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1 砂出しの働き方改革

1-1.生まれ変わった大魔導士

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 大魔導士イリス・ステンキル・ブロット。女ながらに王都で、否、国中で一番の魔導士として、その名を轟かせた。

 永久に振り続ける雪に悩んだ北の領に、春を呼んだ。全く水が降らず、領土が砂漠化して困っていた西の領に、雨を降らせて肥沃な大地とした。雨続きで洪水が頻繁に起き、人が生きていくのすら困難であった南の領に、風を呼んで雨雲を吹き散らした。地が揺れ、家々が崩れる災害に遭った東の領に、地揺れを防ぐ魔法を施して人々を救った。
 そんな、眉唾物の逸話には、必ず、その名前が登場する。

 この国の歴史の中でも、群を抜いた実力と、奉仕精神を持ち合わせた、伝説の魔導師。魔法が巧みな者は皆憧れ、少年少女が皆目指す。そんな、国家の英雄。
 成し遂げた偉業は、まるでおとぎ話のようにも思えるが、全て事実。本当に起きたこと、である。

 なぜ、そう言い切れるか、って?
 私こそが、イリス・ステンキル・ブロットだからだ。

 私は魔導士として国中を巡り、数々の悩める人々を救ってきた。魔法について追求する日々は、素晴らしく充実したものだった。

 そんな私の旅は、病によって終わった。魔法の仕組みを解明し、その有効な使い方について研究した私であっても、肉体を若返らせたり傷を癒したりする術は、発見できなかったのだ。
 肌は水分を失い、皺になっていった。手足が衰え、内臓が萎えていくと、魔法の力を借りても活動するのが難しくなった。そうして私は、自らの肉体の限界を感じーー策を練った。

 具体的な話はややこしくなるので避けるが、要するに私は、未来のどこかで自らの精神を、新たな身体を借りることで、復活させることを目論んだ。持てる知識を全て動員し、自らの体を使って、実験した。

 実験は成功であり、失敗であった。私の精神は、今まさに、この体の中で目覚めた。精神の復活が叶ったという点では、この実験は成功である。

 では、何が失敗なのか。それはこの体の、状態にある。なんだか頭ががんがんして、燃えるように熱いのだ。関節は痛いし、目の奥はじんじんする。視界がぐらぐら揺れ、今何を見ているのかも、よくわからない。他者の体に精神を宿した、副作用であろうか。
 こんな状態では、魔法を使うどころか、歩くこともできない。事実、私の体は倒れ伏したようになっている。後頭部に、地面を感じる。

「おい。大丈夫か?」

 ぼんやりと、遠くで、男の声がする。肩が揺らされたような気がした。揺れに合わせて、鈍痛が走る。吐き気もする。

「……揺らさないで」

 声は出た。出たが、喉ががさがさしていて、苦しい。

「すまない。どうしたんだ?」

 揺れが収まる。私はその問いに答えるため、改めて、自分の体調を把握し直した。

「頭が痛いの。熱があるみたいで……全身痛いし、特に関節が……」

 頭が痛い。発熱。関節の痛み。自分の言葉によって、それぞれの症状が繋がり、ひとつの可能性に思い至った。

 私は病気や怪我を治すことはできなかったが、唯一、治療法を発見できた病があった。
 症状としては、高熱や関節痛といった、重い風邪の症状と変わらない。しかし病が起こる理由は、魔力にあるのだ。
 肉体の魔力排出機能が正常に機能しなくなり、体の中に魔力が溜まりすぎたことが原因で、そうした症状が現れる場合がある。

 そしてそれは、魔力を解放することで、治すことができる。

「……できない」

 体内に、魔力を全く感じない。高熱のせいかもしれない。

 とにかく私は魔力を放出しようと意識し、そして何もできなかった。魔法を使うことなど、私にとっては、呼吸をするのと変わらない。なのに「魔法を使う」という感覚が、全く掴めなかった。

