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ぬくもり

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 偶発性低体温症(Accidental Hypothermia)。事故や不慮の事態に起因する低体温で、低体温とは深部体温が35℃以下であると定義される。深部体温によって症状は5つのステージに分類され…

 喉に痰が絡み、不意に咳き込むと思い出したように全身の神経という神経が抓り上げられてたまらずに呻き声を上げる。横倒しになった世界の半分は暗闇で、残りは月の光を柔らかく吸い込んで光る降り積もった雪と、点在する木々の黒々とした皮膚が静かに佇んでいるのみだ。崖下に落ちた時に激しく打ち付けたためか、こうして身体が僅かに動く度に警告灯をちらちらと光らせるのだが、錆びついた身体は言うことを聞かず埋もれた雪から這い出る事も叶わない。打撲があるのか、骨折しているのか、出血はあるのか。落ちた時の衝撃で記憶は定かでは無いが、崖の高さはおおよそ6、7メートルはあっただろう。先日会社の健康診断で測った僕の体重が65kgなので、着衣分を考慮して66kgとして落下速度は約12m/s、落下エネルギーは…雪の上に落ちた事を考慮すると…。輪郭が薄くなり消え始めた世界にしがみ付こうと頭を精一杯回転させてみても、酷く泥酔した時のように意識は耕運機の刃に断続的に刈り取られていき千切れたそれは無茶苦茶にかき回されていく。
 綿菓子のように降り積もる雪は、明確な殺意を持って僕の頭蓋骨を溶かしていった。

「ほら、こうされるの好きですよね」
 朝日に照らされて光る大神さんの濡れた犬鼻を亀頭で叩くと、くうんと鼻を鳴らして上気した顔で僕を見上げる。湿った鼻息が陰毛を揺らし、尻尾はうるさいくらいに風を切っている。
「こんなに格好良い顔してるのに」
 左手で大神さんの伏せられた耳をくしゃくしゃと掻いてやると心地好さそうに目を細めた。溢れてきた先走りを鼻の皺に擦り込むようにして亀頭を押し付ける。
 ぬちゅ、ぴちゃっ…
「ちんぽ見せたらワンちゃんになっちゃったね?」
「あっ…んんっ…」
 その言葉にすら興奮したのか、勇ましいオオカミの顔が快楽に歪む。
「っ、こら、ダメですよ」
 ちんぽに喰らいつこうと浅ましく伸ばされた舌を制しながらそう言うと、丸い目を潤ませながらまた鼻を鳴らす。ちんぽと鼻の間に掛かった先走りの橋を指で拭って差し出すと、赤い舌を這わせてぺろぺろと舐めとっていく。もう肉が全てこそげ落ちた骨をいつまでも名残惜しそうに舐める犬のように、指の間を熱い舌がくすぐっていく。
 ぴちゃちゅぷっ…ちゅっちゅ…
「ほんと、ちんぽ大好きなんですね」
「あ、あぁ…好き…好きだ…」
 目を蕩けさせて、ちんぽしか目に入らないといった様子で紡がれる愛の言葉に、とんだ身勝手だと思いながらも苛立ちを覚える。その言葉は…。献身的に指を舐め、ちんぽの匂いを嗅ぎ続けるその様子に嗜虐心が煽られてくる。
「ねえ大神さん」
 僕は、言ってはいけない事を。
「ちんぽなら何でもいいんでしょ?」
 言ってしまった。
 ハッと大きく目が見開かれ僕の目を凝視した後、大神さんはひどく悲しそうな顔をした。先ほどまでの惚けた顔とは打って変わってその目には冷静さを取り戻し、あれほど振られていた尻尾もだらりと垂れている。
「それ、本気で言っているのかい?」
 懇願するように見上げるその顔を見てちくりと罪悪感が突き刺さるが、引っ込みのつかなくなった僕はただ目を逸らして沈黙を守る事しか出来なかった。
「…だけ……った…に…」
 ぼそりと小さく呟く。あまりに落ち込んだその様子に、咄嗟に謝罪を口にしようとしても、固まったように身体は動かず、ごくりと唾を飲み込むのが関の山だった。
「…ごめん」
 しばしの沈黙の後、大神さんはそう言って立ち上がると服を着はじめた。既に僕のちんぽも大神さんのちんぽも、先ほどの興奮が嘘だったかのように萎えて小さく縮こまり、とてもそういう気はもう起きなかった。
「あ、あの、え…あ」
 未だに言葉を見つけられない僕に、膨れ上がった筋肉と毛皮で随分窮屈そうになった服を着込んだ大神さんが言い放った。
「買い物…行ってくるから…」
 そんな格好で街に出る事なんて出来る訳無いのに。
「うん…」
 反射的にただそう返事をすると、静かにドアが閉められた。遠ざかって行く車のエンジン音を聞きながら、服を着るのも忘れた僕はただ呆然と立ちすくんでいた。

