、シマシタ』
胸がドキドキ、ね。
「そっかぁ。顔とかが好みだったんですか?」
裸で抱き合って寝ただけで、そんなに意識しちゃうものかな? ……いや、するわな。少なくとも惚れた腫れたは関係なしに、強烈な記憶となって残るだろう。
『ソノトキ、ワカラナイ。デモ、ココロ、オオゴエ、デシタ』
心が叫ぶ的なヤツかな? ビビビッ!てきたみたいな。
『キンニク、イタクナイ、シテ。マタ、メラク、イキマシタ』
まだ話に続きがあるようだ。だけどジャスミンさんの表情は、すこぶる暗い。
(そういやツラい恋、って言ってたっけ)
何故だろう何なんだろう、この不思議な感覚は。
あの日のことを思い出すと、顔が真っ赤になって声がどもってしまう。胸がドキドキして、苦しい。
姉曰く、あのとき助けた男性は騎士という身分らしくて、国を守るために戦っているのだそうだ。といっても、ここのところ大陸で戦争はないのだけど。
決して、外見に見惚れたわけじゃない。なんなら、その人のことなんて気を失ってる姿しか知らないのだ。だから恋じゃない。
「そのくせ裸は知ってるしで、何なのこれ。もう!」
つまり、この胸の高鳴りはエッチなほうの意味でのそれであって、繰り返すが決して恋ではない……とは思うのだけど。
だって、だってねぇ? お互い全裸で抱き合って寝てましたなんて、意識するなっていうほうがおかしいでしょう? なのに姉たちは、一目ぼれだのなんだのと囃し立てる。
「もう本当に恋なんだって!」
「いいなぁ、ウブいなぁ。アメル、可愛い!」
二番目の姉・コーラルビーズお姉ちゃんはもう嫁ぎ先に戻ってしまってたので、海底の家には長女三女の姉二人。それでも結構姦しい。
「恋じゃない! もんっ!」
別に恋でも何の支障もないのだが、何故かムキになって否定してしまう。だってこんなの、あんまりロマンチックじゃないし(※感じ方には個人差があります)。
私はあの人の名前を知らないし、あの人は私の名前どころか顔も知らないのだ。そんなので恋は成立しないでしょ?
「あっちからの印象は関係ないでしょ。アメルから見てどうなのよって話」
くっ、そう言ってくるのは長女・フローラノーティスお姉ちゃん。
「しかも見ちゃったんでしょ? ア・レ!」
とか言いながらクフフとキモい笑い声は、三女のマリンノートお姉ちゃん。この人はコレばっかりで、正直うんざりしている。
「マリンノートお姉ちゃんて、本当にそればっかりよね」
って他人のことなら、いつもは私も一緒になって下ネタで盛り上がるんだけど。いざ当事者になってみたら、これはね。今までの私、要反省です。
だけど、本当に恋じゃないって自信が持てる『もう一つの確信』がある。
なんというか。預けたい感情がある、聴いてもらいたい言葉がある、そんな心のカタチ。うまく言葉にできないのが、もどかしい。
私はこの感情に、どんな名前があるのかを知らない。
だけどこれは恋じゃないってことだけは、恋愛経験ゼロの私でもわかるんだ。
「恋愛経験ゼロだからわからないのでは?」
マリンノートお姉ちゃんは、ちょっと黙ってて。とりあえずスルーを決め込む。
そしてわかる、これは出会って間もない人に向ける感情じゃない。恋かどうかは置いておくとして、私の人生のどこかで深くつながってた人に対する感情なんだ。
「でも私、あの人に逢った記憶がないのよねぇ?」
それどころか、人間族に知り合いはいない。
「ふーん? 結構深刻なんだ?」
ここまでからかい半分だったフローラノーティスお姉ちゃん、ちょっと態度を改めて真面目に相談にのってくれそうな感じ。
「本当にその人のアレ、見たことなかったの?」
マリンノートお姉ちゃんは、どこまでいっても変態のまま安定している。
「会いに行ってみようかな?」
「再会できたとしてアメル、お互いに言葉で意思疎通はできないでしょ?」
「まぁそうだけどさ、フローラ姉。アメルだって気持ちの整理付けたいんじゃないかな。せめて自分の顔と名前ぐらいは知ってほしいだろうし、あちらの名前も知りたいだろうし」
変態の皮を被ったマリンノートお姉ちゃんだったけど、変態の皮を脱ぎ始めた。
「うん、マリンノートお姉ちゃんの言うとおり。特に深く絡みたいとか、そういうわけじゃないんだ」
「もう全裸で抱き合ったから、今さらよね」
お前、変態の皮を被り直すの早くね? 絡むってそういうことじゃないっ!
