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シーズンⅡ-15 刻文夫婦来訪
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お盆の二日前に刻文聖也と塔子夫妻が北部学園を訪ねて来た、いま沙耶香の目の前にいる。
紗耶香の横にはお父様と健将お兄様、そして工藤美枝子理事が座っている。
北部側が提案していた東京に卒業生のUターンのための事務局を共同で置くことはさきほど了解され、いま目の前ではUターンの目玉と東北の未来について議論がおこなわれ、その議論も終盤に差し掛かっている。
「聖也氏が考える目玉はILCでいいんだね」
「はい理事長、その通りです。ちょうど今から二年前の二〇十三年八月にILC立地評議会議は刻文と北部にまたがる北上山地《きたかみさんち》がILC建設候補地に最適との判断を下しています。世界に向けた日本の唯一の候補地が北上山地ですので理数系の人材が飛躍的に東北、とりわけ北部と刻文に集まって来る可能性があります。理数系に限らず卒業生が故郷にUターンしてくるきっかけになれればと考えています」
ILCとは国際リニアコライダーのことだ。
たぶん日本人の誰も知らないというか関心がないって感じなのが現状だと紗耶香は思っている。
紗耶香もよくは知らない。
だが、北部で暮らす人間なら誰もがこの言葉を聞いている、特に小中学生は機会あるごとにクラス単位でILCが理解できる施設に見学に行っていて地域でニュースとして度々取り上げられる、これを学園経営の観点から見ると理数系の人材育成に東北の地が注目されるまたとない贈り物のように見える。
ILCは英語の International Linear Colliderの略だ、リニアとは線形という意味で直線状的なみたいなことを指すらしい、コライダーとは衝突型加速器の意味だという。
広大な花崗岩でできた北上山地の刻文側から北部の半ばまで全長二十キロから五十キロメートルの真っ直ぐな地下トンネルを建設して何をするのかといえば凄いことをするのだと言う、ビックバンをそこで作り出すのだ。
ビックバンを作り出して宇宙の始まりを研究するための施設がILCで、世界にはその施設がスイスのセルンという場所に既に一個あるそうで山手線ぐらいある円形トンネルでずっと前から稼働している、北部の知事をはじめお役人が多数その施設を見学に行っている。
「聖也氏の想いはよくわかった、我々も同じ気持ちでいる。うちが国立陸奥大学と提携したのも理学部の創設を考えているからだが、聖也氏の方は既に学部があるから羨ましい限りだ」
「ぜひ創設して頂きたいです。小中学生の夢の実現のためにも地元に受け皿としての学部は必要です。博士課程を出て大企業の研究所にいる人材のUターンもそれだとしやすくなりますし」
「その時は力を借りるかも知れん、宜しく頼む。ところで九行提携から一年半経つが今の状況を聖也氏はご存知か。東北の未来にとってもあれは気になる提携だった」
二〇十四年一月に提携した九つの地銀の本店所在地は道州制のエリアと重なっている、沖縄の代わりに道州制では一つのエリアになっている中四国から二つの地銀が参加している点が少し違う、お父様は東北から参加した刻文銀行の動向をずっと気になされている、聖也がどこまで知っているのかは紗耶香も気になる。
聖也は「はい」とすぐに応答してきた。
「九行提携が引き金だったと私は見ています。現状では水面下で見えないですがとんでもない動きが出てくるかも知れません。あの九行と道州制を重ね合わせたエリア内で合併の機運が出ています」
「ほぉ、確かな動きなのですか」
「確かです。地銀トップ行があの提携には入っていません、その辺りに動きが出始めていると刻文頭取から聞いています」
「うぅーむ、動きが速いな。そうなると東北州での動きも遠からず出て来ざるを得ないか、考えどころだな。貴重な情報を頂いた、聖也氏の一存で話してよかったのか、少し心配になるが」
「大丈夫です。この場で話した内容が外にさえ出なければ問題はありません。おっしゃる通り東北州内での動きも出てくると思われます。いま、私が気になるのは先月交代した新しい金融庁長官の出方です」
