源氏物語異聞~或いは頭中将の優雅な日常

朱童章絵

文字の大きさ
19 / 32

第2話:さざなみの玉椿③

しおりを挟む
 中天に懸かる月の光が、視界いっぱいに広がる庭園を淡く照らしている。
 初秋の風が湖面を撫で、次々と描き出される波紋の、何と美しいことか。
 杯をゆっくりと傾けて、頭中将とうのちゅうじょうは満足げに喉を鳴らした。こうして我が家の釣殿つりどのに座し、風雅を感じていれば、日々の雑務にささくれだった心も、いくらか慰められるような気がするから不思議なものだ。
「……その後、母君と妹の加減はどうだ」
 傍らに控えた紫苑しおんに声を掛けると、嬉しそうな笑顔が返される。「お陰様で」と言葉少なに応える様子からは、主への掛け値ない信頼と感謝が窺えた。
 下働きの家族の様子が気になるなら、家司けいしにでも尋ねればいい。そもそも頭中将の支援のお陰で食うには困らず、医者に掛かる余裕もあるため、病弱な母、妹の足の怪我も、予後は万全だ。頭中将とて、それは承知のはず。直接召し抱えたとはいえ、身分の差を考えれば、紫苑はこのような場に上がれる立場ではない。それをわざわざ、理由を作ってまで話し相手として召し出すからには、紫苑自身の様子を気に掛けている以外の理由は見付からなかった。
 頭中将の人柄に改めて感じ入った様子の紫苑は、律儀にも瓶子へいしを抱えたまま待機している。単純に好みの問題から、酒の相手を務められない代わりにせめて、との心掛けなのだろう。何とも初々しい忠誠ぶりだ。物慣れないが故の配慮を見ていると、紫苑を寛ぎのひと時の話し相手として選んだこと自体、無意識に癒やしを求めていたためではないかと思えてくる。
 ――やはり、舞いについての迷いは拭えぬか。
 空の杯を差し出しながら、頭中将はうっすらとした自嘲に唇の端を歪めた。得体の知れぬ当惑は晴れる気配もなく、ただ頭中将の中にわだかまっている。
「……」
 阿吽の呼吸で杯を満たした紫苑は、主の様子に表情を曇らせた。頭中将の女性関係に苦言を呈しながらも、この聡い少年は、彼に思い悩む様子があることにも気付いていたらしい。
 しかし、頭中将がこれを察して恥じ入るよりも先に、紫苑ははたと動きを止めた。何度かスンスンと鼻を鳴らした後、きょとんとした表情で小首を傾げてみせる。
「――いつもの薔薇そうびの君とは、違う香りですね?」
「よくわかったな。貰い物だ」
 紫苑の感覚の鋭敏さに感心することで、頭中将の憂いはひとまず念頭から消えた。確かに、今直衣のうしに焚き染められている香は、普段頭中将が愛用しているものではない。先日、舅である右大臣から贈られた麝香じゃこうだ。大方、何度も眼前でそよぐ袂からの香りに、嗅覚を刺激されたのだろう。貴人に侍る者として、よく気が回るというのは、何にも代えがたい才能だ。特別気に入っているというだけでなく、半分は公家の血が流れているという彼ら双子を何らかの形で取り立ててやりたいと考えている頭中将としては、喜ばしい情報である。
 主の称賛に、しかし紫苑は眉を顰めて、宙を仰いだ。「この匂い、どこかで……」と考え込む様子で視線を彷徨わせる。まさか、嗅いだことがあるとでも言うのだろうか。香の文化は庶民にまで浸透していないし、何より高価なものでもあるため、市井育ちの紫苑が知っているとは考えにくいが、と、頭中将は家礼けらいの思索を、杯を傾けつつ見守る。
「そうだ!」
 紫苑がハッと大きな瞳を見開くまで、そう時間は掛からなかった。大事そうに抱えていた瓶子を横に置いたのは、うっかり倒してしまわないようにとの心配りだろう。慌てた様子で、頭中将に向き直る。
えんの松原で会った人が、同じ匂いをさせてました!」
「!」
 改まっての報告に、頭中将は杯を唇に当てたまま、ぴたりと動きを止めた。紫苑は育ち以上に賢い。彼の観察眼に信頼がおけることは、頭中将自身が誰よりよく理解している。宴の松原事件の供述の際、紫苑は確かに、黒幕らしき貴族の直衣や、自分が着せられた女房装束から良い香りがしたと、しきりに語っていた。それが同じものであったと、今はっきりと認識できたという訳だ。――が、しかし。
「……麝香か……」
 高坏たかつきに杯を戻しながら、頭中将は小さく呟いた。
 つい最近、我が家以外で麝香の匂いを嗅いだような気はする。とはいえ、富裕な貴族であれば、麝香の入手は、さほど困難ではない。暗愚ではないはずの己の記憶に、強く刻み付けられていないのも、そのせいだろう。頭中将としても、自分を陥れることで利を得られる人物であれば、それなりの位の者でなければ話が合わないと考えている。残念ながら、麝香の香を以て真犯人に辿り着く一助とはなり得まい。
「なーんだ」
 心底ガッカリしたと言わんばかりに、紫苑は肩を落とした。素直な反応が微笑ましくて、頭中将は思わず宥めるような言葉を掛ける。
「お前の記憶力や観察眼は素晴らしいものだ。これからも気付いたことがあれば、何でも言うといい」
 主の激励に、紫苑はぴょこんと姿勢を正した。発言の内容を噛み締めるように何度か瞬きを繰り返した後、「はい!」と大きく頷く。
 可愛らしい挙動の応酬に、今度こそ頭中将は肩を揺らして笑った。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

偽夫婦お家騒動始末記

紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】 故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。 紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。 隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。 江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。 そして、拾った陰間、紫音の正体は。 活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

古書館に眠る手記

猫戸針子
歴史・時代
革命前夜、帝室図書館の地下で、一人の官僚は“禁書”を守ろうとしていた。 十九世紀オーストリア、静寂を破ったのは一冊の古手記。 そこに記されたのは、遠い宮廷と一人の王女の物語。 寓話のように綴られたその記録は、やがて現実の思想へとつながってゆく。 “読む者の想像が物語を完成させる”記録文学。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

処理中です...