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第三章 消えない二つの過去
第10話 暗闇の真実
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【翌朝】
せっかくの休日だというのに、いつもより早く目が覚めた。
昨日の夢のような時間――その余韻が、まだ胸の奥に微かに残っている。
けれど、それと同時に、気がかりなことも増えてしまった。
胸をざわつかせる想いばかりが膨らみ、頭の中が空回りしている。
知りたい、でも近づけない。そんな焦りが、言いようのない不安を呼び込んでいた。
気持ちを少しでも落ち着けたくて、ふらりと散歩に出かけた。
だが、気がつけば足は自然と病院へと向かっていた。
――誰かに、話を聞いてほしい。
そんな想いが、チカを彼女のいる場所へと向かわせたのかもしれない。
ユウカと会うのは、あれから1週間ぶりだ。
「ユウカちゃん!」
ノックと同時に病室のドアを開けた、その瞬間だった。
想像もしていなかった光景が、目の前に飛び込んできた。
ベッドの隣。
そこには、椅子に座り、穏やかな表情でユウカと話しているケンの姿があった。
「……どうして君がここに?」
突然の来訪に、ケンは明らかに戸惑いを見せながらも、静かに問いかけてくる。
その視線を真正面から受けたチカは、動揺のあまり言葉を失った。
「ユウカ。この人と知り合い?」
「うん! お姉ちゃんは――」
「わっ、ちょ、ちょっと待って!」
慌ててユウカの口元を手で塞ぎ、チカは無理に笑みを浮かべながらケンを見つめる。
だがその表情は、どう見ても不自然だった。
ケンの眉が僅かに寄り、怪訝そうな眼差しがチカを捉える。
「……ユウカ、下でタバコ吸ってくる」
立ち上がったケンは、何かを感じ取ったような表情のまま病室を出ていった。
ユウカは軽く手を振って見送る。
その姿を確認すると、チカはすかさずユウカの前にぺこりと頭を下げ、両手を合わせた。
「この前のこと、絶対言わないでね! お願い!」
「わかってるってば。さっきも遠い親戚ってことにしようと思ったのに!」
「それ、通用する!?」
不安げなチカとは対照的に、ユウカは腕を組んで自信満々な様子だ。
その根拠のない自信は一体どこから来るのか――
そう思いながらも、もはやユウカに任せる以外に方法はなさそうだった。
ふとユウカに目を向けると、何か言いたげな表情をしている。
「ケン兄とは、どう?」
「ケン君は……私のことなんて、何とも思ってないよ」
寂しいけれど、それが現実だとわかっている。
――私のことなんて、せいぜい親友の後輩くらいにしか見ていない。
ただ、それだけの関係。
しばらくすると、慌ただしい足音とともに病室のドアが開いた。
「ごめん! 今、スタジオから電話あって……戻らないと」
ユウカの表情に、一瞬だけ影が差す。
寂しさが滲み出ていた。だがすぐに、それを打ち消すように笑って見せる。
その変化に気づいたチカは、何も言わず、ユウカの頭をそっと撫でた。
そして、ケンに向けて精一杯の笑顔を浮かべる。
まるで「大丈夫だから」と言うように。
ケンは軽く手を振ると、病室を後にした。
それからの時間、チカとユウカはたくさんの話で盛り上がった。
気づけば窓の外はすっかり暗くなり、夜の帳が静かに下りていた。
「たしか、再来週が退院だったよね?」
「うん!」
ユウカは嬉しそうに、何度も何度も頷く。
「退院の日、また会いに来てもいい?」
「もちろん!」
「じゃあ、そろそろ行くね」
名残惜しさを胸に押し込めて、チカはユウカの病室を後にした。
病院の前に続く、小さな並木通り。
もう辺りはすっかり暗くなり、人通りもほとんどない。
所々に立つ街灯が、葉の落ちた並木を静かに照らしている。
ふと見上げれば、昨日降った雪が、枝を白く彩っていた。
葉のない寂しげな木々が、まるで化粧を施されたかのように凛と美しい。
そんな幻想的な風景に、チカはしばし足を止め、見惚れていた。
――その時だった。
通りの向こう側から、一人の人影がゆっくりと近づいてくる。
