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第2話 旅立ちの夜の話
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その夜。
ぼくは寝つけないまま、相変わらずぼんやりと宙を漂っていた。
空には点々と星が光り、薄雲のあいだから見え隠れしている。
どこかで犬が吠えている。寂しくて家族を呼んでいる。
強すぎず、弱すぎず、理想的な風が吹いている。庭の木がさわさわと優しい音を奏でる。その下には、まん丸に膨らんだビニール製のイルカが、仰向けに転がっている。寝ているのか起きているのか、この位置からだとよく見えない。
父さん、母さん、妹は、目を開けたまま風に身をまかせ、器用に眠っている。
兄さんはとても静かだけれど、たぶん起きている。
そのとき、テテテテテッとすばしっこい足音がして、夜陰に乗じた小さなネズミが勢いよく竿を駆けあがってきた。ぼくの頭上でキュキュッと急停止する。
「アニキ、約束通り来ましたぜ」
「おう、待っていたぜ」
「しかし、本当にいいいんですかい? ここにいれば、何不自由なく安全に暮らせるのに」
「わかりきった安全な暮らしは、俺にとってはものすごく不自由なのさ」
「そういうもんすかねぇ?」
「いつだって自由に走り回っているネズミっ子には、わからんだろうよ。さぁ、夜が明ける前に始めてくれ」
「大げさだなぁ。オイラの手際はそこまで悪くないっすよ」
「それは知ってるが、しゃべってたらいつまでも歯が使えねえだろ」
「ああ、そりゃたしかに」
子ネズミは竿にしっかりと尻尾をまきつけると、兄さんをつないでいる紐を小刻みにかじりはじめた。
カリカリ、カリカリ、カリッ……
今ならまだ間に合う。兄さんを説得する、最後のチャンスだ。
カリカリ、カリカリ……カリッ
「よし、あとひとかじりすれば、切れますぜ」
「うん、ご苦労だったな」
「それでアニキ、例の話は……」
「ああ、ポップコーンのありかだったな。台所の戸棚の3段目の奥だ。子どもたちに見つからんように隠したと母親が言っているのを直接聞いたから、間違いない。しかしお前も、物好きだな」
「オイラ穀物には目がないんで。へへっ、楽しみだな」
子ネズミが天に向かって鼻をひくつかせる。
「駆除されないように、ほどほどにしとけよ……お、この感じ。もうすぐいい風が来そうだぜ。俺が合図したら、切り離してくれよ」
「わかりやした。アニキ、お達者で。運がよけりゃあ、そのうちまた会いやしょう」
「おうよ。そんときゃ、数々の武勇伝を聞かせてやるぜ」
ざわざわと、木々のざわめきが大きくなる。
もうすぐ、風が来る。
「……おい弟、起きてるかよ?」
「んっ」
のどがキュッとつまった。
「なんだい、兄さん」
「なんだぁ、その声は。起きたばっかりか?」
「うん、そうだよ」
ちょっと嘘ついた。
「もう行くのかい?」
「ああ、とっておきの波がそこまで来てるんだ。お前も感じるだろう? 俺ァあれにのって、景気よくポーンと飛びだすつもりさ」
「そっか、それはよかったね。気をつけていってらっしゃい」
「なんだ、てっきり泣いてひきとめられんのかと思ったぜ。意外とあっさりしてるじゃねえか」
「泣いたら思いとどまってくれるの?」
「まさか。振り切る手間がはぶけたぜ。お前ってやつは、昔っからよくびいびい泣いてたからな。知らねえうちに成長してたんだな」
「うわ、兄さんいつの話してるんだよ」
「ついこの前さ。だけど、泣き虫だけど、本当はすごく芯の強いやつだってことも知ってたぜ。お前が泣くのは、いつだってだれかのためだったしな。花が折れたり、友だちがケガをしたり、いつも会いに来ていたネコがある日突然来なくなったりしたとき、まるで涙を流せないそいつらの代わりのように、びいびい泣くんだ。それで問題が解決するわけじゃねぇけどな」
「悲しいから泣くんだよ。自分のためだ」
木々のざわめきがさらに強さを増す。
「そうかよ。じゃあ今晩は俺の代わりに泣いてくれ。勇ましく旅立とうとしている男が泣きべそかいてちゃ、ぜんぜんカッコつかねぇからな」
「だったら、行かなきゃいいのに」
「フッ、そいつは無理な相談だなぁ」
「……アニキ、そろそろじゃないすか?」
子ネズミがピンと耳を立てる。
「いや待て、もう少しだ……」
ザワザワザワ……
ぼくにもわかる。とっておきの波が近づいてくる!