 ようやく服を着た頃には、僕は罪悪感に押しつぶされていた。どうして大神さんがあそこまで傷付いたのか、正直なところ解らなかった。犬のように扱われた事が嫌だったのだろうか、色情狂のように言われた事が癪に触ったのだろうか。何れにせよ、大神さんに対して謝らなければならない事は明白だった。買い物に行くと言っていたけど、きっと昼には帰ってきてくれるだろうか。
 部屋の中をコマネズミのように落ち着きなく歩き回り、壁に掛けられたキタキツネを見ると時計の針は凍ったように張り付いていた。窓の外では粉チーズのように雪が降っている。
「そうだ、雪かき」
 本を読む気にも、テレビを見る気にもならず、ましてや何かを食べようとする気も起こらなかった僕は、既に生活の一部へとなりつつあったそれを思い出す。
 おつかれさま
 始めて雪かきをした日、そう言ってココアを差し出してくれた大神さんの笑顔を思い出して胸がちくりと痛んだ。手袋と長靴を履いて、玄関に立てかけられたママさんダンプを手に取りながら、ふと思い出す。
 いつも、大神さんが出かける時には玄関には外から鍵が閉められていた。初めは監禁された事に随分窮屈さを覚えていたものの、人間の適応能力というのはそれなりに高いらしく、元々僕はインドア派といえば聞こえは良いが休みの日は家に籠って一日中過ごすなんてのも苦にならない事もあってか、もはや鍵の存在も忘れていたくらいだ。時折大神さんと雪かきをするために家の前に出ては、運動によって汗ばんだ身体をツンと冷やされた空気が撫でる感触に心地好さを感じていた。
 テレビで見た、死刑囚のドキュメンタリーを思い出した。なんでも他の囚人と違って死刑囚の場合は独房に閉じ込められて一日を過ごすらしい。週に何度かある運動の時間も、広いグラウンドに出る訳でもなくただ一人壁に囲まれた檻のような空間で身体を動かすことしか出来ないらしい。いつだったか、見学に行った農場で、歩き回る事はおろか身体を転回させる事も出来ないような細長く狭い檻の中で飼育されていた豚を連想させた。
 頭を一振りしてから考える。いずれ鍵はかかっているだろうが、それを確かめるだけだ。何もここから逃げ出そうというつもりはもう無いし、ただ気を紛らわせるために外の空気を吸って、せめてもの罪滅ぼしとして雪かきが出来ればという気持ちがあるだけだ。鍵がかかっているのを確認したら、コーヒーでも飲んで心を落ち着けてから何かご飯でも作ろう。きっと大神さんはお腹を減らして来るから。
 カチャッ
 小気味よい音とともにドアノブが回る。開かれたドアから冷たい空気が流れ込んできて、ぶるりと身震いした。鍵を閉めるのも忘れるくらいに慌てていたのだろうか、それとももう僕は用済みでここから出ていけという意思表示だろうか。嫌な考えばかりが頭の中を渦巻いていく。
 学校を卒業してからも、社交性の高いクラスメイトや数少ないながらも居た友達とは暫くの間はメールなんかをしていた。夏休みや正月なんかには、地元に帰ってきた彼らと互いの家で遊び、やれ大学の授業が大変だとか給料で中古の車を買っただとか、そういった話を聞きながら朝を迎えたものだった。やがて飲酒ができる年齢を迎えると、話の主体は思い出話から上司や後輩への愚痴へと変わっていき、碌に働きもしていない僕は段々と開いていく距離に焦りと寂しさを感じていた。吉川も大学入ったら?仕事紹介しようか?そういった提案に曖昧な相槌を取り続け、やがて僕は一人になっていった。両親はそんな僕を見ても叱咤する訳でもなく、自分が納得できるようにやりなさい、と見守ってくれたのだが、孤独の闇はどんどんと膨れ上がる一方だった。
 どうしようもない屑で何の取り柄も無い僕の事を、たとえどんな形であれ大神さんは必要としてくれた。いや、しれくれていたと思う。人付き合いがとかく苦手だった僕は、誰かとコミュニケーションを上手く取るにはいつも明るく笑って面白い話を沢山出来て、休みの日もせわしなくアクティビティをこなすことが必須科目なのだと思っていた。そしてそれらに合格した者だけが幸せを勝ち取る権利を得るのだと思っていた。大神さんは明るくて、色々な事を知っていて、面白い話も沢山してくれた。でも、それだけではなくて、ただソファーに二人で腰掛けているというだけで僕は幸せだったんだ。言葉を交わさなくても、手を握らなくても、身体を重ねなくても、僕は…