暗くて顔は見えない。
けれど、左手には大きなボックス。
右手には、かすかに揺れる小さな光。
そのシルエットを見た瞬間、胸の奥がわずかに震えた。
心に浮かんだのは――あの人の姿。
距離が少しずつ縮まり、街灯と雪の淡いコントラストに照らされて、やがて彼の顔が浮かび上がる。
そう、それはやはり――ケンだった。
二人は、数歩の距離を保ったまま、ぴたりと足を止めた。
「お仕事、お疲れ様です」
「今から帰り?」
「はい」
「気をつけて」
それだけを言って、ケンは再び歩き出した。
ふわりと漂ってきた、彼の優しい香り。
その香りが通り過ぎてゆくのと同時に、チカの胸に小さな勇気が灯った。
「……ケン君って、本当にいい人ですね!」
切なさとともに、背中にぶつける精一杯の想い。
ケンは足を止め、ゆっくりと振り返った。
「俺が“いい人”?」
「はい。アヤカちゃんの話も、ユウカちゃんの笑顔も見ていれば、わかります」
しかし――
「……綺麗な部分しか、聞いてないだけだろ」
ケンのその言葉には、どこか冷たい響きが混ざっていた。
「綺麗な部分? どういう意味ですか?」
チカの声が、静まり返った夜道に落ちる。
さっきまで吹いていた風はいつの間にか止み、あたりに静寂が広がる。
そして、ケンの低く淡々とした声が、その静けさを切り裂いた。
「――あの笑顔が、アヤカの“最初で最後”の笑顔だったんだ」
* * *
アヤカがあの“笑顔”を見せてくれたあの日から、大学のテストやバイトが重なって、しばらく病院に行けない日が続いた。
いつもなら少し無理をしてでも顔を出すのに、気づけば2週間が経っていた。
ようやくテスト期間が終わり、バイトも運よく休みが取れた。
久しぶりにアヤカに会える。
そう思って、意気揚々と玄関のドアに手をかけた、その瞬間――。
ケータイが鳴った。
不意を突かれたように胸がざわつく。
ディスプレイに表示された発信元は、《公衆電話》。
妙な胸騒ぎを覚えながら、急いで通話ボタンを押す。
「……ケン兄ちゃん?」
声を聞いた瞬間にわかった。アヤカだ。
「アヤカ? どうした?」
けれど、返ってきたのは思いもよらない言葉だった。
「ケン兄ちゃん、私に笑顔をくれて……ありがとう」
それだけを告げて、電話はぷつりと切れた。
「アヤカ!? アヤカ、待って!」
慌てて名前を叫んだが、返答はなかった。
公衆電話からの着信――。
こちらからかけ直すこともできなければ、アヤカの家の番号も知らない。
不安が一気に押し寄せ、足元がぐらつく。
何かがおかしい。何かが――違う。
そう感じた瞬間には、もう体が勝手に動いていた。
病院へと全速力で向かった。
到着してすぐ、ナースステーションでアヤカのことを尋ねた。
だが、誰一人として今日のアヤカの姿を見た者はいなかった。
嫌な予感がどんどん現実味を帯びていく。
「お願いします! アヤカのご自宅に連絡を取ってください!」
そう看護師に頼むと、俺は病院中を駆け回った。
思い当たる場所はすべて――
あの中庭、遊び場、階段の踊り場。どこにもいなかった。
時間だけが過ぎてゆく。
辺りは次第に暗くなり、夕暮れの光も街の影に溶けていく。
その時――ケータイが再び鳴った。
アヤカだろうか。希望と不安の狭間で、すぐに応答ボタンを押す。
「アヤカ……!?」
しかし、それは看護師からの電話だった。
「ケンさん、アヤカさんのご両親が警察に捜索願を出されたそうです」
頭の中が真っ白になった。
信じたくない。
けれど、現実は、目の前でゆっくりと重く扉を閉じていった。
その日は、夜になっても探し続けた。
何の手がかりもないまま、ただひたすらに。
次の日も、そしてまたその次の日も――
俺はアヤカを探し続けた。
けれど、どれだけ歩き回っても、どれだけ声を枯らしても、
アヤカの姿は、どこにも見つからなかった。
――そして、アヤカと再び対面したのは、それから10日後のことだった。
その身体は、悲しいほどに変わり果てていた。
冬の、冷たい海の中――たったひとりで。
寒かっただろう。
寂しかっただろう。
彼女のポケットの中には、俺があげたグロスと手鏡が入っていた。
