源氏物語異聞~或いは頭中将の優雅な日常

朱童章絵

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第1話:しづたまき野辺の花⑪

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 木戸の前にひっそりと佇んでいるのは、治療を終えたらしい紫苑しおんだった。
 気に入らぬ通称を訂正するよりも先に、深くこうべを垂れられ、機先を制された頭中将とうのちゅうじょうは苦笑するしかない。と同時に、紫苑から二人称以外で呼ばれること自体が初めてであることに思い至って、何とも言えない気分になる。
「あの、ありがとうございました……」
 礼儀正しく、紫苑はまず謝意を述べた。襟元から覗く包帯が痛々しい。動き回れるということは、当初の見立て通り骨に異常はなかったのだろうが、本来ならば安静にしていなければならないところだろう。医師も起き上がることに好い顔はしなかったはずだ。それを押してでも頭中将の元へ参じたということは、彼にとって、きっともっと大事な話があるのに違いない。
 紫苑を身構えさせないよう、頭中将は「気にするな」と笑って見せた。曲がりなりにも己を陥れる計画に加担していた人物に対し、我ながら寛容なことだと、密かに自嘲する。
 何をどう切り出したものかと言い澱むらしい紫苑の背後では、幾人かの話し声が聞こえてくる。思案の間に、随身ずいしんが紫苑の家族を連れて戻ったのだろう。板戸の隙間から、美しい女人が医師に向かって何度も頭を下げる様子が窺えた。隣で寄り添うように支えるべにの姿を確認するまでもない。二人によく似た面差しは、彼らの母親で間違いなかろう。身体が弱いというだけあって、やや痩せぎすのきらいはあるが、それを差し引いたとしても、素晴らしい美女だ――ある意味では想像通り。
 優れた血統というものに感心しながら視線を戻すと、紫苑はやはりもどかしそうに眉根を寄せている。こうなれば寛容ついでだ、と、頭中将は軽口に紛れた助け舟を出してやった。
「お前達の母親というだけあって、なかなかに美しい方だな。紅は着飾ればどこの姫にも負けぬ素晴らしい女人になるだろう――な」
「!」
 駄目押しのように付け加えた一言で、頭中将の意図は正確に伝わったらしい。紫苑は僅かに目を見開いた後、やはり隠せてはいなかったのだと確信するように、苦悶の表情を浮かべた。「ごめんなさい」と吐き出す声は、憐れを催さずにはいられないほど、悲痛な響きに満ちている。
「ごめんなさい。貴方に濡れ衣を着せた人の事、調べようとしたけど無理だった」
「……そうか」
 それは紫苑の自白だった。ある程度の推測は立てていたが、紫苑自ら事件への関与を、初めて認めたことになる。
 自分でも驚くほど静かな声で短く応じた頭中将に対し、紫苑は先程よりも一層深く頭を垂れた。項垂うなだれるといった方が近いかもしれない。
 この言い分では、やはり紫苑は、事件の首謀者を探していたのだ。しかし、一介の庶民でしかない身では、公家の内情を探ることなど不可能に等しい。それでも動かないではいられなかったのだろう――罪の意識のゆえに。わずかな望みを掛けて大内裏周辺を張り続け、辿り着いたのが、あの何処の家かの家礼けらい。頭中将もあれ以来、気を付けて探してはいるが、一度も姿を見掛けたことはない。紫苑に見付かり、その場面を頭中将に見られているために、主の参内さんだい随行ずいこうしなくなったとも考えられる。――そして今日になって遣わされたのが、黒駒くろこまの襲撃者という訳か。
 首謀者達の、紫苑への害意の程度がどれほどのものかはわからない。脅しのつもりならまだいいが、少なくとも紫苑が家礼の顔をしっかりと記憶しており、そこまで辿り着いたという事実は、彼らにとって衝撃だったのは間違いないはずだ。
 小さく息をついて、頭中将は表情を引き締める。
「――すべて話せ」
 はい、と答える紫苑の声音は、出逢ってから聞いたどんな時よりも素直に、そして儚く耳朶を打った。


 きっかけが紅の怪我、というのは、正しかったらしい。
 その日、双子の兄妹はいつも通り、僅かばかりの収穫物をあわに変え、家路を急いでいた。季節が秋に代わり、一日の寒暖差が大きくなってきたせいか、もともと身体の弱い母は寝付くことが多くなっている。この日も朝から調子が悪く、今思えば二人とも、少々注意が疎かになっていたことは否めない。
 一家がつましいながらも居を構える一帯まで戻ってきた辺りで、葉野菜のみを背に負った紅の足は、一層速まった。気が急くのは紫苑も同じだったが、こちらは兄の沽券こけんに掛けて、重たい粟と根野菜を幾つか負うていたため、少しばかりの後れを取る。
 事故は、二人が梅小路うめこうじを突っ切ろうとしたところで起こった。余程の重大事を抱えているのか、通常では有り得ない速度で、いずこかの牛車とその供の者達が眼前を通り過ぎる。紅は悲鳴を上げて足を止め、咄嗟に紫苑が腕を引いてやった為に大惨事こそ免れたが、尻餅をつく瞬間にひどく右足を捻ってしまったのだ。
 みるみる腫れていく患部を前に、双子は揃って途方に暮れた。紅は歩くこともままならず、紫苑は既に荷を抱えており、妹まで背負ってやれる状況にはない。元より医者に掛かる余裕などはなく、一度紫苑が紅の分も含めた荷物を持ち帰って、再度迎えに来てやることに話が決まりかけた時。
 何処かの貴族の家の者と思しき中年の男が、声を掛けてきた。大路の端に停めた牛車を示しながら、一部始終を見ていた自分の主人が気の毒がって、治療までの援助を申し出ているという。警戒する紫苑に対し、男はほとんど強引ともいえる親切さで、紅を近場の医者の元へ運んだ。そして、治療を受けさせる間、まさにこの裏庭に紫苑だけを呼び出し、持ち掛けてきたのだ――先程の牛車は頭中将のものだ、妹の仇を討ちたくはないか、と。
 無論、紫苑は断った。元々貴族は嫌いだし、他人に怪我をさせておいて見向きもしないことにも腹は立つが、だからと言って、命まで奪われた訳では無し、いきなり仇討ちなどという物騒な話になるのは、あまりに飛躍が過ぎる。
 しかし、断られることは想定の範囲だったのだろう。男は主人に確認することもなく、交渉方法を変えた。曰く、我が主は頭中将に一方ひとかたならぬ恨みを抱いている。黙って協力すれば、相応の褒美を与えよう――。
 逡巡の末、紫苑は男の手を取った。ここまでの強引さを考えても、自分達兄妹が共犯者候補として標的にされているのは間違いない。こちらの様子を窺うようについて来ている「主」とやらの牛車は、明らかな意図をもって、家紋を布で覆い隠している。身元が割れては困るようなはかりごとを巡らしているということだろう。話を聞いてしまった時点で紫苑に選択の余地はなく、断れば無事には済まない可能性が高い。身の危険と褒賞を測りに掛けた結果だ。
 咄嗟に「褒美は品物ではなく安定した仕事が良い」と答えたのは、常日頃から願っていたことであるのと同時に、万が一の時のための保険でもあった。恨みを理由に他人を陥れるような輩との縁などこちらから願い下げだが、その口利きで仕事を得ていれば、この非情な公家が口封じのために自分達に危害を加えようと考えても、そこから身元を割り出して、交渉の材料として使えるかもしれない……。
 紫苑の機転に、それまで淡々と伝令の役をこなしていた男は、初めて驚いたような様子を見せたが、必ず主に伝えると約束をした。「大抵の望みは叶えてくださるとの仰せだ」とも。
 話を詰める段になって、彼らが本当に必要としているのは女手、つまりは紅であって、紫苑には説得を務めて欲しいとの意図が知れたが、紫苑はそれだけはと、断固拒否した。妹には悪事に加担して欲しくなかったし、何より危険な目に遭わせたくない。あまりのしつこさに、代役を申し出たのは紫苑の方だ。渋る男に「双子なんだから似ていて当然だろう」と啖呵を切った時の表情は忘れられない。男は侮蔑の眼差しを寄越した後、「いいだろう」と話を打ち切った。
 交渉するのも汚らわしいと言わんばかりの態度だった。
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