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第四章 消せない三つの傷
第12話 宝物という傷痕
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【翌日】
「姿勢を正して! お疲れ様でした!」
アシスタントリーダーであるミサキの声が店内に響き、スタッフたちは円陣を組んだまま一斉に声を揃える。終礼の始まりだ。
「店長、お願いします!」
スタッフの視線が一斉に店長へと向けられる。
「今週の土曜日、営業終了後にシューティング(撮影)セミナーを実施することになりました。外部からプロのカメラマンと、経験豊富な講師の方をお招きして、実践的な指導をしていただきます。講習では1名に実際の撮影を体験してもらう予定です。いつものヘアカタログ撮影とは一味違う、かなりハイレベルな内容になります。貴重な経験になると思いますが、参加を希望する人は?」
ふと正面にいるジュンを見ると、手を挙げながらどこか含みのある笑みを浮かべている。
チカも迷うことなく、好奇心のままに手を挙げた。
周囲を見渡すと、スタイリストではジュンのほかにヨウコとレイコ、アシスタントではミサキとタカユキも手を挙げている。
「では、参加者を1名に絞って、私まで報告をお願いします。以上!」
「今日も一日、お疲れ様でした!」
全員の声がぴたりと揃い、終礼は締めくくられた。
休憩室に戻ると、スタッフたちで混み合っていた。
「よし、あみだくじで決めようか」
タバコを口にくわえたまま、ジュンが軽く言い放つ。
「じゃあ、私が作ります!」
ミサキがそう言って、手際よく紙に線を引きながら、チカの耳元でそっとささやく。
「チカ、“当たり”の真上を選んで」
あくまで自然に振る舞いながら、ミサキは主導権を巧みに握っていく。
「アシスタントから選んでもいいですか?」
ミサキの申し出に、スタイリストたちは快く頷いた。
「じゃあチカからどうぞ!」
ミサキに促されて、チカがまず1本を選ぶ。続いてミサキが、そして順番に全員が選び終えた。
「じゃあ私からいきますね!」
ミサキが指で、ゆっくりとあみだくじの線をなぞる。
「はずれた! 次、誰いきます?」
はずれとは思えないほど、ミサキは余裕のある表情を浮かべていた。
その後もくじは順調に進み、ついにチカの番が回ってくる。
緊張の面持ちで線を辿ると――
「当たり!」
ミサキが声を上げると、周囲の希望者たちは落胆の色を浮かべながらフロアへと戻っていった。
喜びよりも先に、驚きがチカの胸を満たす。
――まるで、何かの術中にはめられたような気分。
「ミサキ、どうやったの?」
「え? 私、何もしてないよ? ほら、チカが前からシューティングに興味あるって言ってたから。よかったね!」
ミサキはとぼけたように笑いながら、さらりとかわす。
こうして――ミサキのさりげない計らいによって、シューティングの参加者はチカに決定した。
【シューティングセミナー当日】
時刻は20時を回っていた。
掃除も終え、講習の準備もすべて整い、あとは講師陣の到着を待つだけとなった。
やがて、店の前に1台の大きなワゴン車が静かに停車する。
それに気づいた店長が、足早にエントランスへと向かっていった。
店長が深々と頭を下げたその先には、20代後半と思われる男性の姿。
その後ろには、重たそうな荷物を抱えた若い男性が一人――おそらくカメラマンとそのアシスタントだ。
続いて入ってきたのは、大きな機材ボックスとバッグを持った別の男性。
その背後には、スレンダーで整った顔立ちの女性が二人並んでいる。
そして最後に現れたのは、サングラスにマスクといういでたちの、背の高い若い男性だった。
その姿を見たジュンが、ふいに右手を挙げる。
それに応じるように、男はサングラスとマスクをゆっくりと外した。
現れた顔――そこにいたのは、講師として招かれたケンだった。
思わず心が揺れた。
嬉しいはずなのに、数日前のあの出来事が脳裏をよぎり、気まずさが先に胸を突いた。
けれど、今は目の前の講習に集中しなければならない。
そう自分に言い聞かせ、チカは無理やり気持ちを切り替える。
「本日、講師を務めさせていただくケンと申します。よろしくお願いいたします」
「カメラマンのニヘイです。本日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