「まぁいいけどね……とりあえず帝国公用語の語学学習本貸してあげるから、挨拶ぐらいは覚えときなさい。それと、出かけるときは事前に教えてね。さすがに、数ヶ月は留守にしちゃうでしょ?」
「了解、ありがとう! フローラノーティスお姉ちゃんは、やっぱ頼りになるね!」
チラッチラッとこれ見よがしに、マリンノートお姉ちゃんに見せつける。
「わ、私だって頼りになるもん! そうだ、会いに行くならこれ持っていきなよ!」
そう言ってマリンノートお姉ちゃんが差し出したのは、小さな箱。
「死ねや、ド変態姉ぇっ!」
哀れマリンノートお姉ちゃんは私の鉄拳を顔面にくらい、まるで魚雷みたいにその場から海底を這うように無数の水泡を残しながら吹っ飛んでいった。
残されたフローラノーティスお姉ちゃん、呆れた表情でマリンノートお姉ちゃんを見送ると……今度は私に対しても、呆れた表情をしてます⁉
「アメルあなた、何でコンドーム知ってるの?」
「え、だってあの箱、コンドームでしょ?」
「うんそう。じゃなくて!」
あぁ、 何で知ってるかって話ね。それは、
「……あれ?」
そういや何で知ってるんだろう??? あの人を助けたあの日はノーカンとすれば、地上になんか出たことないのになぁ。
「そのマリンノートさんて人、ティアといい友達になれそう」
「不意撃ちの流れ弾はやめて」
私とターニーのこんな感想を、ジャスミンさんはクスクス笑いながら見ている。しかも悔しいことに、自分でもちょっとそう思ってたんだよ。
「で、会いに行ったんですよね。再会はできたんですか?」
「ハイ、アウ、デキタ。デモ……」
「でも?」
「アノトキ、ミツケタ、オンナノ、ヒト。オクサン、ナッテテ」
「え……?」
「……」
俯いたジャスミンさんの頬を、涙が伝う。なんと言っていいか、慰めの言葉が見つからない。
「ケッコン、シテタ、デス。オクサン、オナカ、オオキイ……クテ」
最後のほうは、もう聴こえないぐらい小声だ。
ターニーが、どうすんのこれどうすんの!と言いたげに私を見る。知らんわ知らんっ! 私に訊くな!
半月ほどかけて、再び大陸を半周。ようやくメラク南側の海沖へ到着し……て、そのまま泳ぎ続けることさらに三日。フェクダ南岸に到着した私。
「セプテントゥリオン・ビーチってここかな?」
季節じゃないし水温も低い。海岸には誰もいないのだけど、波打ち際からそんなに離れていない海中から飛び出た大岩の上で座って待つことしばし。
「お待たせ、アメジストエレスチャルさんですか?」
ビーチから私を呼ぶ声。黒いローブを羽織った若い女性が、そこにいた。
私の名前だけは聞き取れたけど、あとは潮風と波の音でかき消されて。でも間違いない、私の『待ち人』だ。
チャプンと海中に潜り、ビーチへ泳ぐ。ってもそんなに距離は無かったから、一蹴りでたどりついちゃったけど。
「ハ、ハジメマシテ。ワタシ、アメジストエレスチャル、イイマス!」
その女性、その長い髪も瞳も黒いのが私の住んでる海域近くのアルコルの人々と同じだ。ただ私と違って、大人の女性て感じのモデルみたいな美人さん。ちょっと気後れしちゃうな。
「あらかじめ確認だけど、人間の足を手に入れたいということでいいんですよね?」
「ハ、ハイ!」
フローラノーティスお姉ちゃんの旧知の友人だという、フェクダ王国は天璣の塔に住まう魔女・ソラさん。あの人に逢いに行くには、どうしても足は必要不可欠だ。だから。
「まぁほかならぬフローラの頼みだしね。ただ、フローラから聞いてるとは思うけど……」
「ハイ、カワリニ、ウシナウ、アル。ワタシ、ワカッテル」
「そう……」
ソラさんはちょっと深刻そうな表情になるんだけど、私だって覚悟はもう決めているんだ。
ソラさんに頼めば、私の人魚の下半身を人間の足にしてくれる。でもそれには、大きな代償を払うことになるかもしれないってこと。
「モウ、ニンギョ、モドレナイ。コエ、デナクナル、イイ。ソレデモ……」
「待て待て、待ちなさい。それ何の話です⁉」
「エッ……?」
大きな代償、というのがとても気になる。残念ながら、フローラノーティスお姉ちゃんにもわからないんだって。
だから、色々調べたの。そして見つけたのは、魔女に己の声と引き換えに人間の足をもらった人魚のおとぎ話。
(あの人魚は、結局泡になって消えちゃったんだよね……)
悲しい悲しい、恋の話だった。
「人魚には戻れますよ?」
「?」
「ついでに声もいらないです」
「??」
何がなんだかわからない。じゃあ大きな代償て何⁉
「自分の意思で、好きなタイミングで変えられますし戻せますよ」
うー、必死で覚えた帝国公用語のキャパの狭さが悲鳴をあげる。詳しく聞きなおしたいのだけど、どう言えばいいんだろ⁉
「マ、マッテテ」
ソラさんを手で制して、持ってきた語学学習本を取り出す。適切な単語を見つけようとパラパラとめくるのだけど、その間は待たせてるのもあって焦ってるもんだから指が滑る。
『アメジストエレスチャルさん、やっぱ海霊語のほうがいい?』
え……え? 今、何て。海霊語が聴こえた、ような⁉
『私に海霊語を教えてくれた先生の影響で、丁寧な言葉離せないんだよね。失礼だと思ったから話さないでいたんだけど、もしそれでいいならこっちでしゃべるよ?』
ほわーーーっっっ!!!
