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第2話:さざなみの玉椿④
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それからまた幾日か経った日の午後。
頭中将は源氏の中将宅を訪った。その日は折悪しく、大内裏から自宅への方角が天一神の遊行と重なっており、またしても方違えを余儀なくされたためである。
これを良い機会と、頭中将は源氏の中将に嫁いだ姉・葵のご機嫌伺いを願い出た。同腹の葵とは幼少期から比較的懇意にしており、両親への土産話として、その近況を伝えられればと考えたのだ。
姉はいつも通り、快く迎えてくれた。普段からあまり感情を面に表す女性ではないが、紅葉賀の大役について、「貴方なら立派に務め上げられると確信しております」との激励を受け、身が引き締まる思いがする。
しかし、話が夫である源氏の中将に及んだ際、葵は御簾越しにも感じ取れるほど、はっきりと言葉を詰まらせた。我が家から伴った女房達も、気遣わしげな表情を浮かべている。その後も言動の端々から、未だ源氏の中将と心通わせられずにいるらしいことが容易に理解できてしまい、頭中将は芽生えた失意を押し殺しながら、やや強引に別な話題を振るよりほかなかった。
――時間が解決してくれればよいが。
姉の元を辞し、主人の待つ寝殿へ案内されながら、頭中将は考え込むように軽く眉根を寄せた。
頭中将自身、正妻の四の君との関係が、何とはなしうまく行き始めたように思われるのは、ここ一年くらいのことだ。四の君は右大臣の娘、葵は左大臣の娘。共に入内を念頭に養育されてきた姫君であり、本人達もその気でいたところを、上流とはいえ一貴族に嫁がされた。人生の目標(或いは夢)を見失い、気持ちを切り替えるのにどれだけ難儀したことだろうか。更に葵の場合は、夫よりも四つばかり年長であることも、影響しているのかもしれない……。
「――姉君とはどんな話を?」
屋敷の主はというと、こちらもまたいつも通り、楽しげ且つどこか気だるげな様子で、頭中将を私室へ招き入れた。脇息に凭れ掛かる姿が、息を呑むほどに美しい。だが、つい今しがた、姉の煩悶を垣間見てきたばかりの頭中将にとっては、まるで他人事のように聞こえてしまったのも仕方のないことだろう。
「君の、奥方だ」
強めに返してしまってから、頭中将は珍しく、はっきりと後悔した。源氏の中将の寂しげな微笑みに、夫婦の軋轢の原因の一つには、葵の頑なな性格もあるのではないかと思い至ったからだ。こればかりは持って生まれた性質であって、どちらか一方を責める訳にもいかない。頭中将にとっては両人とも大切な存在であるだけに、悩ましいところだ。
己の配慮の足りなさを責めながら頭中将は、「すまない」と小さく詫びた。そして、場の空気を改めんと、「機会があれば尋ねてみようか」程度に考えていた質問を繰り出す。
「……そうだ、先日の噂話の折は、なぜ彼と一緒に居たんだ? 確か、中務の……」
「橘恒泉殿か」
急な話題転換に乗ってくれた源氏の中将に感謝しながら、勧められた席に腰を下ろす。促されるまま杯を手に取り、頭中将はそこで初めて、河原院の噂話に積極的に参加してきた青年の名を知った。橘氏といえば、神武天皇以降に臣籍降下した皇別氏族の一つであり、由緒正しい家柄だ。律令制における八省の中で、最も重要とされる中務省に官職を得ているのも頷ける。
「ああ、そうだ。恒泉殿というのか。日頃君の周りで見掛ける顔触れではなかったので、妙に印象に残っていたんだが」
もちろん、頭中将が源氏の中将の交友関係すべてを知り得ているはずもない。とはいえ、同年代の中では特に親しいと自他共に認める間柄であるだけに、自分の知らない友人となると、ちょっとした興味も湧こうというもの。
