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第五章 繋がり
第16話 解けだす結晶
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今朝の天気予報は大きく外れ、夕方から降り出した雪は、この時間になってもなお降り続いている。
夜練習の準備は始めたものの、どうしても気持ちが乗らず、チカはセット面の椅子にへたり込んだ。
あなたの心に、少しだけ踏み込んでみた。
けれど、そこは暗く、何ひとつ見えなかった。
どの方向へ進めばいいのかもわからない。
この微かな光じゃ、深い闇のなかであなたを見つけることなんて、できないかもしれない。
――それでも、探し出したい。
声にならない声で助けを呼ぶ、あなたを。
必死に手を伸ばし続ける、あなたを。
たとえこの手の光が、頼りなく震えるほど微かなものであっても――
必ず、あなたを照らしてみせる。
「何かあった?」
不意に現実へ引き戻された。
隣にいつの間にか座っていたミサキが、こちらを覗き込んでいる。
「……何でもない!」
「ならいいけど。そういえばさ――」
ミサキの話し声は、右から左へと風のように抜けていく。
そのときだった。慌ただしい足音がフロアに響いた。
ジュンが、急ぎ足で休憩室から出てきたのだ。
――また、通話か。
この店舗では休憩室の電波が弱く、通話の際はスタッフがフロアまで出てくるのが日常の光景だった。
メールはできても、通話は音声が乱れてまともに話せないからだ。
「もしもし、どうした?」
通話相手はわからない。
けれど、ジュンの声色は明らかに、いつもとは違っていた。
「えっ? ……うん……」
口調も、表情も、どこか深刻そう。
チカはすぐにその異変に気付いた。
「……わかった、すぐ行く」
電話を切ったジュンは、すぐさま慌てた様子で荷物をまとめはじめた。
「何かあったんですか?」
チカは不安を押し殺しながら、そっと尋ねた。
「……ちょっとな」
そう答えたジュンの顔には、隠しきれない動揺が滲んでいた。
その様子に、胸がざわつく。
ただごとではない――チカの直感がそう告げていた。
「教えてください。何があったんですか?」
チカの問いに、ジュンは口元を強張らせたまま、声を震わせながら答えた。
「……ケンのばあちゃんが倒れた」
その言葉を聞いた瞬間、チカの胸に嫌な想像が一気に広がっていく。
頭の中で、冷たい結晶のような不安が、ゆっくりと解け出していった――。
「私も連れていってください。……心配なんです」
「わかった。すぐに準備してくれ。俺は外でタクシーを捕まえてくる」
ジュンの言葉にうなずいたチカは、急いで荷物をまとめ、二人でタクシーへと飛び乗った。
車が動き出して間もなく、ジュンはどこか遠くを見るような目でぽつりと呟く。
「ケンのばあちゃん、昔から心臓が悪いんだ……」
その一言で、チカの胸がざわついた。
喉の奥がぎゅっと締め付けられ、鼓動が早くなる。
でも、今は冷静にならなきゃ――。
深く息を吸って、チカは震える手を強く握りしめた。
病院へ着くや否や、二人はタクシーから飛び降り、駆け足でロビーへと向かう。
受付で病室を聞き出し、階段を一気に駆け上がると、ジュンが病室のドアを勢いよく開け放った。
「ケン! ばあちゃんは――!?」
そこには、ベッドの傍らで静かに腰をかけるケンの姿があった。
その横顔はどこか穏やかで、ホッとしたように微笑んでいた。
「大丈夫。……いつもの発作だった。少ししたら目を覚ますって」
「……よかった……」
ジュンは大きく息を吐き、安堵の色が顔に戻っていく。
チカも胸の内に広がっていた不安が、ゆっくりと静まっていくのを感じた。
「君も来てくれたんだな。ありがとう」
ケンがチカに気付き、やわらかな声をかける。
普段よりも少しだけ弱々しくて――でも、その分だけ優しかった。
そのとき、病室の扉がノックされ、看護師が顔を覗かせた。
「失礼します。少し、よろしいでしょうか?」
