77 / 82
第三章
彼と何気のない日々と
しおりを挟む
母親の自殺未遂の一件で、透への日常的な虐待も明白な事実となった。そのため、あの日、母が自らの首筋にナイフを引いたその時が、親子の最後の時間となった。それからは法的な制約のもと引き離されることとなった。
透には隆文という番が既にいたため、あっという間にそれらの手続きは終わってしまった。番の関係に親子の縁など微塵も敵わないのかと思うと酷く虚しさを感じる時もあった。
透には、時々そうやって過去に起きた経緯を淡々と思い起こしながら、ベッドの上でぼんやりとする朝がある。今日もそんな日だった。ドア越しに隣のリビングで隆文が朝食の準備をしている気配を感じる。だから、もう少しこのままぼんやりとしていて、隆文が自分の名前を呼びに来てくれるまで待っていよう。今日は二人の休日が重なった貴重な日だ。二人は同じ病院に勤めていても全くの別棟にいるわけだから、日々を共にする時間はかなり限られている。
隆文に引き取られてから数年は、帰宅がまちまちな彼を兎に角玄関まで迎えに行くことが透の好きな時間だった。くたくたに疲れた隆文が、ニコッと微笑んで「ただいま、透。」と言ってくれる瞬間が好きだったからだ。
「ただいま」「おかえり」のやりとりは、透にとっては憧れであり、同時にずっと自分には縁のないものだと思い込んでいた。お互いの生活リズムがあまり合わなくなった今でも、「ただいま」と「おかえり」は必ず言うことになっている。自分が眠ってしまった夜には、隆文がそっとキスを落として「ただいま」と言ってくれるから、朝起きたら、隣で眠っている隆文に「おかえり」と言ってキスのお返しをしてから家を出る。
「透、ご飯できたぞ。」
いつものルーティンを思い返してにまにまとしていたら、隆文が寝室に入ってきた。微かに香ってきたコーヒー。腕を伸ばせばそのまま抱き起こしてくれる。自分はもういい大人だけれど、隆文にこうやって抱っこされるのも好きだ。だから、ベッドの上で隆文と向かい合って抱きついたままでいる。すぐに手を離さない透の背中を、彼は柔らかく撫でてくれた。
「怖い夢でもみた?」
「え・・・・?ううん。」
「今日は雅史とアオくんの家に行くからな。」
「うん!久しぶりに二人に会えるから嬉しい。」
へらりと笑えば、何となく心配そうに顔を歪めた隆文がいた。透が皺の寄った彼の眉間を指で解していたら、そっと指を絡められた。暖かな体温がじんわりとそこから広がっていく。
「おまえは、出会った時からそうやって笑って隠す癖がある。だから心配する。」
「・・・・そうだね。でも、今日はほんとに大丈夫だよ。久しぶりに僕たちだって二人で居られるんだから。」
隆文はするりと透のパジャマの中へ手を滑り込ませた。そして、確かめるように指先で、丹念にかつての火傷の跡を辿っていく。歪だが透にとっては大切な傷跡を、同じように宝物みたいに彼は触れてくれる。彼のその繊細な指先も好きだ。少しだけ伏せられた慈愛に溢れたその眼差しも好きだ。
「ふふっ。くすぐったい。」
お返しに彼の首筋を撫でる。ぴくっと彼の肩が震えた。
ここ、結構弱いことを僕は知っている。
それでも隆文は、透の傷跡を辿ることをやめなかった。
「僕のここ、好き?」
僅かに顔をあげた彼と目が合う。それはすぐに優しく細められた。
「好きだよ。おまえを形作ってきた全てを愛しているよ。」
ふわりと香る芍薬。
初夏が、もう、すぐそこまで来ていた。
◇◇◇
春に妊娠が発覚したアオの悪阻はかなり重く、やっと落ち着いた頃には六月を迎えていた。嘉月も心配していたから、今日は看護師として経過観察も含めて遊びに行く。蒼白いをとうに通り越した顔色の悪いアオの姿が、今でも目の前に浮かぶ。今日は、少しでも血色を取り戻してくれているといいけれども。
「透、準備できたか?」
「うん!今行くよ。」
玄関に向かうと、片手にスーパーの袋を持った隆文がいた。
「わっ!こんなに買ってたんだ!」
「ああ、確かトマトしか食べられないんだろう?」
袋の中に入っていたのは大量のトマトだった。
「うーん、悪阻もだいぶん良くなったって聞いてるから、トマトだけってこともないとは思うけど。ある分には喜んでもらえるんじゃないかな?」
