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第1話:しづたまき野辺の花⑬

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 事件は紫苑しおんが思うよりも早く、巷間こうかんに知れ渡った。
 現場の異質さから「鬼の仕業に違いない」との衝撃的な――しかしある意味では非常にこの時代らしい尾ヒレが付いたことで、より一層民衆の興味を掻き立てたせいだろう。
 松林の中に本物の人間の手足が残されていたことを知って、誰よりもゾッとしたのは、他でもない紫苑だ。道服どうふくの男が木箱の中から取り出したもの、人間の足と見えたアレは、やはり作り物などではなかった。どうやって用意したのかは知らないが、紫苑はずっと、誰の物とも知れない、切り取られた人間の手足と共に運ばれていたことになる。もしかしたら、紫苑が着るだけの女房装束に焚き染められた香は、死臭のようなものを誤魔化すためのものだったのかもしれない。紫苑はこの時点で、食料や薬と交換するのは女房装束からだと決意した。
 とはいえ、そのお陰で幸か不幸か、宮中で起こった事件に対し、一庶民の少年が関与を疑われる気配はない。紫苑が常にない「仕事」へ出掛けたことを知っている家族すら、正確な日時が報道されるでもない時代にあっては、「怖いわね」と眉をひそめて囁き合うだけだ。
 そんな母と妹の純粋さが、悪事に加担することを選んでしまった紫苑の目には、眩しくて堪らなかった。

 当然のように、あの貴族からの連絡は途絶えた。
 予想していたことではあったが、別れ際の道服の男の表情から推測するに、「主」は端から紫苑の要求を呑むつもりなどなかったのだろう。仕事の仲介などすれば、いずこからか足がつかないとも限らない。自邸で雇うなどもってのほかだ。庶民の紫苑を牛車に乗せ、寄り添うような至近距離にあっても頑なに顔を隠し続けた者が、そんな愚を犯すはずもない。その代償が、女房装束と直衣のうしの各一式という訳だ。
 確かに貴人の着物は、交換に出せばそれなりの品物には変えられる。母と妹にも、一夜の仕事になぜこれほどの報酬が、と怪しむ風がないではなかったが、背に腹は代えられない。切り分けた着物を少しずつ交換に出し、食べ物や母の薬を得ることで、一家は一時的に困窮から脱した。
 だが、着物の端切れもいつかはなくなる。そこから先は、また極貧生活に逆戻りだ。紫苑達の生活には希望がない。だからこそ、常日頃から何か安定した職をと考え、ついうっかり危険な話にも乗ってしまったのだ――貴族なんてと期待はせぬよう気を張りながら、それでも万に一つの希望を抱いて。
 当たり前のように約束を反故ほごにされたことは、やはり悔しい。
 しかし、怒りが諦めに変わるのにも、さほど時間は必要なかった。いずれはなくなる着物程度では、堅実な一家に日々の務めを放棄させるには至らない。母の薬のこともあり、紫苑はべにと話し合って、着物を交換に出すのは足りないところを補う時だけにしようと決めた。そのためには、いつまでも愚かな期待に縋っている訳にはいかないのだ。

 そうして慌ただしくも平和な日常へ戻ってみると、自分が陥れるのに加担した頭中将とうのちゅうじょう――薔薇そうびの君という人物のことが気になり始めた。
 相変わらず事件は鬼の犯行との見方が大勢を占め、幸いにして市井の噂に頭中将の名は絡んで来ない。しかし、紫苑は指示された通りはっきりと薔薇の君という通称を口にし、それを聞いた女房のどちらかが「え、あの方が!?」と嬉しげな様子で頬に手を当てたのを覚えている。執拗に紫苑から顔を隠したあの冷酷そうな青年貴族は、自分演じる凄惨な事件の犯人が頭中将であると世間に思わせたかったのだろうし、気の良さそうな二人は見たまま聞いたままを検非違使けびいしに報告したことだろう。紫苑は頭中将なる人物がどんな境遇にあるのか知らない。紅の怪我の原因を作った人物とはいえ、今頃は身に覚えのない罪を着せられて、酷い立場に立たされているのかもしれない……。
 ある日、やむにやまれぬ想いを抱えて、紫苑は藤原家の屋敷へ向かった。行ったところで何をしようというのではない。ただもう純粋に、陥れられた形の頭中将がどういう状況にあるのか、確認しておきたくなったのだ。良心が咎めた、というのが、この時の紫苑の心情を表すのには最適であったかもしれない。
 市中で頭中将の家、藤原家の邸宅と尋ねれば、さしたる苦労もなく目的地に辿り着けるというのは、相当な家柄だ。とはいえ、頭中将の顔も知らず、当然ながら屋敷内に何のツテもない紫苑は、ただ広大な屋敷の周りを、半ば呆然と歩き回る以外になかった。その姿を下女に見付かり、追い遣られるかと構えたものの、思いも掛けない施しを受けたのは、頭中将も知るところだ。貰えるものはありがたく頂戴したが、物乞いと間違われたことに関しては複雑な気分だった。
 頭中将を載せた牛車と擦れ違ったのは、両手が塞がってしまったために、無意味な探訪を打ち切る踏ん切りをつけた直後のこと。もちろん紫苑には、その牛車が誰の持ち物であるかなど、知る由もない。だが、延々と一つの家の筑地塀ついじべいが連なる通りをわざわざ行くからには、と妙に確信めいたものを感じる。豪奢な牛車が、今まさに施しを受けた家に入っていくのを見送りながら、紫苑の心臓はドクンと大きく脈打った。
 当然ながら、紫苑に家紋の知識はない。しかし、記憶力は良い方だとの自負はある。
 たった今、紫苑の目の前で藤原家の屋敷に入っていった牛車にあしらわれていた家紋は、紅が怪我をする原因となった牛車のものとは、明らかに違っていたのだ。