「ほうぅ。聖也氏と話してると巨大私学グループを作り上げた理事長というより新進気鋭のバンカーというイメージの方が強くなる、儂だけの感想なのか。健将はどう思う?」
「私も同じ思いで聞いていました。恥ずかしながら先月交代した金融庁長官がどんな考えを持っているのか、どんな経歴なのか、まったく知りません」
お父様もお兄様も聖也を認めている、その上で聖也から教えを乞うことにこの二人はプライドが邪魔していない、これが北部宗家の強さだと紗耶香は感じた。
女の自分には到底できない芸当だ、ふと聖也の隣にいる塔子を見たが勝ち誇ったようにも見えないし鼻が高くなっている様子もない、そういえば聖也もそうだった、実に実直に受け答えしていて清々しいくらいだ、昔の聖也とはまったく違い大きく成長している。
紗耶香は自分だけがプライドの衣を脱ぎ捨てることが出来ずにいることを悟り、顔から火が出るほど恥ずかしいと感じた。
紗耶香はグッと堪えた。
いつもならここで表情に出てしまっていたかも知れない。
今までの自分とは違う自分になる、ポーカーフェイスを身に付けなければ京香との一歩を踏み出すことができない。
そんなことを考えていたら聖也が健将お兄様に「実は」と応えてきた。
「先月就任した林原邦夫《はやしばらくにお》新長官は銀行取引先に訪問をして取引銀行が役立っているかいないかをヒアリングするように金融庁職員に命じたそうです」
「それって普通じゃないかな、違うのか」
お父様の反応は紗耶香にも当然のように思えた。
「はい、通常は銀行に検査に入り、検査中に取引先企業に訪問することもあるようです」
「逆ということか」
「いや、そこまでは分かりません。伝わってきているのは顧客本位という言葉です。フィディーなんとかって難しい言葉らしいですが。これからの時代は顧客本位じゃない銀行は生き残る資格がないみたいな考えのようで、なんと、顧客本位のモデル銀行の名前もまだ一ヵ月も経ってないのに出てるそうです。なにかが起きてると思いませんか」
「うぅーん、よくは分からんが銀行業界には嵐がきそうだな」
「今から三ヵ月後、十一月に新長官が地方でやる国内初の講演会があります。選んだ場所は北部にある市です」
「どこなんだ、知っていたら教えてくれんか」
聖也から聞いた市は紗耶香にはピンとこなかった、なんであの市でするんだろう。
お父様やお兄様を見ても紗耶香と同じらしい。
「あの市の税務署長を旧大蔵省に入ってまだ若い頃に林原長官がしていたんだそうです。長官がニューヨーク駐在だった時もあの市の法人会はアメリカまでツアーを組んで行ってます。長官まで上り詰めたキャリア官僚がどの場所で凱旋講演をやるかでキャリア自身の人柄が測られる変な仕組みがこの国の官僚制度にはあるようです、講演会が終われば切れ者というイメージが強い林原長官に庶民的な面があると評判が立つはずです、経済誌がそう書くからです。いま、水面下で一番盛り上がっているのは講演場所に決まったあの市です」
北部のことなのに北部宗家の人間も知らない事実をサクッと伝えて来る聖也を紗耶香は呆然として見つめていた、見つめるしかできない。
お父様はどう感じられたのだろう。
一区切りついたところで、「京香も待っている」というお父様の一声で自宅に移動することになった。
****
内輪だけでの食事会なので学園を出る時に工藤美枝子理事は「失礼します」と言ってきたが、お父様の御命令で一緒に行くことになり、今は紗耶香の隣にいる。
この場には同年代の二組がいると紗耶香はふと思った。
健将お兄様と京香、そして聖也は二十九歳で同い年だし塔子は三十二歳、紗耶香の二十七歳も同年代に入るだろう。
もう一組は、五十八歳のお父様と五十三歳の工藤理事の二人だ。
女学院時代の工藤先生を知っている塔子にはこの場にいる先生がどう映っているのだろうか、あの豊満な姿ではない、変貌を遂げている、全体的には年齢よりも若く見える、塔子から見ればお父様の愛人だとでも思っていてもおかしくはない。
紗耶香が強く推して工藤先生を健将お兄様の片腕に選んだとは思いもしないだろう、そう思うと何だか痛快な気分になる、せいぜい下衆の勘繰りをしていればいい、笑える、表情には出さない。