『あっ、ありがたいですっ! 全然っ、構いませんっ!』
地獄に仏とはこのことか。
『そ、それでソラさん代償て⁉ 代償て何でしょうか!』
『お、落ち着きなよ! あのね、』
そう言いながら、ソラさんは金色の細い腕輪を取り出す。
『はめるよ? あ、警戒しないで。自分の意思でいつでも外せるから』
『あ、はい』
そして、ソラさんに腕輪をはめてもらう……のだけど、どう見ても腕輪の直径を考えると手首というか手のひらが入りそうにもない。
『サ、サイズ、チイサイ、ナイデスカ?』
『何で海霊語でもカタコトになるのよ?』
『あ、そか!』
テンパってるなぁ。そして、まるで旧来の友人と会話してるみたいですごく楽しくて。ちょっと二人で笑い合ってしまった。
『私がこんな言葉使いだから、アメジストエレスチャルさんも砕けた言葉でいいよ?』
『わかりま……わかった! でね、ソラさん。ソレ入らなくない? あ、私のことはアメルって呼んで』
『了解、まぁ見てて』
ソラさんはその腕輪を私の手首から入れようとするのだけど、やはりというか指の第一関節あたりで止まってしまう。
「『最適化!』」
ソラさんがその不思議な言葉を唱えると、腕輪がひと際明るい白い光を放つ。そして光が治まると、いつの間にか手首にはその腕輪が装着されていた。もちろん、腕や掌のほうが太いので抜け落ちるなんてことはなさそうだ。
『ほえ~。すんっごい!』
『でね、この腕輪の宝石のところに指を当てて、人間の足がほしいということを強く願うの。やってみて?』
『うん』
言われるがままに、腕輪の石に指をあてて『人間の足がほしい!』と願ってはみるんだけど。
『……何も起きない、よ?』
『あれ? アメルさんはどう願ったの?』
『人間の足がほしい!って』
『あー……』
何か、そうじゃないって顔のソラさん。
『あのデタラメの対価の話を信じて、そしてそれを払ってでも人間の足がほしいって思ったわけでしょ? それの理由のほうを願うの』
『あ、なるほど』
『やってみて?』
『了解! わかった』
ソラさんが海霊語をそういう覚え方したせいもあって、まるで友達同士みたいな会話だ。ソラさんに、そのつもりはないのはわかっているんだけど……本当の友達になれたらいいな、なんて。
ってボーッとしてる場合じゃない。腕輪の石に指をあてて、必死に思い浮かべるのはあの人の裸体。
『じゃなくて!』
『何が⁉』
落ち着け、落ち着け―。そう、会いたい、会って確かめたい。この気持ちに、感情にどんな名前があるのかを。
『あ……』
先ほど腕輪をはめてもらったときと似たような発光の後、私のお魚の下半身はまるで人間の……いや、まるでどころか人間の足そのものになってる!
『凄い!』
『元に戻したいときは、やっぱり同じように願うといいよ!』
『ありがとう、ソラさん!』
ってそういや、代償て結局何だったんだろう。と思ったら、ソラさんが『あっ!』と小さく声をあげた。
『な、何々⁉』
聞くのがちょっと怖い。
『代償のこと、先に言っておくべきだったよね?』
ちょ、ちょっとちょっとー! もう一回変身しちゃったんですケド⁉
『あはは、ごめんごめん! といっても大したことないよ? 一回あたりの変身で体うちの魔力の消費が凄くて、寿命が二十年ぐらい縮んじゃう?みたいな』
『先に言ってよ……』
寿命が縮んだじゃない(物理で)。でもまぁだからといって、足を諦めるという選択肢は私にはなかったけどね。
そうぽんぽんと変身と戻るを繰り返さなければいい。もとより、海霊族の寿命は千年近い……とは言え、往復で四十年。五回やると二百年? 人生の五分の一近くを消費しちゃう。
確かに考えようによっては、大きな代償かもしれない。
(使うタイミングは、慎重に選ばないと!)