スタッフたちの挨拶が、空気を温めるように店内に響く。
「それでは早速、始めたいと思います」
ケンの一声で、講習が始まった。
「シューティングは、誰もが経験するような記念写真とはまったく異なります。人物写真では、光の質、構図、背景、被写界深度。加えて、モデルの表情や衣装、動きなど、あらゆる要素がその1枚を構成します」
その声は、柔らかくも芯があり、自然と引き込まれていく。
「特に表情は、写真の印象を決める最も大切な要素のひとつです。カメラを意識させると表情は硬くなる。だからこそ、撮影前のコミュニケーションや、会話を通じた自然な笑顔の引き出し方が大切なんです」
話しながら、ケンはモデルの髪を手際よく整え、流れるようにメイクへと移る。
まるで絵筆で描くような繊細で流麗な動き。
あっという間に、モデルの表情が明るく変化していく。
「撮影用のメイクは、日常のナチュラルメイクとは全く異なります。カメラのフラッシュによって色味が飛んでしまうため、より鮮やかに見せるためには、あえてしっかりと色を重ねる必要があります」
「このように……」
完成したメイクに、スタッフから感嘆の声が一斉に上がった。
たった数分で見違えるほどに変身したモデルの姿は、まさに“プロの手”によって生み出された美しい作品だった。
メイクの仕上がりと同時に、30分の講習は終了を迎えた。
「それではこれより、実際にシューティングを体験していただきます」
その言葉と同時に、チカの鼓動が急に高鳴り始める。
「参加者は前へどうぞ」
チカが立ち上がると、ケンと視線がぶつかる。
ケンはわずかに驚いたような表情を浮かべたが、すぐにいつもの冷静な顔へと戻っていた。
「まずは、ヘアセットとメイクから始めましょう」
目の前にいるのがケンだからなのか、スタッフたちが見つめているからなのか。
チカの手は小さく震えながらも、懸命にモデルの髪を整え、メイクを施していく。
ケンのアドバイスを受けながら、どうにかヘアセットとメイクを終える。
「それでは、配置に入りましょう」
ケンの指示でモデルがセットされ、背景とライティングが調整されていく。
照明やレフ板の角度も、カメラマンが微調整を重ねる。
「では、テストいきます」
パシャッ―― ピーピー……
カメラのシャッター音と確認音が静かに響く。
ケンとチカが液晶モニターを覗き込む。
「ほら、ここ。細かい部分まで写ってしまうから、細心の注意が必要だし、左右のバランスバランスを見極めるのが重要なんだ」
指先でモニターをなぞりながら、ケンが静かに語る。
「お願いします」
ケンの一声に、カメラマンが満を持してカメラを構える。
ワンショット目――
ストロボのフラッシュが瞬き、チカの目は一瞬眩んだ。
まばたきの先、すぐ隣にあったのは、液晶モニターを見つめるケンの真剣な横顔。
その表情を目にした瞬間、鼓動が跳ね上がり、胸の奥で強く鳴り響く。
「いい感じ……お願いします」
ケンがカメラマンにそう声をかけた。
パシャッ……ピーピー……
シャッター音とフラッシュが途切れることなく続き、モデルは次々とポーズを決めていく。
場がノッてきたことを察したのか、ケンが一歩前に出た。
「入ります」
彼がそう告げると、フラッシュの閃光がピタリと止んだ。
「ここが乱れてる。直しに入って」
液晶モニターに映し出された細部を指し示し、ケンが指示を出す。
チカは慌てて駆け寄り、指摘された部分を丁寧に整える。
「お願いします」
直しを終え、チカが声をかけると再び撮影が始まった。
――撮影という、一瞬にすべてを懸ける世界。
その緊張感と高揚感に包まれながら、チカは今、自分がまさに“ヘアメイクアップアーティスト”という職に触れているのだと実感していた。
その時、前列にいたタカユキとスタイリストの会話が耳に入った。
「タカユキ、この共同作業は妬けちゃうね」
「そんなことないですよ……」
おどけたようなそのやり取りに、周囲がクスクスと和やかに騒めいた――その瞬間。
「私語は慎んでください」
ケンの鋭い声が場を切り裂いた。
一瞬の静寂。
先ほどの会話を、ケンが聞いていたのかもしれない。
それに気づき、胸がざわつく。
……もしかしたら、そんな風に考えてしまっている私の気持ちが、タカユキを傷つけているのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥に冷たい罪悪感が広がった。
こんな今の自分に、誰かを愛する資格なんてあるのだろうか……?
