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第六章 季節の色
第19話 桜色の記憶
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葬儀の後、ケンはしばらく仕事を休んでいた。
チカも有給を取り、数日間ケンの実家に泊まりに来ていた。
「井の頭公園に散歩でも行かない?」
チカは、断られることも覚悟の上で誘った。
「天気もいいし、行こうか」
まさかの返答に、チカは一瞬驚いたが、すぐにいつもの柔らかな笑顔で頷いた。
澄み切った青空の下、手をつないで吉祥寺の街を抜け、井の頭公園へと向かう。
公園へ入ると、春風に乗って桜の花びらが舞っていた。
目の前で、ひらひらと零れ落ちてゆく薄紅色の花。
その光景が、どこか切なく胸に染みる。
春の終わり――
それは、私たちに“繋がり”を与えてくれた季節が静かに幕を閉じることを意味しているようで、なおさら、寂しさが込み上げる。
「桜って、咲いてもすぐに散っちゃうから……ちょっと寂しいね」
チカは、儚く舞う花びらを見上げながら呟いた。
「だからこそ美しい。そして、また1年後に咲くのを心待ちにできる」
そう言いながら、ケンは七井橋の入口近くにある自動販売機の前で立ち止まった。
「永遠に在り続けることだけが、“美”じゃないんだよ」
そう言って、振り返ったケンはチカの頬に、そっと温かいミルクティーの缶を押し当てた。
「ありがとう!」
頬をほんのり桜色に染めたチカは、缶のキャップをくるりとひねる。
その瞬間、ふと気づいた。
――どうして、ミルクティーが好きだって知ってるんだろう?
わざわざ伝えた記憶なんて、ないはずなのに。
もしかして……ずっと、見ていてくれてたの?
温泉旅行の車の中、BARで最後に頼んだドリンク、メイクの特訓が終わったあの日も――
この人は、私の何気ない“選択”を、そっと覚えていてくれたのかもしれない。
――でも、そんなこと、恥ずかしすぎてとても聞けないや。
花びらが風に乗って、そっとふたりの肩に降りた。
すると、今度はケンが、舞い散る桜の花びらを見上げた。
「散っては咲き、咲いては散る。それをこの木は、もう100年も繰り返してるんだな」
「100年、ご苦労さまです!」
チカは大きな桜の木を前に、真剣な表情で深々とお辞儀をした。
その振る舞いに、ケンは思わず吹き出すように微笑む。
その笑顔に気づいたチカだったが、あえて何も言わなかった。
“やっと笑ってくれた”
その一言を口に出してしまったら、今にも涙が溢れてしまいそうだったから。
「七井橋の向こう側、行ってみよう!」
そう言って、はしゃぐようにケンの手を引く。
溢れそうになる感情をごまかすように――。
七井橋の入口で、ケンが思わず感嘆の声を漏らした。
「すごい……!」
チカがケンの表情を見上げると、そこには少年のように目を輝かせた姿があった。
その視線の先に目を向けると、井の頭池一面に桜の花びらがびっしりと浮かび、水面を淡い桜色に染めていた。
「わあ……桜色の池だ」
風に舞った無数の花びらが、まるで絨毯のように水面を覆い、ゆっくりと花筏となって流れていく。
ふたりはしばらくその幻想的な光景に見惚れていた。
すると、ケンがふと微笑んで口を開く。
「ニューヨークにいた頃、ジェシカは人以外にもメイクをしてたんだ」
「人以外に?」
「絵や車、小物なら食器や花にも……何にでも“個性”があるって彼女は言ってた」
「メイクって、人にするだけのものじゃないんだね」
「そう。この池だってそうだ。桜色に染まったのは、春が施した“メイク”だよ」
その言葉を聞いた瞬間、チカの胸に静かな感動が満ちていく。
やっぱり、あなたは他の誰とも違う――
独自の視点と感性を持っている人。
美容という同じ世界に生きる者として、尊敬しながらも、少しだけ羨ましく思う。
「いつか俺も、人以外にメイクしてみたいな」
そう言って、空を見上げるケンの横顔を、チカはそっと見つめる。
チカは目を閉じ、数年先のあなたを思い描く。
人や物にメイクを施し、たくさんの幸せを生み出す姿を――。
その隣に、私はいられるだろうか?