ケンはうなずくと、静かに席を立ち、看護師とともに病室を出ていった。
「……ほんと、何事もなくてよかったな」
ジュンが大きく息を吐き、ベッドに視線を落としたまま呟く。
その目の奥には、安堵だけではない、別の感情が滲んでいた。
――もしも、何かあったら。
ケンがたったひとりになってしまう。
きっとそれを恐れているのは、ジュンも同じだ。
「……ちょっと、夜風に当たってくる」
そう言い残してジュンも病室を出ていき、残されたのは、チカとおばあちゃん――はじめて顔を合わせる、ふたりきり。
静かな室内に、機械のかすかな音が響く。
チカはベッドに目を向けた。
首元で、かすかに揺れているものが視界に入る。
――ケン君と同じ、ゴールドのネックレス。
その瞬間、ぴくりと微かに動いた。
微動だにしなかったおばあちゃんの体が、わずかに揺れたのだ。
そして、閉じていたまぶたが、ゆっくりと開いていく。
薄く開かれたその瞳に、ようやく意識の光が宿った――。
「……あなたは?」
その声は、風に揺れる枯れ葉のように弱々しかった。
「あの、私はケン君の友達で。今、呼んできますね」
そう言って病室を出ようとしたチカを、おばあちゃんの声が呼び止めた。
「いえ、大丈夫よ。……すぐに戻ってくるだろうから」
ベッドに横たわったまま、窓の外を静かに見つめるその視線は、何か遠い記憶を追いかけているようだった。
「……こんな日に倒れてしまうなんてね。思い出したくない日だろうに……」
まるで独り言のように、ぽつりとこぼした。
――思い出したくない日?
その言葉の意味を問い返そうとしたその瞬間、病室のドアが開いた。
ケンとジュンが戻ってきたのだ。
「ばあちゃん! 大丈夫か? 苦しくない?」
ケンの声はわずかに震えていた。
唇を強く噛み締め、何かを堪えているような表情。
ナースコールを押したあとも、ずっと彼はおばあちゃんの手を離さなかった。
その姿が、どこか子供のようにも見えて――
けれど、切なさではなく、温かさが滲んでいた。
「2、3日は入院して、様子を見ていきましょう。ご家族の方は、今日はお帰りになられて結構ですよ」
医師の言葉に、強張っていたケンの表情がようやく和らいでいく。
「ばあちゃん、また明日来るから」
寂しさをにじませたケンの声に、おばあちゃんは静かに頷いた。
病室を後にし、外へ出ると、いつの間にか雪は止んでいた。
積もった雪が、足元でギシッ、ギシッと小さく音を立てる。
「送っていく」
ケンの声は、いつもよりどこか柔らかく聞こえた。
「ここで大丈夫です。ちょっと……寄りたいところがあるので」
チカはそう答え、病院の入口でケンとジュンを見送った。
けれどそのまま足を止めず、静かに病院の中へと引き返す。
――どうしても、確かめたいことがあった。
受付にいた看護師に「忘れ物をしてしまって……」と苦しい嘘をつきながら、病室の前で足を止めた。
ノックをしてから、静かにドアを開ける。
「失礼します。……まだ、起きていらっしゃいますか?」
ベッドの中で横になっていた体が、ゆっくりとこちらを向いた。
「あなたは……さっきの子ね」
「すみません。もう少しだけお話をしたくて……。ご迷惑じゃなければ」
「ええ、大丈夫よ。まだ眠れないものだから」
「……ひとつ、聞きたいことがあります」
「なにかしら?」
「さっき言っていた、“思い出したくない日”って……何のことですか?」
おばあちゃんはしばらく黙っていた。
そして、ため息をひとつ吐いたあと、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「今日はね……ある人の命日なの」
――命日。
その言葉を聞いた瞬間、チカの中で何かが繋がる。
「……もしかして、それって……アヤカちゃんのことですか?」
思わず口に出た言葉は、震えていた。
「……聞いたのね。あなたには……心を開こうとしているのかもしれないわね」
そう言って、おばあちゃんは悲しげな瞳を窓の外へと向けた。