 悶々と考えているうちに雪かきを終える。屋根はまだ暫くは雪かきをしなくても大丈夫だろうし、まあ上出来といった所だろうか。排雪場所にうず高く積み上げられた雪山を見ながら考える。大神さんはまだ帰ってくる気配は無い。
 このまま家に戻っても、また手持ち無沙汰な時間を過ごすだけだ。折角の機会だから家の周りを歩いてみようか。いつも雪かきをする時は気にも止めていなかったが、じっくりと見てみると雪の積もった森というのも中々に興味深いものだ。もし大神さんに、家の周りを散歩したいと頼んだら了承して貰えるだろうか。あの死刑囚のように、見えない檻の中で。
 家は小高い丘の上に立っており、裏手に回ると眼下に鬱蒼とした森が見えた。それはまだ朝だというのに薄暗くぽっかりと口を開けて人間を飲み込んでしまいそうな不気味さを感じさせる。僕が持っているオオカミグッズコレクションの中で、ちょうどこんな感じの森の中で一匹のオオカミがじっと佇んでいるポストカードがあったな。大抵の人はそれを見て、不気味だとかホラー映画のようだとか思うのかもしれないが、僕にはそれがいたく神秘的に見えて、思わず3枚も買ってしまったものだ。この先に、あの森の中に大神さんが居るような気がして吸い込まれるように足を進めた。僕が覚えているのはそこまでだ。

 心臓を氷の手で鷲掴みにされて目を開けると、辺りはもう真っ暗だった。
 記憶のピースを手繰り合わせてみたところ、僕は崖から落ちて雪に埋もれてしまったらしい。幸いにも一命は取り留めたのだが、首を僅かに動かすことが精一杯で這い出す事も助けを求めて大声を出す事も出来そうになかった。目を動かして見える範囲では出血や大きな外傷といったものは無さそうだが、腕は鉛でも入ったかのように重く動かせず、足に至っては感覚すらもう無かった。
 もし、落下の衝撃で脊椎を損傷して麻痺しているのだとしたら。骨折してあらぬ方向に折り曲げられた足が雪の中に埋もれているとしたら。冷やされたあまりに足の指先が壊死していたら。嫌な想像ばかりしてしまう。朝、ここに落ちてから既に12時間近くは経過しているのだから、少なくとも内臓の損傷や大きな出血はしていないのだと願いたい。
「っぁ…ひゅっ…」
 助けを求めようと声を出してみても、気道を通る空気が僅かに震えただけだった。もし、大声を出す事が出来たならば助けは来るのだろうか。大神さんが恋しい。またシチューが食べたい。目を細めて笑うあの笑顔が見たい。布団の中で感じた人間よりも幾分か高い体温が懐かしい。
 生存の二文字を手放した脳がシャットダウン処理を始めて、脳内麻薬をこれでもかと撒き散らす。多幸感に包まれる中、痛みは消え去り温かな幻覚がちらつく。僕は一つ思い出して、石膏を流し込まれて固まった右手を手繰り寄せる。指先を鼻に押しつけて息を吸うと、手袋の先から大神さんの匂いがした。
 視界が滲み世界が暗転する。
「…か…くんっ!…」
 遠くで大神さんの声がした。今際の際の幻覚は随分サービス精神が旺盛なようだ。
 ふっと浮遊感を感じる。ミキサー車が走り、道沿いでは聖歌隊が賛美歌を歌っている。真っ黒な花火が打ち上げられて、百万羽のコマドリがワルツを踊る。
「…とうさん…ごめ…さい…」
 夢の中で僕は誰に謝ったのだろう。