ふとした瞬間に湧き上がるそんな不安に、チカは自分でも戸惑う。
花嵐に吹かれて桜が舞う。
その風は美しいと同時に、なぜか心の奥から少しずつ強さを奪っていく。
切ないほどに、桜の季節は短い。
けれど、これほどまでに美しい記憶を残してくれる。
だからこそ、私は思う。
この記憶が、悲しいものにならないように。
この美しさが、後悔に変わってしまわぬように。
――もう少しだけ強くなろう。
強く、美しく、桜のように。
この桜色の浮き橋は、きっと春がくれた、私たちへの贈り物。
きっと、ふたりの宝物になるから――。
実家へ戻ると、ケンはクローゼットを開け、何かを探すように懸命に手を伸ばしていた。
そして、ついに見つけ出した――
古びた1冊のアルバム。
ページをめくる指先が止まったのは、ある1枚の写真の前だった。
そこには、満開の桜を背景に、優しく微笑むおばあちゃんと、少し不機嫌そうな幼いケンが並んで写っていた。
場所は、井の頭公園。
おばあちゃんの笑顔が、春の日差しのように暖かく輝いている。
「子どもの頃、カメラ向けられるといつもこんな顔してたっけ……。もう……繋がりを持つ人はいないんだな……」
ケンがぽつりと呟いた次の瞬間、瞳から零れたひとしずくが、アルバムのページを濡らした。
チカはその涙に気づいたが、あえて視線を外した。
その写真を見つめるあなたは、何を思っているの?
悲しみ? 懐かしさ? それとも――
わからない。
でも、少なくとも、わかってあげたいと思った。
「ねえ、どうして目って前に付いてると思う?」
「え? どうして?」
「それはね……やっぱり秘密」
「なんだよ、それ」
チカは小さく笑った。
昔、祖父が言っていた言葉――
“目が前にあるのは、前を向いて進むため”
今なら、その意味が少しだけわかる気がした。
「さて、夕飯作ろっか!」
「俺も手伝うよ」
「いいの。座ってて」
そう言ってチカはキッチンへ向かい、ケンはソファに座ったまま、アルバムを静かにめくり続ける。
優しい微笑みを浮かべながらも、そこにはどこか寂しげな瞳が映っていた。
夕食を終え、時計を見ると日付が変わる頃だった。
「明日から仕事だし、そろそろ寝ようか」
チカとケンは隣り合わせに布団を敷き、電気を消す。
暗闇が部屋を包むと、不思議と10畳の空間が果てしなく広く感じられる。
それは恐れや不安を運んでくることもあれば、自分を少しだけ強くしてくれることもある。
「ねえ……そっち行ってもいい?」
「――おいで」
その言葉を待っていたかのように、チカはそっとケンの布団に入り、彼の胸に身を委ねた。
ケンは、何も言わずに彼女を優しく抱きしめる。
この胸の中――
それは、チカにとって世界で一番安心できる場所だった。
心の奥からじんわりと温かさが広がる。
すると、静かな息遣いの中、ケンの声がそっと響いた。
「ありがとう。ずっとそばにいてくれて」
その言葉と同時に、ケンの腕がチカの体を強く引き寄せる。
その温もりに包まれながら、チカは小さく首を振った。
――そんなこと言わないで。
涙が出ちゃうから。
辛いのも、悲しいのも、泣きたいのも――本当は、あなたの方なのに。
私が泣いたら、あなたが泣けなくなってしまうでしょ?
