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立ち読み大歓迎の本屋さん

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 学校の帰り道、私はよくしじま書房に立ち寄る。
 ちょっと変わった本屋さんで、ちょっと変わった店員さんがいる。

 店内に入ると、書棚の目のつくところに、「立ち読み大歓迎! ただし小説のネタを提供すること」という大きな張り紙がある。

 カウンターにはシマコさんがいて、いつも眠そうな顔で店番をしている。

 シマコさんは小説家志望である。

 カウンターにはレジのほかに、読みかけなのか資料なのか、たくさんの本が積まれている。おそらく私物ではなく売り物である。それから、ネタ帳の黒いリングノートとボールペン。レジと山積みの本に挟まれるようにして、シマコさんが顔を出している。

 シマコさんというのは本名ではない。初めてこの店に来たときに縞模様のターバンを頭に巻いていたので、私が勝手にそう名付けた。シマコさん自身もその呼び名を気に入っているようだ。本名は知らない。

 今日のシマコさんは奇抜な配色の迷彩柄のターバンを巻いている。こんな怪しげな本屋の主人を私はほかに知らない。いや、店主なのかどうかもわからない。

 私が店に入ると、シマコさんがちらりとこっちを見る。軽く会釈すると、シマコさんはうなずき、ノートを開いてボールペンを手に取る。私は床に山積みの本のタワーにスクールバッグを引っかけないように細心の注意を払って進み、カウンターの前にある丸椅子に腰かける。

「調子はどうですか?」と私が聞く。
「まあまあだね」とシマコさんが答える。シマコさんの調子は常にまあまあである。

「で、なんか面白いことあった?」
「いいえ特には。でも、少し悲しいことがありました」
「ほう」とシマコさんが先を促す。

 私は桜の香りがするリップクリームを学校でなくしてしまった話をする。

「お気に入りの香りだったし、まだ買ったばかりだったので残念です」
「ほう、ほう」とシマコさんが相づちを打つ。
「何か思いつきました?」
「そうだねえ……」

 シマコさんは顎に手をやる。

「これは、ミステリー仕立ての恋愛ものかな。あんたに片想いしている誰かが、隙を見て盗んだのさ」
「へえ、片想い」

 悲しい話だったのに、にわかにときめきが芽生える。

「それで、今ごろ持ち帰ってひとりで眺めてるんだよ。香りをかいだりしながら。それでそのあとは確実に……」
「や、やめてください。せっかくいい気分になれそうだったのに。あとはシマコさんの頭の中だけで展開してくださいよ」

 シマコさんは不満げな顔をしたが、「まあいいよ」と言って向こうの方を顎で示す。

 こうして、私は目当ての本のところへ行き、心置きなく立ち読みをする。

 変てこな店だ。いや、変てこな人だ。

 たいていの人は張り紙の文言を無視して立ち読みしているし、もちろん普通にお金を払って本を買っていく人もいる。

 私はまだこの店で本を買ったことがない。それでいて、毎回シマコさんに小説のネタになるのかどうかわからない他愛もない話をしている。

 つまり私も変てこだ。




 ある時、店に入ったらすでにカウンターに先客がいた。ロングコートを着て口ひげをたくわえた、おしゃれなおじいさんだった。何やら熱心に話しこんでいる。

 ならばシマコさんと話すのは後回しにしようと思って、私は目当ての本がある棚へ向かう。

 お母さんが好きだった古き良きマンガをぺらぺらとめくりながら、私は聞き耳を立てる。

 どうやら、今は亡き奥さんのことを語っているらしい。ふたりとも音楽が好きで、よくジャズバーに行ったそうだ。それから息子夫婦とは疎遠になっていて、孫にもしばらく会えていなくて寂しいらしい。飼い犬の老犬ブチが弱ってきて、あまりエサを食べてくれない。