すると源氏の君は、可笑しそうに肩を竦めてみせた。
「なに、たまたま捕まっただけですよ。よほど河原院の事件について、自説に自信があると見える。適当にいなしていたら、貴方がたが噂話に興じる現場に出くわしたという訳だ」
中務の少輔――橘恒泉と一緒にいた時より幾分楽しげな様子だが、「河原院」の名を口にした瞬間、ほんの少しだけ美しい顔に翳りが差したのが気に掛かる。しかし、源氏の中将はすぐに昏い表情を拭い去ってしまったので、頭中将も敢えて聞かないこととした。(実際のところ、友人のこの憂いには、頭中将もまったく無関係という訳ではなかったのだが、それはまた別の話だ)
「私達と会うより前から、君に事件の見解を披露していたのか? 特別懇意にしている訳でもない、君に?」
ええ、と首肯されて、頭中将は思わず苦い笑みを漏らした。子飼いの陰陽師とやらの言を根拠に、控えめながらも自説をぶち上げていた恒泉の姿を思い返す。今になってみれば、あの時の頭中将の発言は、恒泉の話の腰を折っただけでなく、陰陽の術が絡んでいるとか何とかの説そのものを否定する結果に繋がったのではなかったか。声を掛けてきた時とは打って変わって、随分冷めた態度で帰っていったが、よもや頭中将と、それに賛同した面々に腹を立てたという訳でもあるまい。
「――それは、申し訳ないことをした」
杯を口元に運びながら、頭中将は笑い含みに反省の弁を述べた。尤も、これを受け取るべき恒泉はこの場におらず、そもそも本気の謝罪でもないから、自然と口調は軽くなる。
親しい友人同士の感覚を理解してくれている源氏の中将が、大袈裟に怯える風でまぜっかえした。
「貴方は自分の知らない所で、随分と人の恨みを買っているのかもしれないぞ?」
「それはお互い様だろう……笑えん話だ」
実際に、宴の松原事件で濡れ衣を着せられて難儀した経験を踏まえ、頭中将もまた大仰に頷いて見せる。
互いにせいぜい気を付けようと笑い合い、友人宅での夜は更けていった。
頭中将は源氏の中将宅を訪った。その日は折悪しく、大内裏から自宅への方角が天一神の遊行と重なっており、またしても方違えを余儀なくされたためである。
これを良い機会と、頭中将は源氏の中将に嫁いだ姉・葵のご機嫌伺いを願い出た。同腹の葵とは幼少期から比較的懇意にしており、両親への土産話として、その近況を伝えられればと考えたのだ。
姉はいつも通り、快く迎えてくれた。普段からあまり感情を面に表す女性ではないが、紅葉賀の大役について、「貴方なら立派に務め上げられると確信しております」との激励を受け、身が引き締まる思いがする。
しかし、話が夫である源氏の中将に及んだ際、葵は御簾越しにも感じ取れるほど、はっきりと言葉を詰まらせた。我が家から伴った女房達も、気遣わしげな表情を浮かべている。その後も言動の端々から、未だ源氏の中将と心通わせられずにいるらしいことが容易に理解できてしまい、頭中将は芽生えた失意を押し殺しながら、やや強引に別な話題を振るよりほかなかった。
――時間が解決してくれればよいが。
姉の元を辞し、主人の待つ寝殿へ案内されながら、頭中将は考え込むように軽く眉根を寄せた。
頭中将自身、正妻の四の君との関係が、何とはなしうまく行き始めたように思われるのは、ここ一年くらいのことだ。四の君は右大臣の娘、葵は左大臣の娘。共に入内を念頭に養育されてきた姫君であり、本人達もその気でいたところを、上流とはいえ一貴族に嫁がされた。人生の目標(或いは夢)を見失い、気持ちを切り替えるのにどれだけ難儀したことだろうか。更に葵の場合は、夫よりも四つばかり年長であることも、影響しているのかもしれない……。
「――姉君とはどんな話を?」