そしてソラさんへのお願いは人間の足を手に入れる方法だったのだけど、もう一つお願いができてしまった。
『あの、ソラさん……折り入ってお願いしたいことが、もう一つあって。あ、お金なら後で必ず払うから!』
『んー、何? もう友達なんだから、お金とかいらないよ?』
『……』
『?』
いや、あのっ。
『お、お願い叶っちゃった……』
『へ?』
『今、友達って』
『あ、迷惑だった?』
『全然っ! お友達になって欲しかったの! 実はそれを、お願いしようと思ってて』
『あぁ、なるほど』
ソラさん、納得顔になって……何故か急に赤面して俯いてしまうもんだから、私も同じく真っ赤になってしまった。
『まぁ元々、アメルさんのお姉さんのフローラとは友達だしね。友達の妹は友達ってことで』
『はい、よろしくお願いします!』
『こちらこそ、よろしくね』
だけど、誤解があっちゃいけない。だから正直にソラさんに言ってみる。
『ごめんなさい、ソラさん。あなたの海霊語の言葉遣い、何か勝手に親近感が沸いて一人盛り上がっちゃった。もちろん、ソラさんはちゃんと丁寧な言葉を話したいのにって思ってるのは知ってる!』
『ありがとう、わかってくれて。私に海霊語を教えてくれた先生て結構なポンコツなんだけど、たまには役に立つんだ? 今はベネトナシュにいるんだけど、いつか紹介してあげるね!』
「ぎゃっははははははっっっ!!!」
ターニーさん、腹筋が無事死亡。そのまま泣き笑いしつつ、ブクブクと泡を立てながら湯に沈んでいく。
「……」
「ア、アノ。ナニカ、ヘン、イイマシタカ?」
ジャスミンさんは、ターニーが何故大爆笑しているのかを理解できない様子。せんでいい。
「あぁ、気にしないでジャスミンさん。私もポンコツ言われたのを、気にしないようにするから……」
浴槽の底に沈んでなおガボガボ言いながら爆笑しているターニーをジャスミンさんが引き上げてるタイミングだったからか、今のは聴かれなかったみたいで?
(おのれ、ソラ!)
うーん、ちょっと不意打ちだった。それとターニー、まだ笑ってんじゃないっ!
「ソレデ、メラク、フェクダ、カラ、アシデ、イッタデス」
『このバカ、まだ笑い死んでるからここからは海霊語でいいよジャスミンさん。つまり人魚には戻らずに、そのまま地上ルートで人間の足でメラクに行ったのね?』
『え、海霊語⁉』
一万年以上も生きてればね、十や二十の言語ぐらい覚えちゃいますよ。
『こっちのほうが話しやすいでしょ? あ、でもネイティブじゃないんで敬語とか丁寧語とかは大目に見てほしいんだけどさ』
『(あれ? 何だろう、この既視感)』
一瞬だけ、考え込む表情をみせたジャスミンさんだったけど。
『いえ全然かまいません、助かります! それで、……あれ? さっきのポンコツって……』
何やら合点がいったジャスミンさん、ブーッ!と勢いよく吹き出した。くっそう、気づきやがった。てか、ちゃんと聴いてたんかーい!
『うぐっ……ごっ、ごめ……なさっ……』
真っ赤になった顔を必死で背けて、必死に笑いをこらえるジャスミンさん。もうね、好きにしてください。
ソラさんにお金を融通してもらい、いざ一路メラク王国へ。語学学習本片手に、つたないカタコトながら宿をゲット。あの人はすぐには見つからなかったが、同じ鎧を着ている人がたくさんいたのは僥倖だった。
でもどこから何を聞けばいいのか? 男性ということしか、わからないしで。
『あ!』
そうだそうだ、あの人は海難事故の生き残りになるんだ。だったら、そこらへんからたどり着けないかな?
