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シーズンⅠ-32 覚悟

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 その日から、君子は迷い続けた。

 どうしても一歩を踏み出せない。

 寝ても覚めてもご褒美を頂いた時にかけられた蔑みの言葉が頭から離れない。

 迷いは二つあった。

 有佳がいま付き合っている人に対して申し訳ないというのが一つ。

 もうひとつは、工藤先生に知られたくないということ。

 この二つの迷いから抜け出せない。

 工藤先生に知られるのだけはどうしても避けたい。

 もし知られれば絶対に工藤先生に軽蔑されることは間違いない。

 この春までは涼子の担任だった、考えただけで耐えられない。

 二ヵ月間があっという間に過ぎたが、迷い続けたまま過ごすだけで、結論はとうてい出そうにない。

 迷宮に入り込んでいる。

 夏真っ盛りの八月中旬、変化が起きた。

 聞かされた時は耳を疑ったが、耕三さんが転勤になったのだ。

 着任してまだ一年半なのに。

 今度の異動先は東京本社人事部というところだった。

「まさかと思ったが、きょう人事部長から電話が入ったんだ、異動の内示だった。人事部長からは俺の部下として来てもらう、宜しく頼むと言われた」

「わざわざ人事部長さんが電話してくれたんだったら、きっと期待されてるってことだと思うけど」

「みつつの人事異動は、支店長が動くときだけ人事部長から連絡が入るんで、期待とは少し違うかもね。本社はじめてだから、緊張しちゃうな」

 耕三さんは緊張などまずしないと思う、新しい環境に慣れるのも早い、心配は単身赴任が初めてということ。

 私と娘二人が居ない生活なんてできるのかしら、いざとなってみると不安が先に立つ。

 新しいマンションに移ってまだ八ヵ月しか経ってないのに。

 いままでに何度も話し合いをしていたので、耕三さんは計画通りに動くと言ってる。

 東京と北部市だから新幹線で帰れる、時間にして二時間ちょっとだ。

 単身赴任は初めてだがそんなに心配していないそうだ。

 異動先が東京でよかった点が一つだけあった。

 朝美がいくつか頂いた中からこの六月にアニメに強いと評判の事務所と契約を交わしていたからだ、まだ小学生なので仕事は段階を追って少しずつやることにお願いしてあったが東京での宿泊先に耕三さんが借りるマンションを使えるのは有難いし何と言っても安心だった、家族全員がこの一点ではホッとしている。

 単身赴任が決定的になり、君子の中でなにかが動いた。

 背中を押されたと勝手に解釈してる。

 なんのことはない、限界がきていただけなのかも知れない。

 きっかけが欲しかっただけだ。

 家族会議で耕三さんの単身赴任が確定した日に君子は決断し、翌日の昼に有佳にメールを送った。

 迷ったが、よろしくお願いします、だけにした。

 夜になっても、有佳からの返信は来なかった。

 耕三さんは昨日に引き続き今日も飲み会。

 二十三時過ぎに帰宅してお風呂に入ってもうすでにぐっすり眠っている。

 内示を伝え聞いた本社にいる同期から連絡が入り、出世コースにどうやって乗ったんだ教えろと言われたそうで、僕照れちゃうとか言ってた。

 耕三さんが、僕と言う時はそうとう酔っているときなのは知っている。

 眠れない。

 目が冴えてしまい眠れそうにない。

 昼にメールを送った時からの少なからぬ興奮状態が続いている。

 どんな返事が有佳から来るのかばかり考えているが、今日もそうだが明日も返信が来ないかも知れないと思うと不安になってしまう。

 耕三さんに背を向け手元に携帯を置いていた。

 着信音もバイブ機能も切って、ただ画面を見つめている。

 そんな状態がもう一時間以上も続いている。

 ・・・画面が光り始めメールが届いたことを知らせてきた。

 携帯電話の画面は午前零時五十七分を表示している。

 有佳からだった。

「それだけ? ご挨拶は。できるよね?」

 これに返信した瞬間に、今までの看護師としての先輩後輩の関係が終わる。

 十六歳も年下のご主人様に一晩中お仕えすることを選択すると思うだけで、心が震える。

 踏み台への御褒美を頂いた時に有佳が投げつけてきた言葉『そう、その顔よ。なんて情けないの』がまさに君子だった。

 有佳に蔑まれ、蹂躙される。

 文香さんに火をつけて頂いた場所を、有佳に間違いなく探り当てられると思うだけで頭の芯が震えて酔いっぱなしになる。

 手が震え腰がどうしようもなく動く。

 そんな状態で一文字ずつ入力していく。

 新しいご主人様にご挨拶をする。

「君子です。返信ありがとうございます。『有佳様。ふつつか者ですが一晩中お使い下さいますようお願いします』。よろしくお願い致します」

 返信はこなかった。


****


 翌日、君子は来月の予定を有佳に問い合わせた。

 昨夜の今日なので戸惑いはしたが、病院の予定表の記入が迫っていた。

 約束の日は九月十六日に決まり、君子はその日と翌日を非番にした。

 君子の勤務先の病院は自分の希望する勤務日にハンコを押して届け出ることになっていた、その後で調整が入り正式に決まる。

 正式に決まった九月の勤務表を病院から手渡された、十六日と十七日は空欄になっている。

 家のキッチンに貼る方には十六日の欄に深夜勤のハンコを押してからコピーした。

 ハンコが一個増えていても違和感はまったくない。

 いつもの月より深夜勤が増えているが、気付くとしても朝美ぐらいなもので、言い訳も考えていた。

 九月に入り有佳には、会う日は家の者には深夜勤だと言ってあるので心配はいらないとメールしたところ、君子の勤務先の駐車場で待ち合わせすると返信が入った。

 場所と駐車スペースの形を聞かれ、翌日になって命令が飛んで来た。

 命令の一つ目は、奥から二番目に駐車すること。

 二つ目の命令は、有佳の車に乗ったら最初に出す命令には即座に従うことだった。

 どちらも、その通りにしますとだけ返信した。

 すべてを有佳に委ねる覚悟は出来ている。
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