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第1話:しづたまき野辺の花⑭
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辺りは既に、夜の帳が下りている。
紫苑の長い告白を受けて、頭中将は重たい息を吐いた。
「……お前は賢い。なぜこんな怪しい話に乗った?」
すべてはそこに尽きる。頭中将の知る紫苑は、咄嗟の機転も利く優秀な少年だ。強引に紅を医者に連れて行かれ、危険な計画を聞かされたとしても、何とか逃げおおせる算段を付けられたのではないか。それこそ、悔しさを飲み込みさえすれば、その場で双子であることを口にして、相手側から関わりを拒否させることも出来たはず。
それは紫苑の能力を評価すればこその発言だったが、当の本人には叱責のように聞こえたのかもしれない。紫苑が弾かれたように顔を上げる。
「生きていくために決まってるだろ! じゃなきゃこんな馬鹿な真似するもんか!」
女装は矜持を傷付けるし、何より、結局騙されて冤罪の片棒を担がされ、幾許かの褒賞と引き換えに、この身を犯罪者へと貶めた。こんな不愉快で理不尽な話はない。
だが、紫苑には守るべきものがあった。すべては家族の為。三人でのささやかな生活を支えていくための誘惑に、紫苑こそが、人間の皮を被った鬼の手を取ってしまったのだ。
薄い灯りの漏れる屋内からは、いつの間にか物音一つ聞こえなくなっている。話す内容が届く距離ではないが、皆こちらでのやり取りを、固唾を飲んで見守っているのだろう。
「そもそも、顔も知らない貴族がどうなろうと、知ったことじゃないと思ってた」
長い睫毛を伏せ、独り言のようにポツリと付け足された言葉に、チクリと胸が痛む。それを誤魔化すように、頭中将ははっきりと渋面を作った。
「お前は、なぜそうまで我々を……」
「僕達の父親は貴族だって言ったら、信じる?」
「……」
一瞬内容が理解できず、動きを止める。ややあって、頭中将は軽く瞠目した。元より紫苑が虚勢の為の偽りを口にするような人間だとは思っていない。真意を問うように瞳を覗き込むと、紫苑は困ったように笑って肩を竦める。先程垣間見た女性の、病がちとはいえそこはかとなく気品のある様子を思い返し、よもやと考えたが、そういうことではないらしい。
若かりし頃、双子達の母親は伝手を頼って、さる公家の屋敷に勤めていたという。庶民の出であっても、人柄や家族関係に信頼さえ得られれば可能なことだ。直接主人と接するような部署ではなく、あくまで下働きという制限付きではあるが、しかし、彼女の美貌は主の目に留まった。当然のように手を付けられ、子を身籠る。これに怒り狂ったのは正妻だ。しかるべき家の姫ならば未だしも、相手は下働きの娘。美貌だけなら非の付け様がないところにも、自尊心を傷付けられたのに違いない。この意向を受けて、主人は彼女を遠ざけた。更には、日が満ちて生まれたのが双子であったことで、男の心は完全に離れ、憐れにも彼女は放逐の憂き目を見たのである。
「その時、手切れ金代わりに渡されたのが、その人が好んで着てた、紫苑色の着物なんだってさ」
「!」
あまりのことに言葉を無くした頭中将に対し、紫苑はうっすらと口元に笑みを刷いている。けれど、大きな両の瞳には、喩えようもないほどの悲しみが揺れていた。
紫苑が頑として頭中将を上げなかった家の中には、主人が好んだ紫苑色の着物と共に、紅色の袿も大事にしまわれているという。こちらは優しかった頃の男が送ってくれたもので、彼女はどんなに困窮しても、この二点だけは絶対に売りには出さなかった。それは、自分達を捨てた男への愛情なのだろうか――否、おそらくそうではない。子である紫苑にはそうとしか思えなくて、それが激しい憤りにも繋がっているのだろうが、貴族社会に居て子を持つ頭中将には、二人の身元の保証等の、今後を見越したがゆえの行為ではないかと思われる。