「さあ乾杯しよう。聖也君もそうだが、こうして塔子さんと向き合って杯を交わす日が来るとは、なんと感慨深いことだろう。京香という嫁を迎えることができたからだ。架け橋になってくれた京香と、ここに居る全員の未来のために乾杯しよう。カンパイっ!」
お父様の発声で乾杯し、食事を始めたが難しい話は皆が避けているので出てこない。
食事が済み、男連中はお父様の書斎の方で一杯やると言って連れ立って動いたので女連中は京香が暮らす離れの方に移動した、塔子が行きたがったからだ。
オードブルを前にそれぞれが好きな飲み物を手に持った、焼酎やワイン、ウイスキーもあったが全員がビールグラスを持っている。
乾杯の後で誰が口火を切るのか見ていたが、紗耶香だけでなく京香も工藤理事も塔子が話し出すのを待っているのが見て取れる。
「女学院時代はお世話になりました。工藤先生が今では学園で次期理事長の片腕ですのね、夕食の席にも呼ばれるなんて信頼されている証です。東北六家にデビューされたのは確か数年前の井汲温泉だと聖也から聞いています」
意外だった、てっきり京香の話を振って来るとばかり思っていたのだが。
「塔子さん、お世話だなんて。はい、二〇〇八年の五月でした、確かにあの日に東北六家の学園会合があり健将様から皆さまに紹介して頂きました」
「そのすぐ後で、工藤理事のお嬢様、確か有佳さんだったと思いますけど、みつつ証券に口座開設にいらしたのです、私が担当しました」
「えっ、そんなことがあったのですか、知りませんでした。お金もないのに、娘がご迷惑かけませんでしたか」
京香から聞いていた話だ。
工藤先生も知らなかったんだ、有佳は紗耶香にも先生にも内緒で塔子に会いに行ったんだと分かった。
「有佳さんは実に聡明な女性で、世界情勢も含めて市況の知識の豊富さにこちらが驚かされました。実は、女学院の先輩として有佳さんを担当するよう命じられたのです。支店長の奥様と同じ看護師だそうでなにやら親しい関係にあると宮藤支店長から聞かされています」
塔子の言い方にはどことなく棘がある、「なにやら」などと言う言葉が使われるような話を自分の部下にするものだろうか、しないはずだ。
「あっ、そういうことでしたか。はい、当時は家族ぐるみで親しくさせて頂いておりました。北部に異動されて来た時に宮藤さんの上のお嬢様の担任に私がなったのがきっかけです」
嫌な顔をしてもいいはずなのに工藤理事はそんな顔を見せない、大人の対応をしている。
「支店長は奥様から私を担当につけるよう有佳さんから頼まれたと話されました。有佳さんって、よっぽど支店長の奥様と仲がいいんだなと思ってました」
塔子は有佳がレズビアンなのを知っていてこんな言い方をしている、工藤先生も有佳の性癖はあのトラブルがあるので当然知っている、まさか宮藤涼子の母親と有佳にそういう関係があるんだろうか、それを塔子が知っていてこんな言い方をしているのか、いや、さすがにそれは考えすぎだろう。
「あっ、それはうちの息子のせいです。ディキャンプで偶然に宮藤さん一家とお会いした時に看護学生だった娘の有佳と宮藤さんが看護師なのが分かって息子が色々教えてもらうようお願いしたからです」
「そうでしたか、ようやくスッキリした感じです。そう言えば、宮藤支店長とは先月お会いしました。今は刻文支店長です、工藤理事はご存知でしたか」
「はい。今年から支店長の上のお嬢さんが北部学園に勤めています関係で刻文支店長だと言うのは知っていました」
「そうだったんですか、世の中って狭いですね。有佳さんと支店長の奥様が親しくて、支店長の娘さんが北部学園勤務で工藤理事の下《もと》にいるなんて」
言われてみればそうだが、塔子が関心を持つ意味が分からない。
紗耶香は宮藤家のことは何も知らない、だが宮藤涼子が縁故で学園に入れたのは学園の事情で採用活動の終盤近くになって採用枠を一人増やしたからだ、ほぼ偶然に近い、北部銀行の森下常務に依頼したのは北部銀行顧問の菊池氏だと聞いている、みつつ証券の宮藤支店長に頼まれたと言うより菊池顧問が心配して動いたのが正直なところなのも分かっている。
「塔子さんのおっしゃる通り、確かに世間は狭いですね。お嬢さん、涼子さんという方ですが真っ直ぐな性格の方で今は北部駅そばの分室に勤務されてます」