「今頃、向かっているはずよ。……行ってあげて」
「えっ?」
「ケンのもとへ」
その言葉には、確かな何かが託されていた。
場所を教えてもらったチカは、急いでタクシーに乗り込む。
――胸の中で何かがざわついていた。
何かを知る覚悟と、何かを繋ぐ予感。
雪は止んでも、心の中のざわめきは静まらないまま――。
教えられた墓地の前に立ったものの、目の前に広がる静寂と暗闇に、チカの足はすくんで動けなかった。冷たい風が肌を刺す。
――どうしても、怖い。
その時、聞き覚えのあるブーツの足音が、奥の方から静かに響いてきた。
影が伸び、チカの影と重なったその瞬間――
目の前に現れたのは、ケンだった。
「……どうして君がここにいる?」
険しい表情。鋭い目つき。
声は低く、どこか怒りを押し殺していた。
「そっ、それは……」
「この場所、誰から聞いた? ……ジュンか?」
込み上げる感情を抑えきれず、ケンの声が一段と低くなる。
「……いえ。ケン君のおばあちゃんから……」
その答えを聞いたケンの目が、一瞬わずかに揺れた。
けれど、すぐに冷たい光に戻る。
「そんなに……楽しいか?」
低く押し殺した声色が、恐怖を伴って響いた。
「人の……傷口を踏みにじるようなことをして、そんなに楽しいか?」
チカは何も言えず、ただその場に立ち尽くした。
胸が締めつけられ、言葉が喉に詰まる。
「どうして……責めないんだ?」
ケンは歪むように、声を震わせた。
「俺は……アヤカを殺したんだぞ」
ギリッ、と拳を握り締める音が聞こえた。
その拳に込められた痛みが、怒りではなく、自責の念であることが痛いほど伝わってくる。
「そんなこと、ない……!」
絞り出すように、チカは叫んだ。
「どうして俺だけが、生きてるんだ……?」
「……生きる意味だって、ちゃんとある!」
「なぜそんなことが言える? こんな俺に……」
「だって――私にとって、あなたは……大切な人だから」
自分の口から出たその言葉に、チカ自身が驚いた。
でも、それは確かな気持ちだった。
ケンの目が見開かれる。
「……俺が、大切な人……?」
その声はかすれ、雪の音にかき消されていく。
再び静かに降り始めた雪が、空気に溶け込むように舞い落ちる中、ケンは崩れ落ちるように膝をついた。
白く積もった地面の上に、彼のケータイが転がり落ちる。
画面には、ひとつの写真が表示されていた。
そこには、まるで時が止まったままのような――
笑顔のアヤカがいた。
ケンの瞳から、もう枯れ果てたと思っていた涙があふれ出す。
その涙は、雪を溶かし、地面に静かに吸い込まれていった。
心の中で、ケンは叫ぶ。
――ごめんな、アヤカ。全部、俺のせいだ。
俺は、何もできなかった。
お前が心の声で助けを求めていた時、俺は――
何もしてやれなかった。
なのに……どうして。
どうして最後に、“ありがとう”だなんて。
そんな綺麗な言葉を、俺にくれたんだ?
“ありがとう”って伝えなきゃいけなかったのは、俺の方だったのに。
お前は最後の最後まで、俺のことを考えてくれた。
最後に、俺に……助けを求めていたのに。
俺はそれに、気づいてあげられなかった。
それでも――
お前は、俺の言葉を信じてくれたんだよな。
たった一人で、闘ったんだよな。
そこに俺がいてやれたなら――
きっと、こんなことにはならなかったはずだ。
“一緒に強くなろう”
“一緒に闘おう”
あの時、そう言った。
無責任な言葉だった。
もしその言葉が、お前に勇気を与えたのだとしたら。
そしてその勇気が、お前を死へと追い詰めてしまったのだとしたら――
こんなに、悲しいことはない。
辛かったよな。
苦しかったよな。
寂しかったよな。
守ってやれなくて、ごめんな。
アヤカ。
“許してくれ”なんて、そんなことは言わない。
ただ――
縄で首をくくった、あの日。
意識が遠のく中で、お前の声が聞こえた。
“生きて”
その瞬間、縄がぷつりと切れ、視界が真っ暗になった。
病院のベッドで目を覚ました時、なぜか涙が流れていた。
“なぜ生きているのだろう?”