「弟よ、兄ちゃんの最高にイカした船出を、あますとこなく伝えてくれよ!」
「……うん!」
兄さんの体が、ふわりと浮き上がる。
「カッコいい伝説をつくってね!」
「おうよ!……ネズミっ子、今だ、切れっ!」
カリッと小さな音が響く。
ひゅおぉぉぉぉと風が唸り、兄さんをかっさらう。
子ネズミが風圧に耐え切れず、「みぎゃっ」と変な悲鳴を上げてぼくの内側に転がりこんでくる。
瞬く間に兄さんが広い空の彼方へ遠ざかっていく。
まるで、最上の波をとらえた熟練のサーファーのように。
スピードを出しすぎた彗星みたいに。
夜空を切り裂いていく。
ただし、後ろ向きだけど。
「兄さぁぁぁん!!」
力いっぱい叫んでも、ぜんぶ風にかき消されてしまう。
もう、遠くの星と兄さんの区別がつかない。
ひゅぅぅぅんと、風がまたさっきまでの落ち着きを取り戻した。
何事もなかったかのように、木々がさわさわと穏やかに揺れる。
「いやぁ、とんだ突風でしたねぇ……おや、冷たい。雨ですかい?」
子ネズミが外に鼻を出し、くんくんと空気のにおいをかぐ。
「あれ、なんか、潮の香り?……」
どこかでまた、犬が吠える。
途切れた雲の間から、欠けた月が顔を出す。
ぼくは寝つけないまま、相変わらずぼんやりと宙を漂っていた。
空には点々と星が光り、薄雲のあいだから見え隠れしている。
どこかで犬が吠えている。寂しくて家族を呼んでいる。
強すぎず、弱すぎず、理想的な風が吹いている。庭の木がさわさわと優しい音を奏でる。その下には、まん丸に膨らんだビニール製のイルカが、仰向けに転がっている。寝ているのか起きているのか、この位置からだとよく見えない。
父さん、母さん、妹は、目を開けたまま風に身をまかせ、器用に眠っている。
兄さんはとても静かだけれど、たぶん起きている。
そのとき、テテテテテッとすばしっこい足音がして、夜陰に乗じた小さなネズミが勢いよく竿を駆けあがってきた。ぼくの頭上でキュキュッと急停止する。
「アニキ、約束通り来ましたぜ」
「おう、待っていたぜ」
「しかし、本当にいいいんですかい? ここにいれば、何不自由なく安全に暮らせるのに」
「わかりきった安全な暮らしは、俺にとってはものすごく不自由なのさ」
「そういうもんすかねぇ?」
「いつだって自由に走り回っているネズミっ子には、わからんだろうよ。さぁ、夜が明ける前に始めてくれ」
「大げさだなぁ。オイラの手際はそこまで悪くないっすよ」
「それは知ってるが、しゃべってたらいつまでも歯が使えねえだろ」
「ああ、そりゃたしかに」
子ネズミは竿にしっかりと尻尾をまきつけると、兄さんをつないでいる紐を小刻みにかじりはじめた。
カリカリ、カリカリ、カリッ……
今ならまだ間に合う。兄さんを説得する、最後のチャンスだ。
カリカリ、カリカリ……カリッ
「よし、あとひとかじりすれば、切れますぜ」
「うん、ご苦労だったな」
「それでアニキ、例の話は……」
「ああ、ポップコーンのありかだったな。台所の戸棚の3段目の奥だ。子どもたちに見つからんように隠したと母親が言っているのを直接聞いたから、間違いない。しかしお前も、物好きだな」
「オイラ穀物には目がないんで。へへっ、楽しみだな」
子ネズミが天に向かって鼻をひくつかせる。
「駆除されないように、ほどほどにしとけよ……お、この感じ。もうすぐいい風が来そうだぜ。俺が合図したら、切り離してくれよ」