 ――最初からずっとだまされていた。
 罪悪感を押し殺すための唯一の根拠が脆くも崩れ去ったことで、紫苑は怒りに燃えた。殆ど八つ当たりといってもいい。
 首謀者達を探し始めたのは、一言でいい、行いに対する糾弾をぶつけてやりたかったからだ。朝廷に官位を得た貴族にとって、自分の非難など取るに足らないことはわかっている。それどころか、庶民を利用した時点で、何が起きても適当に握り潰せると考えていたのに違いない。嘘に嘘を重ねる人間とはそういうものだ。可愛いのは自分だけ。頭中将という人物との間に何があったのかは知らないが、きっとそいつにだって非があるのを、一方的に憎んだり恨んだりしているだけなのかもしれない。そういう勘違いや都合のいい思い込みを、どんな小さな力でもいいから、直接投げ掛けてやりたかったのだ。
 そして手当たり次第に宮城きゅうじょう門を張り込み続けて十数日、ついに紫苑は首謀者との橋渡し役を務めた、あの家礼けらい風の男を見付け――同時に頭中将とも直接の面識を得た。しかし、これは決して紫苑の望むところではなく、咄嗟に、宮城近辺をうろつくところを役人に見咎められた時の言い訳として用意していた嘘を披露して逃げた。関係者全員を見付けられたとしても、きっと紫苑一人に罪を被せて逃げおおせるに決まっている。実際のえんの松原事件に被害者が存在する訳ではないが、結果として紫苑は立ち入りの許されていない場所に入り込み、世間を騒がせるような悪質な芝居を打ったことに変わりはない。唯一被害者といえるのは頭中将だけだが、依然として貴族全般を疎む気持ちは変わらず、彼の為にすべてを明かして検非違使に引き立てられるのもご免だ。
 それだけに、頭中将が自分や妹の周りに姿を見せ始めて、紫苑は焦った。遠ざけようとしても、頭中将は真意の見えない笑顔で近付いてくる。自分を疑っているのであろうことは伝わってくるのに、食べきれないほどの食材や、清潔な布地などを持参して。双子であることを自ら明かしたのは、頭中将の見立て通り、彼を遠ざけるための最終手段だった。きっとこの人も、侮蔑の眼差しを寄越して離れていくのだろう、あの家礼のように。
 しかし、その時頭中将の見せた態度が、紫苑の中の何かを決定的に変えてしまった。
 双子は世間的にはとされている。だが紫苑は、自分達が双子でない人達に劣った部分があるとは思っていなかった。この通り五体満足で、物覚えも悪くない。妹の紅に至っては、どこに出しても恥ずかしくないほどの美人で、最近は悪い虫が付かないよう、兄である自分が苦心しているくらいだ。それでも一家は、必要のない限りは双子であることを伏せてきた。迷信から生まれた差別は性質たちが悪い。身をもってそれを痛感しているからこその、自衛手段だったのに。
 その社会通念を、頭中将は迷信であると断じてみせたのだ。母のかたを案じることで。多胎児たたいじは忌むべきものではないと。
 見栄えの良いだけのお公家様だと思い込もうとした頭中将の度量の大きさに、紫苑は愕然とした。こんな物の見方をする人には、今まで会ったことがない。
 感動と同時に紫苑の心を満たしたのは、激しい自己嫌悪だった。こんな人を陥れるような謀略に、なぜ加担してしまったのか。もしも紫苑が拒否し通していたとしても、あの冷酷な青年貴族は別な誰かを雇い入れて、同じことをしただろう。でも、それなら少なくとも、こんな想いはしなくて済んだ――。
 思い余った紫苑は、再度大内裏周辺を張り込み始めた。頭中将は、庶民というだけで人を蔑んだりしない。彼自身もまた、生まれ落ちた家柄に頼らず、信念を持って生きている。立派な人だ。そんな人を敵視するなら、ソイツの方が悪人なのだと、今ならはっきりわかる。自分を騙し、頭中将に濡れ衣を着せようと画策した人物を暴いて、正直に罪を告白しよう。

 襲撃は、その矢先のことだった。馬上の人物とは、しっかりと目を見合わせている。
 ――あの道服の男に、間違いはなかった。
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