「そうか。それならいいんだけどさ。」
「アオは料理上手だし、これを機に色んなトマト料理を教えてもらおうかな!」
「ははっ。うちのトマト料理のレパートリーも増えそうだな。」
さりげなく差し出してくれた隆文の手を取って、二人は家を出た。
透には隆文という番が既にいたため、あっという間にそれらの手続きは終わってしまった。番の関係に親子の縁など微塵も敵わないのかと思うと酷く虚しさを感じる時もあった。
透には、時々そうやって過去に起きた経緯を淡々と思い起こしながら、ベッドの上でぼんやりとする朝がある。今日もそんな日だった。ドア越しに隣のリビングで隆文が朝食の準備をしている気配を感じる。だから、もう少しこのままぼんやりとしていて、隆文が自分の名前を呼びに来てくれるまで待っていよう。今日は二人の休日が重なった貴重な日だ。二人は同じ病院に勤めていても全くの別棟にいるわけだから、日々を共にする時間はかなり限られている。
隆文に引き取られてから数年は、帰宅がまちまちな彼を兎に角玄関まで迎えに行くことが透の好きな時間だった。くたくたに疲れた隆文が、ニコッと微笑んで「ただいま、透。」と言ってくれる瞬間が好きだったからだ。
「ただいま」「おかえり」のやりとりは、透にとっては憧れであり、同時にずっと自分には縁のないものだと思い込んでいた。お互いの生活リズムがあまり合わなくなった今でも、「ただいま」と「おかえり」は必ず言うことになっている。自分が眠ってしまった夜には、隆文がそっとキスを落として「ただいま」と言ってくれるから、朝起きたら、隣で眠っている隆文に「おかえり」と言ってキスのお返しをしてから家を出る。
「透、ご飯できたぞ。」
いつものルーティンを思い返してにまにまとしていたら、隆文が寝室に入ってきた。微かに香ってきたコーヒー。腕を伸ばせばそのまま抱き起こしてくれる。自分はもういい大人だけれど、隆文にこうやって抱っこされるのも好きだ。だから、ベッドの上で隆文と向かい合って抱きついたままでいる。すぐに手を離さない透の背中を、彼は柔らかく撫でてくれた。
「怖い夢でもみた?」
「え・・・・?ううん。」
「今日は雅史とアオくんの家に行くからな。」
「うん!久しぶりに二人に会えるから嬉しい。」
へらりと笑えば、何となく心配そうに顔を歪めた隆文がいた。透が皺の寄った彼の眉間を指で解していたら、そっと指を絡められた。暖かな体温がじんわりとそこから広がっていく。
「おまえは、出会った時からそうやって笑って隠す癖がある。だから心配する。」
「・・・・そうだね。でも、今日はほんとに大丈夫だよ。久しぶりに僕たちだって二人で居られるんだから。」
隆文はするりと透のパジャマの中へ手を滑り込ませた。そして、確かめるように指先で、丹念にかつての火傷の跡を辿っていく。歪だが透にとっては大切な傷跡を、同じように宝物みたいに彼は触れてくれる。彼のその繊細な指先も好きだ。少しだけ伏せられた慈愛に溢れたその眼差しも好きだ。
「ふふっ。くすぐったい。」
お返しに彼の首筋を撫でる。ぴくっと彼の肩が震えた。
ここ、結構弱いことを僕は知っている。
それでも隆文は、透の傷跡を辿ることをやめなかった。
「僕のここ、好き?」
僅かに顔をあげた彼と目が合う。それはすぐに優しく細められた。
「好きだよ。おまえを形作ってきた全てを愛しているよ。」
ふわりと香る芍薬。
初夏が、もう、すぐそこまで来ていた。
◇◇◇
春に妊娠が発覚したアオの悪阻はかなり重く、やっと落ち着いた頃には六月を迎えていた。嘉月も心配していたから、今日は看護師として経過観察も含めて遊びに行く。蒼白いをとうに通り越した顔色の悪いアオの姿が、今でも目の前に浮かぶ。今日は、少しでも血色を取り戻してくれているといいけれども。
「透、準備できたか?」
「うん!今行くよ。」
玄関に向かうと、片手にスーパーの袋を持った隆文がいた。
「わっ!こんなに買ってたんだ!」
「ああ、確かトマトしか食べられないんだろう?」
袋の中に入っていたのは大量のトマトだった。
「うーん、悪阻もだいぶん良くなったって聞いてるから、トマトだけってこともないとは思うけど。ある分には喜んでもらえるんじゃないかな?」
「そうか。それならいいんだけどさ。」