さまざまな感情が交錯したまま、シューティングセミナーは終了した。
機材やメイク道具はアシスタントたちの手で次々と片づけられ、あれほど熱を帯びていた空間に静けさが戻っていく。
ふとメイクボックスに目をやると、光るモノが視界に入った。
ハートの形をした、小さくてひび割れた手鏡――。
無意識に手を伸ばしかけた、その瞬間だった。
「それに触れるな!」
ケンの怒鳴り声が、店内に鋭く響き渡る。
一斉に空気が凍り、さっきまでの賑わいが嘘のように静まり返った。
その静寂のなか、メイクボックスはアシスタントの手によってそっと閉じられた。
「……あれはアヤカの形見なんだ」
いつの間にか隣に立っていたジュンが、静かに呟いた。
「ケンにとって、あれは傷口と同じなんだ。触れれば、また血が流れる――そんな深い傷痕だよ」
この前、ジュンは言っていた。
アヤカのポケットには手鏡が入っていた、と。
それは、アヤカにとって大切な宝物だったのだろう。
だから、最後の瞬間もポケットに忍ばせていた。
その大切なものが、今ではケンの心に最も深い痛みを刻む傷口になってしまったのだと気づいた瞬間、チカの胸は張り裂けそうになった。
「待ってください!」
エントランスへ向かうケンの背に、チカは咄嗟に声をかけた。
「あの……今日はありがとうございました。それと、さっきは……すみませんでした」
ケンは小さく会釈すると、再び歩き出した。
その背中に、チカは勇気を振り絞って呼びかけた。
「メイクをもっと知ってみたくて……。もしよければ、連絡先を教えてもらえませんか?」
ケンの歩みが止まる。
「君……彼氏いるんだろ?」
――知られたくなかった。
その言葉に、胸の奥がずしりと重くなる。
それと同時に、そんな“ズルい”想いを抱えている自分に嫌気がさした。
「君は、大切な何かを失ったことはある? その時に感じる苦しみや虚しさは、計り知れない。人は――失ってから初めて、その大切さに気づくんだ。大切なものを失いたくないなら……彼氏を大切にしろ」
何も言い返せなかった。
ただ、その正論を真正面から受け止めることしかできない。
「この前の話で、俺がどんなに酷い人間かがわかっただろ? だから、もう俺に構わないでくれ」
突き放すような言葉だけを残し、ケンは車へと乗り込んだ。
――伝えたいことがたくさんあったはずなのに。
いざ目の前にすると、何ひとつ言葉にできなくなってしまう。
私の気持ちを知らないあなたは、平然と私の心を傷つけることができる。
けれど、私だって、誰かを同じくらい傷つけている。
だから、“好き”だなんて、言える資格なんてない。
私は――“まだ”彼氏がいるのだから。
「姿勢を正して! お疲れ様でした!」
アシスタントリーダーであるミサキの声が店内に響き、スタッフたちは円陣を組んだまま一斉に声を揃える。終礼の始まりだ。
「店長、お願いします!」
スタッフの視線が一斉に店長へと向けられる。
「今週の土曜日、営業終了後にシューティング(撮影)セミナーを実施することになりました。外部からプロのカメラマンと、経験豊富な講師の方をお招きして、実践的な指導をしていただきます。講習では1名に実際の撮影を体験してもらう予定です。いつものヘアカタログ撮影とは一味違う、かなりハイレベルな内容になります。貴重な経験になると思いますが、参加を希望する人は?」
ふと正面にいるジュンを見ると、手を挙げながらどこか含みのある笑みを浮かべている。
チカも迷うことなく、好奇心のままに手を挙げた。
周囲を見渡すと、スタイリストではジュンのほかにヨウコとレイコ、アシスタントではミサキとタカユキも手を挙げている。
「では、参加者を1名に絞って、私まで報告をお願いします。以上!」
「今日も一日、お疲れ様でした!」
全員の声がぴたりと揃い、終礼は締めくくられた。
休憩室に戻ると、スタッフたちで混み合っていた。
「よし、あみだくじで決めようか」
タバコを口にくわえたまま、ジュンが軽く言い放つ。
「じゃあ、私が作ります!」
ミサキがそう言って、手際よく紙に線を引きながら、チカの耳元でそっとささやく。
「チカ、“当たり”の真上を選んで」
あくまで自然に振る舞いながら、ミサキは主導権を巧みに握っていく。
「アシスタントから選んでもいいですか?」
ミサキの申し出に、スタイリストたちは快く頷いた。
「じゃあチカからどうぞ!」
ミサキに促されて、チカがまず1本を選ぶ。続いてミサキが、そして順番に全員が選び終えた。
「じゃあ私からいきますね!」
ミサキが指で、ゆっくりとあみだくじの線をなぞる。
「はずれた! 次、誰いきます?」
はずれとは思えないほど、ミサキは余裕のある表情を浮かべていた。
