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第二章 出逢い
第4話 “夢”と“現実”
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2時間ほど高速道路を走り、ようやくサービスエリアで休憩を取ることになった。
外は凍えるような寒さで、チカは首元のマフラーを鼻先まで引き上げる。
「缶コーヒー買ってくる」
そう言い残し、ケンは売店とは逆方向へとひとり歩き出した。その背中を、チカは自然と目で追っていた。
「チカ!」
先に売店の方へ歩いていたジュンとミサキが、手を振りながら呼んでくる。
「ケン君って、モテそうですね!」
スキップで追いついたチカが明るく言った。
「でも、もう3年以上、彼女いないんだ」
ジュンが答えると、チカとミサキは目を丸くして顔を見合わせた。
「なんでだろう?」
信じがたいという様子でチカが首を傾げる。
「無口で無表情だからかな?」
ミサキがクスッと笑いながらチカに耳打ちをした。
「いろいろあってね。表情を見せるのは、昔から俺にだけ」
車のドアを開けたジュンは、ケンがいないことを確認してから助手席に腰を下ろし、静かに話を続けた。
「出会った頃のケンは、喜怒哀楽を失ってた。席に座って、ただ窓の外を見つめているだけだったよ。ずっと、ひとりで――」
「そんなケン君が、ジュンさんにだけ心を開いたってことは……その出会い、きっと“運命”だったんですね!」
“運命”
その言葉に、ジュンは一瞬、敏感に反応した。
「あれがケンの……“運命”か……」
チカはその言葉の意味を探ろうとしたが、ちょうどそのとき、運転席のドアが開いた。
「ケン、運転代わるよ」
ごまかすようにジュンが席を移る。
「何かあったの?」
ケンが聞くと、ジュン、ミサキ、チカの三人は揃って首を横に振った。
サービスエリアを出てから1時間ほどで、予約していた旅館に到着した。
すでに周囲は薄暗く、時計の針は午後4時を回っている。
東京のような騒がしさもなければ、目障りなネオンもない。東京育ちのケンとジュンにとっては、それがかえって新鮮だった。
和の趣に統一された旅館は、思った以上に大きく、落ち着いた佇まいをしている。
仲居に案内されながら廊下を歩くと、ガラス張りの窓の向こうに広がる海岸が見えた。
「夕日の映った綺麗な海……」
ミサキが思わず呟いたその瞬間、ジュンはとっさに“海”という言葉をかき消すように口を開いた。
「本当に、綺麗な夕日だな」
その不自然さにチカは気づいたが、あえて何も言わなかった。
男女別々に通された隣同士の部屋。
窓の外には、夕日に照らされた海岸が広がっている。
部屋全体がオレンジ色に染まっていて、まるでスタジオライトを浴びているようだった。
ジュンはゆっくりと障子に近づき、静かに閉じた。
それが彼なりの優しさだということを、ケンは理解していた。
“海”
その景色を見るたびに、思い出す――あの子との“約束”、そして、あの“光景”。
「温泉、行くか」
そう言って笑ったジュンは、すでに浴衣に着替え終わっていた。
ケンも続いて浴衣に袖を通し、ふたりで温泉へと向かう。
旅館には、大浴場、露天風呂、天空風呂の三種類があった。
ふたりが選んだのは、海が見えない天空風呂。
理由は、ただひとつだった。
湯に浸かると、ジュンが妙な唸り声をあげながらのぼせたように気持ちよさそうな表情を浮かべる。
「どうして、あの子たちを誘ったんだ」
ケンは星空を見上げたまま、ジュンに尋ねた。
「ユイみたいなのばっかじゃないって、伝えたかっただけ」
「もう……誰かと繋がることで、誰かを傷つけたくないんだ」
「お前は、ずっとそうやって生きていくつもりか? 耳と目を閉じて、口を噤んで、自分を憎みながら心を縛り続けるのか?」
ジュンの言葉は鋭く、だが温かかった。
そうしなければ、心が壊れてしまいそうだった。
あの時ユイに言われたことは、事実だった。
わかっていた。だからこそ、その言葉を“消さない傷”として、自らの中に焼き付けたのだ。
その痛みを抱えながらでしか、前に進めなかった。
正しいかどうかも、わからないままに――。
しばらくして、ジュンは湯を出て行ったが、すぐに戻ってきた。
「星が綺麗に見えるし……やっぱり天空風呂がいいな」
ジュンは、嘘が下手だ。
その不器用な優しさに、ケンは幾度も救われてきた。
見捨てず、ずっと手を差し伸べてくれた。
だから、ユイにすべてを告げて拒絶されたとき――思ったんだ。
すべてを理解してくれるのは、ジュン――
お前だけでいい、と。
温泉から上がり、夕食を済ませた後は、男部屋に集まって酒を酌み交わした。
話題は次第に怖い話や都市伝説へと変わり、ジュンとミサキ、チカは大いに盛り上がっていた。
ケンもグラスを手にしていたが、その笑い声や話の内容は、ほとんど耳に入ってこなかった。
窓の外に広がる“海”を目にした瞬間から、頭の中では“過去の記憶”が鮮明に蘇ってきていた。
それをかき消すように、黙々と酒を煽る。
気がつけば、時刻は深夜0時を回っていた。
日付は静かに、けれど確実に、次の日へと移ろっている。
やがてチカとミサキは自室へと戻り、眠りについた。
ジュンも、疲れと酔いに身を任せて、布団の中で深い眠りに落ちている。
部屋の中は、静寂に包まれていた。
ただひとり、ケンだけが眠れずにいた。
窓際に置かれたソファに腰を下ろし、タバコに火を点けては、すぐに灰皿へ押し付ける。
吸いたいわけでも、気を紛らわせたいわけでもない。
それでも、何本目かも分からないタバコに手を伸ばす。
この時間、本来なら仕事の真っ最中だ。
眠らず、頭を働かせていることが日常になって久しい。
――慣れというものは、怖い。
酒の力を借りても、もはや眠れなくなっていた。
手が止まれば、思考が空白になれば、すぐに“あの記憶”が押し寄せてくる。
音もなく、確実に胸の奥へと滲み込んでくる。
――あの時の言葉。
――あの時の顔。
――あの時の海。
苦しみを飲み込もうとしても、胃の奥が痛むだけだった。
そのまま布団に潜り込むこともできず、ケンは部屋を出て旅館のロビーを抜ける。
そして、足は自然と旅館の目の前に広がる“海”へと向かっていた。
冷たい夜風が、頬を刺す。
それでもケンは立ち止まらない。
まるで、過去に呼ばれているかのように。
いや、むしろ――
過去を呼び起こし、憎い己に釘を刺しにいくかのように。
その頃、チカはトイレに行くために目を覚ました。
「ねえ、起きて、ミサキ……。喉が渇いちゃったから、ロビーまで付き合ってくれない?」
声に含まれるわずかな震えを、ミサキはすぐに察した。
さっきまでの怖い話が、チカの心を少しだけ脅かしていたのだ。
一人でロビーの自販機まで行く勇気は、今のチカにはなかった。
「……しょうがないなぁ」
ミサキは眠そうに目を擦りながらも、布団から起き上がった。
二人は上着を羽織り、そっと部屋を出る。
夜の廊下はひんやりとしていて、ガラス張りの窓の向こうには、月明かりに照らされた静かな海が広がっていた。
チカはその景色を無言で眺めながら、ミサキと並んで歩く。
隣のミサキはあくびをしながら、まだ半分夢の中のようだった。
ロビーに着くと、チカはミルクティーと、ミサキの好きな麦茶を自動販売機で購入する。
缶を手に取ると、冷たさが掌にじんわりと沁みた。
「夜も……夜で、綺麗だね」
部屋へ戻る途中、ふとチカが立ち止まり、ぽつりと呟く。
その瞬間――
月明かりに照らされた浜辺に、ぼんやりと人影が浮かび上がった。
考えるよりも先に、言葉が口を突いて出た。
「ミサキ、先に戻ってて」
「えっ? どうしたの?」
「ごめん、すぐ戻るから」
そう言って、ミルクティーの缶を胸に抱えたまま、チカは足早に廊下を駆けた。
ミサキは少し不安げに見送ったが、やがて微笑んで頷く。
「……じゃあ、先に寝てるからね」
その言葉を背に、チカは夜風に吹かれながら浜辺へと向かった。
月光が道標のように、静かに彼女の足元を照らしていた。
海へと近づくにつれて、波の音が徐々に大きくなっていく。
その波音に溶け込むように、立ち尽くすひとつの背中。
触れれば壊れてしまいそうなほど脆く、そして寂しげなケンの背中だった。
その姿に息を呑んだ瞬間、ケンがゆっくりと振り返る。
まるで、心の声を聞かれていたかのようだった。
「こんなところで……何をしているんですか?」
驚きと、凍てつく寒さに、チカの声はわずかに震えていた。
「眠れなくて――」
ケンはそう言うと、再び視線を海の彼方へ戻す。
「何か、あったんですか? 今日ずっと、何かを考えているように見えたから」