工藤理事の受け答えは淡々としている、塔子の会話に乗ると言うより否定しないで受け流している感じにも見える、但し、塔子に対して相当な気を遣っている雰囲気はありありだったが。
「北部学園の分室は有名ですね。私もこの数年間、学園経営を聖也のお父様から学んでいますので噂はかねがね聞いています。学園経営についてこの際ですので紗耶香さんのお考えを是非お聞かせ頂きたいです」
いきなり、こっちに振られ傍聴席にいたはずの紗耶香は答えに窮した。
まずい、なにか発言しないといけない。
「私など大した考えを持っているわけでもありませんが、あの分室は活気があります。今では学園本部の職員と分室職員がタッグを組んで休日対応をするまでになっていて、ぜんぶ現場からの提案で本部が動いているという構図です」
「分室の室長が優秀なんでしょうね。一度お会いして、じっくりお話を伺いたいと思いますが実現可能でしょうか、紗耶香さん」
「はい、大丈夫です。塔子さんの都合のよろしい時に連絡頂ければ時間を空けさせます。随分と学園経営に熱心のようですが、塔子さんは以前から興味を持たれていたのですか」
「ぜんぜん。わたし、学校嫌いでしたもの」
そこに居る全員がさすがに笑った。
「聖也の頼みなのでやってます。私に刻文学園を経営できる能力を身に付けさせるのが聖也の望みです」
「それは凄いっ、信頼感がお二人にはあるんですね。巨大私学をご夫婦で経営していくなんて考えたこともありませんでした」
「紗耶香さん、そこは少し違います。聖也が抜けても大丈夫なレベルを求められています」
「えっ」
紗耶香だけではない、工藤理事も京香も心底驚いた顔を見せている。
「北部理事長がおっしゃった聖也が新進気鋭のバンカーに見えると言うのは、あながち間違っているわけではありません、実に的を得ています。この数年で聖也も銀行業務を学んでいます。これから先のことは分かりませんが聖也は求められれば銀行の世界に行く準備は出来ています」
「驚きました。塔子さんが真剣なのもよく分かりました。私どもでよければ協力させてもらいます」
素直な気持ちで紗耶香は言った、本当に凄いことを刻文塔子は任せられようとしている。
「ありがとうございます。北部では私の代わりに中野の者で本田真琴という女性が動きます、接触はこの本田にさせたいのですがどちらと接触させればよろしいでしょうか」
工藤理事が「はい」とすかさず返答。
「それなら私が。私が窓口になります。紗耶香さんそれでよろしいですか」
「塔子さんさえよろしければ工藤理事だと安心して任せられます。機会を見て私も一緒にお会いするかも知れません」
「それでいいです。ありがとうございます」
****
凄い一日だったと紗耶香はつくづく感じた。
聖也と塔子夫妻を見送ったあと居間に集まった面々は、男連中と女連中に別れていた間の情報交換をすぐさまおこなったが聖也のほうの話もだいたい塔子と同じだったようだ。
京香は既に離れに戻っており、ここに居るのはお父様と健将お兄様、紗耶香と工藤理事の四人だ。
「さすが刻文宗家の情報量はたいしたもんだ。儂は少し遠慮していたかも知れん。これからは右竹家と綿密な連絡を取り合う、右竹の情報網を活用させてもらう。幸い薫がこっちに居るので連絡も取りやすい。工藤理事はさらに忙しくなるが頼むぞ」
「はい」
「ところで、あの二人だが、信じがたいほど相性がいいのかも知れん。みんなはどう思う?」
聖也と塔子のことだとすぐに分かった。
お兄様が「思うには」と言った後で「天国と地獄を一緒に見たからではないかと思います」と、お兄様にしては珍しく断定してきた。
その場の全員が、あの二人の結婚と大震災、そして中野家存亡の危機を思い描いたと紗耶香は思った、確かにお兄様の言う通りだと思う。
「敵に回せばあれほど手強い相手もいない、それが二人もいるとなると儂は恐ろしい。それが分かっただけでも今日はよかった」
お父様の締めの言葉が重くのしかかる、だが、言葉とは裏腹にお父様の目には覇気がある。
どんな事態が襲ってきても逃げ出すことができない宿命を背負っている宗家の長であること、紗耶香もそこの人間であることをお父様は示してくれていると思った。