その後もくじは順調に進み、ついにチカの番が回ってくる。
緊張の面持ちで線を辿ると――
「当たり!」
ミサキが声を上げると、周囲の希望者たちは落胆の色を浮かべながらフロアへと戻っていった。
喜びよりも先に、驚きがチカの胸を満たす。
――まるで、何かの術中にはめられたような気分。
「ミサキ、どうやったの?」
「え? 私、何もしてないよ? ほら、チカが前からシューティングに興味あるって言ってたから。よかったね!」
ミサキはとぼけたように笑いながら、さらりとかわす。
こうして――ミサキのさりげない計らいによって、シューティングの参加者はチカに決定した。
【シューティングセミナー当日】
時刻は20時を回っていた。
掃除も終え、講習の準備もすべて整い、あとは講師陣の到着を待つだけとなった。
やがて、店の前に1台の大きなワゴン車が静かに停車する。
それに気づいた店長が、足早にエントランスへと向かっていった。
店長が深々と頭を下げたその先には、20代後半と思われる男性の姿。
その後ろには、重たそうな荷物を抱えた若い男性が一人――おそらくカメラマンとそのアシスタントだ。
続いて入ってきたのは、大きな機材ボックスとバッグを持った別の男性。
その背後には、スレンダーで整った顔立ちの女性が二人並んでいる。
そして最後に現れたのは、サングラスにマスクといういでたちの、背の高い若い男性だった。
その姿を見たジュンが、ふいに右手を挙げる。
それに応じるように、男はサングラスとマスクをゆっくりと外した。
現れた顔――そこにいたのは、講師として招かれたケンだった。
思わず心が揺れた。
嬉しいはずなのに、数日前のあの出来事が脳裏をよぎり、気まずさが先に胸を突いた。
けれど、今は目の前の講習に集中しなければならない。
そう自分に言い聞かせ、チカは無理やり気持ちを切り替える。
「本日、講師を務めさせていただくケンと申します。よろしくお願いいたします」
「カメラマンのニヘイです。本日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
スタッフたちの挨拶が、空気を温めるように店内に響く。
「それでは早速、始めたいと思います」
ケンの一声で、講習が始まった。
「シューティングは、誰もが経験するような記念写真とはまったく異なります。人物写真では、光の質、構図、背景、被写界深度。加えて、モデルの表情や衣装、動きなど、あらゆる要素がその1枚を構成します」
その声は、柔らかくも芯があり、自然と引き込まれていく。
「特に表情は、写真の印象を決める最も大切な要素のひとつです。カメラを意識させると表情は硬くなる。だからこそ、撮影前のコミュニケーションや、会話を通じた自然な笑顔の引き出し方が大切なんです」
話しながら、ケンはモデルの髪を手際よく整え、流れるようにメイクへと移る。
まるで絵筆で描くような繊細で流麗な動き。
あっという間に、モデルの表情が明るく変化していく。
「撮影用のメイクは、日常のナチュラルメイクとは全く異なります。カメラのフラッシュによって色味が飛んでしまうため、より鮮やかに見せるためには、あえてしっかりと色を重ねる必要があります」
「このように……」
完成したメイクに、スタッフから感嘆の声が一斉に上がった。
たった数分で見違えるほどに変身したモデルの姿は、まさに“プロの手”によって生み出された美しい作品だった。
メイクの仕上がりと同時に、30分の講習は終了を迎えた。
「それではこれより、実際にシューティングを体験していただきます」
その言葉と同時に、チカの鼓動が急に高鳴り始める。
「参加者は前へどうぞ」
チカが立ち上がると、ケンと視線がぶつかる。
ケンはわずかに驚いたような表情を浮かべたが、すぐにいつもの冷静な顔へと戻っていた。
「まずは、ヘアセットとメイクから始めましょう」
目の前にいるのがケンだからなのか、スタッフたちが見つめているからなのか。
チカの手は小さく震えながらも、懸命にモデルの髪を整え、メイクを施していく。
ケンのアドバイスを受けながら、どうにかヘアセットとメイクを終える。
「それでは、配置に入りましょう」
ケンの指示でモデルがセットされ、背景とライティングが調整されていく。
照明やレフ板の角度も、カメラマンが微調整を重ねる。
「では、テストいきます」
パシャッ―― ピーピー……
カメラのシャッター音と確認音が静かに響く。
ケンとチカが液晶モニターを覗き込む。
「ほら、ここ。細かい部分まで写ってしまうから、細心の注意が必要だし、左右のバランスバランスを見極めるのが重要なんだ」
指先でモニターをなぞりながら、ケンが静かに語る。