“生きていていいのだろうか?”
わからなかった。
ただ、確かにお前に命を救われたことだけは――わかっていた。
だから俺は、決めたんだ。
この生かされた命で、お前が闘ったように、俺も闘おうって。
だけど――
弱い俺は、それでもなお“生きていていい意味”を考えることから逃げて、ニューヨークへと旅立った。
けれど――
ニューヨークに行っても、お前は何度も俺を救ってくれた。
そのたびに、俺は自分を憎んだ。
忘れられたら、どれだけ楽だっただろう。
忘れたい。
忘れたいのに――
なのに……。
「忘れたくない……!」
写真に写る笑顔のアヤカに向けて、ケンは叫んだ。
その声は、雪を降らせる静かな冬空へと、悲しみとともに溶けていった。
「アヤカちゃんは、ケン君の思い出の中でちゃんと生きています。ケン君が忘れないかぎり、ずっと……ずっと……」
チカは、あふれそうになる涙をそっと微笑みで包み込んだ。
その表情は、痛みを受け入れるように、優しく静かだった。
消えることはない。
消せないものも、ある。
でも、それでいい。
それを――私が、全て受け止める。
溢れ出た思いも、こぼれ落ちた涙も、全部。
私がすくいあげるから。
まるで、凍りついていた雪が解け出すように。
ケンは膝をついたまま、声にならない声で、天国にいるアヤカへ何度も、何度も謝り続けた。
しんしんと、雪の結晶が二人の上に舞い落ちる。
まるで、消えることのない悲しみをそっと癒すかのように。
凍える冬空から、静かに舞い降りる白い雪。
触れれば、消えてしまう。
わかっているのに、それでも――触れてしまう。
それでも、この手を伸ばす。
優しく、そっと。
……たとえ、触れたその瞬間に、消えてしまうとわかっていても。
夜練習の準備は始めたものの、どうしても気持ちが乗らず、チカはセット面の椅子にへたり込んだ。
あなたの心に、少しだけ踏み込んでみた。
けれど、そこは暗く、何ひとつ見えなかった。
どの方向へ進めばいいのかもわからない。
この微かな光じゃ、深い闇のなかであなたを見つけることなんて、できないかもしれない。
――それでも、探し出したい。
声にならない声で助けを呼ぶ、あなたを。
必死に手を伸ばし続ける、あなたを。
たとえこの手の光が、頼りなく震えるほど微かなものであっても――
必ず、あなたを照らしてみせる。
「何かあった?」
不意に現実へ引き戻された。
隣にいつの間にか座っていたミサキが、こちらを覗き込んでいる。
「……何でもない!」
「ならいいけど。そういえばさ――」
ミサキの話し声は、右から左へと風のように抜けていく。
そのときだった。慌ただしい足音がフロアに響いた。
ジュンが、急ぎ足で休憩室から出てきたのだ。
――また、通話か。
この店舗では休憩室の電波が弱く、通話の際はスタッフがフロアまで出てくるのが日常の光景だった。
メールはできても、通話は音声が乱れてまともに話せないからだ。
「もしもし、どうした?」
通話相手はわからない。
けれど、ジュンの声色は明らかに、いつもとは違っていた。
「えっ? ……うん……」
口調も、表情も、どこか深刻そう。
チカはすぐにその異変に気付いた。
「……わかった、すぐ行く」
電話を切ったジュンは、すぐさま慌てた様子で荷物をまとめはじめた。
「何かあったんですか?」
チカは不安を押し殺しながら、そっと尋ねた。
「……ちょっとな」
そう答えたジュンの顔には、隠しきれない動揺が滲んでいた。
その様子に、胸がざわつく。