その鏡に映っていたのは、醜く歪んだ――俺自身の姿だった。
どうしようもない悲しみに満ちた現実。
流すことしかできない涙。
何ひとつ救えなかった自分への、どうしようもない怒り。
感情を抑えきれず、俺はそのグロスを握り潰した。
――連れて行くと約束していた海。
「ケン兄ちゃん、いつか海に連れてって。海水はアトピーの肌にいいって、先生が言ってたの」
その願いは、もう果たすことができない。
その場所で、アヤカは命を絶った。
俺が――
俺がアヤカを死へと導いたんだ。
たった一度メイクをしてあげただけで、彼女を救ったつもりでいた。
“良いことをした”そんな幻想に酔いしれていただけだった。
後になって、看護師から聞かされた話。
俺が病院へ行けなかったあの2週間――
アヤカは、変わろうとしていたという。
今までの自分を変えたくて、勇気を振り絞って。
俺が教えたメイクを、自分でして、学校に登校したらしい。
でも、現実は残酷だった。
その日から、彼女へのいじめはさらに酷くなり――
きっと彼女は、自ら命を絶つことを考えたのだろう。
あの時、もし俺にもっとメイクの技術があったなら。
もっと彼女の心の声に寄り添えていたなら、アヤカは、死を選ばなかったかもしれない。
きっと、今もどこかで生きて、笑っていたかもしれない。
そして……
彼女の死後、アヤカの母親は日に日に精神を崩していった。
会うたびに、泣き叫ぶように俺に訴えてきた。
「どうして中途半端なことしたのよ! あんたが余計なことさえしなければ、アヤカは今も生きてたのよ! アヤカが死んだのは、あんたのせい……あんたが殺したのよ、この人殺し!」
何も言えなかった。
言い返す言葉も、否定する資格もなかった。
だって、間違っていない。
彼女の言葉は、すべて正しい。
俺が――
俺が、アヤカを追い詰めたんだ。
* * *
「……俺がアヤカを殺したんだ」
「そんなことない……」
込み上げる感情を抑えきれず、チカは震える唇を、ぎゅっと噛み締めた。
「君に何がわかる?」
ケンの声は、彼女の言葉をはねつけるように、鋭く突き刺さった。
その声は、今までの彼とはまるで違っていた。
どこか怒りにも似た激情を孕んでいて、チカは思わず言葉を失う。
「俺が中途半端なことをしたから……無責任な希望を口にしたから……アヤカを追い詰めたんだ!」
「違う……そんなことない。ケン君は悪くなんかない……!」
ケンは唐突に、コートのポケットに手を差し入れ、一本のメイクブラシを取り出した。
「このメイクブラシはな、握る人間によって、魔法の杖にもなるし鋭いナイフにもなる。あのとき無知だった俺が握ったそれは、アヤカを傷つけるだけのナイフだった」
「違う……!」
チカは首を振った。
目には大粒の涙があふれ、頬をつたって零れ落ちていく。
「人は笑ってるからって楽しいとは限らない。涙を流してるからって、悲しいとも限らない。俺は、アヤカの心の奥にある本当の想いを見ようとしなかったんだ。他の誰も気づかないようなことに、俺が気づいてあげていたら……あんなことには……」
「でも、ケン君は見ようとした。だからこそメイクをしようと思ったんじゃないですか。だから必死に勉強して、あの子を笑顔にしてあげたんじゃないですか!」
涙声のまま、チカは必死に想いをぶつける。
「最後に電話をかけてきたのも……ありがとうって、心から思ってたからじゃないですか……きっと……!」
その瞬間――
「あんた……ウザいな」
――ケンの、冷たく切り捨てるような言葉。
チカの胸は一瞬で締めつけられた。
ショックを受けなかったわけじゃない。
それでも――
それでも、彼の中に刻まれた傷痕の深さが、どれほど痛々しいものかを思えば、その言葉さえも、憎めなかった。
彼が背を向けて歩き出す。
その背中から滲み出ていたのは、見えない涙――
こらえてもこらえきれなかった、心の奥底から溢れる、沈黙の慟哭。
気づけば、目の前にいたはずの彼の姿が、涙でにじんで見えなくなっていた。
どれだけ涙を流したのか、わからない。
気がついたときには、彼の姿はもうそこになかった。
冷たい冬の空気に凍えるような静けさの中に、彼が残していったもの。