 歳をとり、魔力を排出しにくくなった老人が、稀にこうした症状を訴えることがある。その場合は、外部から魔力を抜いてやることで、症状が緩和された。他者によって強引に魔力を抜くことは、多大なる苦痛を覚えるそうだが、そうしないと、魔力が溢れていつか死んでしまう。
 私は、魔力を抜くたびに苦悶の表情を浮かべる老人たちに罪悪感を覚えながらも、彼らの命を救うため、心を鬼にして魔力を抜いていたのだった。

「……手を貸して」

 近くに、誰かいる。人間ならば、魔法が使えるはずだ。
 私が宿った肉体には、どうやら、魔法を使うほどの活力も残っていないらしい。人の手を借りるしかない。

「えっと……」
「視界が揺れて、何も見えないの。私の手に、手を触れて」

 喋るのも、苦しい。
 私の喉を震わせる声は、この熱のせいか、異常なほどに掠れている。今にも消え入りそうな声ではあったが、彼はそれを聞き取ってくれたようだ。

 私の手に、ひんやりとしたものが触れる。その手をぐっと掴み、なんとか持ち上げた。腕に全力を注ぎ、掴んだ手を引き寄せる。ちょうど、このあたりだ。胸元に触れたところで手を離した。

「魔法を使って」
「え……」
「なんでもいいから。お願い」

 溢れすぎた魔力を取り出す方法は、私の見つけた限りでは、ただひとつ。胸元にある、魔孔と呼ばれる器官から、魔力を強引に取り出すのだ。
 私ぐらい熟練すると、取り出した魔力を自分のものに換えて溜めることもできるのだが、素人がやるには危険だ。魔力を吸い上げながら魔法を使い、それをそのまま放出する。その方法であれば、一般人でも、身の危険なく魔力を取り出すことができた。

「……早く」

 魔法を使うときに生じる、空気の揺れを感じない。早く魔法を使ってくれと願った瞬間、強い風が吹き荒れた。魔法で風を起こしたのだろう。魔力の揺らぎを感じさせないほど素早く魔法を使うなんて、なかなかの手練れだ。

 私の記憶は、実験を終え、魔力を使い果たして意識が遠のいたところで終わっている。あれからどのくらい経ったのか、皆目見当もつかないが、目覚めて早々、優秀な魔導士に出会えたようだ。

 みるみるうちに体が楽になり、呼吸が楽になる。痛みも引いてきた。まだ頭の芯がぼんやりとしているが、これもそのうち治るだろうと思える。
 魔力の暴走とはこれほどに苦しく、魔力を抜くとこれほどに楽になるのか。苦悶の表情を浮かべていた老人が、「また頼む」と必ず口にするのは、これほどの落差があるからなのだとわかった。

 ぴしぴしと頬に砂つぶが当たる。旋風が起きたかのような、激しい風。これほどの風は、よほどの魔力を消費しないと起こせない。この肉体には、かなりの魔力が溜まっていたと見える。

 目を開ける。

 ぐらぐらに揺れていた視界がクリアになり、空の青が目に差し込んだ。こちらを見下ろし、影になっている青年の顔は、明らかに困惑の色を浮かべていた。

「あり……うぇっ」

 礼を言おうと口を開いた瞬間、ざりっとした嫌な感触が走った。先ほどの強風で、口内に砂が入り込んだらしい。顔を横に向け、ぺっと唾を吐く。

「……ゆすぐかい?」

 青年に手渡された水筒を、受け取った。上半身を起こしてみる。思っていたより数段楽に、すっと体が持ち上がった。
 腕はだるいが、水筒を持ち上げることはできた。ひんやりとした水の温度が心地よい。
 ぐちゅぐちゅ。念入りに口をゆすぎ、地面に吐き出した。ここは砂漠だ。吐き出した水はすぐにすっと消え、何もなかったかのように乾いた。

「ありがとう」

 声にも、心なしか力が入った。先ほどの苦しさは、もうない。

 助けてくれたのは、黒髪の青年。ほんのり日焼けした肌が、なんとも健康的だ。私の頃は、魔導士といえば室内にこもりきりで、肌が抜けるように白い者が多かった。その中であちこち飛び回る私は珍しい存在だったのだが、彼も似たようなものなのだろうか。

「どう、いたしまして」

 ぎこちなく答える青年は、まだどこか、困惑を脱し切れていない様子だった。
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