――風雅と感じた二人の名の由来が、これほど憐れを催すものだったとは。
世間なんて知らない、と紫苑は吐き出すように言った。
「世間の奴らがどう思おうと関係ないよ。でも僕らは母さんにとっては間違いなく『忌み子』だ。産後の肥立ちが悪くて病弱になったし、僕らが双子だったから父親にも見捨てられて……!」
「! よせ……!」
それ以上は言うなとの意味を込めて、頭中将は紫苑の腕を引いた。薬草を浸した包帯の少ない左側を選んだつもりだが、それでも強く引きすぎたかもしれない。
昂ぶった感情を沈めるためにか、紫苑は奥歯をきつく噛み締めている。その痛々しい様子を見詰めながら、頭中将はいつかの源氏の君の言葉を思い返していた。「誰もが望まれて生まれてくる訳ではない」。生まれる前に母ごと父に捨てられたという紫苑の心情を、彼は見事に言い当てていたことになる。これが紫苑の貴族嫌いの真相だったのだ。
紫苑がゆるゆると頭中将を見上げる。ようやく、こちらが怒っているのではなく、ただ自分の身を案じているだけなのだということが伝わったのだろう、くしゃりと顔を歪めた。
「ごめんなさい。貴方はその、すごく良い人だった。少なくとも、僕が嫌いな貴族とは全然……ッ」
そこまで言って、堪らず大粒の涙を零し始める。泣き顔を見られまいと、包帯の巻かれた右腕で一生懸命目元を覆い隠すのが、彼の最後の矜持なのだろう。
掴んだ左腕を解放し、頭中将は愛らしい顔から視線を逸らした。紫苑の自尊心を尊重してやりながら、一方で背中をあやすように叩き、細い肩を抱いてやる。これも本来の立場を考えれば有り得ないことだが、紫苑の献身に応えてやりたいと思ったためだ。貴族嫌いでありながら、自分の為に何かをせずにいられなかったなどと、いじらしいではないか。ああ、おそらくは、先程往来で抱きかかえてやった時に泣いていたのも、自分が陥れるのに加担した本人に親切にされて、心が痛かったせいなのだろう。
病弱な母、嫁入り前の妹。唯一の男手として、家族を支えていくことの重責が、紫苑に道を誤らせた。――あまりに憐れだ。
「お前はよくやった」
「……ぅう……っ」
自分でも驚くほど優しい声音で囁いた頭中将に、紫苑は堰を切ったように泣き出した。子供のように頭中将の束帯の胸元を握り締め、それでも声を上げないように必死に歯を食い縛っている。屋内の母と妹に聞こえてしまわないようにとの配慮なのだ。
――まだ庇護の必要な子供ではないか。
世間の荒波は、さぞやつらかったことだろう……。
ひとしきり泣いてから、紫苑は落ち着きを取り戻した。
庭石に座らせ、頭中将もまたその横に腰を下ろすと、鼻を啜りながら大きな瞳で見上げてくる。
「――陽明門の前で出会った時、あの人の側にいた牛車の家紋に見覚えはないですか?」
紫苑と揉めていた家礼風の男、それを捨て置いて立ち去った牛車のことを言っているのだと察して、頭中将は「うむ」と唸った。確かに家紋は目にした。しかし、生憎と、貴族が目印と称して牛車に家紋をあしらい始めたのはここ最近のことで、どこの家の物かまではわからない。
移動手段であると共に権威を見せ付けるための道具でもある牛車は、拵えを変えてしまわれれば、次に見掛けたとしても、同一人物のものかどうかまでの判別はできないだろう。
「……そっか。だったら、僕が検非違使に出頭しても、真犯人は捕まえられそうにないかな」
頭中将の見解を受けて、紫苑は残念そうに息をついた。どこか吹っ切れた物言いに、頭中将は思わず幼さの残る顔を凝視する。
「……お前はそれでいいのか」