だから今日だけは、私があなたのために、涙を我慢する番――。
「本当にありがとう」
その声と同時に、ふわりと柔らかな感触がチカの額に触れた。
それがキスだと気づいた瞬間、心臓が跳ねる。
暗闇のおかげで表情は見えないけれど、もし電気をつけたら――
きっと今の私の顔は真っ赤で、恍惚とした色を浮かべているに違いない。
静かに視線を上げると、少しずつ暗闇に目が慣れ、ぼんやりとケンの輪郭が浮かんでくる。
――あなたは今、何を思っているの?
「繋がりを持つ人はいない」
さっき、あなたはそう言った。
たしかに今の私たちを結んでいるのは、繋いだ手と手。
そして、頼りない電波くらい――。
まだ、それほど深く確かなものではないのかもしれない。
でも、人は誰もが“繋がり”を求めて生きている。
ケータイというツールが当たり前のように存在する時代、その中での短いメッセージのやり取りすら“繋がり”と呼ばれてしまう。
けれど、あなたの言う“繋がり”は――
きっと、そんな薄っぺらいものじゃない。
それは“血縁”のこと?
もしそうなら、あなたにはもうそれが残っていないかもしれない。
でも――
血の繋がりがなくたって、人は“絆”を結べる。
時間を重ねて、思い出を分かち合って、互いを理解し、心と心が少しずつ、確かに結ばれていく。
そんな関係を、あなたは“繋がり”と呼んでくれますか?
チカは言葉にはせず、ただ静かにケンの胸に抱かれたまま、その大きくて温かな手を強く握りしめて、そっと目を閉じた。
この手が、いつか心の奥まで届きますように。
翌朝――
ケンはまだ夜が明けきらないうちに、仕事へと出かけていった。
悲しみは、まだ癒えていないはずなのに。
玄関で振り返ったときの笑顔は穏やかで、「行ってきます」と告げた声も、どこまでも優しかった。
それが、チカには少し切なかった。
無理して強がらなくていいんだよ。
涙を隠して笑わなくていいんだよ。
あなたの隣には、私がいる。
あなたの手は、私が握っている。
だから一緒に立とう。
ゆっくりでいい。
少しずつでいい。
私と一緒に、歩いていこう。
ふたりで手を繋いで――
ふたりで、同じ歩幅で。
チカも有給を取り、数日間ケンの実家に泊まりに来ていた。
「井の頭公園に散歩でも行かない?」
チカは、断られることも覚悟の上で誘った。
「天気もいいし、行こうか」
まさかの返答に、チカは一瞬驚いたが、すぐにいつもの柔らかな笑顔で頷いた。
澄み切った青空の下、手をつないで吉祥寺の街を抜け、井の頭公園へと向かう。
公園へ入ると、春風に乗って桜の花びらが舞っていた。
目の前で、ひらひらと零れ落ちてゆく薄紅色の花。
その光景が、どこか切なく胸に染みる。
春の終わり――
それは、私たちに“繋がり”を与えてくれた季節が静かに幕を閉じることを意味しているようで、なおさら、寂しさが込み上げる。
「桜って、咲いてもすぐに散っちゃうから……ちょっと寂しいね」
チカは、儚く舞う花びらを見上げながら呟いた。
「だからこそ美しい。そして、また1年後に咲くのを心待ちにできる」
そう言いながら、ケンは七井橋の入口近くにある自動販売機の前で立ち止まった。
「永遠に在り続けることだけが、“美”じゃないんだよ」
そう言って、振り返ったケンはチカの頬に、そっと温かいミルクティーの缶を押し当てた。
「ありがとう!」
頬をほんのり桜色に染めたチカは、缶のキャップをくるりとひねる。
その瞬間、ふと気づいた。
――どうして、ミルクティーが好きだって知ってるんだろう?
わざわざ伝えた記憶なんて、ないはずなのに。
もしかして……ずっと、見ていてくれてたの?