「わかりやした。アニキ、お達者で。運がよけりゃあ、そのうちまた会いやしょう」
「おうよ。そんときゃ、数々の武勇伝を聞かせてやるぜ」
ざわざわと、木々のざわめきが大きくなる。
もうすぐ、風が来る。
「……おい弟、起きてるかよ?」
「んっ」
のどがキュッとつまった。
「なんだい、兄さん」
「なんだぁ、その声は。起きたばっかりか?」
「うん、そうだよ」
ちょっと嘘ついた。
「もう行くのかい?」
「ああ、とっておきの波がそこまで来てるんだ。お前も感じるだろう? 俺ァあれにのって、景気よくポーンと飛びだすつもりさ」
「そっか、それはよかったね。気をつけていってらっしゃい」
「なんだ、てっきり泣いてひきとめられんのかと思ったぜ。意外とあっさりしてるじゃねえか」
「泣いたら思いとどまってくれるの?」
「まさか。振り切る手間がはぶけたぜ。お前ってやつは、昔っからよくびいびい泣いてたからな。知らねえうちに成長してたんだな」
「うわ、兄さんいつの話してるんだよ」
「ついこの前さ。だけど、泣き虫だけど、本当はすごく芯の強いやつだってことも知ってたぜ。お前が泣くのは、いつだってだれかのためだったしな。花が折れたり、友だちがケガをしたり、いつも会いに来ていたネコがある日突然来なくなったりしたとき、まるで涙を流せないそいつらの代わりのように、びいびい泣くんだ。それで問題が解決するわけじゃねぇけどな」
「悲しいから泣くんだよ。自分のためだ」
木々のざわめきがさらに強さを増す。
「そうかよ。じゃあ今晩は俺の代わりに泣いてくれ。勇ましく旅立とうとしている男が泣きべそかいてちゃ、ぜんぜんカッコつかねぇからな」
「だったら、行かなきゃいいのに」
「フッ、そいつは無理な相談だなぁ」
「……アニキ、そろそろじゃないすか?」
子ネズミがピンと耳を立てる。
「いや待て、もう少しだ……」
ザワザワザワ……
ぼくにもわかる。とっておきの波が近づいてくる!
「弟よ、兄ちゃんの最高にイカした船出を、あますとこなく伝えてくれよ!」
「……うん!」
兄さんの体が、ふわりと浮き上がる。
「カッコいい伝説をつくってね!」
「おうよ!……ネズミっ子、今だ、切れっ!」
カリッと小さな音が響く。
ひゅおぉぉぉぉと風が唸り、兄さんをかっさらう。
子ネズミが風圧に耐え切れず、「みぎゃっ」と変な悲鳴を上げてぼくの内側に転がりこんでくる。
瞬く間に兄さんが広い空の彼方へ遠ざかっていく。
まるで、最上の波をとらえた熟練のサーファーのように。
スピードを出しすぎた彗星みたいに。
夜空を切り裂いていく。
ただし、後ろ向きだけど。
「兄さぁぁぁん!!」
力いっぱい叫んでも、ぜんぶ風にかき消されてしまう。
もう、遠くの星と兄さんの区別がつかない。
ひゅぅぅぅんと、風がまたさっきまでの落ち着きを取り戻した。
何事もなかったかのように、木々がさわさわと穏やかに揺れる。
「いやぁ、とんだ突風でしたねぇ……おや、冷たい。雨ですかい?」
子ネズミが外に鼻を出し、くんくんと空気のにおいをかぐ。
「あれ、なんか、潮の香り?……」
どこかでまた、犬が吠える。
途切れた雲の間から、欠けた月が顔を出す。
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