もしも願いが二つ叶うなら…

KANATA

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第五章 繋がり

第17話 魔法の手

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【翌日】
 
「ありがとうございました!」

 エントランスに立ったチカは、最後のお客様を笑顔で見送り、ゆっくりと扉を閉めた。
 そのまま立ち尽くし、どんよりとした夜空を見上げる。
 脳裏に浮かぶのは、昨日のあの光景ばかり――
 凍りついた記憶の中に、あの人の背中だけが鮮明に残っている。
 氷の欠片をいくら集めても、あなたの心の空白を埋めることはできないのかもしれない。
 どれだけ手を伸ばしても、その背中は遠ざかってしまうばかりだった。

「チカ! 練習しよう!」

 店内から聞こえてきたミサキの声にハッと我に返り、慌ててフロアへと戻る。
 すでに準備を整えて練習を始めているミサキの横に腰を下ろしたものの、手は止まったまま、大きなため息だけが何度も漏れる。

「練習しなくていいの?」

 ハサミを動かす手を止め、ミサキが不思議そうに首を傾げた。

「ねえ、今日泊まってもいい?」

 ――一人でいると、悪いことばかり考えてしまいそうだから。

「別にいいけど、今日は早く寝るよ? 明日はチェックだから朝練するし!」

 その一言で、ようやく思い出した。
 明日は、人頭カットのチェック――
 カット技術の最終段階である実技審査の日だった。
 スタイリストから六つのスタイルを指定され、それらすべてを合格しなければならない。
 その先には、さらに過酷な100人のカットモデルという壁が立ちはだかっている。
 3か月以内に、自力で100人のモデルを集め、担当する。
 THE ROOMのスタイリストたちは、誰もがその試練を乗り越えてきた。
 このサロンで生きていくためには、それが当たり前の通過儀礼だった。
 スタイリストになるまでの道のりは、果てしなく遠い。
 ようやく我に返ったチカは、気を取り直して急いで練習を始めた。
 明日の課題はボブ。
 得意なスタイルのひとつで、すでにモデルの手配も済んでいる。
 自信はある。
 それでも、今夜は不安の霧が心を覆っていた。
 深夜まで練習を重ね、指が痺れるまでハサミを握り続けた。
 そして気づけば、疲れ果てたチカは、結局ミサキの家へ泊まりに行くことなく、
 静かにひとり、自宅の布団に身を沈めていた――。
 
 
【カットチェック当日】
 
 昨夜は深夜まで練習し、今朝も誰より早く店に入り、ひたすら手を動かした。
 “絶対に合格できる”
 その言葉を呪文のように胸の奥で繰り返しながら、チカは本番に臨む。

「準備はいいか?」

 スタイリストの声に、アシスタント全員がピンと背筋を伸ばす。
 チカは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
 タイムは45分間。
 その短くて長い時間に、すべてがかかっている。

「始め!」

 静寂が支配するフロアに、シザーの開閉音とドライヤーの風音だけが響き渡る。
 スタイリストたちは無言のまま、あらゆる角度から視線を注ぎ込む。
 その視線の圧が、肩にのしかかるようだった。
 ――カットに集中しなきゃ。
 手元だけを見つめながらも、心は浮き足立つ。
 ウィッグでは何度も成功していた。
 なのに、人頭になると、思うようにいかない。

「残り5分!」
 
 その声に、手が速まる。
 鼓動も速まる。
 気持ちが焦る。
 呼吸が浅くなる。
 そして――
 タイマーの無機質な音が鳴り響いた。

「はい、止め!」

 店長の声と同時に、全員の手がピタリと止まる。
 その場の空気が張りつめたまま凍りつく。
 昨日は、タイム内で仕上げられていたのに。
 これが、ウィッグと人頭の違い――
 分かっていたはずなのに。
 スタイリストたちによる最終チェックが入る。
 アシスタントたちは、それぞれの表情を胸に、無言のまま休憩室へと雪崩れ込む。
 自信ありげな顔。
 不安に揺れる顔。
 虚勢を張る顔。
 そして――
 チカの表情だけは、誰が見ても答えが出ていた。
 やがて、フロアへと呼び戻され、静かに整列するアシスタントたち。
 張りつめた空気の中、店長が口を開く。

「それでは、チェックの合否を発表する」

 チカの胸に、高鳴りはなかった。
 ただ、焦燥感だけが膨らんでいく。
 周囲が一歩ずつ先へ進んでいくのを、ただ見ているしかないという絶望。

「ミサキ――人頭ボブスタイル、合格」
「タカユキ――人頭レイヤースタイル、合格」
「チカ――人頭ボブスタイル、不合格」

 耳に届く前から、結果はわかっていた。
 期待もしていなかった。
 けれど、それでも――
 胸の奥で何かが崩れ落ちる音がした。

「……はい」

 絞り出した声は、自分でも驚くほどに小さかった。
 
 それから数日間、チカはケンへのメッセージを何度も書いては消し、書いては消し――その繰り返しだった。
 どんな言葉を選んでも、返事が来る気がしなかった。
 “もしかしたら、このまま……”
 嫌な予感ばかりが心を占めていく。
 大事なチェックには落ち、大切な人には背を向けられている。
 もう、どうしたらいいのかわからない。
 そんな矢先だった――。

「いらっしゃいま――」

 エントランスに立ったチカの目の前に、ケンの姿があった。

「今日、ジュンにカット頼んでて」
「そうなんですね。では、お上着をお預かりします」

 どこかぎこちなく、距離のあるやりとり。
 お互い、よそよそしさを隠しきれない。

「おばあちゃんは、大丈夫そうですか?」
「ああ。しばらく入院になったけど、ひとまず落ち着いてる」
「それは良かったです。今、ジュンさん呼んできますね」

 チカはすぐにジュンのもとへと駆け寄り、他の客を担当している彼にそっと耳打ちする。

「失礼いたします。ケン君がいらっしゃいました」
「先にシャンプーお願い」

 何も知らないジュンは、ごく普通にそう言った。
 こういう時、頼れるのはあの人しかいない。

「ミサキ、お願いがあるんだけど……ケン君のシャンプー、代わってもらえないかな」
「チカが入らなくていいの?」

 一瞬、戸惑いを見せたミサキだったが、チカの沈んだ顔を見てすぐに察する。
 何も言わず、ただそっとチカの肩を叩き、ケンのもとへ向かった。
 意識しないように――
 仕事に集中しようと、必死に努めた。
 それでも、気になって仕方がない。
 鏡越しに映る、あなたの姿。
 それを見つめるだけで、もう精一杯だった。
 休憩中のミサキをつかまえ、こっそり聞き出す。

「何か話してた?」
「最初は定番の会話してたけど、シャンプー中はほとんど寝てたよ。マッサージ中もずっと」
「カットの時は?」
「色々話してたみたいだけど……内容までは聞こえなかった」

 ケンのカットが終わり、ジュンにお見送りを頼まれた。

「ミサキ、ジュンさんにケン君のお見送り頼まれたんだけど……」
「お見送りくらい、してきなさいよ」

 その言葉がなければ、きっとチカは背を向けていた。
 店の外。
 会計を済ませたケンの背中を、不安な気持ちで見つめながら立ち尽くす。

「ありがとうございました」

 お辞儀をしたチカの前を、優しい香りだけがすり抜けていく。
 そして、顔を上げた瞬間――

「この間は、ごめん」

 その一言が、小さく、確かに届いた。
 胸の奥に押し込んでいた感情が、いっきに溢れそうになる。
 追いかけたかった。
 手を伸ばせば、きっと届いた。
 でも、今の私には――そんな勇気は残っていない。
 だから私は、遠ざかっていくあなたの背中を、ただ見送ることしかできなかった。
 謝らなければいけないのは、きっと私のほうだった。
 傷を癒しているつもりで、本当は……傷つけていたのかもしれない。

「この後も予約が詰まってて、手が空きそうにもないな」

 後ろから聞こえた声に振り向くと、ジュンが予約帳を手に、どこか照れくさそうにチカを見ていた。
 そして、突然ポケットに手を突っ込む。

「悪いんだけどさ、駅前のコンビニで1リットルのコーヒー買ってきてくれない? 自販機の缶コーヒーじゃ足りなくてさ」

 この不器用な優しさの意味くらい、チカにもわかっていた。

「……ありがとうございます!」

 ミサキやジュンの言葉に、私は何度救われただろう。
 どれだけ勇気をもらっただろう。
 現実と理想のはざまで揺れていた私に、ようやく一歩を踏み出す力が宿る。
 今、走らなきゃ。
 このまま逃げたら、もう二度と会えなくなる。
 そんな気がしたから――
 私は走った。
 遠ざかる背中へ、少しでも近づくために。
 

「ケン君!」

 今の私に出せる、精一杯の声だった。
 その声に、あなたはゆっくりと立ち止まり、振り返った。
 その表情を見た瞬間、言葉が喉の奥に詰まった。
 足が自然と前へ出る。歩み寄った先で、あなたは優しい声をくれた。

「ありがとう。君がこんな俺に“大切な人”だって、言ってくれた」

 チカは顔を伏せたまま、ゆっくりと首を横に振った。
 零れ落ちた涙が、静かにアスファルトを濡らしてゆく。

「……あの時、君は一緒に泣いてくれた。泣いてくれる人がいるって、こんなにも幸せなことなんだって、初めて知ったんだ」

 その言葉のすべてが、柔らかくて、温かくて――まるで夢の中にいるようだった。

「もう、泣かないで」

 ケンの声に導かれ、チカはそっと顔を上げた。
 優しい眼差しがそこにあって、温かい指がそっと頬に触れた。
 涙を拭うその手は、壊れそうな私の心を包み込むようだった。
 そして、あなたは両腕を広げた。
 そのまま、私を――そっと、優しく、抱きしめてくれた。
 この温もり。
 これは、夢なんかじゃない。
 あなたがここにいるという確かな証。
 ずっと、ずっと追いかけてきた背中に、ようやく触れることができた。
 絡まっていた想いが解けるように、私はあなたの胸の中で再び涙をこぼした。
 あなたの指が、頬を伝うその一粒を拭ってくれる。
 その手はまるで、私の涙を止めてくれる魔法のようだった。

「カットのチェックに落ちたって、ジュンから聞いた」

 チカは鼻をすすりながら、静かに頷いた。

「俺のせいかもしれない。でもさ……人の目って、失敗して初めて見えるものがあるんだ」

 そう言って、ケンは首元から金のネックレスを外した。
 どこか思い入れがあるように、そのペンダントトップを一度、静かに見つめた。

「これ、俺が15の頃からずっと着けてるんだ」

 そう言いながら、チカの首元にそっと両手を回し、そのネックレスをかけてくれた。

「このネックレスは、身に付けた人の願いを叶えてくれる。だから1週間後の再チェック、きっと合格できるよ」

 本当に、叶うのかもしれない。
 だって、今この瞬間。
 私が一番願っていたことが、叶ったのだから。
 それに、もしかしたら――
 あなたは、もう気づいていたのかもしれない。
 私の願いを。

「もう戻らなきゃだろ?」

 穏やかな表情でそう言ったケンに、チカは柔らかく微笑み返した。
 心の中にあった“闇”。
 それを誰かに話せただけで、少しだけ光が射した気がする。
 ほんの小さな光かもしれない。
 でも、その光を頼りに歩き出してみよう。
 誰だって、一度は迷わなければ、自分の答えには辿り着けない。
 もし、その先が行き止まりなら、一緒に別の道を探せばいい。
 それでも道が見つからないなら、一緒に道を作っていけばいい。
 私は願う。
 いつか辿り着ける、その場所が。
 あなたと共に、陽だまりのように優しい場所でありますように――。
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