温泉旅行の車の中、BARで最後に頼んだドリンク、メイクの特訓が終わったあの日も――
この人は、私の何気ない“選択”を、そっと覚えていてくれたのかもしれない。
――でも、そんなこと、恥ずかしすぎてとても聞けないや。
花びらが風に乗って、そっとふたりの肩に降りた。
すると、今度はケンが、舞い散る桜の花びらを見上げた。
「散っては咲き、咲いては散る。それをこの木は、もう100年も繰り返してるんだな」
「100年、ご苦労さまです!」
チカは大きな桜の木を前に、真剣な表情で深々とお辞儀をした。
その振る舞いに、ケンは思わず吹き出すように微笑む。
その笑顔に気づいたチカだったが、あえて何も言わなかった。
“やっと笑ってくれた”
その一言を口に出してしまったら、今にも涙が溢れてしまいそうだったから。
「七井橋の向こう側、行ってみよう!」
そう言って、はしゃぐようにケンの手を引く。
溢れそうになる感情をごまかすように――。
七井橋の入口で、ケンが思わず感嘆の声を漏らした。
「すごい……!」
チカがケンの表情を見上げると、そこには少年のように目を輝かせた姿があった。
その視線の先に目を向けると、井の頭池一面に桜の花びらがびっしりと浮かび、水面を淡い桜色に染めていた。
「わあ……桜色の池だ」
風に舞った無数の花びらが、まるで絨毯のように水面を覆い、ゆっくりと花筏となって流れていく。
ふたりはしばらくその幻想的な光景に見惚れていた。
すると、ケンがふと微笑んで口を開く。
「ニューヨークにいた頃、ジェシカは人以外にもメイクをしてたんだ」
「人以外に?」
「絵や車、小物なら食器や花にも……何にでも“個性”があるって彼女は言ってた」
「メイクって、人にするだけのものじゃないんだね」
「そう。この池だってそうだ。桜色に染まったのは、春が施した“メイク”だよ」
その言葉を聞いた瞬間、チカの胸に静かな感動が満ちていく。
やっぱり、あなたは他の誰とも違う――
独自の視点と感性を持っている人。
美容という同じ世界に生きる者として、尊敬しながらも、少しだけ羨ましく思う。
「いつか俺も、人以外にメイクしてみたいな」
そう言って、空を見上げるケンの横顔を、チカはそっと見つめる。
チカは目を閉じ、数年先のあなたを思い描く。
人や物にメイクを施し、たくさんの幸せを生み出す姿を――。
その隣に、私はいられるだろうか?
ふとした瞬間に湧き上がるそんな不安に、チカは自分でも戸惑う。
花嵐に吹かれて桜が舞う。
その風は美しいと同時に、なぜか心の奥から少しずつ強さを奪っていく。
切ないほどに、桜の季節は短い。
けれど、これほどまでに美しい記憶を残してくれる。
だからこそ、私は思う。
この記憶が、悲しいものにならないように。
この美しさが、後悔に変わってしまわぬように。
――もう少しだけ強くなろう。
強く、美しく、桜のように。
この桜色の浮き橋は、きっと春がくれた、私たちへの贈り物。
きっと、ふたりの宝物になるから――。
実家へ戻ると、ケンはクローゼットを開け、何かを探すように懸命に手を伸ばしていた。
そして、ついに見つけ出した――
古びた1冊のアルバム。
ページをめくる指先が止まったのは、ある1枚の写真の前だった。
そこには、満開の桜を背景に、優しく微笑むおばあちゃんと、少し不機嫌そうな幼いケンが並んで写っていた。
場所は、井の頭公園。
おばあちゃんの笑顔が、春の日差しのように暖かく輝いている。
「子どもの頃、カメラ向けられるといつもこんな顔してたっけ……。もう……繋がりを持つ人はいないんだな……」
ケンがぽつりと呟いた次の瞬間、瞳から零れたひとしずくが、アルバムのページを濡らした。
チカはその涙に気づいたが、あえて視線を外した。
その写真を見つめるあなたは、何を思っているの?