 だんだん気の毒になってきて、立ちっぱなしで足も疲れてきて、私はマンガを閉じた。赤の他人の家庭事情をこんなにも詳細に聞いてしまって、罪悪感もあった。

 おじいさんはまだしばらく立ち上がりそうにない。

 その日初めて、私はシマコさんと話さずに店を出た。ガラス扉を閉めるとき、シマコさんがちらりとこっちに目を向けた。何となく気まずくて、私は逃げるように立ち去った。





 その晩、変てこな夢を見た。夢とはたいてい変てこなものだが、いつもとは違う変てこさだった。

 私は学校にいて、桜の香りのリップクリームを探している。校舎は人気が少ないので、おそらく放課後だ。下駄箱、階段、教室、疑わしいところを探している。

 途中でトイレに行きたくなり、私は走って女子トイレに駆け込む。トイレの鏡を見ると、石けんの隣にリップクリームが置いてあるのが目に入る。手を伸ばしたが上手くつかめず、床に転がしてしまう。コロコロと転がって、リップクリームは和式の便器にぽちゃんと入る。私は悲鳴を上げる。と、誰かが「ふふっ」と笑う声がする。トイレの入り口には、黒いノートを抱えたシマコさんが立っている……





 翌日、私は気になってしじま書房へ向かった。

 店に入るとカウンターのシマコさんと目が合い、小さく会釈する。

 シマコさんがノートを広げ、私は本の壁を崩さないように気をつけながら移動して丸椅子に座る。

「調子はどうですか」
「まあまあ……いや、ぼちぼちだね」

 その二つの違いがよくわからないが、少しだけやつれているように見えた。

「なんか面白いこと、あったかい?」
「はい。ええと」

 私は口を開いてからためらったが、結局訊いてみることにした。

「シマコさんは、もしかして人の夢をのぞいたりできますか?」

 ふふっとシマコさんが笑う。

「あたしが? できるわけないだろ」
「ですよね」
「だよ」

 私はほっとして、自分のおかしな妄想を手放すことにした。この本屋で立ち読みしたのに小説のネタを提供しなかった人は、シマコさんに夢をのぞかれてネタにされる、なんて……我ながら馬鹿らしいことを考えたものだ。小説にできるかもしれない。

「それで」とシマコさんが先を促す。
「あ、ちょっと変な夢を見ただけです」

 適当にごまかして、今日の弁当に苦手な春菊が入っていたので、友だちに食べてもらった話をする。ほう、とシマコさんが相づちを打つ。こんなどうでもいい話、メモしてどうするんだろう。

「お母さんが聞いたら泣くね。作ってもらってるんだろう?」
「はい。でも嫌いなものは嫌いです」
「いい友だちを持ったね。きっとその子は、美人だろうね」
「どうしてわかるんですか?」
「あんたからイメージが伝わってくるからだよ」

 え? と思わずおでこを押さえる。シマコさんはそれに構わず、ノートにペンを走らせる。

「春菊を食べて、その子はますます美人になる。それを見て不思議に思ったあんたは、おそるおそる苦手な濃緑の固まりに箸を伸ばし……」

 やはり、シマコさんは変てこだ。

 そろそろ切り上げようとして、ふと昨日のおじいさんを思い出す。

「そういえば、昨日来てた人、ずいぶん長々と話してましたね」
「ああ、あいつか」

 シマコさんは思い切り眉をひそめた。

「あれは嘘ばっかりの男だった。ネタにはなるけど使いたくない」
「……そうなんですか?」

 もう少し詳しく聞きたかったが、シマコさんが顎で奥のほうを示すので、私はしぶしぶ立ちあがった。シマコさんも、嫌いなものは嫌いなのだ。

「ところで、リップクリームはトイレにおいてあったのかい?」
「え? あ、そうなんです。今日探してみたら、トイレの鏡の前においてあったんですよ!」
「そらよかったね、流れてなくて」
「はい!」

 リップクリームが見つかったというちょっとした幸運を思い出して、うきうきと目当ての書棚へ向かう。今日は気分がいいから、1冊買っちゃおうか。

 お母さんが好きな古き良きマンガを手に取って、パラパラとめくる。この巻は特にお気に入り。主人公が笑顔で泥団子を食べるシーンは、何度読んでもいい。

「これください」
「おや、珍しいね」
「今日は気分がいいので」
「まいどあり。また来なよ」
「はい」

 軽やかな足取りで家に帰る。バッグにはお気に入りのマンガが、ポケットにはお気に入りのリップクリームが入っている。変てこな夢、ありがとう。シマコさん、ありがとう。

 そして、小さな違和感に気づく。

 シマコさんはなぜトイレにリップクリームがあったことを知っていたのか。

 私が、自分で話したのだったか。それとも……

 やっぱり、シマコさんは変てこだ。
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