そこに気づいてからは早かった。海岸で全裸で倒れていたこと、女の人に発見してもらったことなどの情報も用意してたけど、何よりあの事故で生き残ったのはその人だけだったみたいで。
「あー、隊長のことだわソレ!」
場所はメラクの首都・ベータの街の庶民的なバー。同じ鎧を着て呑んでるグループがいたので、ナンパされたのを幸いに一緒のテーブルを囲む。
カタコトなのが可愛いとかチヤホヤしてくれたんだけど、気になる人がいると言ったら意気消沈されてしまって(嘘はついてないよ)。でもその人を探しているのだと、そのためにメラクに来たのだと明かしたら、人探しに協力してやろうってムードになったの。本当にいい人たち。
「タイチョ? ナマエ、タイチョ、イイマスカ?」
「あぁ違う違う。俺らの兵をまとめる……何て言えばいいかな、一番偉い人だな」
「ヨロイ、マトメル、リーダー?」
「そうそう、そんな感じ。あの船は、海軍が演習中の軍船でさ。あの事故で生き残ったの、隊長だけだったからな……一個小隊が隊長以外全滅、多くの部下を失ってしまったんだ。」
部下を全員失ったのか。それは上官として、とても悲しかったに違いない。
「そして隊長は鎧も服も全部脱げて海岸に打ち上げられてたんだけど、そこを通りかかった女性に救われて」
「あー、ちょっと待てお前!」
兵の一人が何かに気づいたような表情になり、慌ててその兵の口を制しようとする。だが、どの兵隊さんもお酒が回っているのもあって。
「うらやましいよなー! 隊長、律儀だから『命の恩人だ!』とか感動して。その人と結婚して、子どももできてなぁ」
え? 結婚? 子ども?
テーブルを囲んでいたうちの数人が、あちゃーと言った表情で私をチラ見する。私が好きな人を探しにやってきたと思ってるから、会う前から失恋しちゃった形になるわけで。いや、そうじゃないんだけどね。
(でもじゃあ、何で私は今……泣きそうなんだろう?)
みるみるうちに、目に涙が溜まっていく。そんな私の顔色を、兵隊さんたちがおろおろしながらうかがっている。
「まっ、まぁでもあれは、可哀そうな事故だったよな!」
誰かが場の流れを変えるべくそう言うと、最初からベラベラしゃべってた兵隊さんも黙った。
まぁ確かに、生き残ったのが自分だけだなんて心臓が潰れそうな思いだろう……と思っていたらそういうことじゃないみたいで。
「雪の日にさ隊長、仕事で遅くなって。いつまでも旦那が帰らないもんだから、奥さん玄関先でずっと待ってたのよ。で、隊長の姿が見えたもんだから玄関からの階段を降りようとして……雪で足を滑らせたんだっけ?」
「そうそう。隊長が慌てて病院へ運んだんだけどさ、奥さんは怪我を負っちゃって」
「オクサン、ダイジョブ、デシタカ」
「奥さんは、ね」
何だか、嫌な言い方をする。
「子どもがね、いたんだ」
「ドコニ、デスカ」
皆の葬式のようなムードから、もう訊かないでもわかったかもしれない。
「お腹に、ね。子どもは助からんかった」
そこから聴かされた話は、さらに壮絶だった。奥さんは子どもを守れなかった自分を責め、隊長もまた、奥さんと子どもを守れなかった自分を責めた。
奥さんとしては、夫である隊長にも責めてほしかったのかもしれない。怒られたかったのかもしれない。でもその優しい旦那さんは、決してそうはしなかったのだという。
結果的に、奥さんは心が潰れちゃって……病院の窓から飛び降りて、自ら命を絶った。
先ほど別件で泣きそうになってたのも手伝い、その話を聴かされてからは涙が止まらなくなった。初めて呑むお酒だったけど、全然酔えない。
「それからだよなぁ、隊長が『変わった』の」
「あぁ。すっかり笑わなくなり、いつも一人で行動するようになった。新兵が冷血隊長なんてあだ名をつけ始めたのも、そのころだろ?」
「そうそう、特に女性をそばに置かなくなったよな。なんか、こう、なんか言いながらさ。何だっけ?」
「もう酔ってんのかよ? 隊長はそれ以来、口癖のようにこう言うようになったんだ」
『俺に近づくな。俺に近づくヤツは、皆不幸になるんだ!』
何それ何それ何それ⁉ 全然違う、違う違う違う! 隊長さん悪くないじゃん、悲しい事故だっただけじゃん!