 銀色の爆発。瞼を抉られる感触に顔をしかめると、オオカミの影がいた。
「あぁ…そんな…」
 雲の上を遊泳しながら、オオカミを眺める。
「…しかた……ごめ…」
 また意識が引きちぎられる。いつの間に口の中を切ったのか鉄の味がした。
 もう一度目を開けた時、大神さんが僕の顔を覗き込んでいた。
「あれ…大神さん…」
「吉川くん!よかった…ほんとに…」
 抱きしめられた拍子に、柔らかな体温が全身をくすぐった。大神さんは僕の顔に頭を擦り付ける。ぬるい湿り気が僕の頬を濡らした。そうだ、大神さんに言わなきゃいけない事があったんだ。
「あぁ…僕、ごめんなさい…」
「いいんだっ!私の方こそ、君をこんな目に…」
 涙で濡れた大神さんの毛は、全然嫌な感触じゃなかった。徐々に身体が感覚を取り戻すと、互いに全裸で抱き合っている事に気がつく。小さく、え、と漏らした僕の声に大神さんが弁解をする。
「雪に埋もれて…凍えていて…温めないと…」
 しどろもどろになる大神さんを見ていると、どうしようもなく可愛く感じてしまった。僕はもう貴方のモノなんだから、焼いて食べてしまっても良かったのに。
「大神さん」
「うん?」
 背中に手を回して毛並みを撫でる。不思議と身体の痛みは消え去っていた。
「助けてくれて、ありがとう」
 大神さんは頬を緩めると、鼻を指差しながらこう言った。
「オオカミは鼻がきくんだ」
 あまりに得意げな表情で言うので思わず笑ってしまう。背中に回していた手を頭に置いて、くしくしと撫でながら、愛しいオオカミに語りかける。
「ねえ大神さん、ちゅーしよ」
 ちゅむっ、ちゅ…
 返事の代わりに口内に舌が差し入れられる。舌を絡めて唾液をすする。
「んっ、ふっ…」
 どちらのともとれない吐息が漏れる。
 ちゅっ、れちゃっ…ちゅちゅっ…
 野性味のある匂いを感じながら、互いの歯列をなぞる。身体の芯から発せられる熱で火照っていく。互いの熱を貪ろうとより密着させると、一層熱いそれが触れ合った。
 れる…ぴちゅ…ちゅくっ
 上からも下からも水音が響く。舌とちんぽを絡ませ合う。
「はぁっ…んっ、あったかい…」
 にゅちっ、にゅりっ…
 二人分の先走りで亀頭を濡らし合い、快楽を貪る腰の速度が上がっていく。口の周りは飲みきれない唾液でべとついて、その匂いですら興奮を促進していく。
「っ…かみ…さんっ…んおっ…」
 大神さんのちんぽが裏筋をべろりと舐めあげるように動き、小さく悲鳴をあげる。
「すき…あいしてる…」
 ちゅこっ、ちゅっ、にちゅっ
 強く抱きしめられたかと思うと、ごつごつとした大きな手でちんぽを二本まとめてしごき上げられる。亀頭同士がちゅっちゅと音を立ててキスをする。
「あぁ…私も…愛してる、好きだっ!」
 んむっ、れろっちゅっ…じゅこっじゅこっ
 舌を食みながら、擦り上げられるちんぽが泡立ち、汗の匂いと混じった卑猥な匂いを撒き散らす。
「んっ、んっ、すきっすきっ…大神さん…あっ」
 盛りのついた犬のように狂おしく叫び、腰を振っては大神さんの手を先走りで濡らしていく。節くれだった指がにゅりにゅりとカリ首を刺激し、肉球が優しくちんぽを圧迫する。
「好きだっ、もう逃がさないからなっ!ぐる…うぅ…」
 劣情に顔を歪ませながらも、しっかりと僕の目を見据えて大神さんは言った。ちんぽが溶け合って混ざったような錯覚を覚える。
 ぴゅっ、びゅっ
 膨れ上がった亀頭から勢いよく精液が放たれる。
「おっ、ふっ…あっあっ」
 ぴゅびっ、びゅぶっ、びゅるっびゅーっ
 大神さんのちんぽが射精でしゃくりあげると、その律動が僕のちんぽを刺激してさらに射精を促し、今度はそれが大神さんのちんぽに刺激を与える。熱い精液がちんぽに降り注ぎ、更に腹を濡らしていく。
 びゅ…びくっ…ぴゅ…
 ようやく射精が収まるという頃合いには二人分の精液が小さな池を作っており、シーツをぐっしょりと濡らしていた。普段であれば眉をひそめてしまうような濡れた感触と匂いも、互いの愛と悦びが混ざり合った結晶のようでどこか愛おしい。
 ちゅっ…
 今度は軽くキスをして、互いの目を見つめ合う。先走りと精液でドロドロに濡れた大神さんの手を握り目を瞑る。大神さんの鼓動を感じながら、そっと顔を近づけると互いの鼻先が触れ合う。ぐりぐりと鼻を擦り合わせながら、心が満たされていくのを感じた。

 僕らにはもう、言葉なんて必要なかった。
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