「それこそ、無実の貴方が言うことじゃないよ」
楽しそうに笑って、紫苑はぴょこんと立ち上がった。この様子では、大方ここへ来る前に、家族とは話が付いていたのだろう。宴の松原の女房失踪事件について、頭中将自身への嫌疑は晴れているようなものだ。しかし、事件自体は依然として解決には至っておらず、あちこちに恐怖と憶測が燻っている。紫苑は事件に怪異など介在しておらず、ただ悪意を持って頭中将の名を貶めようと企んだ者がいることを、告発しようとしているのだ。
頭中将が最も好ましいと思っているのは、まさにこの、紫苑の心根の真っ直ぐなところだった。たとえかつては頭中将を陥れようと企んだ一味の者であっても、紫苑は心から悔いている。その真白き意思には、報いてやらねばなるまい。まずは彼の家族からだ。相手は紫苑がその身辺に迫っただけでも、白昼堂々の襲撃を仕掛けてくるような者達である。彼の自首という名の裏切りを知れば、報復として母と妹に手を出さないとも限らない。保護してやる必要があるだろう。
頭中将は座したまま、傍らの紫苑を見上げた。
「二人のことは、私に任せておけ」
安心させるように大きく頷くと、紫苑はハッとしたように唇を震わせた。しかし、すぐにいつもの調子を取り戻した様子で、わざとらしくプッと膨れて見せる。
「紅には手を出さないでよ」
「母君なら良いのか?」
「!!」
うそぶくように返してやると、紫苑がギョッと目を剥いた。してやったりとばかりに「冗談だ」と口角を釣り上げると、疑わしげな視線が向けられる。
「大人を揶揄うからだ」
肩をそびやかして笑う頭中将に、紫苑もまたつられたように、頬を緩めた。
初めて、互いに何の隠し事もない状態で笑い合い、二人は別れの刻を和やかに迎える。
紫苑は改めて、丁寧に頭を下げた。
「……ありがとう。本当にごめんなさい。二人を宜しくお願いします……!」
それは紫苑から頭中将への、信頼の証ともいえる言葉だった。
●
衛門府を出たところで、頭中将は満天の星空を見上げて、大きく息を吸い込んだ。
紫苑を引き渡したのは、既に見知ったあの有能な検非違使だ。「この者の証言が真実であることは私が請け負う。よしなに」と念は押してきたので、さほど酷いことにはならないとは思うが、それでもやはり不安は残る。罪は罪だ。頭中将がこれなのだから、母と妹の心痛は計り知れない。身の安全を図ることはもちろんだが、その辺りも含めた配慮が必要だろう。
秋口の冷たい空気を吐き出して、手近の門扉を目指す。
今回の事件と出逢いは、頭中将に小さくはない変化をもたらした。相手の身元もわからぬまま危ない橋を渡った紫苑を愚かと思うものの、一方で、生活の為にそこまでしなければならない庶民の実情を憐れとも思う。そしてそれは紫苑に限ったことではなく、この世のあちこちで、今も当たり前のように繰り返されていることなのかもしれない。
と同時に、これまで安易に鬼や妖怪の類いと片付けられてきた古来の事件の中には、今回のように、人が策を巡らして、そのように見せ掛けたものもあるのではないか。人外の者に擦り付けることで、うまく罪を免れた犯罪者が、素知らぬ顔で往来を闊歩していることもあるかと思うと、うすら寒い思いがしてくる。宴の松原事件でもまた、紫苑を巻き込み、頭中将を陥れようと画策した者達は、今もどこかで安穏と暮らしているのだ。
――だが、これはまたおいおい炙り出してやればいいこと。余人の恨みを買うのもまた、優れていればこそ。大人物でなければ、敵もいまい。
驕りではなく、己にならば必ず成し遂げられることを確信して、頭中将は門を抜けた。待機していた牛車が近付いて来て、手慣れた様子で乗車の準備が進められていく。
色なき風が吹き抜ける中、随身の掲げた灯火のもとに、小さな野の花が照らし出された。
強気な頭中将も、今夜ばかりはやるせない気持ちを無視できずに、ふと口ずさむ。
文手纏 数にもあらぬ野の花は 散りてものちに 袖に香ぞする
第一話 完
紫苑の長い告白を受けて、頭中将は重たい息を吐いた。
「……お前は賢い。なぜこんな怪しい話に乗った?」
すべてはそこに尽きる。頭中将の知る紫苑は、咄嗟の機転も利く優秀な少年だ。強引に紅を医者に連れて行かれ、危険な計画を聞かされたとしても、何とか逃げおおせる算段を付けられたのではないか。それこそ、悔しさを飲み込みさえすれば、その場で双子であることを口にして、相手側から関わりを拒否させることも出来たはず。
それは紫苑の能力を評価すればこその発言だったが、当の本人には叱責のように聞こえたのかもしれない。紫苑が弾かれたように顔を上げる。
「生きていくために決まってるだろ! じゃなきゃこんな馬鹿な真似するもんか!」
女装は矜持を傷付けるし、何より、結局騙されて冤罪の片棒を担がされ、幾許かの褒賞と引き換えに、この身を犯罪者へと貶めた。こんな不愉快で理不尽な話はない。
だが、紫苑には守るべきものがあった。すべては家族の為。三人でのささやかな生活を支えていくための誘惑に、紫苑こそが、人間の皮を被った鬼の手を取ってしまったのだ。
薄い灯りの漏れる屋内からは、いつの間にか物音一つ聞こえなくなっている。話す内容が届く距離ではないが、皆こちらでのやり取りを、固唾を飲んで見守っているのだろう。
「そもそも、顔も知らない貴族がどうなろうと、知ったことじゃないと思ってた」
長い睫毛を伏せ、独り言のようにポツリと付け足された言葉に、チクリと胸が痛む。それを誤魔化すように、頭中将ははっきりと渋面を作った。
「お前は、なぜそうまで我々を……」
「僕達の父親は貴族だって言ったら、信じる?」
「……」
一瞬内容が理解できず、動きを止める。ややあって、頭中将は軽く瞠目した。元より紫苑が虚勢の為の偽りを口にするような人間だとは思っていない。真意を問うように瞳を覗き込むと、紫苑は困ったように笑って肩を竦める。先程垣間見た女性の、病がちとはいえそこはかとなく気品のある様子を思い返し、よもやと考えたが、そういうことではないらしい。
若かりし頃、双子達の母親は伝手を頼って、さる公家の屋敷に勤めていたという。庶民の出であっても、人柄や家族関係に信頼さえ得られれば可能なことだ。直接主人と接するような部署ではなく、あくまで下働きという制限付きではあるが、しかし、彼女の美貌は主の目に留まった。当然のように手を付けられ、子を身籠る。これに怒り狂ったのは正妻だ。しかるべき家の姫ならば未だしも、相手は下働きの娘。美貌だけなら非の付け様がないところにも、自尊心を傷付けられたのに違いない。この意向を受けて、主人は彼女を遠ざけた。更には、日が満ちて生まれたのが双子であったことで、男の心は完全に離れ、憐れにも彼女は放逐の憂き目を見たのである。
「その時、手切れ金代わりに渡されたのが、その人が好んで着てた、紫苑色の着物なんだってさ」
「!」
あまりのことに言葉を無くした頭中将に対し、紫苑はうっすらと口元に笑みを刷いている。けれど、大きな両の瞳には、喩えようもないほどの悲しみが揺れていた。
紫苑が頑として頭中将を上げなかった家の中には、主人が好んだ紫苑色の着物と共に、紅色の袿も大事にしまわれているという。こちらは優しかった頃の男が送ってくれたもので、彼女はどんなに困窮しても、この二点だけは絶対に売りには出さなかった。それは、自分達を捨てた男への愛情なのだろうか――否、おそらくそうではない。子である紫苑にはそうとしか思えなくて、それが激しい憤りにも繋がっているのだろうが、貴族社会に居て子を持つ頭中将には、二人の身元の保証等の、今後を見越したがゆえの行為ではないかと思われる。