宿に帰ってもなお、涙が止まらない。そんな考えに至るなんて、どんなにつらかっただろう。どんなに悲しかっただろう。
たくさんの仲間を船の事故で失い、自分だけが生き延びた。まだ見ぬ我が子を事故で失い、妻を自殺で失った。
そしてまたしても、自分だけが生きているのだ。
何故自分だけが――そんな気持ちで、いっぱいなのだろう。でもそれは、とてもとても悲しい考え方だと思う。
どんな言葉なら届くだろう、どうしたら心を癒してあげられるだろう。
私は当初の目的も忘れて、明日その隊長さんに会いにいくことに決めたのだった。
「オズワルド、サマ」
オズワルド・フォーマルハウト、その隊長さんの名前。『オズワルド』という言葉のニュアンスだか発音だかに――どこか聞き覚えがあるような気がしてならなかったが、どうしても思い出せなかった。
「君は?」
オズワルド様のご自宅の玄関先、扉を出てきたところに話しかけてみた。
玄関から降りる数段の階段の横、古びた花瓶が階段の柵にくくりつけてあって、そこに花が生けられている。あれはジャスミンの花かな? 多分、多分だけどここはお腹の中のお子さんが亡くなった場所だ。
初対面の私を、怪訝そうに見るオズワルド様。あの日私が身体を温めてあげた人が、そこにいた。私が知っているのは、意識を失っているときの顔だったから……そっか、こんな顔の人だったんだ。
「コンニチワ!」
「あ、あぁこんにちは」
私のことを誰だろうと思いつつも、挨拶を返してくれる。
うん、やっぱ恋とは違うかもしれない。だって、恋とは違う別の感情が溢れてくる。
そしてそれは、昨夜バーで聴かされた話もそうだけど、それだけじゃない追憶の中の一欠片だけが知っている。そんな気がする。
そこからの毎日は、もう駆け足だった。
オズワルド様の自宅に近い花屋さんで住み込みのバイトとして雇ってもらい、仕事前にはオズワルド様宅の玄関前で見張って朝の挨拶。仕事が終わってからは、オズワルド様の自宅前で待機。帰宅してきたオズワルド様と偶然を装って出会い、ちょっとだけ立ち話。
ちなみに、家族へはソラさんを介して事情は手紙で報告済みです。フローラノーティスお姉ちゃんからは、頑張れって返事が来た。マリンノートお姉ちゃんからの返事は、どうでもいいエロいことが書いてあった。
閑話休題だけど、まぁね。さすがにそんな日が十数日も連続で続けば、誰だって気づきますよ? こんなの、ただの執念深いつきまとい行為だ。どういう意味だったか忘れたけど、ストーカーって言葉をふと思い出す。
「君、もういい加減にしてくれないか」
ある日の夕刻、帰宅してきたオズワルド様にいつものように偶然を装って出逢った体でいたら、すっげー嫌そうな顔でそう言われた。
「ナ、ナニガ、デスカ」
そう言いながら、眼球が上下左右せわしなくスーパー遠泳を繰り返す不審すぎる私。呆れたように、溜め息をつかれてしまいました。
「朝もそうだが、何故私につきまとうのだ?」
あーやっぱ、そう思ってたか。
「エト、ワタシ、オズワルド、サマ。イイコイイコ、シタイ」
くっそ、語学勉強もっと頑張らないと! 適切な単語が出てこなくて非常にイラる!
「いい子いい子?」
私は黙って、玄関先の花瓶を見る。そしてオズワルド様に手渡すのは、ジャスミンの小さな花束。片手で持てる、ブーケくらいのサイズだ。
「オズワルド、サマ、カナシイ、シタ。ダカラ、イイコイイコ、スル」
今だって上手くしゃべれるわけじゃないのだけど、当時はもっとひどかった。そのときは気づけなかったけど、振り返って思い出しては自分の発言のへっぽこさに壁パンチを何度繰り出しても顔が真っ赤になる。
「ハッ、なるほどな」
オズワルド様、何故か吐き捨てるように何かに納得したような口ぶりだ。
「つまり、私の可哀想な環境に同情したわけだ。申し訳ないが、私には君からの同情なんて不要だ」
強い口調で言われたわけじゃないけど、オズワルド様が私に伝えたい真意はとてつもなく強い拒絶だ。
「ソンナ、ツモリ、チガウ。ゴメナサ、チガクテ」
必死に取り繕うが、
「どうでもいい。私に近づくと、皆不幸になるのだ。だから私には、自分の幸せを願う権利なんてない……巻き込まれたくないだろう? だからもう私には、近寄らないでくれっ!」
初めて、怒鳴られてしまった。だけどだけど、その考え方がとても哀しくて切なくて……やるせなくて、そして許せなくて。
「ソンナ、チガウ! オズワルド、サマ、シアワセ、スル!」
私もちょっとキレかけてるせいか、上手く言葉が出てこない。死ね私。
「もういいから行きなさい。そしてもう二度と……え?」
あ、涙が。
女の涙は武器だとか卑怯だとか、本に書いてあったからできるだけ我慢してたのに。いったん泣き始めちゃうと、堰を切ったようにポロポロとあふれ出して止まらない。
「君、何故泣いて……」
「チガウ、ナミダ、チガウ! メカラ、ダシガ! ニンギョノ、ダシガ!」
本当は『目から汁が』と言ってごまかしたかったんだけど(それもどうなのか)、間違えて言葉学習してたみたいで。
「人魚の出汁?」
いえ違います、違うんですぅ~! でも大パニックになっている私、うまく言葉が紡ぎだせない。しかも下半身は人間の足に姿を変えてるのに、人魚って言っちゃった!