「アオは料理上手だし、これを機に色んなトマト料理を教えてもらおうかな!」
「ははっ。うちのトマト料理のレパートリーも増えそうだな。」
さりげなく差し出してくれた隆文の手を取って、二人は家を出た。
0
あなたにおすすめの小説
番に見つからない街で、子供を育てている
はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。
異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。
現世の記憶は失われているが、
この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。
街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、
ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。
だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。
再会は望まない。
今はただ、この子との生活を守りたい。
これは、番から逃げたオメガが、
選び直すまでの物語。
*本編完結しました
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。
愛を知らない少年たちの番物語。
あゆみん
BL
親から愛されることなく育った不憫な三兄弟が異世界で番に待ち焦がれた獣たちから愛を注がれ、一途な愛に戸惑いながらも幸せになる物語。
*触れ合いシーンは★マークをつけます。
あなたと過ごせた日々は幸せでした
蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。
【完結・ルート分岐あり】オメガ皇后の死に戻り〜二度と思い通りにはなりません〜
ivy
BL
魔術師の家門に生まれながら能力の発現が遅く家族から虐げられて暮らしていたオメガのアリス。
そんな彼を国王陛下であるルドルフが妻にと望み生活は一変する。
幸せになれると思っていたのに生まれた子供共々ルドルフに殺されたアリスは目が覚めると子供の頃に戻っていた。
もう二度と同じ轍は踏まない。
そう決心したアリスの戦いが始まる。
人族は一人で生きられないらしい――獣人公爵に拾われ、溺愛されて家族になりました
よっちゃん
BL
人族がほとんど存在しない世界に、
前世の記憶を持ったまま転生した少年・レオン。
獣人が支配する貴族社会。
魔力こそが価値とされ、
「弱い人族」は守られるべき存在として扱われる世界で、
レオンは常識の違いに戸惑いながらも必死に生きようとする。
そんな彼を拾ったのは、
辺境を治める獣人公爵アルト。
寡黙で冷静、しかし一度守ると決めたものは決して手放さない男だった。
溺愛され、守られ、育てられる日々。
だが、レオンはただ守られるだけの存在で終わることを選ばない。
学院での出会い。
貴族社会に潜む差別と陰謀。
そして「番」という、深く重い絆。
レオンは学び、考え、
自分にしかできない魔法理論を武器に、
少しずつ“並び立つ覚悟”を身につけていく。
獣人と人族。
価値観も、立場も、すべてが違う二人が、
それでも選び合い、家族になるまでの物語。
溺愛×成長×異世界BL。
読後に残るのは、
「ここに居場所があっていい」と思える、あたたかな幸福。
愛する公爵と番になりましたが、大切な人がいるようなので身を引きます
まんまる
BL
メルン伯爵家の次男ナーシュは、10歳の時Ωだと分かる。
するとすぐに18歳のタザキル公爵家の嫡男アランから求婚があり、あっという間に婚約が整う。
初めて会った時からお互い惹かれ合っていると思っていた。
しかしアランにはナーシュが知らない愛する人がいて、それを知ったナーシュはアランに離婚を申し出る。
でもナーシュがアランの愛人だと思っていたのは⋯。
執着系α×天然Ω
年の差夫夫のすれ違い(?)からのハッピーエンドのお話です。
Rシーンは※付けます
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる