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第1話:しづたまき野辺の花⑩

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 べにが怪我をした際に連れて行かれたという町医者の元へ紫苑しおんを運び込む頃には、既に陽は傾き始めていた。
 見立てでは、紫苑の怪我はどうやら、全身の打撲程度で済んだらしい。兄妹立て続けの怪我に驚きながらも、老年に近い医師は「丈夫な子だ」と顔を綻ばせていた。紫苑の状況を報せてやるよう随身ずいしんに指示を与えたため、あと数刻もすれば、家族が駆け付けて来ることだろう。
 医師の家は、ささやかながらも裏庭を備えており、その後方の小高い丘を借景しゃっけいに、なかなか趣を感じさせる造りになっていた。この庭園で飛び石をゆっくりと踏み締めながら、頭中将とうのちゅうじょうはひとり、思案を巡らす。
 何の意図があってか、えんの松原女房失踪事件の嫌疑が掛かる頭中将の身辺に現れた紫苑。残された女達二人の証言と、随身のその後の調査から、消えた女房の着物と、紫苑の妹・紅が市場で物々交換に出した端切れの柄が、共に柑子こうじ色の生地に金糸で蝶の刺繍が施されたものであったことは判明している。庶民には馴染みのない品であろうし、偶然入手することがあったとしても、時期まで合致しているのはやはり不自然だ。この点からも、双子が何らかの形で事件に関わっているのは、まず間違いない。
 しかし妹の紅は、事件を探る頭中将に対して、まったく構えることなく自分達の内情を明かしてみせた。裏表というものが感じられず、周辺住民からも可愛がられている様子だ。あれが演技なら相当なタマだが、女性を理解しているという自負のある頭中将としても、その線は薄いと断言できる。従って、紅はシロだ。
 そして紫苑。双子の妹とよく似た愛らしい顔立ちに、十五の少年としては比較的華奢な身体つき――宴の松原で女房役を演じたのは、きっと彼なのだろう。女房装束を纏って宮城内に立ち入り、手頃な証人を前に、頭中将の名を口にしてから殺害されたように見せ掛ける――褒美として与えられたのが、その時用意された女房装束一式だと考えれば、取り敢えずの辻褄は合うのではないだろうか。何も知らない家族には、何がしかの仕事をこなした対価だとだけ言って。
 ――しかし、だ。頭中将は苦い気持ちを押し殺すようにして、薄茶けた空に沈んでいく太陽を見上げた。
 実際に接した限り、紫苑は悪人でも愚者でもない。今でも天邪鬼あまのじゃくな振る舞いは見せるが、基本的には素直で利発な少年だ。紅同様に近隣から目を掛けられ、貧しいながらも母子三人仲良く暮らしている。
 そんな紫苑が、なぜこのような非常識な犯罪に加担したのか。理由はわからないが、頭中将を陥れようと企んだ黒幕は、別に確かに存在している。何もかも、紫苑一人では成し得ないことばかりだからだ。例えば夜間の大内裏への侵入と脱出。例えば宮仕みやづかえに障りのない程度の女房装束の用意等々。それなりの身分の者でなければ実行は不可能だし、頭中将としても、縁もゆかりもない庶民の少年に恨まれていたというよりは、よほど納得できる。
 そう、紫苑は事件に加担するまで、藤原喬顕ふじわらのたかあきらという人物の存在すら知らなかったはずなのだ。だからこそ、陥れられた相手の様子が気になり、屋敷の様子を窺いに来た。優しい子だから。左大臣邸ともなれば、人伝てにでも辿ることは出来ただろう。初対面の時、頭中将という役職に反応していたのも、そのせいに違いない。
 大小の石で設えられた池のほとりに、雀が一羽飛んできた。見るともなしに眺めながら、頭中将は重たい息をつく。
 紫苑はおそらく、黒幕の正体を知らない。そもそも面識がなかったと考えるのが妥当だろう。公家と庶民、基本的に接点はない。時期を考えるなら、やはり紅が怪我を負ったところを助けたという「恩人」とやらがことに怪しい。紅の可憐さに価値を見出したというなら未だしも、自分ではない、別な誰かの牛車を避けて転んだ庶民の娘を医者に運び、治療費まで面倒を見て何の見返りも求めないというのは、さすがに出来過ぎている。おそらくは紅の知らないところ、今の頭中将のように、治療が終わるのを待つ間、紫苑だけに取引が持ち掛けられたのではないだろうか。
 そして、身元の分からない貴人の提案に乗ることを選んだ紫苑は、その後何があったか、黒幕との再接触を試みた。初めて互いを認識したあの時、紫苑はどこかの家礼けらいと揉めていたが、あれが彼を唆した当人、或いはその家人であったとすればどうだ。紫苑が自力で自分達の元まで辿り着いたことに、危機感を抱いたのではないか。それで紫苑を狙ったというのも、考えられない話ではない。
 冤罪の片棒を担がされた紫苑の身に、危険が迫っている。何とかしてやりたいのはやまやまだが、頭中将とて獅子身中の虫を飼う訳にはいかない。場合によっては本人を問い詰めることにもなろう。公家である自分に対してようやく心を開きかけた今、無理強いだけは避けたいものだが……甘いとは思いつつも、気が進まないのは確かだ。
 そこへ静かな声が割って入った。
「――薔薇そうびの君」
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