逃げることなど出来ないのだ。
紗耶香の横にはお父様と健将お兄様、そして工藤美枝子理事が座っている。
北部側が提案していた東京に卒業生のUターンのための事務局を共同で置くことはさきほど了解され、いま目の前ではUターンの目玉と東北の未来について議論がおこなわれ、その議論も終盤に差し掛かっている。
「聖也氏が考える目玉はILCでいいんだね」
「はい理事長、その通りです。ちょうど今から二年前の二〇十三年八月にILC立地評議会議は刻文と北部にまたがる北上山地《きたかみさんち》がILC建設候補地に最適との判断を下しています。世界に向けた日本の唯一の候補地が北上山地ですので理数系の人材が飛躍的に東北、とりわけ北部と刻文に集まって来る可能性があります。理数系に限らず卒業生が故郷にUターンしてくるきっかけになれればと考えています」
ILCとは国際リニアコライダーのことだ。
たぶん日本人の誰も知らないというか関心がないって感じなのが現状だと紗耶香は思っている。
紗耶香もよくは知らない。
だが、北部で暮らす人間なら誰もがこの言葉を聞いている、特に小中学生は機会あるごとにクラス単位でILCが理解できる施設に見学に行っていて地域でニュースとして度々取り上げられる、これを学園経営の観点から見ると理数系の人材育成に東北の地が注目されるまたとない贈り物のように見える。
ILCは英語の International Linear Colliderの略だ、リニアとは線形という意味で直線状的なみたいなことを指すらしい、コライダーとは衝突型加速器の意味だという。
広大な花崗岩でできた北上山地の刻文側から北部の半ばまで全長二十キロから五十キロメートルの真っ直ぐな地下トンネルを建設して何をするのかといえば凄いことをするのだと言う、ビックバンをそこで作り出すのだ。
ビックバンを作り出して宇宙の始まりを研究するための施設がILCで、世界にはその施設がスイスのセルンという場所に既に一個あるそうで山手線ぐらいある円形トンネルでずっと前から稼働している、北部の知事をはじめお役人が多数その施設を見学に行っている。
「聖也氏の想いはよくわかった、我々も同じ気持ちでいる。うちが国立陸奥大学と提携したのも理学部の創設を考えているからだが、聖也氏の方は既に学部があるから羨ましい限りだ」
「ぜひ創設して頂きたいです。小中学生の夢の実現のためにも地元に受け皿としての学部は必要です。博士課程を出て大企業の研究所にいる人材のUターンもそれだとしやすくなりますし」
「その時は力を借りるかも知れん、宜しく頼む。ところで九行提携から一年半経つが今の状況を聖也氏はご存知か。東北の未来にとってもあれは気になる提携だった」
二〇十四年一月に提携した九つの地銀の本店所在地は道州制のエリアと重なっている、沖縄の代わりに道州制では一つのエリアになっている中四国から二つの地銀が参加している点が少し違う、お父様は東北から参加した刻文銀行の動向をずっと気になされている、聖也がどこまで知っているのかは紗耶香も気になる。
聖也は「はい」とすぐに応答してきた。
「九行提携が引き金だったと私は見ています。現状では水面下で見えないですがとんでもない動きが出てくるかも知れません。あの九行と道州制を重ね合わせたエリア内で合併の機運が出ています」
「ほぉ、確かな動きなのですか」
「確かです。地銀トップ行があの提携には入っていません、その辺りに動きが出始めていると刻文頭取から聞いています」
「うぅーむ、動きが速いな。そうなると東北州での動きも遠からず出て来ざるを得ないか、考えどころだな。貴重な情報を頂いた、聖也氏の一存で話してよかったのか、少し心配になるが」
「大丈夫です。この場で話した内容が外にさえ出なければ問題はありません。おっしゃる通り東北州内での動きも出てくると思われます。いま、私が気になるのは先月交代した新しい金融庁長官の出方です」
「ほうぅ。聖也氏と話してると巨大私学グループを作り上げた理事長というより新進気鋭のバンカーというイメージの方が強くなる、儂だけの感想なのか。健将はどう思う?」