悲しみ? 懐かしさ? それとも――
わからない。
でも、少なくとも、わかってあげたいと思った。
「ねえ、どうして目って前に付いてると思う?」
「え? どうして?」
「それはね……やっぱり秘密」
「なんだよ、それ」
チカは小さく笑った。
昔、祖父が言っていた言葉――
“目が前にあるのは、前を向いて進むため”
今なら、その意味が少しだけわかる気がした。
「さて、夕飯作ろっか!」
「俺も手伝うよ」
「いいの。座ってて」
そう言ってチカはキッチンへ向かい、ケンはソファに座ったまま、アルバムを静かにめくり続ける。
優しい微笑みを浮かべながらも、そこにはどこか寂しげな瞳が映っていた。
夕食を終え、時計を見ると日付が変わる頃だった。
「明日から仕事だし、そろそろ寝ようか」
チカとケンは隣り合わせに布団を敷き、電気を消す。
暗闇が部屋を包むと、不思議と10畳の空間が果てしなく広く感じられる。
それは恐れや不安を運んでくることもあれば、自分を少しだけ強くしてくれることもある。
「ねえ……そっち行ってもいい?」
「――おいで」
その言葉を待っていたかのように、チカはそっとケンの布団に入り、彼の胸に身を委ねた。
ケンは、何も言わずに彼女を優しく抱きしめる。
この胸の中――
それは、チカにとって世界で一番安心できる場所だった。
心の奥からじんわりと温かさが広がる。
すると、静かな息遣いの中、ケンの声がそっと響いた。
「ありがとう。ずっとそばにいてくれて」
その言葉と同時に、ケンの腕がチカの体を強く引き寄せる。
その温もりに包まれながら、チカは小さく首を振った。
――そんなこと言わないで。
涙が出ちゃうから。
辛いのも、悲しいのも、泣きたいのも――本当は、あなたの方なのに。
私が泣いたら、あなたが泣けなくなってしまうでしょ?
だから今日だけは、私があなたのために、涙を我慢する番――。
「本当にありがとう」
その声と同時に、ふわりと柔らかな感触がチカの額に触れた。
それがキスだと気づいた瞬間、心臓が跳ねる。
暗闇のおかげで表情は見えないけれど、もし電気をつけたら――
きっと今の私の顔は真っ赤で、恍惚とした色を浮かべているに違いない。
静かに視線を上げると、少しずつ暗闇に目が慣れ、ぼんやりとケンの輪郭が浮かんでくる。
――あなたは今、何を思っているの?
「繋がりを持つ人はいない」
さっき、あなたはそう言った。
たしかに今の私たちを結んでいるのは、繋いだ手と手。
そして、頼りない電波くらい――。
まだ、それほど深く確かなものではないのかもしれない。
でも、人は誰もが“繋がり”を求めて生きている。
ケータイというツールが当たり前のように存在する時代、その中での短いメッセージのやり取りすら“繋がり”と呼ばれてしまう。
けれど、あなたの言う“繋がり”は――
きっと、そんな薄っぺらいものじゃない。
それは“血縁”のこと?
もしそうなら、あなたにはもうそれが残っていないかもしれない。
でも――
血の繋がりがなくたって、人は“絆”を結べる。
時間を重ねて、思い出を分かち合って、互いを理解し、心と心が少しずつ、確かに結ばれていく。
そんな関係を、あなたは“繋がり”と呼んでくれますか?
チカは言葉にはせず、ただ静かにケンの胸に抱かれたまま、その大きくて温かな手を強く握りしめて、そっと目を閉じた。
この手が、いつか心の奥まで届きますように。
翌朝――
ケンはまだ夜が明けきらないうちに、仕事へと出かけていった。
悲しみは、まだ癒えていないはずなのに。
玄関で振り返ったときの笑顔は穏やかで、「行ってきます」と告げた声も、どこまでも優しかった。
それが、チカには少し切なかった。
無理して強がらなくていいんだよ。
涙を隠して笑わなくていいんだよ。
あなたの隣には、私がいる。
あなたの手は、私が握っている。
だから一緒に立とう。
ゆっくりでいい。
少しずつでいい。
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