――風雅と感じた二人の名の由来が、これほど憐れを催すものだったとは。
世間なんて知らない、と紫苑は吐き出すように言った。
「世間の奴らがどう思おうと関係ないよ。でも僕らは母さんにとっては間違いなく『忌み子』だ。産後の肥立ちが悪くて病弱になったし、僕らが双子だったから父親にも見捨てられて……!」
「! よせ……!」
それ以上は言うなとの意味を込めて、頭中将は紫苑の腕を引いた。薬草を浸した包帯の少ない左側を選んだつもりだが、それでも強く引きすぎたかもしれない。
昂ぶった感情を沈めるためにか、紫苑は奥歯をきつく噛み締めている。その痛々しい様子を見詰めながら、頭中将はいつかの源氏の君の言葉を思い返していた。「誰もが望まれて生まれてくる訳ではない」。生まれる前に母ごと父に捨てられたという紫苑の心情を、彼は見事に言い当てていたことになる。これが紫苑の貴族嫌いの真相だったのだ。
紫苑がゆるゆると頭中将を見上げる。ようやく、こちらが怒っているのではなく、ただ自分の身を案じているだけなのだということが伝わったのだろう、くしゃりと顔を歪めた。
「ごめんなさい。貴方はその、すごく良い人だった。少なくとも、僕が嫌いな貴族とは全然……ッ」
そこまで言って、堪らず大粒の涙を零し始める。泣き顔を見られまいと、包帯の巻かれた右腕で一生懸命目元を覆い隠すのが、彼の最後の矜持なのだろう。
掴んだ左腕を解放し、頭中将は愛らしい顔から視線を逸らした。紫苑の自尊心を尊重してやりながら、一方で背中をあやすように叩き、細い肩を抱いてやる。これも本来の立場を考えれば有り得ないことだが、紫苑の献身に応えてやりたいと思ったためだ。貴族嫌いでありながら、自分の為に何かをせずにいられなかったなどと、いじらしいではないか。ああ、おそらくは、先程往来で抱きかかえてやった時に泣いていたのも、自分が陥れるのに加担した本人に親切にされて、心が痛かったせいなのだろう。
病弱な母、嫁入り前の妹。唯一の男手として、家族を支えていくことの重責が、紫苑に道を誤らせた。――あまりに憐れだ。
「お前はよくやった」
「……ぅう……っ」
自分でも驚くほど優しい声音で囁いた頭中将に、紫苑は堰を切ったように泣き出した。子供のように頭中将の束帯の胸元を握り締め、それでも声を上げないように必死に歯を食い縛っている。屋内の母と妹に聞こえてしまわないようにとの配慮なのだ。
――まだ庇護の必要な子供ではないか。
世間の荒波は、さぞやつらかったことだろう……。
ひとしきり泣いてから、紫苑は落ち着きを取り戻した。
庭石に座らせ、頭中将もまたその横に腰を下ろすと、鼻を啜りながら大きな瞳で見上げてくる。
「――陽明門の前で出会った時、あの人の側にいた牛車の家紋に見覚えはないですか?」
紫苑と揉めていた家礼風の男、それを捨て置いて立ち去った牛車のことを言っているのだと察して、頭中将は「うむ」と唸った。確かに家紋は目にした。しかし、生憎と、貴族が目印と称して牛車に家紋をあしらい始めたのはここ最近のことで、どこの家の物かまではわからない。
移動手段であると共に権威を見せ付けるための道具でもある牛車は、拵えを変えてしまわれれば、次に見掛けたとしても、同一人物のものかどうかまでの判別はできないだろう。
「……そっか。だったら、僕が検非違使に出頭しても、真犯人は捕まえられそうにないかな」
頭中将の見解を受けて、紫苑は残念そうに息をついた。どこか吹っ切れた物言いに、頭中将は思わず幼さの残る顔を凝視する。
「……お前はそれでいいのか」
「それこそ、無実の貴方が言うことじゃないよ」
楽しそうに笑って、紫苑はぴょこんと立ち上がった。この様子では、大方ここへ来る前に、家族とは話が付いていたのだろう。宴の松原の女房失踪事件について、頭中将自身への嫌疑は晴れているようなものだ。しかし、事件自体は依然として解決には至っておらず、あちこちに恐怖と憶測が燻っている。紫苑は事件に怪異など介在しておらず、ただ悪意を持って頭中将の名を貶めようと企んだ者がいることを、告発しようとしているのだ。
頭中将が最も好ましいと思っているのは、まさにこの、紫苑の心根の真っ直ぐなところだった。たとえかつては頭中将を陥れようと企んだ一味の者であっても、紫苑は心から悔いている。その真白き意思には、報いてやらねばなるまい。まずは彼の家族からだ。相手は紫苑がその身辺に迫っただけでも、白昼堂々の襲撃を仕掛けてくるような者達である。彼の自首という名の裏切りを知れば、報復として母と妹に手を出さないとも限らない。保護してやる必要があるだろう。
頭中将は座したまま、傍らの紫苑を見上げた。
「二人のことは、私に任せておけ」
安心させるように大きく頷くと、紫苑はハッとしたように唇を震わせた。しかし、すぐにいつもの調子を取り戻した様子で、わざとらしくプッと膨れて見せる。
「紅には手を出さないでよ」
「母君なら良いのか?」
「!!」
うそぶくように返してやると、紫苑がギョッと目を剥いた。してやったりとばかりに「冗談だ」と口角を釣り上げると、疑わしげな視線が向けられる。
「大人を揶揄うからだ」
肩をそびやかして笑う頭中将に、紫苑もまたつられたように、頬を緩めた。
初めて、互いに何の隠し事もない状態で笑い合い、二人は別れの刻を和やかに迎える。
紫苑は改めて、丁寧に頭を下げた。
「……ありがとう。本当にごめんなさい。二人を宜しくお願いします……!」
それは紫苑から頭中将への、信頼の証ともいえる言葉だった。
●
衛門府を出たところで、頭中将は満天の星空を見上げて、大きく息を吸い込んだ。
紫苑を引き渡したのは、既に見知ったあの有能な検非違使だ。「この者の証言が真実であることは私が請け負う。よしなに」と念は押してきたので、さほど酷いことにはならないとは思うが、それでもやはり不安は残る。罪は罪だ。頭中将がこれなのだから、母と妹の心痛は計り知れない。身の安全を図ることはもちろんだが、その辺りも含めた配慮が必要だろう。
秋口の冷たい空気を吐き出して、手近の門扉を目指す。
今回の事件と出逢いは、頭中将に小さくはない変化をもたらした。相手の身元もわからぬまま危ない橋を渡った紫苑を愚かと思うものの、一方で、生活の為にそこまでしなければならない庶民の実情を憐れとも思う。そしてそれは紫苑に限ったことではなく、この世のあちこちで、今も当たり前のように繰り返されていることなのかもしれない。
と同時に、これまで安易に鬼や妖怪の類いと片付けられてきた古来の事件の中には、今回のように、人が策を巡らして、そのように見せ掛けたものもあるのではないか。人外の者に擦り付けることで、うまく罪を免れた犯罪者が、素知らぬ顔で往来を闊歩していることもあるかと思うと、うすら寒い思いがしてくる。宴の松原事件でもまた、紫苑を巻き込み、頭中将を陥れようと画策した者達は、今もどこかで安穏と暮らしているのだ。
――だが、これはまたおいおい炙り出してやればいいこと。余人の恨みを買うのもまた、優れていればこそ。大人物でなければ、敵もいまい。
驕りではなく、己にならば必ず成し遂げられることを確信して、頭中将は門を抜けた。待機していた牛車が近付いて来て、手慣れた様子で乗車の準備が進められていく。
色なき風が吹き抜ける中、随身の掲げた灯火のもとに、小さな野の花が照らし出された。
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