「私も同じ思いで聞いていました。恥ずかしながら先月交代した金融庁長官がどんな考えを持っているのか、どんな経歴なのか、まったく知りません」
お父様もお兄様も聖也を認めている、その上で聖也から教えを乞うことにこの二人はプライドが邪魔していない、これが北部宗家の強さだと紗耶香は感じた。
女の自分には到底できない芸当だ、ふと聖也の隣にいる塔子を見たが勝ち誇ったようにも見えないし鼻が高くなっている様子もない、そういえば聖也もそうだった、実に実直に受け答えしていて清々しいくらいだ、昔の聖也とはまったく違い大きく成長している。
紗耶香は自分だけがプライドの衣を脱ぎ捨てることが出来ずにいることを悟り、顔から火が出るほど恥ずかしいと感じた。
紗耶香はグッと堪えた。
いつもならここで表情に出てしまっていたかも知れない。
今までの自分とは違う自分になる、ポーカーフェイスを身に付けなければ京香との一歩を踏み出すことができない。
そんなことを考えていたら聖也が健将お兄様に「実は」と応えてきた。
「先月就任した林原邦夫《はやしばらくにお》新長官は銀行取引先に訪問をして取引銀行が役立っているかいないかをヒアリングするように金融庁職員に命じたそうです」
「それって普通じゃないかな、違うのか」
お父様の反応は紗耶香にも当然のように思えた。
「はい、通常は銀行に検査に入り、検査中に取引先企業に訪問することもあるようです」
「逆ということか」
「いや、そこまでは分かりません。伝わってきているのは顧客本位という言葉です。フィディーなんとかって難しい言葉らしいですが。これからの時代は顧客本位じゃない銀行は生き残る資格がないみたいな考えのようで、なんと、顧客本位のモデル銀行の名前もまだ一ヵ月も経ってないのに出てるそうです。なにかが起きてると思いませんか」
「うぅーん、よくは分からんが銀行業界には嵐がきそうだな」
「今から三ヵ月後、十一月に新長官が地方でやる国内初の講演会があります。選んだ場所は北部にある市です」
「どこなんだ、知っていたら教えてくれんか」
聖也から聞いた市は紗耶香にはピンとこなかった、なんであの市でするんだろう。
お父様やお兄様を見ても紗耶香と同じらしい。
「あの市の税務署長を旧大蔵省に入ってまだ若い頃に林原長官がしていたんだそうです。長官がニューヨーク駐在だった時もあの市の法人会はアメリカまでツアーを組んで行ってます。長官まで上り詰めたキャリア官僚がどの場所で凱旋講演をやるかでキャリア自身の人柄が測られる変な仕組みがこの国の官僚制度にはあるようです、講演会が終われば切れ者というイメージが強い林原長官に庶民的な面があると評判が立つはずです、経済誌がそう書くからです。いま、水面下で一番盛り上がっているのは講演場所に決まったあの市です」
北部のことなのに北部宗家の人間も知らない事実をサクッと伝えて来る聖也を紗耶香は呆然として見つめていた、見つめるしかできない。
お父様はどう感じられたのだろう。
一区切りついたところで、「京香も待っている」というお父様の一声で自宅に移動することになった。
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内輪だけでの食事会なので学園を出る時に工藤美枝子理事は「失礼します」と言ってきたが、お父様の御命令で一緒に行くことになり、今は紗耶香の隣にいる。
この場には同年代の二組がいると紗耶香はふと思った。
健将お兄様と京香、そして聖也は二十九歳で同い年だし塔子は三十二歳、紗耶香の二十七歳も同年代に入るだろう。
もう一組は、五十八歳のお父様と五十三歳の工藤理事の二人だ。
女学院時代の工藤先生を知っている塔子にはこの場にいる先生がどう映っているのだろうか、あの豊満な姿ではない、変貌を遂げている、全体的には年齢よりも若く見える、塔子から見ればお父様の愛人だとでも思っていてもおかしくはない。
紗耶香が強く推して工藤先生を健将お兄様の片腕に選んだとは思いもしないだろう、そう思うと何だか痛快な気分になる、せいぜい下衆の勘繰りをしていればいい、笑える、表情には出さない。
「さあ乾杯しよう。聖也君もそうだが、こうして塔子さんと向き合って杯を交わす日が来るとは、なんと感慨深いことだろう。京香という嫁を迎えることができたからだ。架け橋になってくれた京香と、ここに居る全員の未来のために乾杯しよう。カンパイっ!」