ただごとではない――チカの直感がそう告げていた。
「教えてください。何があったんですか?」
チカの問いに、ジュンは口元を強張らせたまま、声を震わせながら答えた。
「……ケンのばあちゃんが倒れた」
その言葉を聞いた瞬間、チカの胸に嫌な想像が一気に広がっていく。
頭の中で、冷たい結晶のような不安が、ゆっくりと解け出していった――。
「私も連れていってください。……心配なんです」
「わかった。すぐに準備してくれ。俺は外でタクシーを捕まえてくる」
ジュンの言葉にうなずいたチカは、急いで荷物をまとめ、二人でタクシーへと飛び乗った。
車が動き出して間もなく、ジュンはどこか遠くを見るような目でぽつりと呟く。
「ケンのばあちゃん、昔から心臓が悪いんだ……」
その一言で、チカの胸がざわついた。
喉の奥がぎゅっと締め付けられ、鼓動が早くなる。
でも、今は冷静にならなきゃ――。
深く息を吸って、チカは震える手を強く握りしめた。
病院へ着くや否や、二人はタクシーから飛び降り、駆け足でロビーへと向かう。
受付で病室を聞き出し、階段を一気に駆け上がると、ジュンが病室のドアを勢いよく開け放った。
「ケン! ばあちゃんは――!?」
そこには、ベッドの傍らで静かに腰をかけるケンの姿があった。
その横顔はどこか穏やかで、ホッとしたように微笑んでいた。
「大丈夫。……いつもの発作だった。少ししたら目を覚ますって」
「……よかった……」
ジュンは大きく息を吐き、安堵の色が顔に戻っていく。
チカも胸の内に広がっていた不安が、ゆっくりと静まっていくのを感じた。
「君も来てくれたんだな。ありがとう」
ケンがチカに気付き、やわらかな声をかける。
普段よりも少しだけ弱々しくて――でも、その分だけ優しかった。
そのとき、病室の扉がノックされ、看護師が顔を覗かせた。
「失礼します。少し、よろしいでしょうか?」
ケンはうなずくと、静かに席を立ち、看護師とともに病室を出ていった。
「……ほんと、何事もなくてよかったな」
ジュンが大きく息を吐き、ベッドに視線を落としたまま呟く。
その目の奥には、安堵だけではない、別の感情が滲んでいた。
――もしも、何かあったら。
ケンがたったひとりになってしまう。
きっとそれを恐れているのは、ジュンも同じだ。
「……ちょっと、夜風に当たってくる」
そう言い残してジュンも病室を出ていき、残されたのは、チカとおばあちゃん――はじめて顔を合わせる、ふたりきり。
静かな室内に、機械のかすかな音が響く。
チカはベッドに目を向けた。
首元で、かすかに揺れているものが視界に入る。
――ケン君と同じ、ゴールドのネックレス。
その瞬間、ぴくりと微かに動いた。
微動だにしなかったおばあちゃんの体が、わずかに揺れたのだ。
そして、閉じていたまぶたが、ゆっくりと開いていく。
薄く開かれたその瞳に、ようやく意識の光が宿った――。
「……あなたは?」
その声は、風に揺れる枯れ葉のように弱々しかった。
「あの、私はケン君の友達で。今、呼んできますね」
そう言って病室を出ようとしたチカを、おばあちゃんの声が呼び止めた。
「いえ、大丈夫よ。……すぐに戻ってくるだろうから」
ベッドに横たわったまま、窓の外を静かに見つめるその視線は、何か遠い記憶を追いかけているようだった。
「……こんな日に倒れてしまうなんてね。思い出したくない日だろうに……」
まるで独り言のように、ぽつりとこぼした。
――思い出したくない日?
その言葉の意味を問い返そうとしたその瞬間、病室のドアが開いた。
ケンとジュンが戻ってきたのだ。
「ばあちゃん! 大丈夫か? 苦しくない?」
ケンの声はわずかに震えていた。
唇を強く噛み締め、何かを堪えているような表情。
ナースコールを押したあとも、ずっと彼はおばあちゃんの手を離さなかった。
その姿が、どこか子供のようにも見えて――
けれど、切なさではなく、温かさが滲んでいた。
「2、3日は入院して、様子を見ていきましょう。ご家族の方は、今日はお帰りになられて結構ですよ」
医師の言葉に、強張っていたケンの表情がようやく和らいでいく。
「ばあちゃん、また明日来るから」
寂しさをにじませたケンの声に、おばあちゃんは静かに頷いた。
病室を後にし、外へ出ると、いつの間にか雪は止んでいた。
積もった雪が、足元でギシッ、ギシッと小さく音を立てる。
「送っていく」
ケンの声は、いつもよりどこか柔らかく聞こえた。
「ここで大丈夫です。ちょっと……寄りたいところがあるので」
チカはそう答え、病院の入口でケンとジュンを見送った。
けれどそのまま足を止めず、静かに病院の中へと引き返す。
――どうしても、確かめたいことがあった。
受付にいた看護師に「忘れ物をしてしまって……」と苦しい嘘をつきながら、病室の前で足を止めた。
ノックをしてから、静かにドアを開ける。
「失礼します。……まだ、起きていらっしゃいますか?」
ベッドの中で横になっていた体が、ゆっくりとこちらを向いた。
「あなたは……さっきの子ね」
「すみません。もう少しだけお話をしたくて……。ご迷惑じゃなければ」
「ええ、大丈夫よ。まだ眠れないものだから」
「……ひとつ、聞きたいことがあります」
「なにかしら?」
「さっき言っていた、“思い出したくない日”って……何のことですか?」
おばあちゃんはしばらく黙っていた。
そして、ため息をひとつ吐いたあと、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「今日はね……ある人の命日なの」
――命日。
その言葉を聞いた瞬間、チカの中で何かが繋がる。
「……もしかして、それって……アヤカちゃんのことですか?」
思わず口に出た言葉は、震えていた。
「……聞いたのね。あなたには……心を開こうとしているのかもしれないわね」
そう言って、おばあちゃんは悲しげな瞳を窓の外へと向けた。
「今頃、向かっているはずよ。……行ってあげて」
「えっ?」
「ケンのもとへ」
その言葉には、確かな何かが託されていた。
場所を教えてもらったチカは、急いでタクシーに乗り込む。
――胸の中で何かがざわついていた。
何かを知る覚悟と、何かを繋ぐ予感。
雪は止んでも、心の中のざわめきは静まらないまま――。
教えられた墓地の前に立ったものの、目の前に広がる静寂と暗闇に、チカの足はすくんで動けなかった。冷たい風が肌を刺す。
――どうしても、怖い。
その時、聞き覚えのあるブーツの足音が、奥の方から静かに響いてきた。
影が伸び、チカの影と重なったその瞬間――
目の前に現れたのは、ケンだった。
「……どうして君がここにいる?」
険しい表情。鋭い目つき。
声は低く、どこか怒りを押し殺していた。
「そっ、それは……」
「この場所、誰から聞いた? ……ジュンか?」
込み上げる感情を抑えきれず、ケンの声が一段と低くなる。
「……いえ。ケン君のおばあちゃんから……」
その答えを聞いたケンの目が、一瞬わずかに揺れた。
けれど、すぐに冷たい光に戻る。
「そんなに……楽しいか?」
低く押し殺した声色が、恐怖を伴って響いた。
「人の……傷口を踏みにじるようなことをして、そんなに楽しいか?」
チカは何も言えず、ただその場に立ち尽くした。
胸が締めつけられ、言葉が喉に詰まる。
「どうして……責めないんだ?」
ケンは歪むように、声を震わせた。
「俺は……アヤカを殺したんだぞ」
ギリッ、と拳を握り締める音が聞こえた。
その拳に込められた痛みが、怒りではなく、自責の念であることが痛いほど伝わってくる。
「そんなこと、ない……!」
絞り出すように、チカは叫んだ。
「どうして俺だけが、生きてるんだ……?」
「……生きる意味だって、ちゃんとある!」
「なぜそんなことが言える? こんな俺に……」
「だって――私にとって、あなたは……大切な人だから」
自分の口から出たその言葉に、チカ自身が驚いた。
でも、それは確かな気持ちだった。
ケンの目が見開かれる。
「……俺が、大切な人……?」
その声はかすれ、雪の音にかき消されていく。
再び静かに降り始めた雪が、空気に溶け込むように舞い落ちる中、ケンは崩れ落ちるように膝をついた。
白く積もった地面の上に、彼のケータイが転がり落ちる。
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そこには、まるで時が止まったままのような――
笑顔のアヤカがいた。
ケンの瞳から、もう枯れ果てたと思っていた涙があふれ出す。
その涙は、雪を溶かし、地面に静かに吸い込まれていった。
心の中で、ケンは叫ぶ。
――ごめんな、アヤカ。全部、俺のせいだ。
俺は、何もできなかった。
お前が心の声で助けを求めていた時、俺は――
何もしてやれなかった。
なのに……どうして。
どうして最後に、“ありがとう”だなんて。
そんな綺麗な言葉を、俺にくれたんだ?