「ワタシ、ナイテル、チガウ! ダ、ダシガ……」
そこまで言ったとき、オズワルド様が顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。やばい、すごく怒らせた! ……と思っていたら。
「だっ、出汁っ! うぐっ、耐えろ! でも出……」
ん?
「ゴメナサ、ナミダ、チガウ。ダシ、コレ、ダシ」
「やめてくれ! 続けないでくれ、被せないでくれ! もう……もう、耐えられない!」
んん? 台詞だけなら冷たい拒絶なんだけど、唇プルプル、声が揺れてる。片手でお腹を、もう片手で口を押さえてる。んんん?
「ブーッ‼」
オズワルド様、とうとう我慢できずに笑い袋の限界を超えて吹き出してしまった。
「クックック……アッハハハハハハ! だっ、出汁はないだろう、君‼」
そう言いながら私を指さしつつ、とうとう両手でお腹を抑えしゃがみこんでしまう。
「だ、出汁……」
なかなか笑いが治まらないようで、何だか腹が立ってきて。
「ナ、ナミダ、チガウ。ダシ‼ ワラウ、ダメ!」
その台詞がさらに火に油を注ぐ形になってしまい、オズワルド様の腹筋は壊滅状態だ。
もうカオスである。オズワルド様は、もう私が何を言っても『うん、うん……わかったからやめてくれ』だの、『安心したまえ、私は君を煮込んだりはせぬ……グフッ! ゲホッ! ゴホゴホッ!』と一人バカウケしながら涙をポロポロこぼしながら笑ってて。
何だかなぁ? でもオズワルド様が笑っていて、それはとっても安心したんだ。
「何その話、おもしろい!」
一人でバカウケしてるターニー。私も途中まで一緒に笑ってたんだけど。
(オズワルド……オズ、オヅ? ワルド、ワルト……)
何か心に魚の骨でもつっかえてしまったような、何だかスッキリしない心地がするの。どこかで聞いたような、でも思い出せない。そんな感じの。
でも一瞬だけ、浮かんだビジョン。血だらけの男の人が倒れてて、そのそばで少女が座り込んで泣いている。私……前世の私である尾先ゆらがその女の子に、何か声をかけてる? 慰めてる?
(何だっけ、これ)
うーん?
『笑うの、酷いです!』
そう言って、プーッと膨れるジャスミンさん。海霊語だ。
ターニーも日常会話くらいならギリでわかるとのことだったので、ジャスミンさんにはわかりやすい言葉を選んでもらいながら、自分の語りやすい海霊語でしゃべってもらうことにしたの。
私もジャスミンさんには伝わりやすいように海霊語で応じているのだけど、やはり同じくできるだけ簡単な言葉を使うように心がけてるから、ターニーにもわかるらしい。
『それで、オズワルドさんからはお許しをもらえたの?』
『はい、しかも……私のことを、憶えておられました』
笑い疲れて、息も絶え絶えのオズワルド様。甚だ遺憾の意!
「す、すまない。だけど出汁……」
「マ、マダイウ……」
カタコトの私のそのツッコミ?がツボったのか、必死に笑いを耐えようとしているオズワルド様。目尻がピクピク、唇が波打ってますよ?(プンスカ)
そして二人とも、なんとなく落ち着いた頃合いになって。
「はぁ、済まなかったね。レディに対して無礼だった。どうかな、お詫びにあがっていくかい? お茶くらいしか出せないが」
ほぇ? お茶? オズワルド様のご自宅で⁉
『ぜ、是非っ! 飲みたいですお茶!』
あ、海霊語で応じちゃった。でもオズワルド様には雰囲気で伝わったのか、
「ではどうぞ?」
と言って、手を上向きにして差し出してくる。
「ここの階段は滑りやすいから、注意したまえ」
私を気遣った発言なのだろうが、その言葉はちょっとシャレにならない。ちょっとだけ視線が下がって、花瓶に目がいく私。でもオズワルド様には、特に他意は無かったみたい。
それはそれとして、夢見心地でエスコートしてもらう。そして二人、改めてリビングテーブルに向かい合って座りティータイム。
しばらく沈黙が続いたのだけど、気まずいそれじゃなくて。無言でお茶の香りと味を楽しむ、むしろ穏やかな静寂の時間が流れる。
「お茶はどうかね?」
「オイシイ、デス!」
「そうか、良かった」
そしてまた訪れる静寂。その沈黙を破るように、オズワルド様が口を開く。
「君にはひどいことを言った。まずはそれを謝罪させていただきたい」
「ヒドイコト、チガウ。デモ、ワラッタ、ダメ」
「え? あぁ、出汁……ブッ!」
ちょっとちょっと、もう勘弁してください!
「ヒドイ、デス!」
「すっ、すまない!」
そして二人で一瞬無言で向き合い、お互いに吹き出してしまう。
「君だって笑ったじゃないか!」
「チガウ! ワラウ、チガウ!」
うーん伝えられない! もどかしい!