お父様の発声で乾杯し、食事を始めたが難しい話は皆が避けているので出てこない。
食事が済み、男連中はお父様の書斎の方で一杯やると言って連れ立って動いたので女連中は京香が暮らす離れの方に移動した、塔子が行きたがったからだ。
オードブルを前にそれぞれが好きな飲み物を手に持った、焼酎やワイン、ウイスキーもあったが全員がビールグラスを持っている。
乾杯の後で誰が口火を切るのか見ていたが、紗耶香だけでなく京香も工藤理事も塔子が話し出すのを待っているのが見て取れる。
「女学院時代はお世話になりました。工藤先生が今では学園で次期理事長の片腕ですのね、夕食の席にも呼ばれるなんて信頼されている証です。東北六家にデビューされたのは確か数年前の井汲温泉だと聖也から聞いています」
意外だった、てっきり京香の話を振って来るとばかり思っていたのだが。
「塔子さん、お世話だなんて。はい、二〇〇八年の五月でした、確かにあの日に東北六家の学園会合があり健将様から皆さまに紹介して頂きました」
「そのすぐ後で、工藤理事のお嬢様、確か有佳さんだったと思いますけど、みつつ証券に口座開設にいらしたのです、私が担当しました」
「えっ、そんなことがあったのですか、知りませんでした。お金もないのに、娘がご迷惑かけませんでしたか」
京香から聞いていた話だ。
工藤先生も知らなかったんだ、有佳は紗耶香にも先生にも内緒で塔子に会いに行ったんだと分かった。
「有佳さんは実に聡明な女性で、世界情勢も含めて市況の知識の豊富さにこちらが驚かされました。実は、女学院の先輩として有佳さんを担当するよう命じられたのです。支店長の奥様と同じ看護師だそうでなにやら親しい関係にあると宮藤支店長から聞かされています」
塔子の言い方にはどことなく棘がある、「なにやら」などと言う言葉が使われるような話を自分の部下にするものだろうか、しないはずだ。
「あっ、そういうことでしたか。はい、当時は家族ぐるみで親しくさせて頂いておりました。北部に異動されて来た時に宮藤さんの上のお嬢様の担任に私がなったのがきっかけです」
嫌な顔をしてもいいはずなのに工藤理事はそんな顔を見せない、大人の対応をしている。
「支店長は奥様から私を担当につけるよう有佳さんから頼まれたと話されました。有佳さんって、よっぽど支店長の奥様と仲がいいんだなと思ってました」
塔子は有佳がレズビアンなのを知っていてこんな言い方をしている、工藤先生も有佳の性癖はあのトラブルがあるので当然知っている、まさか宮藤涼子の母親と有佳にそういう関係があるんだろうか、それを塔子が知っていてこんな言い方をしているのか、いや、さすがにそれは考えすぎだろう。
「あっ、それはうちの息子のせいです。ディキャンプで偶然に宮藤さん一家とお会いした時に看護学生だった娘の有佳と宮藤さんが看護師なのが分かって息子が色々教えてもらうようお願いしたからです」
「そうでしたか、ようやくスッキリした感じです。そう言えば、宮藤支店長とは先月お会いしました。今は刻文支店長です、工藤理事はご存知でしたか」
「はい。今年から支店長の上のお嬢さんが北部学園に勤めています関係で刻文支店長だと言うのは知っていました」
「そうだったんですか、世の中って狭いですね。有佳さんと支店長の奥様が親しくて、支店長の娘さんが北部学園勤務で工藤理事の下《もと》にいるなんて」
言われてみればそうだが、塔子が関心を持つ意味が分からない。
紗耶香は宮藤家のことは何も知らない、だが宮藤涼子が縁故で学園に入れたのは学園の事情で採用活動の終盤近くになって採用枠を一人増やしたからだ、ほぼ偶然に近い、北部銀行の森下常務に依頼したのは北部銀行顧問の菊池氏だと聞いている、みつつ証券の宮藤支店長に頼まれたと言うより菊池顧問が心配して動いたのが正直なところなのも分かっている。
「塔子さんのおっしゃる通り、確かに世間は狭いですね。お嬢さん、涼子さんという方ですが真っ直ぐな性格の方で今は北部駅そばの分室に勤務されてます」
工藤理事の受け答えは淡々としている、塔子の会話に乗ると言うより否定しないで受け流している感じにも見える、但し、塔子に対して相当な気を遣っている雰囲気はありありだったが。