“ありがとう”って伝えなきゃいけなかったのは、俺の方だったのに。
お前は最後の最後まで、俺のことを考えてくれた。
最後に、俺に……助けを求めていたのに。
俺はそれに、気づいてあげられなかった。
それでも――
お前は、俺の言葉を信じてくれたんだよな。
たった一人で、闘ったんだよな。
そこに俺がいてやれたなら――
きっと、こんなことにはならなかったはずだ。
“一緒に強くなろう”
“一緒に闘おう”
あの時、そう言った。
無責任な言葉だった。
もしその言葉が、お前に勇気を与えたのだとしたら。
そしてその勇気が、お前を死へと追い詰めてしまったのだとしたら――
こんなに、悲しいことはない。
辛かったよな。
苦しかったよな。
寂しかったよな。
守ってやれなくて、ごめんな。
アヤカ。
“許してくれ”なんて、そんなことは言わない。
ただ――
縄で首をくくった、あの日。
意識が遠のく中で、お前の声が聞こえた。
“生きて”
その瞬間、縄がぷつりと切れ、視界が真っ暗になった。
病院のベッドで目を覚ました時、なぜか涙が流れていた。
“なぜ生きているのだろう?”
“生きていていいのだろうか?”
わからなかった。
ただ、確かにお前に命を救われたことだけは――わかっていた。
だから俺は、決めたんだ。
この生かされた命で、お前が闘ったように、俺も闘おうって。
だけど――
弱い俺は、それでもなお“生きていていい意味”を考えることから逃げて、ニューヨークへと旅立った。
けれど――
ニューヨークに行っても、お前は何度も俺を救ってくれた。
そのたびに、俺は自分を憎んだ。
忘れられたら、どれだけ楽だっただろう。
忘れたい。
忘れたいのに――
なのに……。
「忘れたくない……!」
写真に写る笑顔のアヤカに向けて、ケンは叫んだ。
その声は、雪を降らせる静かな冬空へと、悲しみとともに溶けていった。
「アヤカちゃんは、ケン君の思い出の中でちゃんと生きています。ケン君が忘れないかぎり、ずっと……ずっと……」
チカは、あふれそうになる涙をそっと微笑みで包み込んだ。
その表情は、痛みを受け入れるように、優しく静かだった。
消えることはない。
消せないものも、ある。
でも、それでいい。
それを――私が、全て受け止める。
溢れ出た思いも、こぼれ落ちた涙も、全部。
私がすくいあげるから。
まるで、凍りついていた雪が解け出すように。
ケンは膝をついたまま、声にならない声で、天国にいるアヤカへ何度も、何度も謝り続けた。
しんしんと、雪の結晶が二人の上に舞い落ちる。
まるで、消えることのない悲しみをそっと癒すかのように。
凍える冬空から、静かに舞い降りる白い雪。
触れれば、消えてしまう。
わかっているのに、それでも――触れてしまう。
それでも、この手を伸ばす。
優しく、そっと。
……たとえ、触れたその瞬間に、消えてしまうとわかっていても。
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