屋敷の主はというと、こちらもまたいつも通り、楽しげ且つどこか気だるげな様子で、頭中将を私室へ招き入れた。脇息に凭れ掛かる姿が、息を呑むほどに美しい。だが、つい今しがた、姉の煩悶を垣間見てきたばかりの頭中将にとっては、まるで他人事のように聞こえてしまったのも仕方のないことだろう。
「君の、奥方だ」
強めに返してしまってから、頭中将は珍しく、はっきりと後悔した。源氏の中将の寂しげな微笑みに、夫婦の軋轢の原因の一つには、葵の頑なな性格もあるのではないかと思い至ったからだ。こればかりは持って生まれた性質であって、どちらか一方を責める訳にもいかない。頭中将にとっては両人とも大切な存在であるだけに、悩ましいところだ。
己の配慮の足りなさを責めながら頭中将は、「すまない」と小さく詫びた。そして、場の空気を改めんと、「機会があれば尋ねてみようか」程度に考えていた質問を繰り出す。
「……そうだ、先日の噂話の折は、なぜ彼と一緒に居たんだ? 確か、中務の……」
「橘恒泉殿か」
急な話題転換に乗ってくれた源氏の中将に感謝しながら、勧められた席に腰を下ろす。促されるまま杯を手に取り、頭中将はそこで初めて、河原院の噂話に積極的に参加してきた青年の名を知った。橘氏といえば、神武天皇以降に臣籍降下した皇別氏族の一つであり、由緒正しい家柄だ。律令制における八省の中で、最も重要とされる中務省に官職を得ているのも頷ける。
「ああ、そうだ。恒泉殿というのか。日頃君の周りで見掛ける顔触れではなかったので、妙に印象に残っていたんだが」
もちろん、頭中将が源氏の中将の交友関係すべてを知り得ているはずもない。とはいえ、同年代の中では特に親しいと自他共に認める間柄であるだけに、自分の知らない友人となると、ちょっとした興味も湧こうというもの。
すると源氏の君は、可笑しそうに肩を竦めてみせた。
「なに、たまたま捕まっただけですよ。よほど河原院の事件について、自説に自信があると見える。適当にいなしていたら、貴方がたが噂話に興じる現場に出くわしたという訳だ」
中務の少輔――橘恒泉と一緒にいた時より幾分楽しげな様子だが、「河原院」の名を口にした瞬間、ほんの少しだけ美しい顔に翳りが差したのが気に掛かる。しかし、源氏の中将はすぐに昏い表情を拭い去ってしまったので、頭中将も敢えて聞かないこととした。(実際のところ、友人のこの憂いには、頭中将もまったく無関係という訳ではなかったのだが、それはまた別の話だ)
「私達と会うより前から、君に事件の見解を披露していたのか? 特別懇意にしている訳でもない、君に?」
ええ、と首肯されて、頭中将は思わず苦い笑みを漏らした。子飼いの陰陽師とやらの言を根拠に、控えめながらも自説をぶち上げていた恒泉の姿を思い返す。今になってみれば、あの時の頭中将の発言は、恒泉の話の腰を折っただけでなく、陰陽の術が絡んでいるとか何とかの説そのものを否定する結果に繋がったのではなかったか。声を掛けてきた時とは打って変わって、随分冷めた態度で帰っていったが、よもや頭中将と、それに賛同した面々に腹を立てたという訳でもあるまい。
「――それは、申し訳ないことをした」
杯を口元に運びながら、頭中将は笑い含みに反省の弁を述べた。尤も、これを受け取るべき恒泉はこの場におらず、そもそも本気の謝罪でもないから、自然と口調は軽くなる。
親しい友人同士の感覚を理解してくれている源氏の中将が、大袈裟に怯える風でまぜっかえした。
「貴方は自分の知らない所で、随分と人の恨みを買っているのかもしれないぞ?」
「それはお互い様だろう……笑えん話だ」
実際に、宴の松原事件で濡れ衣を着せられて難儀した経験を踏まえ、頭中将もまた大仰に頷いて見せる。
互いにせいぜい気を付けようと笑い合い、友人宅での夜は更けていった。
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