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第1話:しづたまき野辺の花⑨

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 その日、執務を終えて帰宅しようとしていた頭中将とうのちゅうじょうは、陽明門ようめいもん前で三人の貴公子に声を掛けられた。
 源氏の君を始めとする左馬頭さまのかみ、 藤式部丞とうしきぶのじょうの面々は、同世代の貴族の中でも比較的気安く、腹を割った語らいなども楽しむ間柄だ。
 まずは左馬頭が、鬼のそしりを見事に退けた祝いを述べる。
近衛このえ大将殿の態度も軟化されたとか。検非違使けびいしの真似事もなさるとは、さすがは頭中将殿」
 しかし、次いで藤式部丞が興味津々といった様子で問うてきたのが、二人が本当に知りたいことだったのは間違いない。
「とはいえ、それだけにしては日々楽しげなご様子……良き姫君との御縁でも?」
 またかと苦笑しながら、頭中将は「いや」と首を横に振った。横から訳知り顔で口を挟んだのは源氏の君だ。
「いいえ、頭中将殿は野辺のべの花を手折るのに苦心なさっているそうで。しかもお相手は男子であるとか」
 曲解を与えるような口振りはわざとだろう。この場の誰よりも楽しそうな含み笑いを浮かべているのが証拠だ。頭中将の話題が出たのをいいことに、おそらくは二人を先導してやって来たのに違いない。
 左馬頭と藤式部丞が意外そうに「ほう」と声を上げる。この誤解を解くのには、少々難儀しそうだ。

 確かに、頭中将はあれから二度、紫苑しおんべにの兄妹の元を、お忍びで訪ねている。
 「貴族の方に上がってもらうような場所じゃない」と紫苑が言い張るので、実際の暮らし向きを知る術はないが、毎回それなりの荷を運ばせているので、困窮しているといったことはないだろう。
 驚いたことに、あの一家は頭中将の心尽くしを、近隣住民にも分け与えている様子だ。それは施しなどではなく、「三人家族で腐らせてしまうよりは」との配慮であるらしい。これを自然に行えるからこそ、一家は双子とその母親という、世間的に忌避されがちな家族構成であっても、疎まれることなく近隣に溶け込めているのではないかと、頭中将は考えている。
 紫苑の意を汲む形で、二人――頭中将が妹に近付くのを嫌がるため、主には紫苑だが――と会うのは、基本的にはあの心地よい風の吹き抜ける川べりだ。初対面から素直な紅はもちろんのこと、何かと憎まれ口を叩いていた紫苑も、次第に態度を軟化させて来ている。というよりも、会うたびに、それが本来の紫苑の姿であり、当初は意図的に辛辣な態度を取っていたのに違いないと、頭中将は確信するようになっていた。
 互いに隠し事のある状態で、それでも頭中将は、紫苑に他愛もない話の相手をさせる。賢い紫苑は無駄なことは言わない。返答も的確なため、以前も感じた通り、当意即妙の会話を楽しめる。
 しかし、つまらぬことを言わない代わりに、紫苑は頭中将が知りたいことも、決して口にはしなかった。事件との関与を匂わせることはもちろん、上流階級全般を憎むような過去についても、だ。
 無理に聞き出そうとすれば、また要らぬ警戒を招いてしまいそうだし、本人が話す気にならぬなら致し方あるまいと己を納得させようとはするものの、その点大いに不満を感じずにはいられない、というのが、頭中将の本音であった。

「僧侶の間では稚児趣味も珍しくはなかろうが……」
「しかし、そういえば聞いたことがあるぞ。ほれ、六条の……」
 左馬頭と藤式部丞があれこれと言い合うのを、源氏の君はうんうんと頷きながら聞いている。とはいえ、しゃくで隠した口元がにんまりと弧を描いていることからも、やはり面白がっているのは間違いないだろう――まったく、人の悪い。
 この時代、公家の間に男色の習慣は広まっていない。経験のある公卿くぎょうもいるらしい、という程度の認識だが、取り敢えず、女性全般を愛する頭中将にとっては言い掛かりも甚だしい。
 少し灸をすえてやるのも悪くはないかと思い立ち、先頭を行く頭中将は足を止めた。振り返り、やや大仰に「いや」と首を横に振る。
「確かに、あれは男にしておくには惜しい美貌ではあるが……相手をさせるなら妹の方だ」
 源氏の君がはたと動きを止めた。頭中将は小さく鼻で笑って、踵を返す。紫苑が聞いたら怒り狂いそうだが、まあ問題はあるまい。