それは――
心の奥深くに、ひときわ鮮烈に刻まれた、哀しすぎる記憶だった。
せっかくの休日だというのに、いつもより早く目が覚めた。
昨日の夢のような時間――その余韻が、まだ胸の奥に微かに残っている。
けれど、それと同時に、気がかりなことも増えてしまった。
胸をざわつかせる想いばかりが膨らみ、頭の中が空回りしている。
知りたい、でも近づけない。そんな焦りが、言いようのない不安を呼び込んでいた。
気持ちを少しでも落ち着けたくて、ふらりと散歩に出かけた。
だが、気がつけば足は自然と病院へと向かっていた。
――誰かに、話を聞いてほしい。
そんな想いが、チカを彼女のいる場所へと向かわせたのかもしれない。
ユウカと会うのは、あれから1週間ぶりだ。
「ユウカちゃん!」
ノックと同時に病室のドアを開けた、その瞬間だった。
想像もしていなかった光景が、目の前に飛び込んできた。
ベッドの隣。
そこには、椅子に座り、穏やかな表情でユウカと話しているケンの姿があった。
「……どうして君がここに?」
突然の来訪に、ケンは明らかに戸惑いを見せながらも、静かに問いかけてくる。
その視線を真正面から受けたチカは、動揺のあまり言葉を失った。
「ユウカ。この人と知り合い?」
「うん! お姉ちゃんは――」
「わっ、ちょ、ちょっと待って!」
慌ててユウカの口元を手で塞ぎ、チカは無理に笑みを浮かべながらケンを見つめる。
だがその表情は、どう見ても不自然だった。
ケンの眉が僅かに寄り、怪訝そうな眼差しがチカを捉える。
「……ユウカ、下でタバコ吸ってくる」
立ち上がったケンは、何かを感じ取ったような表情のまま病室を出ていった。
ユウカは軽く手を振って見送る。
その姿を確認すると、チカはすかさずユウカの前にぺこりと頭を下げ、両手を合わせた。
「この前のこと、絶対言わないでね! お願い!」
「わかってるってば。さっきも遠い親戚ってことにしようと思ったのに!」
「それ、通用する!?」
不安げなチカとは対照的に、ユウカは腕を組んで自信満々な様子だ。
その根拠のない自信は一体どこから来るのか――
そう思いながらも、もはやユウカに任せる以外に方法はなさそうだった。
ふとユウカに目を向けると、何か言いたげな表情をしている。
「ケン兄とは、どう?」
「ケン君は……私のことなんて、何とも思ってないよ」
寂しいけれど、それが現実だとわかっている。
――私のことなんて、せいぜい親友の後輩くらいにしか見ていない。
ただ、それだけの関係。
しばらくすると、慌ただしい足音とともに病室のドアが開いた。
「ごめん! 今、スタジオから電話あって……戻らないと」
ユウカの表情に、一瞬だけ影が差す。
寂しさが滲み出ていた。だがすぐに、それを打ち消すように笑って見せる。
その変化に気づいたチカは、何も言わず、ユウカの頭をそっと撫でた。
そして、ケンに向けて精一杯の笑顔を浮かべる。
まるで「大丈夫だから」と言うように。
ケンは軽く手を振ると、病室を後にした。
それからの時間、チカとユウカはたくさんの話で盛り上がった。
気づけば窓の外はすっかり暗くなり、夜の帳が静かに下りていた。
「たしか、再来週が退院だったよね?」
「うん!」
ユウカは嬉しそうに、何度も何度も頷く。
「退院の日、また会いに来てもいい?」
「もちろん!」
「じゃあ、そろそろ行くね」
名残惜しさを胸に押し込めて、チカはユウカの病室を後にした。
病院の前に続く、小さな並木通り。
もう辺りはすっかり暗くなり、人通りもほとんどない。
所々に立つ街灯が、葉の落ちた並木を静かに照らしている。
ふと見上げれば、昨日降った雪が、枝を白く彩っていた。
葉のない寂しげな木々が、まるで化粧を施されたかのように凛と美しい。
そんな幻想的な風景に、チカはしばし足を止め、見惚れていた。
――その時だった。
通りの向こう側から、一人の人影がゆっくりと近づいてくる。
暗くて顔は見えない。
けれど、左手には大きなボックス。
右手には、かすかに揺れる小さな光。
そのシルエットを見た瞬間、胸の奥がわずかに震えた。
心に浮かんだのは――あの人の姿。