「北部学園の分室は有名ですね。私もこの数年間、学園経営を聖也のお父様から学んでいますので噂はかねがね聞いています。学園経営についてこの際ですので紗耶香さんのお考えを是非お聞かせ頂きたいです」
いきなり、こっちに振られ傍聴席にいたはずの紗耶香は答えに窮した。
まずい、なにか発言しないといけない。
「私など大した考えを持っているわけでもありませんが、あの分室は活気があります。今では学園本部の職員と分室職員がタッグを組んで休日対応をするまでになっていて、ぜんぶ現場からの提案で本部が動いているという構図です」
「分室の室長が優秀なんでしょうね。一度お会いして、じっくりお話を伺いたいと思いますが実現可能でしょうか、紗耶香さん」
「はい、大丈夫です。塔子さんの都合のよろしい時に連絡頂ければ時間を空けさせます。随分と学園経営に熱心のようですが、塔子さんは以前から興味を持たれていたのですか」
「ぜんぜん。わたし、学校嫌いでしたもの」
そこに居る全員がさすがに笑った。
「聖也の頼みなのでやってます。私に刻文学園を経営できる能力を身に付けさせるのが聖也の望みです」
「それは凄いっ、信頼感がお二人にはあるんですね。巨大私学をご夫婦で経営していくなんて考えたこともありませんでした」
「紗耶香さん、そこは少し違います。聖也が抜けても大丈夫なレベルを求められています」
「えっ」
紗耶香だけではない、工藤理事も京香も心底驚いた顔を見せている。
「北部理事長がおっしゃった聖也が新進気鋭のバンカーに見えると言うのは、あながち間違っているわけではありません、実に的を得ています。この数年で聖也も銀行業務を学んでいます。これから先のことは分かりませんが聖也は求められれば銀行の世界に行く準備は出来ています」
「驚きました。塔子さんが真剣なのもよく分かりました。私どもでよければ協力させてもらいます」
素直な気持ちで紗耶香は言った、本当に凄いことを刻文塔子は任せられようとしている。
「ありがとうございます。北部では私の代わりに中野の者で本田真琴という女性が動きます、接触はこの本田にさせたいのですがどちらと接触させればよろしいでしょうか」
工藤理事が「はい」とすかさず返答。
「それなら私が。私が窓口になります。紗耶香さんそれでよろしいですか」
「塔子さんさえよろしければ工藤理事だと安心して任せられます。機会を見て私も一緒にお会いするかも知れません」
「それでいいです。ありがとうございます」
****
凄い一日だったと紗耶香はつくづく感じた。
聖也と塔子夫妻を見送ったあと居間に集まった面々は、男連中と女連中に別れていた間の情報交換をすぐさまおこなったが聖也のほうの話もだいたい塔子と同じだったようだ。
京香は既に離れに戻っており、ここに居るのはお父様と健将お兄様、紗耶香と工藤理事の四人だ。
「さすが刻文宗家の情報量はたいしたもんだ。儂は少し遠慮していたかも知れん。これからは右竹家と綿密な連絡を取り合う、右竹の情報網を活用させてもらう。幸い薫がこっちに居るので連絡も取りやすい。工藤理事はさらに忙しくなるが頼むぞ」
「はい」
「ところで、あの二人だが、信じがたいほど相性がいいのかも知れん。みんなはどう思う?」
聖也と塔子のことだとすぐに分かった。
お兄様が「思うには」と言った後で「天国と地獄を一緒に見たからではないかと思います」と、お兄様にしては珍しく断定してきた。
その場の全員が、あの二人の結婚と大震災、そして中野家存亡の危機を思い描いたと紗耶香は思った、確かにお兄様の言う通りだと思う。
「敵に回せばあれほど手強い相手もいない、それが二人もいるとなると儂は恐ろしい。それが分かっただけでも今日はよかった」
お父様の締めの言葉が重くのしかかる、だが、言葉とは裏腹にお父様の目には覇気がある。
どんな事態が襲ってきても逃げ出すことができない宿命を背負っている宗家の長であること、紗耶香もそこの人間であることをお父様は示してくれていると思った。
逃げることなど出来ないのだ。
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