 源氏の君の「妹!?」という、さも騙されたと言わんばかりの驚愕の声と、残る二人の納得したような相槌を背後に聞きながら、頭中将は陽明門を出た。己の牛車が近付いてくるのを腕を組んで待ちながら、してやったりとほくそ笑む。好き者の源氏の君が、紅の話に興味を持たない訳がない。
 ――だが、と頭中将は改めて考えた。
 いくら可愛らしい顔をしてはいても、男は男だ。そういう意味で紫苑に興味はない。ならば絶対に紅の方だ。幼い幼いと言いはしても、二人は既に十五だというから充分に相手は務まる。しかし、それでいうなら、双子の母親の方はどうだろう。紫苑が邪魔をするので一度もお目に掛かったことはないが、子供達の容姿から察するに、相当な美貌の持ち主なのに違いない。何とか面識を得たいものだ……。
 男色の話からここまで発想を飛ばせるところもまた、頭中将の頭中将たる所以ゆえん、といったところか。
 追い付いてきた三人の貴公子が、皆それとなく紅の話を聞き出そうと、あれやこれやと話し掛けてくる。頭中将が入れ込むくらいだから、庶民とはいえ相当な美女であると踏んだのだろう。が、生憎とそれ以上の詳細を語るつもりは、頭中将にはなかった。不用意に立ち入られて、公家嫌いの野辺の花達を踏み荒らされては適わない。
 牛飼童うしかいわらわが目の前に到着して、門前に控えていた供の者達が、乗車の準備を始める。
 友人達をいなしながら、頭中将はふと、牛車に施した藤原家の家紋に目をやった。初めて会った時、紫苑がこれを確認する様子を見せたことを、何となく思い返す。
 ――まあ、確かに。憎まれ口を叩きながらも徐々に懐いてくる様子は、年長者として悪い気はしない。私があれの指導を受けて見事に水切りを成功させた時など、我が事のように歓声を上げていたではないか。まったく愛い奴め。
 ついつい脱線しかけた思考回路を、頭中将の中の知的で冷静な部分が、辛くも押し留める。
 紫苑が頭中将の牛車の家紋を確認したように見えた、あの初めての邂逅から今しがたまでずっと、頭中将が幾度となく自分に言い聞かせてきた言葉はなかったか――いくら可愛らしくても男は男、と。
 当初頭中将は、妹の紅がえんの松原から消えた女房なのではないかと疑った。兄妹で共謀しており、二人にはそれぞれ別の役割があるのではないか。しかし紅にはまったく不審な点はなく、対する紫苑は一貫して、何事か秘密を抱えている様子があった。しかも二人は双子だ。よく似た顔立ち、同じような体型。
 そして、水切りだ。あの直前、慌てた紫苑は足を滑らせ、頭中将は咄嗟にそれを支えてやった。その時は愛らしい顔立ちに気を取られたが、あのほっそりとした感触は……。
「……!」
 頭中将は己の愚かさを恥じた。思わず眉間を抑え込み、隣で自分の牛車を待つ藤式部丞から、驚いたような労りの声が掛けられる。申し訳ないが、それに構っていられるような余裕はない。
 所詮は男などと、何度も己に言い聞かせたせいだろうか。すっかり目が曇ってしまっていたようだ。
 よく似た顔立ちなら、身代わりを務めるのに訳はない。ああ、あの顔にあの体型ならば、女房役も充分にこなせただろう。
 ――紫苑に会わなければ。
 先程までとは打って変わって、苦々しい気持ちで頭中将は牛車に乗り込んだ。逸る気持ちを抑えて、何とか気の良い友人達に別れの挨拶を告げる。
 騒ぎが起こったのは、牛車が動き出すよりも前のことだった。どん、という衝撃音ののち、辺りはにわかに喧騒に包まれる。
「何事だ!」
 随身ずいしんが「見て参ります」というのも待たず、頭中将はくつが片付けられる前であったのを幸いと、乗り込んだばかりの牛車を飛び降りた。乗降用の踏台であるしじを外そうとしていた車副くるまぞいの者が、慌てて手を引っ込める。通常牛車は前方から降車するのが倣いであるため、さぞや驚いたことだろう。
 人波を辿って現場へ急行したのは、警衛する場所こそ違えど、頭中将という役職上の義務感もある。が、実際のところは、胸騒ぎがしたという曖昧な理由の方が大きかった。
 探し当てるまでもなく、近衛大路をわずかばかり東に入った先に、人々が群がっている。掻き分けながら中心部へ向かうと、小柄な人間が倒れているのが確認できた。駆け付けた役人や群衆に介抱されるその人物の衣服には見覚えがある。頭中将が送った布だ。絹の着物は食べ物や生活必需品と交換できるが、庶民の衣類としては適さない。悪目立ちをして危険なこともあるというので、わざわざ質の良い麻で織った生地を選んだ。家族全員の新しい着物が縫えたと、何度も丁重な礼を寄越したのは、彼の妹だ。