距離が少しずつ縮まり、街灯と雪の淡いコントラストに照らされて、やがて彼の顔が浮かび上がる。
そう、それはやはり――ケンだった。
二人は、数歩の距離を保ったまま、ぴたりと足を止めた。
「お仕事、お疲れ様です」
「今から帰り?」
「はい」
「気をつけて」
それだけを言って、ケンは再び歩き出した。
ふわりと漂ってきた、彼の優しい香り。
その香りが通り過ぎてゆくのと同時に、チカの胸に小さな勇気が灯った。
「……ケン君って、本当にいい人ですね!」
切なさとともに、背中にぶつける精一杯の想い。
ケンは足を止め、ゆっくりと振り返った。
「俺が“いい人”?」
「はい。アヤカちゃんの話も、ユウカちゃんの笑顔も見ていれば、わかります」
しかし――
「……綺麗な部分しか、聞いてないだけだろ」
ケンのその言葉には、どこか冷たい響きが混ざっていた。
「綺麗な部分? どういう意味ですか?」
チカの声が、静まり返った夜道に落ちる。
さっきまで吹いていた風はいつの間にか止み、あたりに静寂が広がる。
そして、ケンの低く淡々とした声が、その静けさを切り裂いた。
「――あの笑顔が、アヤカの“最初で最後”の笑顔だったんだ」
* * *
アヤカがあの“笑顔”を見せてくれたあの日から、大学のテストやバイトが重なって、しばらく病院に行けない日が続いた。
いつもなら少し無理をしてでも顔を出すのに、気づけば2週間が経っていた。
ようやくテスト期間が終わり、バイトも運よく休みが取れた。
久しぶりにアヤカに会える。
そう思って、意気揚々と玄関のドアに手をかけた、その瞬間――。
ケータイが鳴った。
不意を突かれたように胸がざわつく。
ディスプレイに表示された発信元は、《公衆電話》。
妙な胸騒ぎを覚えながら、急いで通話ボタンを押す。
「……ケン兄ちゃん?」
声を聞いた瞬間にわかった。アヤカだ。
「アヤカ? どうした?」
けれど、返ってきたのは思いもよらない言葉だった。
「ケン兄ちゃん、私に笑顔をくれて……ありがとう」
それだけを告げて、電話はぷつりと切れた。
「アヤカ!? アヤカ、待って!」
慌てて名前を叫んだが、返答はなかった。
公衆電話からの着信――。
こちらからかけ直すこともできなければ、アヤカの家の番号も知らない。
不安が一気に押し寄せ、足元がぐらつく。
何かがおかしい。何かが――違う。
そう感じた瞬間には、もう体が勝手に動いていた。
病院へと全速力で向かった。
到着してすぐ、ナースステーションでアヤカのことを尋ねた。
だが、誰一人として今日のアヤカの姿を見た者はいなかった。
嫌な予感がどんどん現実味を帯びていく。
「お願いします! アヤカのご自宅に連絡を取ってください!」
そう看護師に頼むと、俺は病院中を駆け回った。
思い当たる場所はすべて――
あの中庭、遊び場、階段の踊り場。どこにもいなかった。
時間だけが過ぎてゆく。
辺りは次第に暗くなり、夕暮れの光も街の影に溶けていく。
その時――ケータイが再び鳴った。
アヤカだろうか。希望と不安の狭間で、すぐに応答ボタンを押す。
「アヤカ……!?」
しかし、それは看護師からの電話だった。
「ケンさん、アヤカさんのご両親が警察に捜索願を出されたそうです」
頭の中が真っ白になった。
信じたくない。
けれど、現実は、目の前でゆっくりと重く扉を閉じていった。
その日は、夜になっても探し続けた。
何の手がかりもないまま、ただひたすらに。
次の日も、そしてまたその次の日も――
俺はアヤカを探し続けた。
けれど、どれだけ歩き回っても、どれだけ声を枯らしても、
アヤカの姿は、どこにも見つからなかった。
――そして、アヤカと再び対面したのは、それから10日後のことだった。
その身体は、悲しいほどに変わり果てていた。
冬の、冷たい海の中――たったひとりで。
寒かっただろう。
寂しかっただろう。
彼女のポケットの中には、俺があげたグロスと手鏡が入っていた。
その鏡に映っていたのは、醜く歪んだ――俺自身の姿だった。
どうしようもない悲しみに満ちた現実。
流すことしかできない涙。
何ひとつ救えなかった自分への、どうしようもない怒り。
感情を抑えきれず、俺はそのグロスを握り潰した。