問いかけに応える言葉はない。
ただ静かに波の音が、二人の間をさらっていく。
「えっと……別に詮索したいわけじゃないんです。ただ、私でよければ力になれたらって。話すだけでも、少しは楽になるかもしれませんよ」
少しの間をおいて、ケンがぽつりと呟いた。
「……あの日の俺と、同じことを言うんだな」
その声に宿る重さが、空気を静かに押し沈めた。
「君は、何の約束も果たせなかった相手に、“ありがとう”って言えるか?」
チカは少しだけ俯き、波の音に耳を傾ける。
そして、まっすぐその背中に向かって答えた。
「……言うと思います。“果たせなかった”ってことは、“果たそう”としてくれてたってことだから。忘れずに、覚えていてくれたってことだから。それだけで、十分……伝えたくなると思います」
その瞬間、頬にひとしずく――冷たくて、すぐに溶ける何かが落ちた。
雪だった。
冬空から舞い降りた淡雪が、まるで二人の会話を包み込むように静かに降り始めていた。
チカがふと隣を見ると、ケンは雪を仰ぐように空を見上げていた。
月明かりを受けたその横顔は、どこか遠くを見つめているようだった。
「君は、“夢”と“現実”を同時に突きつけられたら、どっちを選ぶ?」
突然の問いに、チカは言葉を探す。
「えっと……どちらかなんて、選べません。欲張りかもしれないけど、できることなら……両方」
ケンは微かに首を振った。
「両方は、手に入らない。何かを選ぶ代わりに、何かを失う。それが人間なんだ」
“夢”と“現実”――どちらか一つ。
どちらも大切すぎて、簡単に選べるものじゃない。
「でも、きっと後悔する。選んだ方の道じゃなくて、選ばなかった方の道を。“なぜ、もう一つの方を選ばなかったのか”って」
それだけを言い残して、ケンは踵を返した。
砂を踏む足音だけが、波音に混じって遠ざかっていく。
今朝初めて会ったときから、どこか寂しくて、切ない背中だと思っていた。
その背中が、海に降る雪のように、静かに闇の中へと消えていく。
――私の胸の真ん中に、ぽつんと寂しさだけを残して。
人には、知られたくない何かがある。
それは私にもあるから、よくわかる。
だけど、どうして?
あんなに悲しそうな目で、海を見つめていたの?
その視線の先にあったのは、過去? 後悔? それとも――誰か?
外は凍えるような寒さで、チカは首元のマフラーを鼻先まで引き上げる。
「缶コーヒー買ってくる」
そう言い残し、ケンは売店とは逆方向へとひとり歩き出した。その背中を、チカは自然と目で追っていた。
「チカ!」
先に売店の方へ歩いていたジュンとミサキが、手を振りながら呼んでくる。
「ケン君って、モテそうですね!」
スキップで追いついたチカが明るく言った。
「でも、もう3年以上、彼女いないんだ」
ジュンが答えると、チカとミサキは目を丸くして顔を見合わせた。
「なんでだろう?」
信じがたいという様子でチカが首を傾げる。
「無口で無表情だからかな?」
ミサキがクスッと笑いながらチカに耳打ちをした。
「いろいろあってね。表情を見せるのは、昔から俺にだけ」
車のドアを開けたジュンは、ケンがいないことを確認してから助手席に腰を下ろし、静かに話を続けた。
「出会った頃のケンは、喜怒哀楽を失ってた。席に座って、ただ窓の外を見つめているだけだったよ。ずっと、ひとりで――」
「そんなケン君が、ジュンさんにだけ心を開いたってことは……その出会い、きっと“運命”だったんですね!」
“運命”
その言葉に、ジュンは一瞬、敏感に反応した。
「あれがケンの……“運命”か……」
チカはその言葉の意味を探ろうとしたが、ちょうどそのとき、運転席のドアが開いた。
「ケン、運転代わるよ」
ごまかすようにジュンが席を移る。
「何かあったの?」
ケンが聞くと、ジュン、ミサキ、チカの三人は揃って首を横に振った。
サービスエリアを出てから1時間ほどで、予約していた旅館に到着した。
すでに周囲は薄暗く、時計の針は午後4時を回っている。
東京のような騒がしさもなければ、目障りなネオンもない。東京育ちのケンとジュンにとっては、それがかえって新鮮だった。
和の趣に統一された旅館は、思った以上に大きく、落ち着いた佇まいをしている。
仲居に案内されながら廊下を歩くと、ガラス張りの窓の向こうに広がる海岸が見えた。