「――紫苑!」
 叫んで駆け寄ったのは、ほとんど無意識だった。肩に手を掛けても、紫苑は苦悶の声を漏らすばかりで、固く閉じた瞳が開くことはない。
 ――何が起こった。
 以前もこの辺りで紫苑を見掛けたことはあるが、そもそも梅小路の住居とは遠く離れている。こんな場所まで何をしに来たのか、なぜこんな所で事故になど巻き込まれているのか。
 混乱する頭中将に声を掛けてきたのは、警邏けいら中と思しき若い検非違使だった。
黒駒くろこまにはねられたようです」
 頭中将が誰であるのかに気付き、被害者がその縁者らしいと判断したためだろう。的確に状況を説明する。
「はねた者はどこへ行った?」
「それが、そのまま走り去り、西洞院大路にしのとういんおおじ側に下ったようです。咄嗟のことで、それ以上の追跡もままならず……」
 終盤はほとんど言い訳だったが、それも仕方のないことだっただろう。貴族の移動や重量のある荷物の運搬は牛、急ぎの場合は馬と相場は決まっている。逃げ去る黒駒を何の用意もなく追跡できるものなどそうはいまい。
 とはいえ、紫苑は頭の良い少年だ。広い往来で、疾走する馬の蹄の音に気付かぬとも思えない。なぜこんなことに。――しかし今は、彼を医者に診せる方が先だ。
 手近な役人に指示を出すべく、頭中将が顔を上げた時、群衆の中から声が上がった。
「その子は、ちゃんと道の端に居たよ」
「馬の奴は真っ直ぐにその子に向かっていったんだ」
「最初っから狙ってたに違いないさ」
 一人が叫ぶと、堰を切ったように次々と目撃証言が上がる。そのどれもが紫苑に非はないことを訴え、どの顔も一様に、真昼の凶行に憤っていた。
 検非違使達は、「こんな子供を狙う理由はない」などと、必死に群衆を押し留める。一人の少年の事故をきっかけに、庶民達の不満が爆発しては適わないとでも考えているのだろう。
 そのやり取りを尻目に、頭中将は半ば愕然として息を呑んだ。これは明確な意思の元、紫苑ただ一人を狙って引き起こされた襲撃だということか。一体誰が――もしかして。
 より正確な情報を得んと、頭中将は最初に声を上げたと思しき老婆の方へ、身を乗り出した。と同時にほうの袖が引かれて、我に返る。
「紫苑!」
 どうやら意識はあるらしい。安堵の息を漏らした頭中将に、紫苑は微笑んで見せる。が、苦痛を堪えるらしいその笑顔は、ひどく弱々しかった。
「ごめん……あんまり、大ごとにしないで」
 周囲の喧騒に紛れて、その声は消え入るように細く儚い。聞き漏らすまいと顔を近付け、頭中将はしかし、「だが」と否やを唱えようとした。馬にはねられたというからには、全身にそれなりの衝撃を受けているはず。然るべき腕の者に見せなければ、今後の生活、ひいては人生に、どんな支障が出るかわからない。
 けれど紫苑は頑なだった。
「お願いします……」
「――わかった」
 こんな時だけ敬語を使われて、頭中将は折れるしかなかった。幼子を抱くようにして、紫苑の身体を抱え上げる。生まれつき体格にも恵まれ、なおかつ鍛錬を怠らない頭中将には、痩せた少年一人を抱き上げるなど容易いことだ。その行為に、周囲からわずかにどよめきが上がる。公家の若様が、と驚愕に満ちた囁きが辺りを駆け巡った。
 検非違使に断りを入れる間にも、細い身体から抵抗はない。する余裕もないといったところだろうか。可哀想に。
「お前は何も心配しなくていい」
 安心させるように囁いて、頭中将は陽明門方面を振り返った。いつの間にか追い付いて来ていたらしい随身が、先導するように人垣を掻き分ける。群衆の頭の上には、見慣れた牛車が近付いてくるのが見えた。何とも優秀な家人達だ。誇らしいことこの上もない。
「……ッ……」
 肩口で、紫苑が小さく息を漏らした。その表情を頭中将から窺い知ることはできないが、泣いているのだろうか。だとしても、紫苑は強い子だ。決して痛みのせいなどではあるまい。
 ――では、どんな意味があるというのだろう。
 良くできた随身は、もはや「代わりましょうか」と聞いてくることもない。
 華奢な身体を難なく運んでやりながらも、頭中将の心は塞がれたように重たかった。
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