――連れて行くと約束していた海。
「ケン兄ちゃん、いつか海に連れてって。海水はアトピーの肌にいいって、先生が言ってたの」
その願いは、もう果たすことができない。
その場所で、アヤカは命を絶った。
俺が――
俺がアヤカを死へと導いたんだ。
たった一度メイクをしてあげただけで、彼女を救ったつもりでいた。
“良いことをした”そんな幻想に酔いしれていただけだった。
後になって、看護師から聞かされた話。
俺が病院へ行けなかったあの2週間――
アヤカは、変わろうとしていたという。
今までの自分を変えたくて、勇気を振り絞って。
俺が教えたメイクを、自分でして、学校に登校したらしい。
でも、現実は残酷だった。
その日から、彼女へのいじめはさらに酷くなり――
きっと彼女は、自ら命を絶つことを考えたのだろう。
あの時、もし俺にもっとメイクの技術があったなら。
もっと彼女の心の声に寄り添えていたなら、アヤカは、死を選ばなかったかもしれない。
きっと、今もどこかで生きて、笑っていたかもしれない。
そして……
彼女の死後、アヤカの母親は日に日に精神を崩していった。
会うたびに、泣き叫ぶように俺に訴えてきた。
「どうして中途半端なことしたのよ! あんたが余計なことさえしなければ、アヤカは今も生きてたのよ! アヤカが死んだのは、あんたのせい……あんたが殺したのよ、この人殺し!」
何も言えなかった。
言い返す言葉も、否定する資格もなかった。
だって、間違っていない。
彼女の言葉は、すべて正しい。
俺が――
俺が、アヤカを追い詰めたんだ。
* * *
「……俺がアヤカを殺したんだ」
「そんなことない……」
込み上げる感情を抑えきれず、チカは震える唇を、ぎゅっと噛み締めた。
「君に何がわかる?」
ケンの声は、彼女の言葉をはねつけるように、鋭く突き刺さった。
その声は、今までの彼とはまるで違っていた。
どこか怒りにも似た激情を孕んでいて、チカは思わず言葉を失う。
「俺が中途半端なことをしたから……無責任な希望を口にしたから……アヤカを追い詰めたんだ!」
「違う……そんなことない。ケン君は悪くなんかない……!」
ケンは唐突に、コートのポケットに手を差し入れ、一本のメイクブラシを取り出した。
「このメイクブラシはな、握る人間によって、魔法の杖にもなるし鋭いナイフにもなる。あのとき無知だった俺が握ったそれは、アヤカを傷つけるだけのナイフだった」
「違う……!」
チカは首を振った。
目には大粒の涙があふれ、頬をつたって零れ落ちていく。
「人は笑ってるからって楽しいとは限らない。涙を流してるからって、悲しいとも限らない。俺は、アヤカの心の奥にある本当の想いを見ようとしなかったんだ。他の誰も気づかないようなことに、俺が気づいてあげていたら……あんなことには……」
「でも、ケン君は見ようとした。だからこそメイクをしようと思ったんじゃないですか。だから必死に勉強して、あの子を笑顔にしてあげたんじゃないですか!」
涙声のまま、チカは必死に想いをぶつける。
「最後に電話をかけてきたのも……ありがとうって、心から思ってたからじゃないですか……きっと……!」
その瞬間――
「あんた……ウザいな」
――ケンの、冷たく切り捨てるような言葉。
チカの胸は一瞬で締めつけられた。
ショックを受けなかったわけじゃない。
それでも――
それでも、彼の中に刻まれた傷痕の深さが、どれほど痛々しいものかを思えば、その言葉さえも、憎めなかった。
彼が背を向けて歩き出す。
その背中から滲み出ていたのは、見えない涙――
こらえてもこらえきれなかった、心の奥底から溢れる、沈黙の慟哭。
気づけば、目の前にいたはずの彼の姿が、涙でにじんで見えなくなっていた。
どれだけ涙を流したのか、わからない。
気がついたときには、彼の姿はもうそこになかった。
冷たい冬の空気に凍えるような静けさの中に、彼が残していったもの。
それは――
心の奥深くに、ひときわ鮮烈に刻まれた、哀しすぎる記憶だった。
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