「お願いします」
ケンの一声に、カメラマンが満を持してカメラを構える。
ワンショット目――
ストロボのフラッシュが瞬き、チカの目は一瞬眩んだ。
まばたきの先、すぐ隣にあったのは、液晶モニターを見つめるケンの真剣な横顔。
その表情を目にした瞬間、鼓動が跳ね上がり、胸の奥で強く鳴り響く。
「いい感じ……お願いします」
ケンがカメラマンにそう声をかけた。
パシャッ……ピーピー……
シャッター音とフラッシュが途切れることなく続き、モデルは次々とポーズを決めていく。
場がノッてきたことを察したのか、ケンが一歩前に出た。
「入ります」
彼がそう告げると、フラッシュの閃光がピタリと止んだ。
「ここが乱れてる。直しに入って」
液晶モニターに映し出された細部を指し示し、ケンが指示を出す。
チカは慌てて駆け寄り、指摘された部分を丁寧に整える。
「お願いします」
直しを終え、チカが声をかけると再び撮影が始まった。
――撮影という、一瞬にすべてを懸ける世界。
その緊張感と高揚感に包まれながら、チカは今、自分がまさに“ヘアメイクアップアーティスト”という職に触れているのだと実感していた。
その時、前列にいたタカユキとスタイリストの会話が耳に入った。
「タカユキ、この共同作業は妬けちゃうね」
「そんなことないですよ……」
おどけたようなそのやり取りに、周囲がクスクスと和やかに騒めいた――その瞬間。
「私語は慎んでください」
ケンの鋭い声が場を切り裂いた。
一瞬の静寂。
先ほどの会話を、ケンが聞いていたのかもしれない。
それに気づき、胸がざわつく。
……もしかしたら、そんな風に考えてしまっている私の気持ちが、タカユキを傷つけているのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥に冷たい罪悪感が広がった。
こんな今の自分に、誰かを愛する資格なんてあるのだろうか……?
さまざまな感情が交錯したまま、シューティングセミナーは終了した。
機材やメイク道具はアシスタントたちの手で次々と片づけられ、あれほど熱を帯びていた空間に静けさが戻っていく。
ふとメイクボックスに目をやると、光るモノが視界に入った。
ハートの形をした、小さくてひび割れた手鏡――。
無意識に手を伸ばしかけた、その瞬間だった。
「それに触れるな!」
ケンの怒鳴り声が、店内に鋭く響き渡る。
一斉に空気が凍り、さっきまでの賑わいが嘘のように静まり返った。
その静寂のなか、メイクボックスはアシスタントの手によってそっと閉じられた。
「……あれはアヤカの形見なんだ」
いつの間にか隣に立っていたジュンが、静かに呟いた。
「ケンにとって、あれは傷口と同じなんだ。触れれば、また血が流れる――そんな深い傷痕だよ」
この前、ジュンは言っていた。
アヤカのポケットには手鏡が入っていた、と。
それは、アヤカにとって大切な宝物だったのだろう。
だから、最後の瞬間もポケットに忍ばせていた。
その大切なものが、今ではケンの心に最も深い痛みを刻む傷口になってしまったのだと気づいた瞬間、チカの胸は張り裂けそうになった。
「待ってください!」
エントランスへ向かうケンの背に、チカは咄嗟に声をかけた。
「あの……今日はありがとうございました。それと、さっきは……すみませんでした」
ケンは小さく会釈すると、再び歩き出した。
その背中に、チカは勇気を振り絞って呼びかけた。
「メイクをもっと知ってみたくて……。もしよければ、連絡先を教えてもらえませんか?」
ケンの歩みが止まる。
「君……彼氏いるんだろ?」
――知られたくなかった。
その言葉に、胸の奥がずしりと重くなる。
それと同時に、そんな“ズルい”想いを抱えている自分に嫌気がさした。
「君は、大切な何かを失ったことはある? その時に感じる苦しみや虚しさは、計り知れない。人は――失ってから初めて、その大切さに気づくんだ。大切なものを失いたくないなら……彼氏を大切にしろ」
何も言い返せなかった。
ただ、その正論を真正面から受け止めることしかできない。
「この前の話で、俺がどんなに酷い人間かがわかっただろ? だから、もう俺に構わないでくれ」
突き放すような言葉だけを残し、ケンは車へと乗り込んだ。
――伝えたいことがたくさんあったはずなのに。
いざ目の前にすると、何ひとつ言葉にできなくなってしまう。
私の気持ちを知らないあなたは、平然と私の心を傷つけることができる。
けれど、私だって、誰かを同じくらい傷つけている。
だから、“好き”だなんて、言える資格なんてない。
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