結局、会話らしい会話もないまま?その場はお開きに。夜も遅いので、住み込みで働いている花屋まで送ってくれることになった。何だかごめんなさい!
街灯があるので、明るい夜道というか街道を二人きり。
「アシタ、アサ、アイサツ。モウ、ダメ?」
「……いや、君が無理をしているのでなければ。妻が亡くなってから、もう朝の挨拶とは無縁だったからね」
そんな心の痛いこと、言わないでください。悲しい、です。
「ジャア、アシタ、アサ、マタクル!」
「あぁ、待っているよ」
そう言って、オズワルド様が優しく笑った。あれ? オズワルド様の笑顔を初めてみたかも。あ、爆笑はノーカンね。
「マタクル! エート、マタクル!」
帝国公用語の『絶対』という言葉の発音を、思い出せないというかまだ学習してなくて。あぁもう、まどろっこしいな!
『私、毎朝絶対に行きますね‼』
ついつい海霊語で改めて応じてしまったが、喜色満面の私の表情だ。顔は口ほどにモノを言ったんだろうな。オズワルド様も、特に意味を問いただすことなく、
「あぁ、よろしく頼むよ」
って。
「何だかいい雰囲気になってるじゃないですか! 何か悲しい話を聞かされるのかと思って、ボク身構えちゃったよ」
『あ、ごめんなさい。これからそういう展開になるんです!』
「うぇっ⁉」
ターニーとジャスミンさんの会話、帝国公用語と海霊語でやり取りしてるんだけど不思議とスムーズだ。そしてジャスミンさん、これから悲しい話になるとか匂わせておきながら、なんだかちょっと言葉の尻が軽い。
最初のころの悲壮な表情は鳴りを潜めてなんかこう、私たちとの女の子同士のおしゃべりを心の底から楽しんでるみたいな雰囲気。ジャスミンさんにとっては、もう終わった恋物語なのかな?なんて。
それからは、朝の挨拶とおかえりの挨拶をするだけの日々が続いて。たまにお茶をごちそうになりつつーの、でも気づいたことが一つ。
「オズワルド、サマ。ワタシ、ナマエ、アル」
ティーカップを口に持って行こうとしたオズワルド様の手が、ピタッと止まる。いつも『君』だもんね。私が自分で自己紹介していないのも悪いんだけど、どうもスッキリしない。
「そ、それは大変失礼をした! もし怒ってなければ、改めて名を聞かせてもらえないだろうか?」
マッチョな大男が、身を小さくして居心地悪そうにこちらをチラ見しつつ機嫌をうかがう様が面白くて、もうなんだか許してしまった。
「ワタシ、『アメジストエレスチャル』、イイマス」
「え? アメ……すまない、もう一度」
同じ会話が数度繰り返される。うーん、お姉ちゃんズですら『アメル』って短縮して呼ぶくらいだから、人間族には発音しにくいのだろうか? まぁ別に愛称のアメルでもいいしね、と思ってそれを言おうとしたら。
「すまない、アメ……君。私のつたない舌では発音が難しい。なので、こちらで勝手に愛称を決めてもいいだろうか?」
ん? いいですよ、お気になさらず。むしろ、アメルって呼ばれることのほうが多いですし。ぶっちゃけ、自分でも自分の名前は発音しにくいんだ。
「では」
「ハイ」
「ジャスミン」
「ハイ?」
何故ジャスミン?
「君からは、ジャスミンのいい匂いがするんだ。あ、決して変態的なそういうことではなく!」
いえ、もちろんオズワルド様にそんな他意があるなんて思ってませんよ。でもなんでジャスミンなんだろ、と思ったら今言われたんだっけ。匂い?
服かな?と思って匂いを嗅いでみるが、石鹸の匂い……と若干の汗の匂いなのかなコレ。
「ク、クサイ、デス。ゴメナサ」
臭いですか?と言おうとしたのだが、ボキャ貧と勉強不足のため肯定になってしまった。
「いやいやいや、違う違う違う! いい匂いがするなぁと思っていたんだ、ジャスミンの香りがね。何かそういう香水つけているのかい?」
いい匂いて言われて、ちょっと嬉しかったり。いや、かなり嬉しかったり。
でも何もつけてない、つまりは百パーセント体臭である。ちょっと複雑かな? いやいや、刺身の匂いって言われるよりいいか。
『全然大丈夫です、今日から私はジャスミンです!』
ついつい海霊語で応じてしまい慌てて、
「ダイジョブ。スキ、ナマエ、デス。ワタシ、ジャスミン」
今日この日この瞬間から、私の名前はジャスミンになった。
でもね? よくよーく考えてみたら私、今日ジャスミンの花束持ってきてたんだったよ……。
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