「夕日の映った綺麗な海……」
ミサキが思わず呟いたその瞬間、ジュンはとっさに“海”という言葉をかき消すように口を開いた。
「本当に、綺麗な夕日だな」
その不自然さにチカは気づいたが、あえて何も言わなかった。
男女別々に通された隣同士の部屋。
窓の外には、夕日に照らされた海岸が広がっている。
部屋全体がオレンジ色に染まっていて、まるでスタジオライトを浴びているようだった。
ジュンはゆっくりと障子に近づき、静かに閉じた。
それが彼なりの優しさだということを、ケンは理解していた。
“海”
その景色を見るたびに、思い出す――あの子との“約束”、そして、あの“光景”。
「温泉、行くか」
そう言って笑ったジュンは、すでに浴衣に着替え終わっていた。
ケンも続いて浴衣に袖を通し、ふたりで温泉へと向かう。
旅館には、大浴場、露天風呂、天空風呂の三種類があった。
ふたりが選んだのは、海が見えない天空風呂。
理由は、ただひとつだった。
湯に浸かると、ジュンが妙な唸り声をあげながらのぼせたように気持ちよさそうな表情を浮かべる。
「どうして、あの子たちを誘ったんだ」
ケンは星空を見上げたまま、ジュンに尋ねた。
「ユイみたいなのばっかじゃないって、伝えたかっただけ」
「もう……誰かと繋がることで、誰かを傷つけたくないんだ」
「お前は、ずっとそうやって生きていくつもりか? 耳と目を閉じて、口を噤んで、自分を憎みながら心を縛り続けるのか?」
ジュンの言葉は鋭く、だが温かかった。
そうしなければ、心が壊れてしまいそうだった。
あの時ユイに言われたことは、事実だった。
わかっていた。だからこそ、その言葉を“消さない傷”として、自らの中に焼き付けたのだ。
その痛みを抱えながらでしか、前に進めなかった。
正しいかどうかも、わからないままに――。
しばらくして、ジュンは湯を出て行ったが、すぐに戻ってきた。
「星が綺麗に見えるし……やっぱり天空風呂がいいな」
ジュンは、嘘が下手だ。
その不器用な優しさに、ケンは幾度も救われてきた。
見捨てず、ずっと手を差し伸べてくれた。
だから、ユイにすべてを告げて拒絶されたとき――思ったんだ。
すべてを理解してくれるのは、ジュン――
お前だけでいい、と。
温泉から上がり、夕食を済ませた後は、男部屋に集まって酒を酌み交わした。
話題は次第に怖い話や都市伝説へと変わり、ジュンとミサキ、チカは大いに盛り上がっていた。
ケンもグラスを手にしていたが、その笑い声や話の内容は、ほとんど耳に入ってこなかった。
窓の外に広がる“海”を目にした瞬間から、頭の中では“過去の記憶”が鮮明に蘇ってきていた。
それをかき消すように、黙々と酒を煽る。
気がつけば、時刻は深夜0時を回っていた。
日付は静かに、けれど確実に、次の日へと移ろっている。
やがてチカとミサキは自室へと戻り、眠りについた。
ジュンも、疲れと酔いに身を任せて、布団の中で深い眠りに落ちている。
部屋の中は、静寂に包まれていた。
ただひとり、ケンだけが眠れずにいた。
窓際に置かれたソファに腰を下ろし、タバコに火を点けては、すぐに灰皿へ押し付ける。
吸いたいわけでも、気を紛らわせたいわけでもない。
それでも、何本目かも分からないタバコに手を伸ばす。
この時間、本来なら仕事の真っ最中だ。
眠らず、頭を働かせていることが日常になって久しい。
――慣れというものは、怖い。
酒の力を借りても、もはや眠れなくなっていた。
手が止まれば、思考が空白になれば、すぐに“あの記憶”が押し寄せてくる。
音もなく、確実に胸の奥へと滲み込んでくる。
――あの時の言葉。
――あの時の顔。
――あの時の海。
苦しみを飲み込もうとしても、胃の奥が痛むだけだった。
そのまま布団に潜り込むこともできず、ケンは部屋を出て旅館のロビーを抜ける。
そして、足は自然と旅館の目の前に広がる“海”へと向かっていた。
冷たい夜風が、頬を刺す。
それでもケンは立ち止まらない。
まるで、過去に呼ばれているかのように。
いや、むしろ――
過去を呼び起こし、憎い己に釘を刺しにいくかのように。
その頃、チカはトイレに行くために目を覚ました。
「ねえ、起きて、ミサキ……。喉が渇いちゃったから、ロビーまで付き合ってくれない?」
声に含まれるわずかな震えを、ミサキはすぐに察した。
さっきまでの怖い話が、チカの心を少しだけ脅かしていたのだ。
一人でロビーの自販機まで行く勇気は、今のチカにはなかった。
「……しょうがないなぁ」
ミサキは眠そうに目を擦りながらも、布団から起き上がった。
二人は上着を羽織り、そっと部屋を出る。
夜の廊下はひんやりとしていて、ガラス張りの窓の向こうには、月明かりに照らされた静かな海が広がっていた。
チカはその景色を無言で眺めながら、ミサキと並んで歩く。
隣のミサキはあくびをしながら、まだ半分夢の中のようだった。
ロビーに着くと、チカはミルクティーと、ミサキの好きな麦茶を自動販売機で購入する。
缶を手に取ると、冷たさが掌にじんわりと沁みた。
「夜も……夜で、綺麗だね」
部屋へ戻る途中、ふとチカが立ち止まり、ぽつりと呟く。
その瞬間――
月明かりに照らされた浜辺に、ぼんやりと人影が浮かび上がった。
考えるよりも先に、言葉が口を突いて出た。
「ミサキ、先に戻ってて」
「えっ? どうしたの?」
「ごめん、すぐ戻るから」
そう言って、ミルクティーの缶を胸に抱えたまま、チカは足早に廊下を駆けた。
ミサキは少し不安げに見送ったが、やがて微笑んで頷く。
「……じゃあ、先に寝てるからね」
その言葉を背に、チカは夜風に吹かれながら浜辺へと向かった。
月光が道標のように、静かに彼女の足元を照らしていた。
海へと近づくにつれて、波の音が徐々に大きくなっていく。
その波音に溶け込むように、立ち尽くすひとつの背中。
触れれば壊れてしまいそうなほど脆く、そして寂しげなケンの背中だった。
その姿に息を呑んだ瞬間、ケンがゆっくりと振り返る。
まるで、心の声を聞かれていたかのようだった。
「こんなところで……何をしているんですか?」
驚きと、凍てつく寒さに、チカの声はわずかに震えていた。
「眠れなくて――」
ケンはそう言うと、再び視線を海の彼方へ戻す。
「何か、あったんですか? 今日ずっと、何かを考えているように見えたから」
問いかけに応える言葉はない。
ただ静かに波の音が、二人の間をさらっていく。
「えっと……別に詮索したいわけじゃないんです。ただ、私でよければ力になれたらって。話すだけでも、少しは楽になるかもしれませんよ」
少しの間をおいて、ケンがぽつりと呟いた。
「……あの日の俺と、同じことを言うんだな」
その声に宿る重さが、空気を静かに押し沈めた。
「君は、何の約束も果たせなかった相手に、“ありがとう”って言えるか?」
チカは少しだけ俯き、波の音に耳を傾ける。
そして、まっすぐその背中に向かって答えた。
「……言うと思います。“果たせなかった”ってことは、“果たそう”としてくれてたってことだから。忘れずに、覚えていてくれたってことだから。それだけで、十分……伝えたくなると思います」
その瞬間、頬にひとしずく――冷たくて、すぐに溶ける何かが落ちた。
雪だった。
冬空から舞い降りた淡雪が、まるで二人の会話を包み込むように静かに降り始めていた。
チカがふと隣を見ると、ケンは雪を仰ぐように空を見上げていた。
月明かりを受けたその横顔は、どこか遠くを見つめているようだった。
「君は、“夢”と“現実”を同時に突きつけられたら、どっちを選ぶ?」
突然の問いに、チカは言葉を探す。
「えっと……どちらかなんて、選べません。欲張りかもしれないけど、できることなら……両方」
ケンは微かに首を振った。
「両方は、手に入らない。何かを選ぶ代わりに、何かを失う。それが人間なんだ」
“夢”と“現実”――どちらか一つ。
どちらも大切すぎて、簡単に選べるものじゃない。
「でも、きっと後悔する。選んだ方の道じゃなくて、選ばなかった方の道を。“なぜ、もう一つの方を選ばなかったのか”って」
それだけを言い残して、ケンは踵を返した。
砂を踏む足音だけが、波音に混じって遠ざかっていく。
今朝初めて会ったときから、どこか寂しくて、切ない背中だと思っていた。
その背中が、海に降る雪のように、静かに闇の中へと消えていく。
――私の胸の真ん中に、ぽつんと寂しさだけを残して。
人には、知られたくない何かがある。
それは私にもあるから、よくわかる。
だけど、どうして?
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